第六章 三方よし
第六章 三方よし
大坂今橋の米あきんど高津屋の三食は、主人から丁稚に至るまで一年中決まっていた。朝と昼は一汁一菜に玄米五分の雑穀飯。夜は一汁一菜に煮干し小魚と豆類の小皿が付き雑穀飯。雑穀飯の量は大、中二種類あり体格により定量だが十分に腹を満たせる。米あきんどだが食膳に白米が出るのは元旦だけだった。米はあくまで大切な商品であり、食膳に供されることは無かった。
夜九時半就寝、朝四時半起床、早番、遅番の当番につかない限り、全員の日常生活の基本となる。例外は主人の信次郎と、大番頭の喜太郎だけだった。奉公人の勉学は優先的に時間配分される。いわゆる読み書き算盤といった基礎的な教育が未習熟な場合、先ずは私塾に通わせる。同時に丁稚に至るまで、大番頭の喜太郎自ら手習いを授けた。また、それ以上の教育も、喜太郎の判断で順次就かせた。高津屋に限らない、天保の時代も現在に負けない位教育熱心だった。四書五経に親しむ町人や百姓の数は我我が想像する以上に多い。
高津屋の店内は、清掃が行き届き、整理整頓が励行されている。『おいでやす、ようこそお越しやす』というきびきびした迎えの言葉を聞きながら暖簾をくぐれば、誰しも爽やかな緊張を味わった。
「喜太郎はん、実は今朝、牧野小次郎様のお呼びがあり、八軒屋に参上した」
大坂城代土井利位の近習で懐刀、牧野小次郎と待ち合わせる時は天満橋近くの寄合所と決まっていた。寄合所は天満橋の八軒屋という船着き場の近くにあるので、八軒屋といえば寄合所を意味した。
「へえ、それは存じ上げております」
「わては、江戸表への廻米の件やったら、ご城代様とお会いした時にお断りした筈やが、と不審に思うた。新たに江戸表に向けて糧米を手当てすることなど、資金的に無理やからな」
過去三年、大損を余儀なくされた老舗のあきんどが多い中で、高津屋は大きく取引を伸ばした。だが、それに有頂天になるほど自惚れてはいない。暑い盛りの十日間の降雨量や気温差で、収穫予想が激変する。天国にいたかと思うと、気が付けば地獄のど真ん中、というのが多くのあきんどが体験したところであった。
「旦那様、新しい取引先となれば予想外の災難に出くわす恐れも増えるでしょう。天災に加え、人災もございます。また人災は、天災以上に予知が難しおます」
「商いを増やしたいのは山山やが、例え資金があったとしても簡単には行かへんやろう。鴻池屋はんが、これ以上米屋に信用貸しされへんと言うのも頷ける話や」
一番厄介なのはあきんどではない。商道徳を蔑ろにする藩であった。喜太郎が言う人災とはこのことである。本来、作付けの準備費用として使われるべき前渡し金など、踏み倒すのに痛痒を感じない。緊縮財政を取るでもない、治水灌漑に力を注ぐでもない、一度タガが緩んだ支出を見直すでもない。第一、改革改善を提言する藩士もいないし、偶に提言を受けても胡散臭く却下する。話を米屋に持ち込めば、今秋の米を担保に前借が出来ると根拠もなく信じているのだった。ましてや商道徳など考えたことがない。武士が最下級層であるあきんどの倫理観など知る必要はないし、ましてや踏襲する義理などないと、高を括っていた。そこに天明以来の大飢饉の襲来である。
「その通りでおます。逆に我らに余裕の資金が無うて、両替屋はんの財布の紐もきつく縛られていたのが、幸いしたのでしょう。そのため、新しい商いを進める余裕もおまへんでした。一方、昔からお世話になっているお取引先で、本当にお困りなさっておられる藩も増えておます。少しでも金子に余裕があったなら、恩返しさせて頂くのはこの時を置いて他におまへん」
二人は常に商いについて話し合って来ている。以心伝心と言う間柄はまさに二人のことで、何が大切か今更話し合うまでもなかった。
「喜太郎はん、実はわてもそう思うていた。このご時世に、新しい取引先でもないやろう。昔からある商いを守るので精一杯や。だが、今回は、そう言っておれないかも知れへん」
と、信次郎は顔を曇らせた。
「牧野様から、どのような話があったのでしょうか?」
喜太郎の顔に不安の色が走った。
「それやが、今朝は本当に驚いてしもうた。お会いするなり、下座に正座されて、わてに向かってお辞儀されたのや。畳に額が擦り付いていた」
喜太郎もそれには驚いた。あり得ない話である。いかにあきんどが台頭して来たとは言え、武家社会である。借金の一つもある訳でもないのに、武士が両手をあきんどにつくことはない。しかも牧野小次郎は、時の大坂城代、土井利位の内密の意向で寄合所に来たのだ。ふんぞり返って、上から目線で命じてもおかしくない。
「『滅相もございません。どうぞお手を上げて下さい、お楽になさってください』とわては必死にお願いした。しかし、尋常の気持ちなら両手を付いたりされへんかったやろう。何を頼まれても、もう断り切れへんのではないか、と不安やった」
「それは大変なことでおましたなあ。でも、手付け金すら手当てが覚束ないありさまでおます。如何しましょうか?」
喜太郎は廻米の件だと予想し、早や沈み込んでいた。
「『さしたる分限もございません。お役に立ち申しませんのをお詫び申し上げるばかりでございます』とひたすら頭を下げ続けた」
「確かにお詫び申し上げる以外におまへん」
「ところが、牧野小次郎様は肝の座ったお方や。『高津屋信次郎殿、今日はそれがしも身命に代えてお願いに上がっている』と、じっとわての方を見ながら仰せになったのや。いつの間にか、また、両手を畳に付いておられた」
「それで、御用向きは、やはり廻米の件でおましたか?廻米なら、ご城代様なりご奉行様から、御達しをご手配なされば済むのではおまへんか?」
「牧野様は『達しを出せば大坂、京都の民の不満も甚だしくなるばかりだ。通常の取引で手当てし、江戸表に廻送したい』と仰せになられた。わてはそこで改めて、資金の算段が付かないと、お断りしたのや」
「さようですとも。いまどき資金がなければ、どのような商いも進みまへん」
「牧野様は、『さすれば、五十万両を十人両替衆より借り入れる手立てに入って欲しい』とお命じなさった」
「五十万両!」
喜太郎は額を聞いて絶句した。いかな大坂城代とは言え、安請け合い出来る金額ではない。だが、高津信次郎は真剣な表情を崩さなかった。
「必要な資金の貸し手への割当ては高津屋で考えて欲しい、借り手にはあくまで高津屋がなること、但し、十人両替衆と掛け合う時、ご城代の名前を出してよし。確かな方法で、ご城代が承知していることは十人両替衆にじきじき申し伝える、と言い切りなさった」
「余りにも恐ろしいお話でおます。ああ、どうして選りに選って高津屋が巻き込まれるのでしょうか!」
「牧野様は、『高津屋、それがしだけでない、ご城代も命懸けである。お手前の手腕に賭けているのだ』と説明なされた。更に、『万が一、高津屋が金を持ち逃げすれば、ご城代利位様もこれだな』と両手で十文字に腹を切る仕草をされた」
「ご冗談にも程があります。ご辞退出来る術があるかどうか、考えないと」
「喜太郎はん、ご城代や鷹見様、それに牧野様が本気かどうか、わてにも分かる。わてを弄んだり、いたぶったりする為に、わざわざ御足労なされん。また、お三方には長らくお世話になっており、お人柄も存じ上げている。もう、お断りする術はない。先ず鴻池屋善右衛門はんにお会いせねばならん」
「借入れの金額は、いか程になるでしょうか?」
「お前はんとも相談したいが、大坂の、いや天下の鴻池屋、並みの十人両替と同列では失礼にあたる。十五万両でどうやろうか?」
喜太郎の顔には諦めの色が浮かび、これ以上何を言っても無駄だろうと、覚悟のほどが走った。
「さようでおますな、その辺りが相場でしょうが、他の十人両替衆を含めて、全体の借入帳を作りましょう」
喜太郎はまるで米相場を判じるように。相場と言う慣れ親しんだ言葉遣いをした。
「早速頼む。喜太郎はん、この商いは他言無用であること言うまでもない。わてとお前はんで進めねばならん」
「へえ、それはもちろん承知しております。旦那様、お聞きしとうございます。廻米を進めたとして、もし今秋また凶作になれば、大坂はどうなりますやろうか?」
喜太郎は心配顔を信次郎に向けた。二人とも米相場を熟知している。大坂全体の切迫した食糧事情も人一倍肌身に感じている。
「そうやな、想像するのも恐ろしい。もう持たへん。備蓄米も底をついとおる」
信次郎は虚ろな表情でため息をついた。
「天災に続き、ご政道という人災が加わったら」
喜太郎ははっきりと言わないが、この場合、人災とは江戸幕府による廻米の触書を意味しているようだった。
「喜太郎はん、口を慎んだほうがええ。不用意や。我我あきんどの口出しすることと違う。天に唾してどうするつもりや?」
信次郎は喜太郎に対して珍しく声を荒げ戒めた。それだけ人災という言い回しが、的を射たものだったのだろう。しかも、高津屋がその人災の一端を煽ることになるのだ。と、喜太郎は眉を顰めて主人を見返した。仕えて三十有余年、初めてのことである。目は鋭く主人の面をさしている。
「旦那様、手前は『三方よし』を商いの根本と信じて、高津屋にお勤めして参りました。公儀のご意向とは言え、このような商いに巻き込まれるのは無念でおます」
『三方よし』とは近江商人の信条で、高津屋の家訓でもあった。店内の各所に額に入れて掲げてある。この家訓には、売り手、買い手、世間の三方にとってよい商いを進める、という決意が籠められている。この度の廻米取引は、例え公儀の意向であっても、『三方よし』とは言い難い。喜太郎に指摘されるまでもなく、信次郎も痛感していた。
「うむ、今回は手数料を一切いただかず、お納めする積りやったが、それだけでは駄目やろか?たしかに意に添わない商いやなあ。そうやが、逃れる術が見つからへんのや」
信次郎は目線を畳に降ろして弱弱しく呟いた。