第五章 洗心洞
第五章 洗心洞
大坂城代土井利位を囲んだ三名の談合は、大坂の治安に話が移った。
「小次郎、もう一つの懸案はどうだ?跡部良弼に問うたところ、『幕府直轄の大坂は至極太平、大坂の町人や百姓ごときドブネズミに何が出来ましょうか、大規模な騒乱など起こり申しませぬ』と言い切っておった。問題が起こらねば良いが、実のところはどうだ?」
跡部山城守良弼、大坂東町奉行であり筆頭老中水野忠邦の実弟でもある。跡部は着任まもないが、すこぶる評判が悪い。傲岸、不遜で江戸表にしか顔を向けていない。ことある度に『ご老中が仰せになったのだが』とか『実はご老中も同じように考えておられるようだが』とかいう風に、実兄の権勢を利用した。反対意見を封じるのが目的だろう。が、果して忠邦が本当にそう伝えたのか、真偽のほどは誰も確かめようがなかった。陰で兄様奉行と揶揄するのが精一杯のところだった。
「大坂の庶民はドブネズミでございますか?さすればドブネズミは、相当腹を空かせている上に、子持ちも多くおります。猫奉行殿が押さえ付けても、窮鼠猫を噛むという諺もございます。我慢にも程がございましょう」
「猫奉行とは兄様奉行の新しい渾名か?小次郎は、その猫奉行殿に反感を持っているようだな」
利位は笑みを浮かべて聞いた。実は利位自身も良弼に良い印象を持っていなかった。庶民をドブネズミ呼ばわりする尊大さが気に食わなかったのだ。
「浪速では、跡部様のよからぬ噂がよく耳に入ります。跡部様ご着任以来、役人の不正が昂じていると、町民は嘆いております」
「それで何か不穏な動きでもあるのか?」
「利位様は洗心洞についてお聞き及びでしょうか?」
「洗心洞?知らんな。それは何か?」
「大坂東町奉行所の元与力が塾頭となって、隠居後に開いた私塾です。四書五経、中でも陽明学を講義しております。噂ですが、その塾頭が東町奉行に上書を提出したとか」
「上書?既に隠居しているのではなかったか?」
「はい、跡目を継がせた倅の与力、格之助経由で跡部様に直接差し出したと思われます」
退役者が奉行に上書を出すとは尋常でない。利位も古河藩主だが、上書を受け取ったことはない。
「元与力が上書を送っても良弼は読みもしなかったのではないか。良弼のことだ、分限も弁えず無礼者、で終わっただろう」
「どうもそのようでございます。ただ、その元与力が現役の頃、役人の不正を告発した事件を始め、際立った功績が幾多ございました。市中で名が知れており、庶民の間で高い評判を取っております」
「何があったのだ?」
「西町奉行所の与力であった弓削某の汚職事件を糾弾し、徹底的に浄化に努めたのです。すると目に余る賂の着服が発覚しました。あきんどとの癒着も甚だしく、つるんで悪事を働き、暴利を貪っていたのです。結局、弓削某は切腹を申し渡され、町民の喝采を浴びた事件として決着をみました。しかし、同僚の告発で詰腹まで切らされました。そこまで追い詰めるのか、仲間を売るのかと、奉行所内では反発が強かったと聞いております。なおかつ、東組の与力が西組の与力を告発した事件でした。さぞかし深い恨みを買ったことでございましょう」
東西両奉行所の役人は、互いに仲が悪いのは事実だった。普段からいがみ合い、業務に支障を来すことも度度であった。
「庶民の受けは良さそうだな。しかし、生真面目一辺倒では煙たがるものもいたのではないか?余得を当てにしている与力や同心は多い筈だ。目溢し料や付け届けも生活の糧であろう。水清ければ、魚が棲めぬだけではない、多くの武士も糊口を凌げなくなる。それを禁じれば余りにも窮屈になってしまう。そうではないか、小次郎?」
利位は小次郎を諭すように笑みを浮かべ、更に問いかけた。
「それで、上書には何が書かれていたのか?」
「はい、豪商による米買い占めや売り惜しみを厳罰に処すること、豪商に義捐金の供出をさせること、江戸への廻米を大坂や京の庶民にも公正に配給すること、窮民への蔵米の放出等を上申したようです。更に役人の綱紀粛正も喫緊の課題である、と弾劾したそうです。いや、元与力という立場を考慮すれば、同僚を裏切るのに近い内容もあったと聞き及びます」
「しかし、ほかの提言はともかく、蔵米は一奉行がどうこう出来るものでもなかろう。良弼でなくとも打ち遣っただろう」
「元与力は跡部様の無為無策に不満が鬱積しておるようでございます」
「私塾の名前は洗心洞だったな。それで当人の名は?」
「はい、大塩平八郎、号は中斎、という元与力です。当年、四十四歳でございます」
「わしとよく似た歳だな。生真面目で一途なところは、小次郎、お前と似ているな。で、治安上目配りが必要なのか?しかし、どうも腑に落ちかねる。既に隠居し、倅に跡目を継がせておるではないか。それでも危険人物というのか?」
「隠居と言う身分からは想像し難い程、影響力がございます。門下生には役人、町人、庄屋等が約百名。人望があり、妥協を嫌い、極端な潔癖症で、正義感が突出しております。跡部様の対応次第では鬱積した不満が爆発する懸念がございます」
「ふむ、聞けば聞くほど小次郎、お前とそっくりではないか。まっ、そういうことであれば引き続き洗心洞の見張りを怠るな」
「はい、更に詳しく調べるためには、周辺での聞き取りだけで十分とは言いかねます。もう少し工夫を凝らすようにいたします」
小次郎は騒乱が眼前に迫っているかのように付け加えた。
「差し当っては、町人に扮し、終日探り調べる所存でおります」
「いうまでもない、すべては内密に運ばねばならぬ。お前に出来るかな?」
利位は疑わし気に小次郎を見回した。すると泉石が口をはさんだ。
「小次郎、お前があきんどか?伝手もあるまい。さすれば、信の置ける出入り業者に頼まねばなるまい。それはわしに考えがある」
泉石はそう言いながら、改めて小次郎の体躯を見た。上背はあるが骨細で肉も付いていない。病弱なのも知っている。思わず言葉を続けて
「が、小次郎、お前にあきんどが勤まるか?あきないは体が元手、骨が折れるぞ」
と泉石は首をひねった。例えば米屋なら米俵二俵を背負い、棚に納めたり、狭い階段を伝って二階に運んだりせねばならない。大八車も体の一部のごとく操らねばならない。油屋然り、八百屋然りである。頭より先に体が動かねばあきんどは呈をなさない。
「お前の剣術のように匙を投げる訳には行かんぞ」
「侍さえ勤まらぬ小次郎に、あきんどは出来んと言いたそうだな、泉石」
と利位は皮肉をはさみ微笑んだが、次に真顔をのぞかせ、話を切り替えた。
「しかし、泉石、小次郎、一体わしは何をしているのだろうか?」
突然そう問いかけられても、二人には答える術もなかった。
「江戸への廻米にしゃにむに突き進んだり、正義感の強い生真面目な隠居を危険人物と見做したり、大坂の庶民には迷惑千万であろう。武士の風上にも置けないとはわしのことではなかろうか?しかも、わしはこれでも大坂城代だ」
蟠りが残っていたのだろう、利位は自嘲気味に吐露した。公儀の意向とはいえ、廻米と大坂の治安を秤にかけて、廻米を選んだのは他ならぬ利位である。だが、主君の自嘲に相槌を打てる話でもない。小次郎は話を元に戻した。
「一つ懸念がございます。跡部様は大塩殿を見くびっておられます。所詮元役人の戯言、隠居の分際でお上に弓引くまい、うるさいが打ち遣っておけばよし、そのうち静まるだろう、とお考えのようです」
「小次郎、お前の見立てはどうだ?」
「はい、もし今年も凶作が続き、表立って廻米を実行すれば、大塩殿は看過されないでしょう」
「どうしてだ?」
「ご承知のごとく、陽明学に知行合一という考えがございます。学ぶだけの君子然とした様を忌み嫌い、正しいと信じるのであれば実行せよ、と説きます。大塩殿の教えの中心も知行合一にありますので」
「大塩某にとって、廻米は黙過し難いということか?しからば、このまま廻米に突き進めば反旗を翻すのだな?」
「塾生も目の色が違っております。己の損得だけで動かない輩は御しかねます」
「反乱を起こせば即座に鎮圧してみせよう。既に手筈は決めてある。万が一決起すれば、その責は一族郎党にも及ぼう。だが、天下太平の世に、まことにそのような懸念があるのか?」
「懸念で済めばいいのですが、この秋の豊作を祈願するばかりです。これは大塩平八郎殿の著作である『洗心洞箚記』に記されておりますが、『君子に於いて知識と行動は必ず一致している。小人に於いても、また、知識と行動は必ず一致している。従い、君子が、これが善だと知って実行しなければ、小人になってしまうきっかけとなる』と論じております」
一体、幾度その書物に目を通したのだろう?小次郎は諳んじていた。そして更に続けた。
「『義にあたっては、自分の身の禍福生死を顧みず、果敢に行うのだ。ひとの道にあたっては、成敗・運不運を問題にせず、明白で正しいことを実践するのだ』と説いております。また、『口先だけで善を説くことなく、一善を実践すべし』と断じております。だから」
と、そこまで報告した小次郎の目に一種の困惑の色が走り、口を閉じた。
「なんだ、小次郎にしては歯切れが悪くなったな。そういう時は何か無理を通したい話があるのだろう。殿もわしもお前のことは分かっておる」
泉石は揶揄するように小次郎に誘い水を掛けた。泉石に続き利位も目を細め促した。
「遠慮は要らん、申せ」
二人からそう言われても小次郎は暫し逡巡していたが、思い余ったように口を開いた。
「利位様、泉石様、大塩殿に、いや洗心洞ご一党に、わたしが直談判するのは如何でしょうか?無論、最後の手立てとしての話です。決起などと早まることが無いように掛け合いたいのです。誠心誠意話し合い、そこに一縷の望みを託したいのです」
すると黙して耳を傾けていた泉石が口を挟んだ。
「小次郎、戯けたことを申すな。くれぐれも油断するな、お前の動きが悟られてしまえば危険極まりない。一党が本気なら手加減しないだろう。反逆人の獄門首より先に、お前の首が胴体から切り離されて、どこかに晒されてしまうぞ」
「泉石の言う通りだ。間諜は本来奉行所か、その配下の目明しの役割であろう。それにお前はとびきり怜悧だが、腕の方はからきし駄目ときておる。争い事には向いておらぬ」
そう諭した利位の双眸には、幼少時からの知己を案ずる色が浮かんだ。