第一章 縁談
第一章 縁談
文政十一年(一八二八年)
「こらあ、新町行きやな。どうにもならん」
大家の寅太郎は目の前の母娘にしかめ面を投げかけた。新町とは大坂で唯一公認の色町である。
「おゆきはん、お前はんまで体こわして、えらいこっちゃ。まさか亡くなった隆太はんと同じ病いと違うやろな?これでは当分働けんやろ。家賃が払えんだけやない。食べもんにも不自由してはるのと違うか?]
と心配ごかしを口にした。が、言いたかったのはその後だ。
「となれば、おせんちゃんに頑張ってもらわんとなあ。おせんちゃんは別嬪はんとまでは行かんがな、気立てのええ優しい娘や。そこそこの旦那はんに目ぇ掛けてもらえるやろ」
寅太郎は、寝込んでいるゆきを戸口から見下ろしながら、傍で介護するせんを値踏みした。
この裏長屋は、お初天神から北に進み、大坂のはずれにある。六年前、父親隆太と母親ゆき、それに十一になったばかりの娘せんの三人で暮らし始めた。長屋の先は人家もまばらな湿地帯で梅田墓へと続く。
隆太は元棟梁だった。それが代代続いた家業でもあった。時には五、六カ所に現場を抱えた。だが、浮き沈みが激しい業界でもある。現場では人身事故が後を絶たない。痛ましい巻き添え事故や突発的な厄災にも備えねばならぬ。切り回すには世間からの信用に加え、しっかりした算盤勘定が求められた。ところが隆太は根が優しすぎた。大工や見習いを相場以上に遇した。『うちにはチビが三人おりま。親方だけが頼りや。たまには親孝行の真似事でもしたいんやが、わてに甲斐性が無いもんで』と目の前で肩を落とされると、思わず手間賃を上乗せした。泣きが入ると前払いにも応じた。肝心かなめの交渉事もついつい情に流される。割りが合わない仕事も頭を下げられると請け負った。こんなあんばいでは立ち行かない。いつしか家業も傾いた。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、隆太は沈み込むことが多くなった。時として険しい目付きを隠しおおせなかった。心配顔のゆきに気づくと、
「施主はんが居やはってこその商いや、大工はんが支えてくれてこその暖簾やからなあ」
と作り笑いを返した。
隆太がちょうど四十の時だった。とうとうその時を迎えてしまった。
「この辺が潮時や」
と、隆太はゆきの前で項垂れた。
「取引先に迷惑をかける訳に行かへん。帳面を綺麗にせんと死んでも死に切れん」
そういうと隆太は言い難そうに付け加えた。
「お前には悪いが、この家におれんようになる」
つまり、暖簾をたたむ前に住み慣れた家を売り払い、債務の弁済に回す算段だった。そうして隆太は自分の思いを付け加えた。
「このままでは奈落の底に落ちてしまう。まずは借金返さんと、もう一回やり直すことも出来ん」
ゆきはこっくり頷き、隆太の手をしっかり握った。
「この家はお前はんのもんだす。好きなようにしやはったらええ。なにも心配せんとな」
「甲斐性なしですまんな」
と隆太は一層背中をくぐめた。
「お前はんさえ元気でいてくれはったら、それで充分だす」
気掛かりはたったひとつ、夫の健康だった。隆太は食事も満足にとらず、金策に駆けずり回っていた。ここ半年でずいぶん痩せてしまった。生気のない、病が居座ったような顔色を浮かべていた。
廃業したあと、隆太は一介の大工になった。同じ業界なので顔見知りも多い。老舗の元請けが大工に!情けなくも、みっともない話だ。しかも不景気風が吹き荒れている。歳が歳だけに転職とも行かない。家を売り払うと同時に、この裏長屋に引っ越した。狭いひと間に親子三人、川の字を作って寝ることになった。
「お父ちゃんは人がええからなあ。あんなええ人どこにも居てへん。借金返すまでの辛抱や」
と娘のせんに言い聞かせた。それは、子供心ながら、せんにも納得できた。家業が重荷だった時、隆太は寝付きが悪かったり、うなされたりした。下働きに転じて以来、安らかな寝息を立てるようになった。大工としての腕は良い。丁寧な仕事ぶりである。自ずと雇い主から頼りにされた。身体の弱かったゆきは外で働けない。で、手内職を始めた。十一になったばかりのせんは女中奉公に出た。
それから三年が経った。相変わらず冴えない景気だった、しかし、借金完済の目途が立った。隆太の強い希望でせんは奉公先から家に戻った。ようやく家族三人がつつましく暮らせるようになった。隆太は久しぶりに笑みを浮かべた。
「さあ、これからや、お前らに苦労を掛けたなあ」
「三人やと食べるもんが同じでも美味しおます」
と、ゆきも目を細めた。せんは年頃を迎えようとしている。隆太は箸を休め、
「せんの嫁入り前に、チョットはましなところに引っ越したいなあ」
と言葉に力を入れた。
「えっ?そんなこと急に言いはっても」
せんは頬を赤らめ、首を横に振った。
「うちはお父はんとお母はん、ずっと三人で暮らしとうおます」
災いは突如襲ってきた。ある朝、隆太が出かけようとした時だった。激しく咳込んだかと思うと喀血し、そのまま長患いの床についてしまった。厄介な病で、咳が体力を奪い、食も細くなった。三月も経つと起き上がるのも人手を必要とするようになった。もとより蓄えはなかったので、ゆきとせん、二人の手内職では借金が嵩んだ。そうして疾病生活三年目、隆太は力尽きた。枕元の母娘に
「すまんなあ、すまん」
と口癖を絞り出し息絶えた。仏を前にして、母娘は嗚咽をもらし続けた。しかし、それも三日目までである。形ばかりの弔いを終えると、母娘二人に悲嘆にくれる余裕はなかった。米櫃は空っぽで、借金だらけ、これでは二人とも干からびるのを待つばかりだった。
と、その時、ゆきまで病に臥せてしまった。家賃の取り立てに来た寅太郎は母娘を前に容赦なかった。先ずは
「今日は手ぶらでは帰りまへんで」
と凄んで見せた。しかし、一人は病人、もう一人はおぼこである。彼らを急き立てても結局『無い袖は振れぬ』となるのだ。家賃と言ってもぼろ長屋。安いものだ。が、ひと月分も回収できそうもなかった。
そこで思い付いたのが、娘せんの『新町行き』だった。『器量は人並み、この娘は磨けば光りそうや。なら、金がないなら体で返せ、と言うこっちゃ』と寅太郎は決めつけた。せんは化粧一つしている訳ではない。が、どこか男を惹きつけるものが潜んでいた。ふと、ゆきの枕元に目を移すと、亡夫が使っていたのだろうか、盆の上の湯飲みに束ねたばかりの野菊が生けられていた。梅田村に向えば畦道のあちこちに小さく群れて咲いている。せんがそれを摘み取ったのだろう。白や黄色の花弁が薄暗い部屋に和みと光を呼び込んでいる。
「おせんちゃんは親孝行やなあ。心根の優しい極上の花や。それでおせんちゃん、幾つになったんや?ほう、十七。番茶も出花、器量がええから尚更のこと、おせんちゃん、これからが楽しみやなあ」
寅太郎は肉欲と物欲を織り交ぜたような声音で褒めあげた。と、次には母親に脅しの目を向けた。
「せやけど、ここは大坂の北のはずれの吹きだまり、誰が見ても貧乏長屋そのものや。身の程わきまえんとな。わてらは皆、花より団子の世界に住んでま。ましてや借金かかえて花でもない。花を摘む暇があったら、先立つものを一文でも稼がんかい、と言いたなる。ところが新町に一歩踏み入れば話は違いま。あそこで重宝するのは団子やない、花のほうや。男はんが花を求めて来やはりま。しかも、お目当てはおせんちゃんのような花。極上品が己に尽くしてくれるなら、この世が極楽浄土、どんなに渋ちんな旦那衆でも金に糸目を付けしまへん、それで借金は帳消しや、おゆきはんの薬も買えるようになるやろう」
寅太郎は一件落着したかのように目を細めた。せんは脅えてゆきの方に身をかがめた。
「おゆきはん、おせんちゃんも事情は分かってくれる筈や。器量と言うのはご先祖様から授かったお宝。それを親孝行に使うて罰は当たらん。おせんちゃんなら玉の輿に乗れま。岡場所の女郎になれと言うてんのやおまへん。他ならん新町でっせ。ただ新町には新町のしきたりがありま。もっと小さい時分に教わった方が良かったんやが、おせんちゃんは女中奉公してたからな、銭にならへんのに。まっ、いまさら悔やんでも詮無い話や、おゆきはん、ぐずぐずしている間はないよ」
寅太郎は、この母娘には娘の色町行きしか窮地を脱する手立てがない、と決めこんだ。
「寅太郎はん、うちのことはどう言うてくれはっても宜しゅうおま。せやけど、娘のことを新町行きなんて、もう一回言いはったら許さしまへんで」
ゆきは、体調がすぐれず、枕が上がらなかった。実際、寅太郎が好き勝手をわめいても臥したままである。顔色も優れない。が、ゆきの怒りの籠った目に寅太郎は一瞬たじろいだ。だが睨まれたくらいで引き揚げるわけにも行かない。
「まあまあ、そんな怖い顔して睨まれたら、かなわんなあ。おゆきはんの気持ち、よう分かりま。けど、子供やあるまいし、駄駄こねてどうしまんねん?店賃払わんとキツイこと言うて、そらぁ、逆恨みというもんや。世間で通りまへん」
寅太郎は、体勢を立て直し、言葉を続けた。
「新町なら、おせんちゃんに入れあげる旦那の一人や二人、かならず見つかりま。店賃だけやない、あちこちに借金嵩んでるのと違いまっか?他に手立てがおまっか?世の中甘う見るのもほどほどにな。今日は空手で帰ってやる。けど、次来た時には耳を揃えて払うてや」
その頃には近所のおかみ連中が戸口に群がっていた。みな、借金の一つや二つは抱えている。店代の支払いも多かれ少なかれ滞っている。景気もこのところどん底続き。その煽りを被った貧乏人を束ねたような長屋だ。自然と母娘の肩を持つ。『弱い者いじめやなあ』とか、『初七日も済んでへんのに鬼のようなひとやなあ』とか、『お前はんの嫁はんなら新町の方でお断りや』とか、口口にこれ聞こえよがしに言うのだった。
「なにを横からごちゃごちゃ言うてけつかる。お前はんら、えらなったなあ。いつからや?ひとの話に口出しでける身分になったのは?」
寅太郎は怒りで顔を赤らめ、周りを睨みまわした。が、確かに弔いが終わったばかりである。どうせ質草に取れるものもない。旗色が悪いのを察し、
「初七日済んだら直ぐに来まっからな」
と、今日のところは矛を収めることにした。すると寅太郎の背中に声が追いかけてきた。『誰も来て欲しいと頼んでへんで』とか『そやそや、頼まれもせんのに余計なお節介やなあ』とか『どうせ来るなら香典忘れんようにな』と、好き放題だった。ひどいのになると『厄払いや、その辺に塩無いか?』と嫌味たらたらだった。
寅太郎が引き上げ、ゆきはひとまずホッとした。しかし、それはほんの一時のことだ。まず、食べ物がない。実入りもない。借金返済のめども立たない。家賃の取り立てはますます厳しくなるだろう。そのうえ、娘の新町行きまで持ち掛けられた。ゆきにとって、せんは命よりも大切な宝物である。ああ、どうしよう?体の中で不安が重苦しい塊となり、膨らみ、今にも破裂しそうだった。
一方寅太郎の方である。踵を返したものの腹の虫が収まらない。
「何でや?」
裏長屋から表通りに出たが、改めて怒りが噴き出してきた。まずは『根っからの貧乏人め!』と腹の中で長屋の連中をののしった。『地獄の沙汰も金次第、三途の川を渡ろうが、金さえあれば何とでもなる。それこそ命より大事な金や。店賃をびた一文払わん上に、嘲り笑われたんでは割りが合わん。このまま取りっぱぐれたら、えらいこっちゃ』目の前のお初天神の鳥居とその先の本殿の屋根を睨め付けるように寅太郎は立ち止った。『こらあ、やっぱり新町や。今に見とけ、借金のかたや、娘を新町に送り込んでやる。あの娘もこれからが旬、お宝が腐ったら元も子もない。虫が付いても台無しや』とまで考えた時、はやる気持ちが口から飛び出た。
「善は急げ、高値で売らんとな」
大きな声だった。その場に居合わせた何人かの通行人が振り返った位である。と、うしろからドスの利いた声が問いかけてきた。
「寅太郎はん、どうしたんや、大声出して?何かあったんか?」
確かめるまでもない。声の主は天満を縄張りにしている目明しの吾平だった。人呼んで『天満のまむし』、お上の威を借るゴロツキだ。そんじょそこらのヤクザより質が悪い。傍には子分の熊五郎を従えている。
「ありゃ、これは親分はん!」
「何を高値で売ろうと言うのや?えらい剣幕やなあ。場合によっては相談に乗ってやらんでもないぞ」
と寅太郎をねめ回し、金のにおいを嗅ぎ取ろうとした。
「えらいとこで会いましたなあ。そりゃ、親分はんの空耳。売るもんも、買う金も持ち合わせておまへん。親分はんにお力添えして貰わなあかん相談事もございまへん。無いない尽くしで泣きたいくらいでおま」
「ぎょうさん店子を抱えて、お前はんの家には金がうなるほどあるのと違うか?しかし世間は景気もどん底、浪速の町も物騒になってきた。何ならわしの方で日ごと夜ごとに見回りしてやろか?」
「とんでもおまへん。店子というても店賃払わん奴ばかり、しかも、どいつもこいつも厄病神顔負けのどインケツ、今更なりわいを変える訳にも行かず、難儀してま」
一度立ち止まった通行人もあらましを察し、こんな連中に関わりたくないとばかりに、その場を立ち去り始めた。
「まあ、この先は改めてユックリ聞こうか」
「へえ、何かあれば手前の方から親分さんにご相談に上がりま」
「寅太郎はん、下手な嘘はつかんこっちゃ。そんな気もない癖に。しかし、罰当ってからでは遅すぎる。小銭ケチって大金失わんようにな。金儲けばかりにうつつ抜かして、お守り持たんとどうするのや?」
お守りとは、要は十手持ちがせびる『みかじめ料』のことだろう。うっかり承諾すれば終生支払わねばならぬ。実際、神の祟りより怖い『まむし』の毒、それがみかじめ料だった。
寅太郎は二人の足音が遠ざかるまで、あたかも目が合うのさえ避けるかのように、頭を垂れ続けた。
と、人垣が消えた後だった。一人、職人風の中年の男が居残っていた。しかも寅太郎を遠慮気味に道の端から盗み見ていたようだった。見たこともない顔である。『まむし』の子分でも無さそうだ。
「なんや、わしの顔に何か付いているんか?独り言がそんなに珍しかったんか?」
その男がおとなし気なのを踏んで、寅太郎は凄んで見せた。
「いや、そんな訳やおまへん。ただ」
と男はうろたえた。
「ただ?ただ、どうしたんや?」
「へえ、先程、この近くを通りがかったおり、揉めてはるのを見かけたもので」
「揉めてる?ああ、店賃取り立てのことか?それがどうした?それにあんな裏長屋をわざわざ通りがかったというんか?けったいな話やな。見かけん顔やが、おゆきはんの遠縁かいな?身内は居てへんと聞いてたけどな」
「いや、わては親戚やおまへん」
「なら、何でわしをここまで付けてきたんや?いちゃもんでも付けたいのか?なら若造のくせに百年早い。顔洗って出直してこい」
「そんな積りやおまへん」
「見れば真っ昼間から盗人でも無さそうやな、先ずは何処の何兵衛か名乗ったらどうや?」
「へえ、わては仙吉と申しま。谷町の仕立屋の職人でおま」
仙吉と名乗った男はあくまで下手に出た。確かに谷町筋には呉服屋や仕立屋が集まった一角がある。が、お初天神までは隔たりがある。物見遊山でもあるまいし、どうも裏に隠し事がありそうだった。
「それで、仙吉はん、わしに何か用でもあるのかいな?」
寅太郎は用心深く探りをいれることにした。話はそこから意外なところに繋がり、寅太郎に上手い儲け話が転がり込んで来たのだった。
その日は、隆太の初七日を終えたばかりだった。突然、せんに縁談が持ち上がった。しかも持ち込んだのは寅太郎だった。母娘は初めて寅太郎の住まいに招かれた。
「よう来たな、さあさ、中へお入り。おゆきはん、体の具合はどうや?」
寅太郎は猫なで声で二人を迎えた。そうして奥の客間に視線を送りながら、そっと耳打ちした。
「男はんが、仙吉はんと言うのやけどな、通りすがりにおせんちゃんを見初めたらしい。ご本人は来てへんけどな、そらあ、腕が立つ職人はんや。向うに親方はんが名代として来てはる。いずれにせよ、これはほんま、筋が通ったええ話や、よかった、よかった。さあ、行こうか」
寅太郎は相好を崩して喜んでいた。
客間に入ると、立派な身なりの商人が待ち受けていた。一方母娘の方はよそ行きの着物などとうの昔に質流れずみ、よれよれの普段着で来たので気後れした。商人は名前を喜七と言った。谷町で老舗の仕立屋を営んでいる。仙吉はそこの住み込み職人だった。主人の喜七は仙吉の為に一肌脱ごうと、仲介役を買って出たのだ。
喜七は、寅太郎と母親のゆき、それにせんを前にしてゆったりと一通りの口上を述べたのち、破顔一笑、あたかも縁組が纏まったかのように言うのだった。
「わては初めて仲介をさせてもろうたが、肩が凝りますなあ。気ぃ遣うし、しんどい、しんどい。しんどいがこの度は格別めでたい縁組だす。ご異存なければ仲人させてもらうが、仲人冥利に尽きますな。寅太郎はん、おゆきはん、失礼ながら、わてはこんなええ娘はんとは思いまへんでした。無口な仙吉が是が非でもと頼んどったが、お会いして納得でけた」
旨そうに煙草を一服くゆらし、話を続けた。
「仙吉は三十過ぎでおせんはんとはチョッと歳が離れてま。いままで独り身やったのは仕事のせいでおます。賭け事や女遊びを知らん堅物で、連れ添うには申し分ない男だす。仕立て職人としての腕は太鼓判を二つでも三つでも押せます。船場のごりょんさんやいとはんのお召しものと言えば、仙吉が仕立てんと注文が取れんくらいでおます。いっぺん仙吉の仕立てをお見せしとうおますわ。もう人間業とも思えないくらいだす。何と仙吉は、自分が仕立てた着物の色遣いや縫い目の数を昔の分まで全て覚えておます。『仕立てはわての命や』いうて、ああ、稀な名人芸だすとも。これこそ天与の才、余人をもって代えがたい」
聞いていた母娘はもとより、寅太郎も驚いた。仲人口ということを割り引いても、仙吉は相当腕が立つ職人なのだろう。喜七は仙吉の技に惚れ込んでいるのだ。しかも、それだけで話は終わらなかった。
「仙吉を手離したくないが、年季ももうすぐ明けます。そこにめでたいご縁やから、わても腹を括りました。縁談がまとまるなら暖簾分けするつもりでおます。仙吉に何時までも住み込み職人させてたんでは、世間が承知しませんよってな。なあに仙吉なら、じき表に店を構えるようになります」
喜七が帰ったあと、寅太郎と母娘の三人で話を続けた。早くもゆきの声は弾んでいた。
「なあ、せん、先方からたって望まれた話やし、仕事熱心な職人はんや。ええご縁と思うよ」
「でも、お母はん、ご本人にお会いした訳でもないしねえ。急なお話で」
と、せんは胸中の不安を訴えた。それを聞いて寅太郎は横から口を出した。
「しかしなあ、おせんちゃん、新町におせんちゃんを送り出すのは、母親として辛い話やからなあ。ちゃんとした男はんと所帯を持つのが一番や」
誰が、先日『新町行き』を押し付けたのか?それをすっかり忘れたような口振りだった。そんな寅太郎に構わず、ゆきは念押しした。
「お前の行き先を考えて、これは良縁だと思うているのやよ、支度金欲しさと違うからな」
窮乏生活から逃れる手段ではないと、せんの逃げ道をふさぐのだった。そうなると断る理由も見つからない。だが、ゆきがあえて触れていないことがあった。その為、ゆきの顔に一抹の寂しさが潜んでいる。せんはそれを見逃さなかった。
「わかりました。お母はん、寅太郎はん、おおきに、うちのこと気にかけてもろうて」
せんは二人に礼を述べ、改めて寅太郎に向かい、静かに付け加えるのだった。
「寅太郎はん、このお話、これからもお母はんと一緒に暮らせるのやったら、ありがたい話でおます。どうか宜しゅうお願いします」
と頭を下げた。今度は寅太郎がうろたえる番だった。
「しかし、おせんちゃん、それはどうやろうか?」
無理難題を吹っ掛けられたかのような渋面だった。
「お前はんらの場合、父親は長患いで逝ってしまい、母親も病で動けんというのが気掛かりや。はっきりいうと、たちの悪い移り病やないか、労咳やないか、と先様が怖がるやろう。せめて最初の内はめおとだけで暮らすのが道理やないか?おせんちゃんは元気なややこを産まんとあかんからな。おゆきはん、お前はんは、当分ここに住めばどうやろうか?店賃がどうこうと、そんなケチ臭いこと言いまへん」
寅太郎は太っ腹なところを見せた。が、せんは譲るそぶりも見せず、きっぱりと伝えた。
「それなら、このご縁はなかったことに。うちは、お母はん一人を残して、嫁ぐつもりはおまへん」
二人のやり取りの横で、ゆきは戸惑ったように俯いていた。
「そんなに強情はられると、せっかくええ話やのにぶち壊しや。先方の立場も斟酌せんと」
と寅太郎はぼやき、しかし、しぶしぶ先方と掛け合うことにした。せんが頑として譲らなかったからだ。
寅太郎にとっては意外なことだった。期せずして喜七から承諾の返事が入った。『仙吉の両親は既に鬼籍に入っている。三人で住むのに異存はない』というのだった。となればもはや母娘に否応なかった。嫁げば今の窮乏生活から抜け出せる。寅太郎も礼金が手に入り、溜まった家賃を差し引いても余りがある。
「ああ、よかったなあ、いっときはどうなるかと案じたが、仙吉はんは余っ程おせんちゃんに『ほの字』やな。こうなりゃ善は急げ、おゆきはん、おせんちゃん、話を進めてええな?」
寅太郎は勢いよく母娘に念押しした。
先方から急かされたこともあり、とんとん拍子に縁談はまとまった。
すると、せんは未だ見ぬ婿殿を、胸をときめかせ、思い描くようになった。そのひとは、移り病の疑いがある母親を、受入れる度量があったのだ。新町行きから救ってくれた恩人でもある。仲介者を通し縁談を持ち込んだのも律儀な質だからだろう。『きっと頼りがいがあって、優しく思いやりがあるひとや。神経を使うお仕事やから家では寛いでもらおう。お掃除は念には念を入れてな、こざっぱりしたものを着てもらおう、お料理も今から覚えんと。仙吉はんはどんな食べ物がお好きなんやろうか?お針仕事のコツは教えてもらえるかな?でも、お仕事の続きみたいで嫌がりはるかな?ご近所とも仲良くなりたいな。でも、うちなんかでほんまにええのかな?もっとええひとと所帯を持てたやろうに。お母はんと三人で仲良く暮らし、そのうち可愛いややこを一緒に育てるのや』日が経つほどに夢も膨らみ、祝言をあげる日が待ち遠しくなるのだった。
しかし、いざ祝言という蓋を開けて、所帯という壺の中を覗いたところ、予期せぬ災いに出くわした。他ならぬ仙吉のことだった。
仙吉は人一倍仕事に打ち込んでいたが、神経質で、考え込むことが多く、陰鬱な陰りを淀ませていた。そこまでは一本気な職人気質と割り切れないでもない。が、始末が悪かったのは酒だった。感受性が鋭く、酒の力を借りないと寝付けないようだった。祝言をあげて三日も経つと極端な深酒が始まった。呑めば呑むほど顔が青ざめ、目が据わってくる。そうして鬱憤を抑えかねたのだろうか、低い唸るような声音で母娘をなじった。が、意味が判然としない。異様な雰囲気に恐怖が広がり、母娘はその場に凍り付いてしまった。あとになって思えば、仲間内の付き合いが浅いのも度を越した酒が原因だったろう。とかくするうち酒の上とはいえ、病弱のゆきにまで手を上げるようになった。挙句に、酔いに任せて
「誰のお蔭で借金を棒引きに出来たのや。しかも足手纏いのババアの面倒まで見てやっている。母娘とも食わせてもらっているだけでも有難く思え。文句があるなら出て行け」
と凄むのだった。二人きりになると母親のゆきは足蹴にされた背中をさすりながら、
「うちが役に立たんと、すまんな。ちょっと仙吉はんの虫の居所が悪かっただけや」
と目を伏せ、涙を溢した。実際、ゆきの体は生傷が絶えなかった。目のまわりにも打擲された痕が黒い隈となって残っている。体ばかりでない、縁談を進めたという負い目から心まで蝕まれ苦しんだのである。そうして
「ほんまは夫婦で仲よく暮らせるやろに、うちのせいで面倒を掛けてしもうて」
と自分を責めるのだった。
ゆきは何時もおどおどして、部屋の片隅でひっそりと一日を過ごすようになった。仙吉が帰宅した後は、それこそ物音ひとつ立てるのも憚るようだった。これでは養生もあったものではなかった。一方で仙吉の悪癖がなおる目途も立たない。いや、次第に飲酒が昂ずる有様で、毎晩の暴力沙汰がお決まりとなった。翌朝になれば、おとなしく寡黙になった仙吉が、何時も通り仕事に出かけるのは分かっていた。仙吉が酒乱でさえなければ、いや、せめてゆきに手を上げなければ、我慢できたかも知れない。だが、何時しか限度を超えてしまった。せん自身の顔や腕にも、仙吉から受けた打ち身が残っている。もはや疑いを入れない、同じ一人の男が昼間には名人の域に達した職人、酒が入った夜には青鬼に変るのだった。
「お母はん、堪忍な、ひどい目に遭わせてしもうて」
と、せんは自分が悪さをしたように謝った。そして
「病持ちのお母はんまで足蹴とは耐えられん。もうこんな暮しはええやろう」
と気持ちを固めた。
その日も仙吉は大酒をあおり、いつしか床に崩れ込んだ。せんは夫の寝入るのを待ち、上布団を掛けた。暫くぼんやり荒荒しい鼾を聞いていた。行く末に当てがあるわけではない。が、せんは躊躇うゆきを促した。母娘は着の身着のままで手を取り合い、家から忍び出た。夜目にも真っ暗な家を振り返った時、初めて涙があふれだした。
それからひと悶着もふた悶着もあったが離縁となった。母娘は古巣の裏長屋に戻った。一番嘆いたのはいうまでもなく寅太郎だった。骨折り損のくたびれ儲けとはこのことである。一度手にした礼金は、元の持ち主、喜七にそっくり返すはめとなった。
「喜七はんは、あざとい商いやるんで評判も悪い。案の定、礼金はみな取り返されてしもた。えげつないやっちゃ。ええ恰好ばっかり喋りくさって」
と、嘆くうちに言葉も荒くなった。
「仙吉は住み込みの職人や。喜七が酒乱を知らなんだはずがない。ペテンにかけやがって。婿はんの方にも落ち度があったのに、納得でけへんな」
と、今更のように地団太踏んだ。
「それにしても仙吉もとんだ食わせもんや。虫も殺さんようなおとなしい顔して酒乱とはな」
話している内に悔しさがいや増したのだろう、今度は母娘二人に矛先を向けた。苦虫を噛み潰したように
「よくもわしの顔に泥を塗りやがったな、メンツが丸潰れや。身の程知らずめ、こんなええ話、二度とあるかい、ああ勿体ない、辛抱たらんにも程がある」
と怒りをぶつけた。が、それでも腹の虫がおさまらない。また、礼金も諦めきれなかった。今度は縋りつかんばかりの哀れな声で
「おせんちゃん、何とか考え直してくれへんかなあ。誰にも至らんところはある。酒癖が悪いので仙吉のええところが見えへんようになっているのと違うか?が、破れ鍋に綴じ蓋でもええがな、仙吉は浪速で一番の仕立て職人や。後になって悔やんでも手遅れや。何とかならんかなあ」
と、未練たらたらだった。
一方、ここは裏長屋の井戸端。水汲みと洗濯だけの場所ではない。女房連中のよもやま話を交わすのもここである。
「おせんちゃん、運が悪かったねえ。職人はんは気難しいひと多いけど、あんばい行ってることも多いから。まさかあそこまで酒癖が悪いとはねえ」
「せっかくええ器量しているのに。後添えにでも行けばどうやろうね。何時までも若いと思うていると、アッという間に歳取ってしまうからなあ。それにおゆきはんを抱えているから、贅沢は言えへんし」
「そうそう、今の内によう考えんと損するよ、何時までも縁があると思うたら大間違いや。一遍嫁いではるからなあ、贅沢言うてもどうにもならへん。そのうち縁遠くなってしまうよ。そうなってから慌てても、どうしようもないからなあ」
「こういうとなんやけど、離縁されたのは、辛抱が足らんかったんとちゃうか?おゆきはんが足引っ張ったと言うときついけど、先さんも色色と不満や言い分を持っていやはったのと違うかな。それに絵に描いたようなええ旦那はんなんて、どこにも居てへんよ」
「当たり前や、そんなにええ男はんが居るなら、わてが嫁ぎたいわ」
「あんたが?そうやなあ、あんたもせめてあと十ほど若うて、おせんちゃん程でないにしても少しは器量が良うて、お喋りが過ぎんと、子供五人も居てへんかったら、六十くらいの貧しい隠居はんの後釜の口があるかも知れへんね」
「どうして?そんな冷たいこと言わんと、おせんちゃんと一緒にわての分も探してぇや。ろくに稼ぎもせん、色ボケの亭主を抱えたわての身にもなってえな」
「あんた、そんなこと言うてる場合かいな。気ぃつけなはれ。旦那はんも、『もうチョッとましな嫁はん、どこかに居てへんかなあ』言うて探してはったよ」
「大体おせんちゃんでも難しいのに、お前はんに見つかるかいな。今の旦那はんを、大事に、大事にせんとあかん、それしかあらへん」
と、そこで裏長屋の女房達はどっと吹き出した。確かに不足を言えばきりがないだろう。稼ぎが十分な亭主などここには居ない。味噌醤油の貸し借りで女房同士の大喧嘩、近頃の不景気で身売りや夜逃げも後を絶たない。
「いえ、うちはもう嫁ぎまへん。心配してくれはるのは嬉しいけど、嫁ぐ、嫁がへんと煩うから、嫌なことでも辛抱せんとあかん。お母はんも先方で気を遣うて、ほんま、辛い思いしやはった。そんなことなら、貧乏してもここでお母はんと二人で暮らした方がましや」
せんはきっぱりと言った。
「それでもなあ」
と二人でいる時にゆきは困惑気に目を落とした。
「やっぱり、せんにはええとこに嫁いで欲しいなあ。足手纏いになりたない。せんに苦労掛けるくらいなら死んだ方がましや、薬なんぞ要らん」
と嗚咽を抑え切れないのだった。それを聞いてせんは笑い飛ばした。
「何を心配してはるの、お母はん。うちはな、いつまでもお母はんと一緒に住みたいのや。それに、お蔭はんで男はんによう好かれてま。今でも言い寄られることがしょっちゅうだす。必ず、ええ人と所帯を持つからな」
と安心させるのだった。
「お母はんも元気になってや、そのうち、きっとええことが一杯あるからな」
と励ますのは、これは口癖になっている。せんにすれば母親を見捨てて嫁ぐなど考えられなかった。お椀一杯の味噌味の雑穀雑炊を分け合って、一日凌いだことも度度である。楽しい時も、苦しかった時も、必ず傍に母親のゆきが居たのだ。
「それにしても」
と、母親のゆきはため息をついた。
「なんや、お母はん、改まって?」
「うん、それにしてもお腹空いたなあ」
「えっ?そうやなあ、ほんまや、お腹空いた!」
「弱音を吐くのはこのくらいにして、今日は寝ようか」
「そやそや、早う寝よ」