王子様を幸せにするために攻略対象を攻略することにしました
「クロヴィス殿下の話、聞いたか?」
「ああ、聞いた聞いた。まだ子供だってのに可哀相だよな」
雑踏の中で聞こえたその名前に、少女がぴくりと体を震わせた。道行く人たちの中にいる小さな子供の様子に気づくはずもなく、二人の男は雑談を続けている。
「十歳であのフィアールに行くことになるとはなぁ。……ん?」
くい、と袖を引かれしみじみと呟いていた男が視線を落とすと、丸い目と視線がかち合う。見知らぬ子供の出現に男が困惑するが、少女は男の様子に気づいていないのか、あるいは気づいてなお気にしていないのかは定かではないか、無邪気な声を上げた。
「あの! その話詳しく聞かせてください!」
ライラシア、それが少女の名前だ。
その名を付けた母と父は数年も前に流行り病によって他界している。ライラシアもまた、その当時病に苦しんだが、奇跡的に回復した。
だがその病を皮切りにライラシアの身に異変が起こる。厳密に言えば、異変が起きたのは体ではなく、その思考にだ。
見も知らぬ誰かの記憶がふとした拍子に蘇るようになった。それがどこの誰なのかはライラシアにはわからなかったが、数多ある本やゲームと呼ばれる玩具の記憶は、縁戚に与えられた家屋で一人で過ごしていたライラシアにとって、かけがえのないものになっていた。
そして、いつものように出かけた市場で耳にしたのが『クロヴィス殿下』という、ライラシアが記憶さんと呼び慕う誰かが遊んでいた乙女ゲームという玩具の中に出てきた名前だった。
玩具の中の人物とはいえ、記憶さんはクロヴィス殿下をこよなく愛していた。可哀相と嘆き、幸せを願うほどに。
玩具の舞台となるのはフィアール魔法学院。
そこは魔法の才が発現した者が通う場所となっている。それは玩具の中でも、ライラシアが生きているこの世界でも変わらない。
そして魔封じの実を飲めば魔法の才を封じられるにも関わらず、幼い身空で親元から離された子供は皆、何かしらの問題を抱えていた。
それは例えば親のいない子や、親に捨てられた子、あるいは家族に見切りをつけた者たちだ。
フィアールを卒業した後は、魔法の才を遺憾なく発揮できるような場に送られる。家族との繋がりは薄くなり、家業を継ぐこともできなくなる。
そして、もしもその子が貴族であれば爵位を継ぐことができなくなる、どころではない。家名を名乗ることすら許されなくなる。
それは一昔前に、魔法の才を悪用しようとした貴族がいたのが発端だった。地位ある家が無用な力をつけることを、国は許しはしなかった。
だから当然、王子でありながら十歳という若さでフィアールに身を置くことになったクロヴィス殿下もまた、問題を抱えた子であった。
妾腹の生まれであり、早くに発現した魔法の才によって兄と継母とを傷つけ、父からも疎まれた末にフィアールに追いやられる。
家族の愛を知らずに育った彼は一人の少女と出会い――恋に落ち、愛を知った。
記憶さんはそれを見て「よかったね」と感涙していた。
ライラシアはその記憶をクロヴィス殿下の名を聞いた瞬間に思い出し、決意した。
記憶さんのためにクロヴィス殿下を幸せにしよう――と。
だが王子の名前と学院の成り立ちや名前が一致したところで、それが本当に合っている保証はない。不安になったライラシアは、平民の生まれである他の登場人物を確認することにした。
玩具の中で少女が恋に落ちる相手はクロヴィス殿下だけではなかった。他にも四人、恋に落ちる可能性のある者がいる。
そしてその内の三人は平民の生まれで、彼らもまたクロヴィス殿下同様問題を抱えていた。
一人は商家の四男――彼の確認はすぐにできた。何しろ彼の生家は名の知れた商家だ。
一人は森の外れに住む薬師の息子――これの確認もすぐにできた。何しろ森の外れに住む者はそういない。
一人は父と母の死を目の前で見た少年――これの確認はできなかった。何しろ名前以外の情報がなかったから。
そして最後の一人は公爵家の次男――これの確認もできなかった。何しろ公爵家を調べる伝手がライラシアにはなかった。
だが五人中三人確認できれば十分とライラシアは考えた。
そしてどうすればクロヴィス殿下を幸せにできるかを考え――その結論はすぐに出た。
「他の人を攻略すればいいんだ」
フラグ――と記憶さんが言うような、心に傷を負う事件を先に折ってしまえば少女に癒やされることもなければ、恋に落ちることもない。
実に単純で明快な答えだった。
1.商家の四男
リュカは名の知れた商家に生まれた。上には兄が三人いるので家を継ぐことこそないが、愛に満ちた生活を送っていた。
将来は兄を支えようと、算術や経済学を学ぶほど意欲に溢れた少年でもあった。
リュカが王都にある店を訪ねたのも、その一環だった。何が売れ、何が売れないのか、客層はどんなものか。ありとあらゆることを知りたいリュカを店の者は歓迎し、乞われるままに教えた。
そして帰る時に、ふと窓から外を眺め――地に座る子供の姿を見つけた。七、八歳ぐらいに見える、小さな女の子だった。
「彼女は?」
「ああ、あれですか? 数日前からああして、旦那様に伝えたいことがあると言ってるんですよ。最初は表に座ってたんですがね、客の邪魔だと言ったら裏口に居座るようになっちまいましてね」
いやはや困ったものですよ、と頬を掻く店主を見て、リュカは眉をひそめる。
子供が裏口側とはいえ店先に座り込んでいるのは、見栄えが悪い。どうして追い払わないのかと責められていることに気づいた店主は、慌てて言葉を続ける。
「いやね、俺も追い払おうかと思ったんですが、てこでも動かなくて……流石に殴って追い払うのは……誰かに見られたら良からぬ噂が立つかもしれませんから、どうしたものかと悩んでいるんですよ」
「そうですか。どうせ雇ってほしいとか、そういう要望なんでしょうけど……甘い顔はしないようにしてくださいよ」
リュカの父は忙しい人だ。こんなことに手を煩わせるわけにはいかない。
だからといってリュカ自身が少女の相手をすることもできない。子供がここを出入りして色々学べるのなら自分だってと、つけあがるかもしれないからだ。
それから一週間後、リュカはまた店を訪ね、裏口に座る少女を見つけた。
それから一週間後、リュカは変わることなく座り続ける少女を見つけた。
それから一週間後、少女はいなかった。
それから一週間後、リュカはまた、少女の姿を裏口に見つけた。
そして一週間後、リュカは裏口で倒れている少女を見つけた。
一体何がそこまで少女を突き動かすのか気になりはじめていたリュカは、ある日突然姿を消したのを見て「諦めたのか」と落胆と同時に安堵していた。
だが少しして、またもや少女は姿を現した。丸い目をじっと店に向け、口を開くことなく座り続ける少女の姿に、リュカはいたたまれなさを覚える。
そして、倒れる少女を見つけたのは無意識に少女の姿を探すようになっていたリュカだった。
慌てて裏口の戸を開け少女に駆け寄り、思っていたよりも小さな少女の姿に顔を強張らせる。窓からは背丈ぐらいしかわからなかったが、ぶかぶかの大きな服に隠された体は細く、触れれば折れそうなほどだ。
「おい、お前、大丈夫か」
ぺちっと頬を叩くと、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。死んだのか、と思いかけたリュカだったが、すぐに小さな吐息に気づき安堵の息を零す。
薄っすらと開かれた瞼の奥にある瞳は青空のように澄んだ青色で、小刻みに震える唇がゆっくりと開かれた。
「あなた、は?」
「俺はリュカだ。この店の――ああ、なんでもいい。お前、そのままじゃ死ぬぞ」
抱きあげたら崩れ落ちるのではという不安から、リュカもリュカでどうすればいいのかと慌てていた。少女はそんなリュカの様子に気づいていないのか、あるいは気づいていながら気にしていないのか、小さな手でリュカの袖を引く。
「あの、あなたの、お父さんに伝えてください。大きな取引の時、襲撃がある、と」
か細く掠れた声で紡がれた言葉にリュカは目を丸くした。
「おい、どういうことだ。あいつは襲撃があると言っていたぞ!」
少女を店の中に運び、上客用の部屋にある長椅子に寝そべらせたリュカはその足で店主の元に急いだ。
店主はぽかんとした顔をしてから「ああ、そういえば」とぼんやりとした調子で答える。
「そんなことも言ってましたかね。子供の戯言でしょう。旦那様のお耳に入れるようなことじゃありません」
「たかが戯言のためにひと月以上居座るわけがあるか!」
「しかしね、坊ちゃま。そうやって不安を煽って金銭を巻き上げる輩もいらっしゃるんですよ。お若い坊ちゃまにはわからないかもしれませんがね」
嘲るような口振りにリュカの頭に血が上る。
気の好い店主だと思っていた。なんでも快く教えてくれる人だと思っていた。だがそれはすべて、所詮子供のお遊びだと思われていたのだと、この瞬間に悟った。
「あの娘は連れていく。話次第によっては処罰が降りると思え!」
「女性に興味がおありとは、坊ちゃまも男ですねぇ」
勢いよく店の扉を閉め少女の元に向かったリュカは、有言実行とばかりに少女を自宅へと連れ帰った。
突然見も知らぬ子供を連れ帰ってきたリュカに屋敷の者は騒然とした。古くから仕えている家令や、三人ほどの使用人はリュカに命じられ慌てて湯を準備し、温かな食事を用意した。
それから半時が過ぎ、少女はようやく目を開け――ライラシアと名乗った。
ライラシアは何も持たない人間だ。彼女にできるのは、唯一ある体を使っての体当たりだった。
話を聞いてくれるまで動くものかと心に決めていたのだが、雨の日に座り続けていたのがよくなかったようで、体調を崩してしまった。それが治るとまたすぐに座り続けたのもよくなかったのだろう。
倒れてしまい、リュカに助けられたのだと知ったライラシアは見て取れるほどにうろたえた。見ている方が不安になるほどのうろたえ振りだった。
「わ、私! ごめんなさい、手をわずらわせるつもりはなくて!」
「いや、それはいい。それで……襲撃があるという話だが」
「あ、はい。えと、大きな取引のために売り物を持ってかえる途中で、賊に襲われるそうです。えーと、借金をしてまで揃えた品で、売り物がないととても困ることになるそうで、でも返せない額ではなかったはずなのですが、持ち逃げとか、引き抜きとか、色々あるそうで」
取り留めもなく話すライラシアの口を一旦止めて、リュカは食事を勧める。詳しい話は食事をしながらと募るリュカにライラシアは恐縮しながらも押し負け、食事を共にすることになった。
「これ、美味しいですね!」
「口にあったのなら何より。それで、大きな取引とは?」
「んー、どこかのお偉いさんのために仕入れるとか、ごめんなさい、私も詳しいことはよくわからなくて」
「……君はそれをどこで知ったんだ?」
「ええと……」
記憶さんが教えてくれました、と言っても信じてはもらえないことはライラシアにもわかっていた。だが小耳に挟みましたと言っても、どこで聞いたのか、それを話していたのはどんな人かと色々聞かれるのは目に見えている。
苦し紛れに捻りだしたのは「予知の力があるんです」と、これまた苦しい言い訳だった。
「……予知?」
「はい。絶対、かどうかはまだわからないのですが、こう、ふわっと頭に浮かんでくるんです。それで、この家の馬車が襲撃されることに気づいて」
魔法の才はあれど、予知の才など聞いたことがないリュカは、ライラシアの言葉をどこまで信じるかと悩んだ。
悩みに悩んだ結果、何事もないのが一番だとして父親に襲撃の噂があると伝えることを選んだ。
護衛を増やして襲撃がなければ、多少金銭こそ減るが無事で済む。襲撃があれば、それはそれで護衛の数さえ増やしていれば事なきを得るだろう。そう思っての判断だった。
大きな取引、お偉いさんという二つの単語から、リュカの父親はすぐにどれのことか見当をつけた。借金をしてまで仕入れるものはそう多くはない。
リュカの言葉をそのまま鵜呑みにしたわけではなかったが、護衛に支払う金額の代わりに息子の不安が払えるのなら、と実に親馬鹿な考えから護衛を増やし、賊を追い払うことに成功した。
――そこまでなら、奇遇なこともあるものだと済んだ話だったが、賊のひとりが「話が違う!」と発したことにより事態は急変する。
護衛の数を増やしたのは直前になってのことだ。仕入れを終え帰ってくるだけの者に文を書き、護衛を増やした。その流れを知る者はリュカとその父親、それから襲撃に合った者たちだけだった。
そして、元々雇う予定だった護衛の数を知る者は彼ら以外にもいる。
「誰が雇ったのか、お前は知っているのか?」
ライラシアが屋敷に置かれてからすでにひと月が経っていた。予知が本当かどうか見極めるまでどこにも行かせないと言い張られ、仕方なくライラシアはこの待遇に甘んじている。
「んー、偉い人? 経理、じゃないし……えぇとお金の管理を任せられていて、取引相手も知っていて、信頼の厚い人です」
それに当てはまる者は、ひとりしかいない。
リュカが兄のように慕い、長く勤めてくれていた青年が、それから数日後に衛兵に連れていかれた。
2.薬師の息子
フェイは薬師の息子として生まれた。父親はフェイが物心つく前に他界し、それからは母ひとり子ひとりで手と手を取り合って生きてきた。
フェイの母は薬草の調達に丁度良いからと森の近くに家を建て、暮らしていた。王都の城壁の外という物騒な場所だったが、それでもこれまで襲われることもなく無事だったのは、衛兵の巡回路にこの家も含まれていたからだろう。
王都は広く、貧困層の住む場所もあることを思えば、森の外れにあるはずのこの家は王都の下手な場所に店を開くよりも安全だった。
だがそんな日々は母が病によって倒れたことにより、崩れ去る。
そこまで重い病ではない。適切な治療さえ受けられれば治るはずの病だった。
フェイは支払いがまだの家を回り、金銭を集めようとしたが「薬師が病に倒れるなんて、この薬、本当に大丈夫なの?」と支払いを断られた。
いくつかの家は支払いに応じてくれたが、微々たる金額の家ばかりで、大きな金額の家はすべて支払いを拒否した。
日に日に弱っていく母を見ながら無力さを嘆いていたある日――フェイの元に医師がやってきた。
「あの、支払えるお金はありません」
「すでに貰ってるから大丈夫ですよ」
和やかに笑う老医師は、とある商家が世話になった者のために自分を雇ったのだと語った。
母が薬を卸した商家のひとつだろうかと首を傾げるフェイが真実を知ったのは、それから三週間後のことだ。
その日、フェイは母が元気になった時のためにと薬草の調達で森に入っていた。湖の側にある薬草は乾燥させるので日持ちすると知っていたフェイは湖に向かい、そこである少女を見つける。
冬も近く、冷たい空気の中で水浴びする少女の姿に顔を青くさせたのは、冷たい水の中にいるはずの少女ではなくフェイの方だった。
「な、何をしてるんだ……!」
病で苦しむ者もいるのに、病にかかるようなことをするなんて、と憤ったフェイの怒声に少女はびくりと肩を震わせて振り返る。
骨の浮いたその体にフェイは言葉を失くす。子供とはいえ女性の裸体を見てしまったとか、そういう思いは抱けなかった。
「馬鹿じゃないのか!」
外套を放り投げて湖の中に入り、突き刺すような冷たさに顔をしかめながらも少女を湖から引っ張り出す。
そして外套を少女の体に巻き付けるようにして着せてようやく、フェイはほっと安堵の息を漏らした。
「濡れちゃいますよ」
「目の前で死なれるよりはマシだよ」
細く小さな体躯に不釣り合いな丸い目をした少女は、そわそわとした様子で視線をあちこちに向けている。
「それとも死にたかったの?」
「いえ、そんなまさか! えーと、衛生観念? 綺麗にしないと病気になるとか、なんとか」
「それなら湯を張りなよ。寒い季節に湖に入るなんて自殺行為だってわかってる?」
「そんなことのために使うお金なんてあるはずないじゃないですか」
へらへらと笑う少女にフェイは言葉に詰まる。この、どう見てもろくに食事を食べられていなさそうな少女に、余分な薪を買うだけの余裕があるとは到底思えない。
その程度のことに思い至れない自分の浅はかさを思い知らされ、フェイは何も言えなくなった。
「え、いや、今の冗談ですよ。それもそうだって笑ってください」
「あのさ、君の見た目でその冗談は笑えないってわかってる?」
そうでなくても笑えるような内容ではない。だがそれでも、場を和ませようとした少女の心意気を受け取ったフェイは、引きつった笑みを浮かべる。
下手くそな笑顔に、何故か少女の方が声を出して笑った。
「ライラシア、こっちにいるって聞いたけど――」
そして少年がひとり木々の合間から姿を現し、ぽかんと口を開けて固まった。
言葉を失う少年を見て、フェイははてと首を傾げる。そしてすぐに、自分の置かれた状況に思い至る。
裸に外套を巻き、髪から水滴を零す少女と、一緒にいる濡れた自分。その光景が人の目にどう映るかまでは定かではないが、少なくとも目の前にいる少年は良くない方向に思考を働かせたことはわかった。
「いや、これは」
「お前、ライラシアに何をした。恩を仇で返すとは、見下げ果てた奴だな」
射抜くような視線と威嚇するような言葉に、フェイはあたふたと慌てる。完全に誤解ではあるが、説明したところで少年に聞く耳があるようには見えない。
そんなふたりの何が面白かったのか、少女がまたもや声を出して笑った。
「リュカ、怖い顔しないの」
けらけらと笑い、気の抜けたことを言う少女に、少年は毒気が抜けたかのように気を緩めた。
それから、少女はライラシアという名で、少年がリュカだということを知ったフェイは、何がなんだかわからないまま家に帰った。
そしてその翌日、リュカがフェイの元を訪ねてきた。
「いいか。ライラシアはこの家の恩人だ。良からぬことは企むなよ」
「別に企んでないけど……恩人って、何?」
わざわざ釘を刺しにきたリュカに機嫌を悪くしながらも、昨日から気になっていたことをフェイは問いかける。
「この家に支援したのは俺の家だ。あいつは俺の家の恩人で、あいつが自分の代わりにお前に金を使ってほしいと頼んだから医師を寄越した。だから俺とライラシアに感謝するんだな」
偉ぶったリュカにフェイは反発心を抱く。確かにリュカの家は恩人で、それを願ったライラシアも恩人かもしれないが、リュカ本人に恩があるわけではない。
「君の家には感謝するよ。だけど君個人には感謝したくないね」
だから思ったままを口にした。
リュカとフェイが乱闘騒ぎになりかけているその頃、ライラシアは自宅でごろごろと転がっていた。同じ年の頃の男の子に裸を見られたという羞恥心に完全にやられていた。
「わー、もう! 恥ずかしいなぁ!」
これまで何度も湖に足を運んだというのに誰かと会うことはなかった。だから油断していたのだろう。真っ裸で湖に入り、しかもそれを見られて、外套まで巻かれた。
そういうあれな目で見られたわけではないとわかっていながらも、今年で十一になるライラシアにとってはお嫁にいけないと思い詰めるほどのものだ。
この世界において平民は十七で嫁ぐ者が多い。魔法の才は遅くても十六までに発現するので、それで何もなければめでたく嫁げるようになる。
もしも魔法の才が発現しても魔封じの実を食べれば済む話ではあるが、特別感に浮かれてフィアールに足を運ぶ平民もいる。
夫婦となった相手に「自分はこんなところでくすぶるような人間ではない!」と家を出ていかれたらたまったものではない。
だから、魔法の才がないとわかる十七になってから嫁ぐのが一般的だ。
つまり、少なくとも後六年もすればライラシアも嫁ぐ年になる。まだ六年もあると考えるか、もう六年しかないと考えるかは人それぞれだ。
「いやでも、後六年もあるんだから、裸を見られていても大丈夫って人が出てくるかも!」
そしてライラシアは前者だった。
3.両親を失った少年
ライラシアは毎日王都内を駆けまわっていた。恋のお相手の三人目が平民で、王都で暮らす誰かなのは間違いない。
だがそれがどこの誰なのかはわからなかった。平民に家名はなく、名前だけで探すには人が多すぎる。
赤茶色の髪と緑の目の持ち主、ということぐらいしかわからない。
玩具に出てきた彼らはどれも不思議な絵だった。リュカもフェイも確かに似てるかも? と思えなくはない見た目だったが、それそのものだ、間違いないと断言できるほどのものではなかった。そもそも、年齢からして違う。
「まいったなぁ、困ったなぁ」
うんうんと唸るライラシアの頭にぽんと手が置かれた。
「シア、どうした?」
「あ、ルー。こんにちは!」
ライラシアが見上げないといけないほど背の高い少年は、ライラシアにとって友達とも言える間柄の相手だった。会うのは週に一度だけだが、もう三年も付き合いがある。
リュカの家でお世話になっていたひと月の間もルーはライラシアを探してくれていたらしい。それを知ったライラシアは申し訳なさでいっぱいになり、この日だけはルーのために予定を何も入れないことにしていた。
「人を探してるんだけど、見つからないの」
「人? どんな人だ?」
「んー、赤茶色の髪で緑の目で、今だと……十二歳かな」
「例えば……あんな感じか?」
ルーの視線を追うと、井戸から水を汲んでいる最中の男の子がそこにいた。確かに外見の特徴は合う。だが本人かと問われればわからない。
ライラシアはうーんと首を捻りならがじっと男の子を凝視する。
「なんだよ」
そんな無遠慮な視線に気づかないはずがない。男の子はむすっとした顔でぶっきらぼうに言った。
「ねえ、あなた、名前は?」
「……なんであんたに言わないといけないんだよ」
つんと澄ました男の子は水の入った桶を抱えて人ごみの中に消えた。
「あの子なのかなぁ。わからないなぁ」
「そういえば最近色々してるらしいな。その、十二歳の子も関係あるのか?」
「んー……ルーにだけは特別に教えてあげるね。私、先のことが少しだけわかるんだ。それで、その子に不幸なことが起きるから、それを阻止したいの」
「……それをしてシアにどんな得が?」
「幸せにしてあげたい人がいるの」
記憶さんがクロヴィス殿下の幸せを願っているから、すべてのフラグを折ることをライラシアは心に誓っている。
だがルーがそんな奇怪な事情を知るわけもなく、目に見えて不機嫌になった。
「幸せに、か。シアにそんな相手がいるとは知らなかったな」
「だってルーの知らない人だもん。あ、でも名前ぐらいは知ってるかな? ほら、フィアールに行ったクロヴィス殿下っているでしょ? 第四王子の」
「ああ……って、それがシアの幸せにしたい相手?」
「うん」
「そうか。シアも王子とかに憧れる年か」
頭を撫でられ、ライラシアは相好を崩した。
そして家に帰って、子供扱いされたことに気づき愕然とした。
ライラシアは今年で十二だ。大人、ではないが子供扱いされるほどの年でもない。
ちらりと自分の体を見下ろし、貧相な体つきを恨んだ。
アレンは普通の家に生まれ、普通の子として育った。普通ではないのは、その生い立ちだった。
アレンの母は暴漢に襲われアレンを宿した。だがその少し前に夫とも体を繋いでいたため、宿った子がどちらのものかわからなかった。
子を下ろそうとする母を止めたのは夫だった。子を下ろす処置は母体に悪影響を及ぼすと言われていたからだ。
二度と子を望めない体になるかもしれない、愛した妻を失うかもしれない、もしかしたら自分の子かもしれない。そのすべてが仮定だったが、ありえる話でもあった。
そして母は夫に説得され、アレンを産んだ。
髪の色も目の色も母譲りだった。
だが育つにつれ、その容貌は両親のどちらにも似なくなっていった。
アレンはそのことを知らずに育ち、自分に辛く当たる母に愛されようと必死にあがいていた。水汲みという重労働をするのも、母に楽をさせたかったからだ。
「ただいま」
アレンに応える者はいない。父は仕事に行き、家にいるはずの母はアレンをいないものとして扱う。
桶を炊事場に置くと、アレンはいつものように部屋の隅にうずくまった。母が声をかけてくれないかと願いながら。
母が食事の支度をはじめるのを聞きながらアレンが思い出したのは、仕立の良い服を着た二人の子供だ。
無遠慮にこちらを見る目に、みすぼらしい自分を笑っているのかと憤った。
それはアレンにとって長らく忘れていた感情だった。
アレンに転機が訪れたのは、暖かな昼下がりだった。だがそれは、必ずしも良いものではない。
仲睦まじく歩く母子の姿と、不意に抱きついて驚かせてきた子を宥める母の姿。
アレンが憧れてやまない光景がそこにはあった。
もしも自分が同じことをしたら母は宥めてくれるだろうか。
あるいは怒るかもしれない。だがそれでも、反応してくれるのなら――そう考えたアレンは食事の支度をしている母の背中に抱きついた。
そして、母の変化は劇的なものだった。
見開かれた目に、わなわなと震える唇。アレンを見下ろす目には憎しみが含まれていた。憎まれる覚えのないアレンは母の視線にさらされ、一歩、二歩と後ずさり、母の持つ包丁の刃先がきらりと光る。
アレンどころか誰も知る由のないことだが、母が振り下ろした包丁は、丁度帰宅した父が咄嗟にアレンを庇ったことにより、アレンではなく父の胸に突き刺さった。
愛する者を失った悲しみと、憎い子供だけが残った事実に壊れた母は包丁で首を掻き切り、アレンの前で果てる――そんな運命だった。
「だめえええ!」
だが幸い――なのかどうかはわからないが――この世界にはその運命を知る者がいた。たったひとり、アレンに降りかかる運命を記憶している者がいた。
そして呆然とするアレンを抱え、代わりに少女の肩が包丁を受け止める。
耳にかかる痛みに耐える吐息と、帰宅した父の声、ばたばたと家に入ってくるいくつもの足音。
アレンが状況についていけない間に母は衛兵に連れていかれた。
「大丈夫?」
傷を負った肩を包帯で巻かれた少女がアレンに問いかけた。ぎゅっと握られた手にアレンはこくりと頷く。
家の中はばたばたと騒がしい。父がどういうことかと衛兵に聞いている。そして「馬鹿」と少女を罵る少年がふたり、いつの間にか家の中に入ってきていた。
「それでは私たちはこれで」
衛兵のひとりがアレンと少女に話しかけてくる。対応したのは見知らぬ少年ふたりで、アレンはそれを呆然と見つめていた。
衛兵が帰り、父が母の様子を見に行くとアレンに告げ、少年ふたりが少女に「帰ろう」と声をかけている。
そのすべてが、アレンにとってはどこか遠くに感じられた。
「私は残るよ」
「じゃあ俺も――」
「ふたりは家族が待ってるでしょ? 私は大丈夫だから! フェイのくれた傷薬も使ったし、そんなに深くないって衛兵の人も言ってたから平気だよ」
渋る少年ふたりを説得する少女に、アレンはぼんやりと、こいつも帰ればいいのにと考える。
母は衛兵に連れていかれた。しばらくは帰ってこれないだろう。もしかしたら、二度と帰ってこないかもしれない。
父と一緒に自分のいないどこかに行くかもしれない――そんな考えが頭の中を巡っていた。
「……大丈夫だよ」
ぎゅっと抱きしめられて、アレンはびくりと体を震わせた。
「……何がだよ。何が大丈夫なんだよ! 勝手なこと言うなよ!」
「あなたのお父さんは命を張るぐらいにあなたを愛してるもの。だから、大丈夫」
母について言及しない少女の言葉に、アレンの口から乾いた笑いが漏れる。
そして同時にその言葉が慰めになると本気で思っているのかと、憤った。
「あんたさ、俺を見てた奴だろ? 何、俺んちのこと笑いにでも来たの?」
「違うよ!」
「じゃあなんでだよ。なんでこんな所にいるんだよ」
「それは……心配で」
「心配? 人を心配する余裕があるなんて、恵まれてる奴は違うな」
抱きしめている少女の肩を掴んで力強く引き剥がすと、少女の顔が歪んだ。その顔を見たアレンは、こいつも傷つけばいいんだと歪んだ思いを抱く。
「ほんの少ししか話してない相手を心配するって……あんた、俺のことが好きなの?」
「え?」
「俺はあんたに助けられたからな。恋人にでもなってやるよ」
何をすればいいのかは知っているが、本気でするつもりはない。
相手は痩せっぽちの十にも満たさなそうな子供だ。そういうことになれば泣きわめくだろうと、そう考えての行動だった。
床に倒された少女は、確かにわめいた。
「いったあああ!」
だがそれは、アレンの予想していたものではなかった。
色々なことが立て続けに起こったせいで、少女が肩を怪我したことをアレンは失念していた。
痛みで呻く少女の姿に、アレンは我に返り慌てて少女の体を起こす。
「わ、悪い」
「うう、本当だよ。あのね、別に私はあなたのことを好きとか、そういうのじゃなくて……えーと、なんて言えばいいのかわからないんだけど、気になって? 違うな、だめだ、よくわかんない」
「……わかったよ」
はっきりと好きではないと言われたことに一瞬表情を歪めたアレンだったが、すぐにそんなことを思えるような立場ではないと思い直す。そもそも、この少女に好かれたいとは思ってもいなかった。
だが、母に愛されず、自分を庇ったはずの相手にも好意はないと言われ、少しだけ胸が痛んだ。
――それから数日後、衛兵に少女の家を聞き、改めて謝罪に訪れたアレンは自分の言ったことや、行動を後悔することになる。
「おもてなしできないから、家にはあげれないよ!」
わーわーとわめく少女の後ろに見えた家の中には、文字どおり何もなかった。
4.公爵家の次男
ライラシアは十四になった。アレンを助けてからというもの、毎日王都内を走り回っている。
それというのも、公爵家の次男が親しくしている平民の子供が王都のどこかにいるはずだったからだ。
公爵家の次男は家に居場所を見出せず、反抗期さながら度々家を抜け出していた。そしてそこで知り合った子供と仲良くなる。だがある日、公爵家を良く思っていない者の手によって子供が殺され、自棄になった次男はそのまま学園に入学する――というのが公爵家の次男にまつわる話だった。
だからどこかにその平民の子供がいるはずだ、とライラシアは毎日のように探していた。
ここ数年の間にリュカに食べ物を押し付けられたおかげか、体力がずいぶんと増えた。その体力が尽きるまで走り回っても、それらしい人は見つけられない。
そもそも、その平民の子供は名前すら玩具の中に出てこなかった。ただ明るい子だったと書かれるだけで、詳しい詳細はすべて不明。
そんな相手をどうやって探せばいいのか――もしかしたらもう手遅れかもしれないとすら考えはじめていた。
「いや、でもまだ大丈夫なはず」
公爵家の次男が学園に入るのは十四歳。リュカ、フェイ、アレンと同い年の設定だったので、事が起きるとすれば今年のどこかだ。
すでに三か月過ぎていることからは目を逸らし、ライラシアは毎日毎日、どこにいるのかもわからない相手を探している。
「何してんだ」
走り回って息も絶え絶えになり休憩していたライラシアに声をかけてきたのは、アレンだった。水を汲みに来たようで、水の入った桶を抱えている。
「人探しー」
「ああ、名前も顔も出生すらわからない奴だっけ。諦めろよ、そんなの見つかるわけねぇだろ」
「そんなことないよ。見つかるって信じれば見つかるはず!」
「それで見つかったら衛兵も苦労しねぇよ」
衛兵の仕事のひとつには行方不明になった子供の捜索も含まれている。
人攫いに攫われた可能性が高いので本気で探す者はあまりいないが、金を積まれれば話は別だ。そして本気で探した結果見つからないということは、よくある話でもある。
「四年間探し続けてるからね。今年こそ見つかりそうな気がするんだ」
「四年も見つかってない時点で諦めろよ……」
呆れた声のアレンに「また今度」と言って、ライラシアは今日も王都中を駆けまわった。
「シアは今日も元気だな」
ルーと会う日ばかりはライラシアの捜索は中断される。それでも今この瞬間に事件は起きているかもとそわそわしてしまうのであった。
そしてそんなライラシアを見て、ルーが笑みを浮かべるのがこの一年の間の通例となっている。
「ルー、人が見つからないよ」
「……危ない目に遭ったというのに、また誰か探してるのか?」
咎めるような視線に、思わず弱音を吐いてしまったライラシアは慌てて口をふさいだが、一度出してしまった言葉を戻すことはできない。
アレンの一件で怪我をしたライラシアをルーは心の底から心配してくれた。だから心配をかけないようにと、平民の子供探しについては黙っていた。
「シア。危ない目に遭うようなことはやめろ」
「でも見つけないと危ない目に合う人がでるんだよ」
「それでシアが代わりに怪我を負ってどうする。いいか、お前が何かしないと変えられないのなら、それがそいつの運命だということだ」
「でも、クロヴィス殿下が」
「シアの手助けがないと幸せになれないというのなら、それまでの男だったということだ」
でも、となおも言い募るライラシアにルーは小さく息を吐く。
「……それで、どんな奴を探しているんだ?」
「わかんない!」
朗らかに答えられ、ルーの顔が見事に固まる。
「えっとね、公爵家の次男が仲良くしてる子で、明るい子、ぐらいしかわからないや」
名前と顔は知らないー、とにこやかに答えるライラシアは、ルーの顔色が変わったことに気がつかなかった。
ルー、本名ルシウス・メルディアは公爵家の次男に生まれた。
だが出生時に母が死に、父と兄から疎まれて育った。暴力だとか、悪口だとか、そういったことがあったわけではない。
本当に、何もなかったのだ。かけられる言葉も与えられる愛情もなく、ルシウスは育った。
だから心配してくれるかもと考えて家を抜け出し、その先でライラシアと出会った。
子供の輪になじめずぽつんと佇む五歳ほどの子供に、当時九歳のルシウスは自身を重ねてしまい、思わず声をかけた。ライラシアが同じ年の子供とは知らずに。
それから五年。週に一度会うだけの関係だが、よく笑い、はしゃぐライラシアの姿にルシウスはずいぶんと救われてきた。
だからこそ怪我をしたと知った時には怒り、危ないことは二度とするなと詰め寄った。その結果、ライラシアが捜し人の情報を自分に流さなくなるとは思いもせずに。
「もう少し早くわかっていれば」
ぽつりと呟いた声に応える者はこの屋敷にはいない。
気にかけてくれる使用人はいるが、それでもつかず離れずルシウスと一緒にいられるわけではない。屋敷の中で、ルシウスは長い時間をひとりで過ごしていた。
自分に良くしてくれている使用人が咎められることがないようにと、普段は呼びつけたりしないが、この日ばかりは話が違った。
「身辺を見張ってほしい者がいる」
ライラシアは危ない目に遭うと言っていた。何がどうなるのかまではわからないが、すぐに駆け付けられる大人がいればなんとかなるのではと考えた。
「それは構いませんが、どこのどなたでしょう」
「名前はシアで――」
そこまで言って、ルシウスは五年も付き合ってきた相手のことを何も知らないことに気づく。
好きな食べ物や好きな色は知っている。だが、どこに住んでいるのかも、親が何をしているのかも――ルシウスには知る由もないが、年齢も本名すらも――知らなかった。
「それだけではさすがに……」
渋る使用人にルシウスは手で顔を覆い溜息を零す。
情報も何もない相手を見張れるとはルシウスも思ってはいない。
「……来週俺の後を追え。そして一緒に過ごした相手を見張ってくれ」
「それはできかねます」
毅然と言い放つ使用人を、ルシウスは咎めるような眼差しで見つめる。
「……勝手に抜け出す分には見落とすこともあるでしょう。ですが、抜け出すと事前にわかっているのなら、目溢しはできません」
「……同じことだろう」
「いいえ。違います」
「ならば、どうやってあいつを守ればいい……!」
激高するルシウスの周りで火花が散る。
その光景に唖然としたのは使用人だけではない、ルシウスもまた目を見開いて一瞬だけ光って消えた火花のあった場所を見つめていた。
「魔法の才」
漏れ出たような使用人の呟きに、ルシウスは力なく椅子に倒れ込んだ。
「ルー、今日はどうしたの? 元気がないよ」
「……シア」
項垂れるルシウスをライラシアが眉を下げて心配そうに見上げている。
結局後を追わせることはさせず、ルシウスは何も言わずに抜け出してきた。
「もしかしたら、近いうちに会えなくなるかもしれない」
「え、なんで? お引越し?」
「……ああ、そうだな。引っ越しをするかも、しれなくなった」
「そっかぁ。寂しくなるね」
しゅんと肩を落とすライラシアの手をルシウスは握り、せめてと一縷の望みを賭ける。
「シア、君の家にお邪魔してもいいか? 思い出として」
「え、でも、おもてなしできないときはお客さんを招いちゃだめよってお母さんが言ってたから」
「いつもそう言ってるが、いつになったらそのおもてなしとやらは整うんだ?」
「ええ、いつだろ。もてなすためのお茶もお菓子もないし、それ以外にも色々足りないから……働けるようになるか、嫁いでからかなぁ」
「それでは遅すぎる!」
張り上げられた声にライラシアは目を丸くした。それからぱちくりと瞬いて、ルシウスの顔を覗き込むように見上げる。
「ルー、今日は本当にどうしたの? お引越し、そんなにすぐなの?」
「……ああ、たぶん、ひと月もせずに行くことになる」
「そっか、わかった。じゃあ、それまでには準備しとくね!」
今すぐ知りたいのにという思いを抑えて、ルシウスは曖昧に頷く。
そしてルシウスは帰路につくライラシアの後を追った。
たどり着いたのは貧困街に近い場所にある小さな家だった。いや、家と表現してよいのかどうか。馬小屋と言われても納得しそうなほどに小さな家だ。
「ただいまー」
だがそこは間違いなくライラシアの家なのだろう。にこやかに帰宅を告げるライラシアの姿に、ルシウスは言い知れぬ不安を抱きながらもそこが彼女の家なのだと納得するしかなかった。
そして使用人に家の場所を教え、そこから出てくる者を見張るように命じたのだが、問題はすぐに露見した。
使用人が職務についている時間には見張れないということだ。
仕事をするべき時間にいないということが誰かにばれたら、咎められるのは使用人の方だ。
「……夜に俺がいなかったとしても誰にも言うな」
「それは、できません。夜に外を出歩くなどという危ない真似をさせられるはずがないでしょう」
自由な時間を見張りに当てさせているということもあり、切実に頼み込むしかできない。
そもそも、見張ってくれるのは使用人の好意によるものだ。だからこれ以上好意に甘えるのはという思いを抱きつつ、それでライラシアの身に何かあったらという思いも抱いた。そしてルシウスは、悩んだ末に後者を選んだ。
「どうせ死ぬかフィアールに行くかの違いでしかない。俺がいようといまいと、誰も気にしないだろう」
「それは……」
「お前が気にかけてくれていることには感謝している。俺の我儘にも付き合わせてすまないと思っている。だが、こればかりは譲れないんだ。この家を去る前の、最後の頼みだと思って――どうか、見逃してくれ」
深く下げられた頭を見て、使用人は顔を歪める。
本来使用人に頭を下げるような立場にある者ではない。そしてフィアールに行くような立場でもないはずだった。
そして、ルシウスの身辺の世話を任せられているのが自分だけだということもあり、使用人は最後の頼みを聞き遂げることにした。
ライラシアはその日、日々の疲れのせいか熱を出して寝込んでいた。
夜遅く、立てつけの悪い扉が乱暴に開かれるのが聞こえたが、熱のせいで満足に動かせない体では視線を巡らせるので精一杯だった。幸い家の中は広くない。広くないどころか、少し目を動かすだけで一望できるほど狭い。
「なんだよ、なんもねえじゃねぇか」
家の中に入ってきたのはふたりの男だった。ライラシアの知らない顔だ。
「まあいいじゃねぇか、報酬はたんまり出るんだからよ」
へらへらと笑う男と、不機嫌そうに舌を打つ男。強盗か、と思ったライラシアだったが、へらへら男の口から報酬という言葉が出て、熱にうなされた頭で必死に考えを巡らせる。
そして行き着いた結論は、命乞いしたところで自分は助からないかもしれないという無慈悲なものだった。
「ガキって聞いてたが、マジでガキだなこりゃ。売れば少しは金になるかねぇ」
「おいおい、殺せって言われてるだろ。死体がないと駄目なんだよ」
掛けていた布をはぎ取られ、力なく横たわるライラシアを見て不機嫌男が下卑た笑みを浮かべる。
「ガキつっても、女には変わりねぇか」
「そんなガキ相手にできんのかよ。物好きだなお前……お、何もないと思ったが、上等な服があるじゃねぇか。儲けたな」
それはリュカがライラシアに毎年のように寄こすようになった服だ。食料だけでなく服の世話まで焼くリュカに、ライラシアは年々頭が上がらなくなってきている。
そして小さくなった服を捨てることもできず、丁寧にたたんで隅に置いていたのだが、何もない部屋に積まれた服はすぐに男の目に留まった。
「それは……!」
大切なものだから、と動かない体を無理に動かそうとしたライラシアだったが、すぐに不機嫌男によって両手足が封じられた。
「暴れんなよ。大人しくしてりゃ痛い目にはあわせねぇからよ」
「痛くないように殺せるわけないだろ」
「それもそうだったな」
げらげらと笑う声とその内容よりも、今着ている――リュカから貰った服が切り裂かれていくのが悔しくて、ライラシアはもう何年も流すことがなくなった涙をその目に浮かべた。
コト、と男の手にあったナイフが脇に置かれた音で我に返ったライラシアはせめてもの抵抗として、口を開く。
「やめ――」
そして言い終わるよりも早く、不機嫌男の体がぐらりと崩れる。その後ろには、木片を持つリュカの姿があった。
「てめ――」
そして竈に溜まっている煤を掻き出していたへらへら男もまた、フェイとアレンの手によって昏倒する。
その光景をぽかんと眺めていたライラシアは、リュカに抱きしめられ、堪えていた涙が今度こそ零れ落ちた。
落ちていた布でぐるぐる巻きにされた頃、衛兵がやって来て男ふたりをひっ捕らえていった。
「……ルー?」
その衛兵の中に見慣れた姿を見かけたライラシアは、思わずその名を呼んだ。
ルシウスが屋敷を抜け出し駆け付けた時には、すでにライラシアが助けられた後だった。ライラシアを心配する三人の少年――顔だけは知っていた彼らが、ライラシアに助けられたようにライラシアを助けたのだと察した。
そして中に入ることはせず、衛兵を呼びに行った。
初めて見るライラシアの家には何もなかった。乱雑に扱われた衣類と、物取りの犯行に見せかけるためか、唯一あった竈の中を掻きまわして出てきた煤。
そして薄布一枚を纏ったライラシア。そこには家族も誰もいなかった。
彼女のことを何も知らなかったこと、そして助けたのが自分ではなかったことに、ルシウスは何も言わず、何も見なかったことにしてその場を立ち去ろうとした。
だが、いつものように呼ばれた名前に足が止まる。
「ルー? ルーだ。なんで?」
「……シア」
振り返り、大丈夫だったかと声をかけようと踏み出そうとしたが、できなかった。
ライラシアを囲む三人の少年から向けられる敵意の目に、ルシウスはそれ以上何も言えなくなってしまった。
「……あんたのせいだろ」
真っ先に非難の声を出したのは赤茶色の髪をした少年だった。
「公爵家の次男って、あんたなんだろ? そのせいでこいつが危ない目にあったって、あんたわかってんのかよ」
「アレン?」
きょとんとした顔で見上げるライラシアを守るように、アレンがルシウスの前に立ちはだかる。
「言っても仕方ないよ。自分の立場もわかってないような相手に」
「フェイ?」
「俺は責めるようなことは言いたくない……だが、今日だけは帰ってくれ」
「リュカ?」
そしてフェイとリュカまでもが、ルシウスを咎めるような目で見た。
「え、なんで? ルー?」
熱のせいで頭の回っていないライラシアだけが、状況を飲み込めずにいる。
「ルー、待って、ルー」
そして呼ばれる名が聞こえていないかのように、その場から逃げるように、ルシウスは立ち去った。
後日、ライラシアを襲ったのが公爵家を恨む者による犯行だったとわかると、ルシウスはすぐにでもフィアールに行こうと準備をはじめた。
5.ライラシア
ライラシアが両親を失ったのは五歳の時だった。同じ病にかかり、奇跡的に生還したライラシアは、遠縁の夫婦に引き取られることになった。
住み慣れた村から王都に移ったライラシアに与えたのは小さな家ひとつ。
自分たちの子供に病が移ることを不安がっているのだと察したライラシアは、文句ひとつ言うことなくその家で暮らすことにした。
時折思い出したかのように送られる金で日々を食いつなぐ毎日だった。
会ったこともない子供を引き取り、家と金をくれる夫婦に感謝こそすれ不満を抱くことのなかったライラシアだったが、それでも時折両親を思い出しては眠れなくなった。
そんな中でライラシアを慰めてくれたのは、記憶さんの思い出だ。
知らない物語、知らない玩具、そのすべてがライラシアの日々に生きる気力を与えてくれた。
記憶さんは生活するための術も教えてくれた。料理の仕方、服の繕い方、少しでも金銭を浮かせるために何ができるのか。
だが記憶さんは良いところの娘なのか、水の汲み方や竈の焚き方は知らなかった。そういうことは近隣住民に聞くことによって、ライラシアはこれまで生きてきた。
だからこそ、クロヴィス殿下について知った時にライラシアの中に浮かんだのは記憶さんに対する恩返しだった。
その当時十歳だったライラシアは、五年もの間記憶さんに助けられたのだから、次の五年は記憶さんのために生きようと決めた。
それなのに、記憶さんのためと決めてからの日々はライラシアにとってかけがえのないものになっていった。
一家心中の末生き残り、どうして自分だけが残されたのかと嘆くはずだったリュカは、毎日のようにライラシアを心配して、たくさん食え、大きくなれとばかりに大量の食事と、体に合わせた服をくれるようになった。
母を亡くし、その原因となった人々を恨みながら生きていくはずだったフェイは、ライラシアが体調を崩したと聞けば失敗作だから使えば、とつっけんどんに言いながら手製の薬を渡してくるようになった。
父と母の死を目の当たりにし、愛を求めながらも拒絶するはずだったアレンは、療養所に入った母を心配しながら父と暮らし、暇があればライラシアの話し相手になるようになった。
その三人が目を覚ましたライラシアを囲っていた。
そして、ライラシアがなんの意図もなく出会ったルシウスだけが、この場にいない。
「ルーは?」
「なんであんな奴のこと」
吐き捨てるように言うアレンに、ライラシアの眉が寄る。その不満そうな表情にアレンとフェイがむっとしたように顔をしかめた。
「公爵家の次男が仲良くしている相手が酷い目に遭うって言ったのは君だよね」
「うん。そうだけど……」
「その公爵家の次男が、君がルーと呼んで親しくしていた相手だよ。自分がどういう立場にあるのかも教えないでいた、卑怯者だ」
ぱちくりと目を瞬かせるライラシアを見て苦笑を浮かべたのはリュカだけだった。
「いや、そんなこと言ってもこいつにはわからないだろ」
「……ルーがルシウスってことはわかったよ。私そこまで馬鹿じゃないよ」
「馬鹿だろ。普通、あんだけ上等な服着てたら公爵家の次男が仲良くしてる相手が自分だってわかるもんだ」
「審美眼と頭の良し悪しを一緒にしないでほしいな。それで、ルーは?」
熱で朦朧としていたが、確かにルシウスはあの場にいた。
そして三人がいるのなら、ルシウスもいるのでは――と考えていたのだが、中々口を開かない三人に、もしかしたらあれは熱にうかされて見た幻だったのかもと思い直しはじめていた頃。
「……あいつは帰った」
アレンが重々しく口を開いた。
「あいつのせいであんたが危ない目に遭ったんだ。当然だろ」
「なんでルーのせいになるの? 悪いことをしたのは、ルーの家を嫌ってる人だよ」
首を傾げるライラシアの頭ががっしりと掴まれる。ぎりぎりと絞めつける痛みにライラシアが視線を巡らせると、静かに怒るリュカの姿がそこにあった。
「もしかして、何が起きるかとか、どうしてそうなるのかとか、知ってた?」
「え、いや、詳しいことは知らないよ。公爵家を良く思ってない人が惨たらしく殺すってことぐらい」
「十分だ馬鹿! そういう危険な話はもっと早くしろ。そうしたら俺の家に匿ったりできただろ!」
今朝になってようやく泣きついてきたライラシアを思い出して怒鳴りつけるリュカに、ライラシアはぱちぱちと目を瞬かせる。
「だって、そこまで甘えられないよ。見つけてからならともかく――」
「馬鹿。お前はもっと俺に甘えていいんだ」
「俺、じゃなくて僕らね」
間髪入れず訂正を入れるフェイにリュカの顔が不機嫌に変わる。そんなふたりのやり取りに気づくことなく、ライラシアはおずおずと、今抱いている願いを口にした。
「私、ルーに会いたい」
フィアールに行くための見送りは、普段世話になっている使用人数人だけで、父と兄の姿はなかった。そうなるだろうとわかっていながらも、ルシウスの胸がちくりと痛んだ。
そして、ルシウスの胸に宿るのは父と兄だけではない。自分よりも小さいのに明るく笑うライラシアの姿も、ルシウスの心を痛めていた。
公爵家に恨みを持つ者の犯行だとわかった当初は、自分を攻撃したところで意味などないのにと馬鹿にした。だがすぐに、自分を攻撃したところで父も兄も動かない――憂さ晴らしとして利用されたのだと気づく。
そしてそれは、今後も同じことが起きる可能性を示唆していた。
だからルシウスはフィアールに行く道を選んだ。家との繋がりが切れれば、自分を攻撃してくる者はいないだろうと考えてのことだった。
「皆健やかに過ごしてくれ」
「私共もルシウス様が健やかにあれるように、祈っております」
腰を折る使用人たちを見ながら、ルシウスは馬車に乗り込もうとし――
「ルー!」
聞き慣れた声と呼び名に、動きを止める。
「シア?」
ここまで来るためか、仕立の良い服を纏った少女がひとりと、これまた上等な衣服を纏った少年が三人。それは――服こそ違うが――あの日、あの家で目にしたのと同じ光景だった。
突然声をかけた四人に使用人が警戒の色を露わにする。そしてルシウスと彼らの間に割って入ろうとしたのを、ルシウス本人が止めた。
「……どうして」
「どうしてはこっちの台詞だよ! フィアールに行くなら行くで、ちゃんと挨拶してからにしてよ」
「シアが酷い目に遭ったのは、俺のせいだろう」
「なんでそうなるかな。悪いのはルーじゃなくて、それを企んだ人だよ」
「だが……」
眉を下げ、視線を合わせないルシウスの姿に、ライラシアが口を尖らせる。
「それに、ルーだって言ってたじゃない。そういう運命なんだって。だから運命だった、それだけの話だよ」
それはライラシアが危険なことに首を突っ込まないようにと口にした台詞だった。
だが、その当事者がライラシアとなれば、ルシウスにとっては話が別だ。
完全に固まってしまったルシウスに、ライラシアがあたふたと言葉を続ける。
「今の冗談だよ。生きてるじゃんって笑うところだよ」
「だから、君の冗談は笑えないんだよ」
疲れた声を出すフェイと、しょんぼりと肩を落とすライラシア。
「あのね、ルー。私は本当になんとも思ってないから。……ううん、やっぱり思ってる。勝手にどこか行こうとするルーに怒ってるよ。私たち、ちょっと酷いことがあったからって、それで切れるような関係だったの?」
いつものように顔を覗き込むようにして見上げるライラシアに、ルシウスは口を固く結んだ。
「私はルーのこと好きだよ。ルーは違うの?」
目に涙を溜めるライラシアを見て、ルシウスは慌てて首を横に振る。
そして「好きだ」と告げると、先ほどまで泣きそうになっていたのが嘘のような笑顔をライラシアは浮かべた。
「ならこの間のことは忘れよう! フィアールに行っちゃうのは少し寂しいけど、ルーの決めたことだから止めないよ。……今更止められないとも思うけど」
すでに荷造りを終え、馬車の手配まで済んでいる。これでやっぱり行きませんは通らないだろう。
それに、フィアールに行くのは悪いことばかりではない。いや、ルシウスにとっては良いこと尽くめと言えた。
「フィアールに行くことによって俺は生家との繋がりが切れる。だが、元々この家に未練はあまりない。――それに、フィアールを出た後ならば、家名や親に左右されることなく好きな者を娶れるようになる」
フィアールは十九で卒業が認められる。魔法が暴走しなくなるのが十九と言われているので、それまでは否応なく留まらないといけないが、卒業した後は職業以外は自由に選べるようになる。
「だから、俺が戻るまで待っててくれ」
頬に触れる柔らかな感触に、ライラシアの顔が赤一色に染まった。
何が起きたのか、何をされたのか、何を言われたのかをライラシアが理解する頃には、ルシウスを乗せた馬車はすでに出発していた。
むせび泣く使用人たちに「お邪魔しました」と告げてから、四人もまた帰路に就く。
「うーん、十九歳かー。行き遅れ呼ばわりされないといいけど」
「……ん? 彼が十九なだけでライラシアは違うだろ」
「え? なんで?」
「……ねえ、君さ、今何歳?」
「十四だけど」
「は? 嘘だろ、あんた、俺たちと同じって……うわ、ありえねぇ」
「お前はもっと飯を食え。年相応になるまで、俺の家に毎日来い」
「身長を伸ばしたり、肉をつける薬ってあるかな……」
「ねえ、ちょっと、皆私を何歳だと思ってたの!? 返答によっては傷つくよ!」
「……これ、絶対あいつも気づいてないだろ」
そして、四人の声が夕焼けの中に消えた。
王子様は学院で幸せになりました。