不安は的中しない
松永鍛造が帰ったあと、岡崎社長はパソコンでインターネットを開いた。ポータルサイトのニュースで総理大臣が改めて来年10月からの消費税増税を明言しているのを知る。先週1000円近く急落した日経平均も依然2万3000円を割り込んでいる。松永鍛造が言っていた「人手不足倒産」も過去最大と記事になっている。不景気の足音がじわじわ近づいてきているのを感じた。岡崎はポータルサイトの検索ボックスに「倒産 社長 どうなる」と入力する。
不安だった。「従業員みなさんの生活を守ります」と言いながらも、会社が倒産してもっとも生活が破壊されるのは、社長である岡崎なのは明白だ。有限会社ではあるが、岡崎は会社の保証人になっていて、自宅も担保に入れている。いま同業者に売れば1000万円で売れる機械でも、破産管財人が投げ売りすれば、その価格は半値以下だろう。工場と設備だけでは借金を弁済するには足りず、自宅から追い出されるだろう。そうなれば岡崎本人も破産しているはずだ。その後どうなるのか、岡崎は知りたかった。来月破産するという松永はさばさばしていた。昔みたいに会社をつぶした社長は首を吊るような時代ではないと思うが、家も金もない状態ではホームレスになるしか生きる道はないようにも感じていたが、実際どうなるのか。岡崎は考えたこともなかった。
しかし、インターネットは便利である。岡崎はマウスを動かし、様々なサイトを見ているうちに、気が晴れてきていた。会社を倒産させた後もたくましく生きる元社長たちの声が、ネットにはいくつか上がっていた。掲示板、ブログなどに書かれているそれらの声を読めば、家を取られても、アパート住まいでも、人並みの生活ができている元社長がいることを知ることができた。中には「社長をやっていた時よりも人間らしく生きてる」と書いているブログもあった。
こういう手もあるのか。岡崎は目からウロコが落ちるようにそれらの声を読み続けた。たしかにあくまでインターネットの情報だから、ここに書いてあることすべてが真実とは限らないだろう。会社を倒産させた人の中でも、特に恵まれた人の声なのかもしれない。それでも、具体的にはどんなことになるかもよくわからず、ただ漠然と会社を倒産させれば破滅すると思っていた岡崎にとって、希望の持てる言葉だった。
「失礼します」
工場の扉が開いた。西中と天城が事務所に入ってくる。
岡崎は身構える。時間は19時過ぎだ。納期から逆算して、いくら納期が金曜日とまだ先でも、この時間で帰れる仕事量ではないはずだ。工場長の采配で、二人に長い時間残業や休日出勤をしてもらったが、ここにきて不満が爆発したのだろうか? 松永鍛造ではないが、いまこの二人に辞められたら。
「社長、明後日の水曜日に有給を取りたいんですが!」
勢いよく西中が言った。
「明後日? 日が近すぎないか。できれば来週にしてくれないか?」
岡崎旋盤製作所では、前もって有給を工員が依頼することは、遠方の通夜、葬儀などでしかない。社長は経営者として、有給休暇は取得希望を出されたら断れないことは知っていた。ただ、それに加えて、希望日を会社の都合で変更することが許されるのも知っていた。金曜日納期で大量の仕事があるのに、水曜日に休まれるのはまずい。
「今週の水曜日じゃないとだめなんです。二人で休むときついなら、天城さんだけは休ませてください」
天城が「いや、やっぱ水曜日仕事しよう」と言いかけたのを打ち消すように、強い勢いで西中が言った。
岡崎は西中の勢いに押されて、軽くのけぞった。体勢を戻して訊く。
「落ち着いて話そう。どうしたんだ、急に。水曜日、なにがあるんだ?」
西中は嬉しそうに天城を指さした。
「天城さんがタートルリバーレに呼ばれたんですよ」
「ファン感謝デーでも当たったのか?」
苦々しく岡崎は言った。いまの若い奴はコンサートに行くために有給を申請すると、同業者が愚痴っていたのを思い出す。
「違いますよ。練習試合の選手として試合に出るんです。選手ですよ」
「天城が?」
西中がサッカーをしているのは知っていたが、天城がサッカーとは初耳だった。
「普通じゃありえないことなんですよ。ぼくは仕事でもいいです。社長、天城さんを水曜日に休ませてださい」
岡崎は天城を見た。
「天城のサッカーはそんなにすごいのか?」
「いや、自分はよくわからないです」
西中の興奮が空回りに見えるほど、天城は事の重大さを飲み込めていなかった。
「天城さん! 行かないと一生後悔しますよ。お願いです。行ってください」
西中がそんな天城を後押しするように力強く言う。
「おまえがそこまで言うなら」と天城が西中に言うと、天城は社長を見た。
「忙しいのは承知していますがすみません。明後日、休ませてください」
「タートルリバーレか。天城だけなら、まあ、わかった。大切な用事なのだろう。だが、西中も休むのは厳しいのはわかってくれないか?」
岡崎は西中を見た。ここで天城を休ませないと言って、辞めるといわれると松永鍛造みたいになるかもしれない。そこは譲歩する。だが、西中もいなくなると仕事が納期に間に合うのか、不安だ。
「大丈夫です。ぼくまで休むと、たしかに厳しいですもんね。ぼくは大丈夫です」
「わかった。明日工場長に言っとけよ」
「はい」
天城だけだが水曜日の休みは承諾された。
心花がバイトが終わって携帯を見ると、竹部からの着信が入っていた。知香子からも着信が入っている。なにか天城さんにあったのだろうか?
嫌な予感で胸騒ぎする中、まず知香子に電話する。
「ごめん、バイトに入ってたから」
「いいよいいよ。解決したし。結果的にうまくいってよかったね」
知香子がうれしそうに言うが、なにがあったのか心花は知らない。
「なんのこと?」
「あれ、天城さんから聞いていないの?」
「いままでバイトしてたから」
「そうだよね。じゃあ、天城さんに電話しなよ。わたしの電話、その用件だから。じゃあね」
そのまま、電話が切れた。
天城さんに電話をしようとして、心花は電話番号をまだ聞いていないことに気づいた。LINEから電話をしようとLINEを開く。開いた瞬間、「天城大輔」の名前を見て弱気になる。
電話をかけてしまったら迷惑じゃないかな。バイトが終わったのが23時だった。時計を見たら、23時20分だ。心花は「知香子が天城さんに何か聞いたほうがいいと言ってました。何かご存知ですか?」とメッセージに書いて送信した。自分でメッセージを打ちながら、本当にわたしは天城さんの彼女なのかと不安になる硬さだった。既読はなかなか付かなかった。
家に帰っても既読が付かなかった。もう寝てしまったのだろうか。心花は部屋で英語のノートを探しながら、ほぼ一分おきにLINEの画面とにらめっこしていた。日付が変わった。0時を越え、「いいかげん、お風呂に入って」と母親が文句を言う。風呂は明日の朝入ろうと諦める。寝るときに気持ち悪いなあと思う。そして0時4分にようやく既読がついた。
天城から返ってきたメッセージは絵文字の「?」と「なんのこと」というものだった。
カーっと頭に熱が上がった。余計なことをLINEしてしまったのか。事情を知りたいと慌てて知香子に電話をしたが話し中なのか、留守番電話サービスにつながった。どうしよう? どうしよう? スマホを持っている手が汗ばんできて、ディスプレイに汗の粒が浮かぶ。
直後に天城から「応援に来てね」という返信が届く。
心花はこっちが「なんのこと」とLINEを送りたくなってしまう。まったく事情が読めない。恐る恐る「電話していいですか?」とLINEを送った。「OK」というスタンプが返ってきたので、心花はLINE通話で天城に電話をする。
天城は会社の事務所でその電話を受けた。結局、24時まで仕事を追い込んでいたのだ。横では日報を書きながら、西中が知香子と電話で話している。
「あ、いま天城さんに心花ちゃんから電話が来たみたい」
西中が電話口の知香子に向かって話す。「応援に来てね」とLINEを天城に心花宛てに打たせたのも西中だった。
西中はスマホでタートルリバーレのサイトにアクセスして、水曜日の午前中は県社会人選抜とのTMになっていたことを確認していた。場所は県庁所在地にある県総合陸上競技場。トレーニングマッチが非公開ではないのを知り、ぜひ心花に応援に行ってほしかったのだ。まったく無名の選手なのに、県社会人選抜の選手としてタートルリバーレのトレーニングマッチに呼ばれることなど異例中の異例だ。そんなすごい舞台に立つ天城を心花に見てほしかった。
天城は電話を取ると心花に天城が「タートルリバーのトレーニングマッチに出ることになった」と言った。
タートルリバーレ亀川。Jリーグチームの名前を聞いて、心花はすぐにそのすごさがわかった。
「すごいじゃないですか。絶対応援に行きます!」
心花は自分のことのように喜んでくれた。
電話口から伝わる心花の喜びを感じ、天城は水曜日、会社を休んでトレーニングマッチに行くようにしてよかったなと思った。
火曜日、二時間残業の19時で天城は仕事を上がった。工場長は家庭の事情で先に帰ったが「タートルリバーレとサッカーをするのか」と年輩の工員たちも19時まで仕事をしてくれた。「ここのスリットと穴の工程はおれの機械に入れよう」「バリ取りはおれがするよ」「おれは急ぎじゃなくてルーティンのほうを片付けるわ」と普段は不満しか言わない年輩の五人が二時間残業に入ってくれたおかげで、予定では天城がしなければいけない仕事が先に進んだ。更に、天城が自分はまだまだだなあと感じたのが、天城がひとりで10時間やるよりも、年輩の工員5人が2時間ずつの計10時間のほうがスピードが速く内容が濃い仕事だった。天城がやれば15時間はかかる内容を、5人の工員は10時間で終わらせてくれた。それだけでも十分になのに「久しぶりだな」と、年輩の工員と天城が帰り支度を19時にしていたら、社長が作業服に着替えて工場に入っていったのだ。19時以降の西中の残業を手伝うつもりらしかった。社長が作業するのはさすがに年輩の工員のように早くはできないだろうが、会社全体で天城が明日休むのフォローしてくれているのが伝わってうれしかった。
「天城さん、早く寝て体調万全で臨んでくださいね」と会社を出る時、西中が言った。「緊張して眠れないんじゃないのか?」と年輩の工員にからかわれたが、月曜日に24時まで残業していた身体はたくさんの睡眠負債を貯めていたようで、午後9時過ぎに布団に入るとすぐ眠れた。心花と一時間も電話をしなければ、午後8時には眠れたかもしれない。
午前9時に陸上競技場の駐車場で竹部と待ち合わせをしていた。
「すみませんね、ご無理を言って」
それから競技場のロビーに入り、竹部から前田を紹介される。そのままロッカールームに案内される。県社会人選抜のロッカーは、タートルリバーレの試合でJリーグのアウェーチームも使う立派なロッカーだった。ロッカーの入口にはバナナや飲み物、栄養剤が置かれていて、まさにプロ選手のような待遇だ。「ご自由にお召し上がりください」と言われ、天城はバナナを一本もらう。
「今日の助っ人、天城大輔さんです」
ロッカールームには、今日の天城のチームメイトが集まっていた。
「監督の今福です」と監督を紹介される。「ども」「ちぃーす」と選手たちも口々に挨拶する。数えると選手は15人いた。選手たちはみな若く、ぱっと見ただけでも三十歳を越えている人はひとりもいないようだ。今福でさえ、天城より若く見える。また、天城は家からジャージを着て陸上競技場まで車でやってきたが、選手たちは私服で陸上競技場まで来て、ここでジャージに着替えているようだった。天城は結婚披露宴の二次会に私服で来たような気まずさを感じる。
「よせあつめの急造チームで、10月4日に福井の国体で試合をしてから久々に集まっているんで連携にかなり不安がありますけど、よろしくお願いします」
今福が天城にチームをそう紹介する。彼らが今月の頭に開催された福井しあわせ元気国体の県代表なのだと天城はいま知った。白いユニフォームは背番号しか書かれていないシンプルなものだったが、たしかにユニフォームの上に着ている長袖のジャージには背中に県名が書いてあった。
天城は不安になった。国体の選手と同じチームとか無茶も無茶だ。今月、この選手たちが国体に県の代表として戦っていた時に、天城はやっと生まれて初めてスパイクを履いたばかりなのだ。試合だって二試合、ハーフコートでやったことしかない。
だが、心花の「絶対応援に行きます」と言った言葉が頭によみがえる。いつもはしない残業をして仕事を手伝ってくれた年輩の工員、更には作業服に着替えて工場に入っていた社長の姿も思い出す。
彼らの期待を考えると逃げるわけにはいかない。
サッカーのコートがテープで貼ってあるホワイトボードの前で今福が話している。スタメン選手の名前を今福がホワイトボードに書いていく。
「キーパーは吉田、最終ラインが4バックで山口、大木、橋本、今村」
今福がホワイトボードに書いた名前を呼ぶと、着替えながら選手たちは返事をしている。
「ボランチが稲田と石川で、二列目が大田と立川、それでトップが藤崎と、左に天城さんでお願いします」
「はい」
天城だけ年齢が年齢だからだろう。さん付けだった。
着替えている途中なのか、上半身裸の男が「藤崎です。よろしくお願いします」と手を差し出してきた。身体付きはボディビルダーのように筋肉が張っていた。こんなのが敵じゃなくてよかったと思うものの、考えてみれば藤崎でもあくまで国体選手でアマチュアだ。相手のタートルリバーレはプロ。もっとすごいのかもしれない。
天城は不安しかなかった。
「9時半からピッチ練習できるから」と前田が言うと「もう9時半じゃないですか」と今福が笑う。ゴールキーパーの吉田がキャプテンらしく「行くぞ」と声をかけたら「おーっ」とユニフォームに着替えた選手たちが声を出してピッチに向かう。天城もそれについていく。天城の背番号は19番だった。
きれいに芝の刈り取られた県総合陸上競技場は、市民運動公園サブトラックとは比べ物にならないぐらい美しかった。競技場はこんなに美しいものなのかと思う。ピッチにはすでにタートルリバーレの選手がボールを使って練習している。練習と言っても部活のように規律あるものではなく、プロの余裕なのか、子供たちの遊びのように笑いながらボールを蹴りあっていた。
サーフェスを傷めないようにメインスタンド下の選手出入口からピッチまでは、緑色の厚いゴムシートが敷いてあった。県代表の選手たちがそこを走ってピッチに入る。選手の列の一番最後に天城は続いた。
「天城さんだ」
「本当だ、天城がいるよ」
「どれ?」
「19番」
天城が競技場に姿を見せた時、スタンドが天城の名を呼んでざわついたことに気づいた。天城は思わず振り返る。足が止まった。
スタンドに座っている竹部の横では、心花が手を振って天城を見ていた。思わず手を振り返す。その横には知香子がいた。ここまでは想定内だった。知香子の横には西中がいた。「おい、西中、仕事は大丈夫なんか?」と焦ったが、仕事どころではないらしい。その横には社長がいて、工場長と昨日19時まで仕事を手伝ってくれた工員5人も見に来てくれていた。天城はスタンドに向かって頭を下げる。
「天城、結局会社全員で応援に来たぞ」
社長が言う。
「ありがとうございます」
天城はもう一度頭を下げた。他の選手がピッチで円になっているので、急いでピッチへ走った。
試合前の練習はランニングからだった。
昨夜十分に睡眠をとっていたとは言え、天城はそのランニングだけで息が切れた。16人の選手が二人一組になってやるストレッチは、天城は藤崎と組んだが「いててっ」「いててっ」と言ってる時間のほうが、身体を伸ばしている時間より長いほどだった。
今福はそんな天城を、本当に大丈夫なのか、このおっさんという目で見ている。今福はJFLの社会人チームで活躍した選手だが、28歳に選手として引退した。その後、その社会人チームの親会社で働きながら、コーチとして経験を積み、三年前から社会人チームの監督をしている。その縁で国体の監督もやっているが、Jリーグで実績を残してるのならともかく、それまでまったくの無名で社会人で三十歳以上という選手はまず見かけない。二十代のうちにサッカー以外の夢を見つけているからだ。ましてや40歳越えの選手なんて。
しかし、ボールを持った練習になると天城の存在感は増した。パス練習では浮いたボールでも軽々とトラップして足元に収める。前田に「運動量は少ないけどフォワードで使えば必ず仕事をしてくれる」と言われてFWに起用したが、圧巻だったのはシュート練習だった。今福がどんなに強くボールを蹴ってもボールを逃がすことなく、豪快にシュートを放っていた。またそのシュートがどれも枠をとらえていて、キーパーの吉田は一本も止めれなかった。
キックオフ十分前にピッチ練習は終了し、今福は選手たちをロッカールームに集めた。
練習を見ただけで今福は天城を信頼していた。
「自由にやってください」
監督としての天城への指示はこれだけだった。
「はい」
天城は難しいことを言われてもなにもできないからとその指示を聞いて少し安心する。