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それぞれの価値感

 出勤途中にコンビニで買ったスポーツ新聞の一面は、クライマックスシリーズ下剋上だった。ノーヒットノーランした投手の躍動感あふれる投球フォームがカラーで掲載されている。缶コーヒーをすすりながら天城は会社の休憩所で新聞を広げる。出勤してきたばかりの工場長が、机を掃除している社長に「おはようございます」とあいさつをする。

 競馬欄は昨日秋華賞を制した馬と騎手の写真が載っていた。昨日の亀川競馬場の記事は隅のほうに3着までの馬の馬番と払戻金が載っているだけだった。ネットの競争成績でも順位表の一番下に「リップルランド 競争中止」と書かれているだけだから、当然記事などにはならないだろう。

「ぐっもーにん」

 出勤してきたばかりの西中が、タイムカードを押しながら天城にあいさつをしてきた。なぜか英語だ。天城が眉をひそめて西中を見る。「どうしたんだ」と訊こうと思ったが、その前に西中から口を開いた。天城に顔を寄せ、小声で言う。

「天城さん、一緒に英語を勉強しませんか? ネットの無料アプリもなかなか使えますよ」

「どうしたんだ、急に?」

 いつもiPhoneで競馬ばかりしている天城が言えた義理ではないが、スマホでモンストばかりしているのにと思う。

 西中は社長と工場長の姿がガラス越しに見える事務所を横目で見て、更に天城に顔を近づけ、声をひそめた。

「転職ですよ。昨日天城さんに言われて、知香子とも話して、ぼくなりに考えたんです。それで調べたらですね、英語が話せれば月収30万どころか40万ぐらいは出す会社があるんですよ。知香子が大学卒業するまで、あと二年半あるから、そのあいだに英語を覚えて転職すればいいじゃないかと。天城さんも心花ちゃんとうまくいったと聞きましたよ。天城さんも英語をしませんか?」

 その手があったかと天城は目を丸くする。

「いいな、おれも始めようかな」

 天城は素直に西中の若さからくる発想力、行動力がうらやましくなった。見習うべきところもあると感じる。そして便乗できるなら便乗しようと思う。

 心花と交際を始めた天城だが、昨日西中に先のことを考えろと説教しておきながら、天城は心花との先のことを何も考えていなかった。天城は返事をしたものの、19歳の女子大生から「好き」と言われることに現実感がなく、深く考えられなかった。また真剣に将来のことを考える前に、なんとなく数か月、長くても半年か一年で心花とは別れるだろうとも思っていた。泣く子も黙る19歳の女子大生が、おれみたいな四十過ぎのおっさんにいつまでも愛情を注げるわけがないからだ。心花ならいくらでも好きと言ってくれる男と出会えるだろう。その男の中には必ず天城よりも若くて魅力的な男もいるはずだ。心花はそういう男と結婚したほうがいいと思う。

 だが、心花のことは別にしても、英語を勉強して転職するという西中の発想は魅力的だ。たしかに西中に比べて年齢的なハンデがある。だけど十年近く問屋で営業マンとして働き、そのあと十年間は旋盤工として働いた経験が天城にはある。その強みに英語が加われば、たとえば製造メーカーの海外工場の営業マンなどに転職できるかもしれない。岡崎旋盤製作所は受け入れていないが、同業の工場には技能実習生と呼ばれる外国人が働いている会社も多い。町工場とはいえ国際化しているのは間違いない。英語ができればその波に乗れるかもしれない。とにかくこのまま旋盤を極めるより、英語を覚えたほうが未来が広がる気がした。

「このアプリおすすめですよ」

 西中がスマートフォンの画面を見せる。天城は App Storeで早速検索して、Wifi環境ではなかったがダウンロードした。



 事務所では工場長が社長に険しい表情を向けている。

「無理ですよ。天城や西中は昨日も出勤してたんですよ」

「しかし、無理だというのは簡単だが、顧客が注文してきたのだからそれに応えるしかないだろう」

 朝7時にFAXでまた短納期の注文が入ってきたのだ。社長は生産を段取りするように工場長に指示を出したが、工場長が拒絶していた。

「先週の特急品で天城も西中もルーティンの仕事が詰まっています。せめてあと二日、来週の火曜日の納めならば加工もできます。でも今週の金曜日までならば間に合わせる自信はありません」

 社長は左目をひくつかせていた。

「それをどうにか間に合うように段取りするのが工場長の仕事じゃないか。天城と西中が無理なら、他にも人がいるじゃないか。うまく顧客に迷惑をかけないように考えてくれないか」

「この量だと毎日5時間は残業が必要です。それをこなすのはあの二人以外にいないじゃないですか?」

「若手にばっかり頼らなくても、他に工員だっているだろう。工場長が残業してもいいんだぞ」

 社長は言ってから工場長を見る。机に置いていた缶コーヒーを一息に飲む。

「社長もご存知のように私は母の世話があるので帰らなければいけません。そんな状況ですので、他の工員さんを説得する自信は私にはありません。もし他の工員とおっしゃるなら、社長に説得していただけませんか?」

 工場長は要介護認定2の母親と同居していた。しかも昨年、妻が出て行ってしまった。母は、まだひとりで排泄ができるレベルではあるが、認知症の気配があるため、デイサービスから帰宅したあとやホームヘルパーが帰宅した夕方以降、工場長はなるべく母親と一緒に時間を過ごしていた。深夜に徘徊されて行方不明などになったら、本人もかわいそうだし、周りにも迷惑をかける。そのような状況であるから、いつも17時に工場長は退社をしていた。そんな工場長が、ベテランの工員に「遅くまで残業してくれ」と言えるわけがなかった。

「工場長、チャンスなんだよ。アベノミクスの効果が出てきて景気は緩やかに回復していると、三年前から言われ続けてたけど、同時に我々零細企業にはその実感がないとも言われてきた。それがやっと、うちみたいな零細企業にもこうやって景気のいい話が舞い込んできているわけじゃないか。働いてくれている工員の生活を守るためにこうして倒産することなく会社はやってこれたが、本音を言うとその経営状態は決していいものではない。火の車だ。だからこそ、こうやって仕事がある時に利益が確保できないと苦しいんだよ」

 利益はほぼ出てないが工員の生活を守るために倒産するわけにはいかない。

 それは社長の口癖だった。

 そして社長の息子が事業を継承するのを拒否して他の会社に就職したり、社長の奥さんがスーパーのレジにパートに出ているのを見て、たしかに利益がほぼ出ていないのも、会社の経営状態がいいものじゃないのも本当だと工場長は感じていた。

「わかりました」

 工場長は力なく言って頷く。壁に貼ってある「わたしは従業員みなさんの生活を守ります」という社長の宣言を工場長は見る。

 こうして今週も月曜日から天城と西中の残業は決定した。



 二限目の授業が終わった12時20分、知香子は授業中の12時に届いていた西中からのLINEを見て口唇を尖らせた。

「聞いた? 西中さん、今日は早くても午後十時までは残業だって。しかも木曜日までそれが続くって。昨日も午前中、日曜日なのに仕事に出てたんだよ。信じられない。ブラック企業すぎない?」

「今日も会うようにしてたの?」

 心花は月曜日は回転寿司店のバイトが入っていたので、天城と会う約束はしていなかった。

「うん。午後7時ぐらいからご飯食べに行こうって思ってたのに。西中さん、たぶん天城さんもだけど、働きすぎだよ」

「そうなんだ」

 昨日、心花は初めてふたりで天城と食事をした。でも、天城さんのお仕事のこと、聞いてなかったなと思う。天城さんも話してくれなかった。西中さんと天城さんが同じ会社なのを、知香子に言われて、そういえばと思い出したぐらいだ。西中さんの仕事に詳しい知香子をうらやましく見つめる。

「だからさ、西中さん、英語を勉強して転職すると言ってたよ。学校卒業して何年も勉強してないから、わからないとこは教えてねって言われちゃった。西中さんが天城さんにも英語の勉強するように勧めるって言っていたけど、心花も天城さんに頼まれたら力になったほうがいいよ。早く英語覚えて、いまの会社、辞めてもらったほうがいいから」

「そんなこと話していたんだ」

 心花はTOEICでいうと500点ぐらいしか英語力はないが、それでも現役の学生だからと言われると、なにか力になれる予感がした。天城に勉強を教える姿を夢想して、胸の奥がふわふわしてくる。

「心花からも、天城さんに英語の勉強をしましょうって話したほうがいいよ。早くいまの会社辞めてもらうために。それが絶対、天城さんにも、そして心花にもいいことだから」

「うん」

 学食の食券売り場の列に心花と知香子は並ぶ。心花は一年生の時に受けた英語のノートはまだ家にあったかなあと考えた。



 17時に終業のベルが鳴り、工員たちは帰り支度を始めていた。工場長も「お先に失礼します」と社長に言って帰る。工場では天城と西中が、今朝振られた仕事をこなすために二人で8台の機械を回していた。納期は週末で、まだまだ序盤戦だが、月曜日から追い込めるだけ追い込みたかった。

 松永鍛造の社長が岡崎旋盤製作所の事務所を訪れたのは18時を過ぎた頃だった。

「工場に電気が点いて残業してるじゃないか。いいなあ、岡崎さんところは景気が良くて」

「そんなんじゃないよ。頼まれたら断れないだけだよ」

 社長は事務所に置かれている応接机に座る。

「断れないとか言って贅沢だな。仕事があるだけいいじゃないか」

「なにがだよ。ろくな仕事なんかないよ。どこもしたがらないようなのを、しかたなくしているだけさ」

 社長は自嘲気味に笑う。半分は謙遜だが、半分は本音だった。

 大量生産で納期の長いものは、価格の都合でほぼ海外で生産される。高品質で付加価値の高いものは、資金力のある顧客が自社で最新型の機械を購入して生産していた。岡崎旋盤製作所に来る注文といえば、ややこしい加工や高い品質を求められる割には金額が高く取れず顧客が自社で生産できないものか、極端に短い納期で製作しなければいけないものが多かった。しかし、社長はそれが岡崎旋盤製作所の強みと勘違いしていた。よその会社がやりたがらないことができる。無茶な納期で工場長をはじめ工員の反発を買うことも小さい会社だから多々あったが、いまだってその厳しい納期に天城や西中が間に合わせてくれている。厳しい価格だって、人件費を含めたコストを低く抑えていることで他社ができない値段をクリアしているはずだ。そのため、そんな仕事が入ってくることこそ、自社の強みであるし、社長は自らの経営手腕だと信じてさえいた。

「おれ、今月いっぱいで会社たたむわ。いままでお世話になりました」

 松永はそう言うと深々と頭を下げた。吹っ切れたものの言い方だった。

「ほんとかい?」

 岡崎社長は驚いて目を見張った。工場から棒グラインダーでバリを取っている音が聞こえる。

「あとの引継ぎは坂脇商事に頼んでいる。商社だからどこか鍛造屋を知ってるだろう。なるべく岡崎さんには迷惑をかけなくて済むと思う」

 機械加工屋の岡崎旋盤製作所と鍛造屋の松永鍛造は、お互いに鍛造と機械加工で同じ鉄工所でも分野が違うため、バーターの関係があった。松永鍛造が鍛造した製品に、岡崎旋盤製作所が穴を開けたり溝を入れたりする。鍛造品に機械加工した部品というのは、建設機械や工作機械などで幅広く使われており、どちらが窓口でも、たとえば岡崎製作所が窓口になれば材料入荷先として松永鍛造に注文を出すし、松永鍛造が窓口だったら岡崎旋盤製作所に外注として発注するという仲だった。

「原因はなんなの? 年金生活でもしたかったのか?」

 松永鍛造の社長は今年66歳だ。たしかに事業を辞めてもおかしくない年齢だ。

 松永は「違うよ」と言って笑い、「いま流行りの人手不足倒産だ」と吐き捨てた。

 聞けば、工場は六十代の年輩の工員二人と34歳の若手ひとりで回していたらしい。バブル以前の中途退社入社組と、リーマンショックの就職難のときに入社した若手である。このような年齢構成の同業者は町工場には多い。なぜならば景気が良く、他に仕事があるのにわざわざ町工場の鉄工所を就職先に選ぶ人など少ないからだ。そして、6月頃、その34歳の若手がそれまで金色に染めていた髪の毛を黒く染めてきたそうだ。松永は彼に「結婚でもするのか?」と訊いたら、彼ははぐらかしていたが、年齢も年齢であるからそろそろ落ち着こうとしているのだろうと好意的に受け止めた。期待を込めて夏のボーナスも去年より二万も多く払ったという。松永の彼が身を落ち着かせようとしているという推理は当たっていた。ただ、盆休み前の8月10日、彼から「来月いっぱいで仕事を辞めたいんです」と言われることは予想もしていなかった。理由を聞くと大手建機メーカーが鍛造工を募集していたので、ダメもとで応募したら受かってしまったという。髪を黒く染めていたのはその就職試験の面接対策だったらしい。待遇を聞けば月収26万円、ボーナス夏冬二回各月給2か月分、年間休日135日。松永には彼を同じ条件で働かせることはできなかった。

 彼は9月で会社を辞めた。10月に入り、松永は残った六十代の工員二人を使いながら、残務整理と引継ぎをしているらしい。会社に借金があるので来月には自己破産をすることになると、松永は笑いながら話した。

「もっとも破産しても払わないのは銀行の借金だけだ。岡崎さんには10月のうちに買掛金は現金で持ってくるよ。だから、この話は内密にな」

 工場から天城と西中が機械を動かしている音が聞こえる。

「岡崎さんも気をつけなよ。いまの若い人は同じ会社に生涯勤めようなんて思ってないから」

 もし、天城と西中のどちらかが辞めてしまったら、それどころか二人とも辞めてしまったら、と考えて社長はぞっとした。

 事務所の壁には「わたしは従業員みなさんの生活を守ります」と書いた岡崎旋盤製作所の社長宣言が貼ってある。

 その宣言に嘘はなく、従業員の生活を守るために一生懸命やってきたつもりだ。

 だが、従業員は社長の生活を守る義務も責任もない。

 当然のことだが、改めて気づくと冷や汗が流れた。



 19時になった。

「休憩しようか」

 天城が言う。先週までの流れでは、この19時に休憩をしていると社長が缶コーヒーを買ってきてくれた。そのあと「がんばってくれ」と言い残して社長は帰宅していた。そのタイミングだった。だが、先ほどまで事務所に来客があったらしく、事務所の明かりが消える気配はない。コーヒーは期待できそうになかった。

 西中がスマートフォンを見ると、ダイヤモンドミラクルズの竹部より電話の着信が入っていることに気づいた。二週続けて竹部とはサッカーをしたが、今週末はダイヤモンドミラクルズとの予定は入れていなかった。ヨエーゼンとしても今週はサッカーをする予定がない。「なんだろう」とひとりごちて急に試合が入ったのかなと思いながら、リダイヤルする。

「西中くん、ごめん、天城さんの連絡先教えてもらえない?」

 西中は天城の名前を聞いて、合点がいった。今週末にも助っ人を頼みたいのだろうか。

「あ、いま横にいますよ。替わりますね。でも今週、土曜日はうちの会社は仕事ですよ」

 天城が断りやすいように西中なりに土曜が仕事だと釘を刺して、スマホを渡す。天城は作業着のズボンで手を拭いてスマホを受け取った。

「天城ですけど」

「天城さん、急で悪いんですが、水曜日、タートルリバーレのトレーニングマッチに出場してみませんか? 前田さん覚えてます? 日曜の試合でマッチコミッショナーされてた方なんだけど、ぜひプロと対決する天城さんが見たいとおっしゃってて」

 西中はトイレに向かう。天城が西中の電話で会話を続ける。

「水曜日はいまの感じだと夜の十時頃まで残業で動けないですね」

 そう言うと竹部がこともなげに言った。

「会社、休めませんか? トレーニングマッチは午前10時からなんです」

「いや、それは無理ですよ」

「そこをなんとか。タートルリバーレ、負けも混んでて苦しいからこそ、前田さんは天城さんみたいなベテラン選手の技術を見せて、はっぱをかけたいみたいなんですよ。仕事なんか、そういや西中くんと同じ会社なんでしょ。西中くんに任せとけばいいじゃないですか」

「いや、そういうわけにはいかないんです。申し訳ない」

 天城はそう言って電話を切った。トイレから戻ってきた西中にスマホを返す。

「竹部さん、なんのお誘いだったんすか?」

「タートルリバーレのトレーニングマッチに出てほしいって」

「え!」

 さすがの西中も口を開けて驚いた。

「でも、水曜日って言うんだよ。明後日だろ。しかも午前10時とか。平日は普通に仕事してるじゃないか」

「それで」

「もちろん断ったよ」

「え、ええー! だめですよ!」

 西中が大きな声を出す。

「有給取りましょう。できればぼくも有給取って休みたいです!」

「いや、おまえ、そうは言っても、おれら二人休んだら、この仕事どうなる?」

「どうにかなりますよ」と言って西中はまだ明かりがついている事務所を見た。

「ごーあへっど!」

 西中は立ち上がり、天城を促すように手を差し出した。

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