夢のようなことが起こらないのが現実のはずだ
ボール盤のハンドルを下げるとφ4.1mmのドリルがしゅるしゅるしゅると音を立てた。正午になり昼休憩のベルが鳴る。
「もうぶっ通しで終わらせようや」
天城が西中に言う。
西中はボール盤のハンドルから手を放して答える。
「ですね。自分はあと30分ぐらいなもんですよ」
「おれもそんなもんだ」
今日も亀川競馬場の1レースは14時50分だった。ナイター開催のため、スタートが遅い。家に帰って風呂に入ってからでも間に合うなと天城は思う。
天楽競馬で馬券は買えるのだが、それでも入場料を払って競馬場で馬券を買う楽しみには変えられなかった。競馬場に行けないときは天楽競馬で買っているしその手軽さはありがたいが、やはり競馬場で馬券を持ってレースを見る醍醐味には適わない。一度、天楽競馬のポイントを貯めるために競馬場で競馬を見るものの、iPhoneで天楽競馬につないで馬券を買ってみたことがある。だが、馬券を手に持っているときの緊張感や、払い戻しの高揚感は、ネットではなくリアルに競馬場で馬券を買わないと味わえないものがあると天城は感じていた。
ようやく最後の一本の穴を通した。先週の月曜日から丸々一週間、短納期からクレーム対応まで悩ませてくれた仕事が終わる。φ4のピンを通して検査をする。無事に穴が通った。問題ない。
「天城さん、終わりました?」
一足先に仕事を終えていた西中が切粉を掃除している。「ああ」と答えながら天城は箒を取る。
「これから心花ちゃんとお食事ですか?」
西中が訊いた。
天城が驚いて「えっ」と声を上げる。
「おれは競馬に行くけど。おまえはあの、諏訪さんだっけ。あの人と今日も会うの?」
「はい。さっきLINEしたら午前中陸上の練習が終わったらしくて」
今朝、言ったことを忘れたのだろうか。しかし、昨日も会って今日も会うとは、お互いよほど気持ちが合ったのだろう。
「そうか」
陸上の練習と聞いて、先週の市民運動公園のサブトラックを思い出した。ふと、あの日、時々目があっていた女子大生が、今考えると崎津心花だったよなあと思う。あの子を眩しく眺め、もう一生ああいう子に好意を持たれることはないなと思ったものだ。まだ、あれから一週間なのか。
「心花ちゃんもいると思うから聞いてみましょうか。今日こそ一緒にご飯食べたらいいじゃないですか。ご飯だけでも心花ちゃん喜ぶと思いますよ」
「おれはいいよ」と天城は言いかけたが、西中は話しながらLINEを打っていた。
時計を見るとまだ12時40分だった。仮に13時に会って飯を食っても一時間ぐらいなものだろう。競馬には間に合う。
そう考えると、心花と食事をするのも悪くない気がしてきた、西中のように下心があるわけではない。だが、なんだかんだ言っても女子大生と食事をすることなど、これから先ない可能性のほうが高い人生なのだから、そういう経験をしてみるのもいいなと思うのだ。天城は中年男性にありがちなお金を払ってでも若い女性と話したいというような欲求はあまりないほうだったが、それでも一緒に二人で食事をしてくれる女子大生がいるというのはなにかうれしかった。
しかし、その気分はすぐに打ち破られた。
「あ、心花ちゃん、今日休みみたいです」
「体調、昨日から悪かったのかな?」
天城は少し心配になる。たしかに昨日、知香子に比べるとずっと心花は口数が少なかった。食事も誘ったけど、来なかった。性格だと思っていたが体調も悪かったのか。
「わかんないっすね。仲良しみたいだからあとで知香子に聞いてみますね」
西中はこれから知香子と食事をするということで浮足立っていた。一分でも早く会社を出たそうだ。
「おまえ、終わったならあとはおれが掃除して会社を閉めとくから帰っていいぞ」
「ほんとっすか。ありがとうございます」
西中は、文字通りロッカーに飛んで行った。天城は床の切粉を掃く。
体調が悪いのかな。
気づいたら心花のことを考えていた。
14時58分、無情にも試合終了のホイッスルが吹かれた。
タートルリバーレ亀川の選手たちは、県総合陸上競技場のピッチに倒れこんだ。先月から六連敗中でチームはJ2リーグで20位まで順位を落としていた。J3降格圏内の21位のスパタラソ別府とは勝ち点差2。そのスパタラソとのホームでの直接対決。前半18分にタートルリバーレはFW江上選手のゴールで先制するが、それからずっと守り続けていた後半43分、DFのクリアボールの処理の誤りから失点すると、アディショナルタイムの後半47分にペナルティエリア内でのDFの不運なハンドでPKを取られて失点して、まさかの敗北となった。これで順位もスパタラソに抜かれ、J3降格圏内の21位に転落してしまった。
試合終了とともに、2400人の観客が入ったスタジアムは大きなブーイングに包まれた。別府から応援に来ている30人ほどのスパタラソサポーターの喜びの声、ネット中継されいるスパタラソの選手のヒーローインタビュー、それらが掻き消えるほどのブーイングだった。
陸上競技場のロイヤルボックスで試合を観戦した前田はハンカチで汗を拭く。
南監督をはじめ、リザーブの選手、コーチが、熱狂的なファンがチームカラーの水色に染めたゴール裏の前に一列に並ぶ。
ブーイングは一段と大きくなる。
「おまえらそれでもプロかよ!」
「今日がどれだけ大事な試合なのか、わかっているのか!」
その声はメインスタンドのロイヤルボックスまで届いていた。前田は唾を飲む。今日の試合がどれだけ重要か、またこの敗戦がどれだけの苦しい現実なのか、サポーターもわかっているように選手や監督、スタッフだってわかっている。だが、勝負の世界は気持ちだけで勝てるほど甘くないのだ。どこかのチームが必ず降格するのがJリーグのルールである。J2に限らず、J1だって順位が下がると降格する。そのルールの中で戦っている以上、負ける時もあるし、下部のリーグに突き落とされることがあるのはしかたがないことなのだ。
タートルリバーレがJリーグに加盟した当初は、Jリーグは2部制だった。Jリーグ加盟当初にクラブの職員になった前田に、サポーターたちは「地元にJリーグができたことが誇りだ。弱くてもいいから、地元の人に愛されてほしい」と熱心に語っていた。当時からとてもJ1を目指せるような規模のチームではなく、それでも応援し続けるモチベーションとして彼らは地元に愛されてほしいと語り続けていた。だが、Jリーグが三部制になり、J2といういまの地位が脅かされそうになると、サポーターたちは弱い現在の状況に不満を持つようになってしまった。かつては最下位になり惨敗しても、試合終了後にはサポーターたちは選手を拍手で迎えたものだ。しかし、J3の降格制度ができたいまや、ゴール裏に目をやると「南監督解任希望」「やる気のないチームは愛されない」と言った過激な横断幕をサポーターは掲げていた。
「おれたちだって勝ってほしいんだよ」と独り言を呟いて前田はため息を吐く。
バカ、これじゃストーカーみたいじゃん。
心花は天城の家の前に来てしまった。秋の夕暮れは灰色の空が赤く染まり、空気が肌寒い。
せっかくの日曜日だったが、心花はこの時間までなにもしなかった。陸上部の練習も休み、ベッドでただただ横になっていた。
LINEを見ると、知香子は西中さんとうまくいったようだ。昨日の帰りまで、心花は二人があんなことになるなんて思ってもなかった。
たしかに「天城さんといる若い人もかっこいいよね」と知香子が言っていたような気はする。「サッカーを趣味にしてる大人とか素敵だよね」というのも聞いた。先月に高校の時から付き合ってた彼氏と別れたのも知ってる。
でも、不思議だ。
西中さんから見ると、わたしたちはまだとても子供と思われている気もしてた。それに西中さん、もてそうな感じがする。
そんな西中さんがあんなに早く知香子に心を許すなんて。
不思議だ。でもそれならば、わたしにだってチャンスはあるのかも。
西中さんに比べて、たしかに天城さんはわたしたちに優しくない。
昨日、わたしたちの姿を見て、すぐに話しかけてくれたのは西中さんだった。試合にずっと出ていたから疲れていたのかもしれないけど、河川敷でも車の中でも、話して和ませてくれたのは西中さんだった。
でも、わたしは天城さんが好きなんだ。
その気持ちを伝えたかった。
心花は、天城の家のガレージに車が止まってないのを見て、待っていようと思った。
昨日、西中さんは知香子を車に乗せたまま、この家の前で天城さんとわたしを降ろした。そのときは、天城さんと二人になりたいわたしに気を使って降ろしてくれたと思ったのだけど、本当はあの二人がふたりっきりになりたかったのかもしれないと思う。
家族がいるらしく、天城の家からはテレビの音がかすかに聞こえている。でも車がないから天城さんは中にはいないと心花は思ってた。
鳥が遠くで鳴く声が聞こえる。車の音が聞こえてくるたび、激しく鼓動がし、胸が締め付けられた。
亀川競馬場ではGⅠレースのみ、中央競馬の馬券が買える。モニターで見た京都競馬場の秋華賞。天城の馬券は当たらなかったが、たまに中央競馬のレースを見るとモニター越しでもその華やかさに圧倒される。同じ競馬なのに、きれいに整えられた芝、ファンファーレに合わせて手拍子する十万人以上の観客、生で見たら感動するんだろうなと思った。
とはいえ、聞くところによるとGⅠレースを見るならば前日の夜から競馬場に並んでいないと見られないらしい。また、GⅠレースは東京や関西、名古屋などいわゆる大都市でしか開催されていない。そのため、自分がこの目でG1レースを見ることはないだろうなとも天城は思ったてい。
そして天城は専門誌を片手に、パドックへ向かった。17時25分スタート予定の亀川競馬場第7レースはサラ系C2クラスの28組だった。赤い面にブリンカー、6番のゼッケンをつけた8歳馬リップルランドを天城は見る。天城は今日の目当てはこの馬と言っても過言ではなかった。いまやC2クラスだけど、5歳のときにはオープン手前のB1クラスまで上がった馬だった。亀川競馬では年齢と直前の成績でクラス編成の見直しが年に二回ある。先月までリップルランドはC1クラスで戦っていたが、10月のクラス分けでC2クラスに降級になった。亀川競馬の一番下のクラスである。その中でも32組まで馬は組み分けされているが、先週、C2クラス14組でリップルランドは4着に沈んだ。先週は2番人気で楽勝だろうと予想した天城も厚く馬券を買っていたが、出遅れたのだ。ただ、出遅れ後の脚を見ていればまだまだ走れると思った。そこで今回は狙っていたのだ。前走、4着に負けたとはいえ、相手関係が弱くなるので印をつけている新聞も多く、3番人気だった。それでも単勝オッズは11.2倍。天城は他の馬と見比べて、このレースはリップルランドの楽勝だろうと思っていた。なお、秋華賞も含めてここまで天城は一度も馬券が当たらず、18000円負けていた。ここで取り戻したい。天城は自動券売機に行き、リップルランドの単勝を5000円買う。
投票締め切りのベルが鳴り、ゲートの奥で輪乗りをしていた馬たちがゲートに入る。秋華賞のような生演奏ではなく、テープに録音されたチープなファンファーレが流れる。捨てられた馬券が秋の風に踊っている閑散としたスタンド。ゲートが開いてレースがスタートした。
「よしっ!」
天城は小さく拳を作った。前回出遅れたので心配していたリップルランドだが、今回はスムーズにスタートした。1300mだ。逃げれる。先頭を走って、コーナーを回る。向こう正面に馬群が動く。向こう正面でもリップルランドは加速をして二番手以降を2馬身ほど離した。
このまま行ってくれ。
そう天城が思ったとき、リップルランドが失速した。馬群に吸い込まれていく。後続の馬がリップルランドをよけながら抜いていく。モニターは先頭の馬を映している。天城はスタンドを駆け上がり、向こう正面を肉眼で見た。騎手はリップルランドから降りていた。リップルランドの左足が折れているのが見えた。
「まじかよ」
天城はスタンドの座席に座り込んだ。
天城は競馬ファンだから知っている。馬は足を骨折すると生きられないのだ。騎手の顔を見ながら首を動かしているリップルランドだが、このあとすぐに安楽死処分されるだろう。
先頭は最終コーナーを回って直線に入る。
「おいっ」「ちきしょう」「いけっ」口々に馬券を買った男たちの声が響く。
リップルランドがゴールできなかったゴールに、他の馬がすべて入線すると、向こう正面にトラックが入った。天城はスタンドに座ったまま、リップルランドがトラックに積まれている姿を見ていた。実績なら楽勝のはずの先週の出遅れ、そして今日、リップルランドの脚は、毎週のレースで相当疲労が溜まっていたのだろう。専門誌に書いてある調教記事に「6番 リップルランド 連闘のため軽め」の文字を見て、無理してレースに使わなくても良かったんじゃないかと思う。パドックで見たリップルランドの目を天城は思い出した。親しい友人を亡くしたように胸が痛い。
リップルランドを乗せたトラックが、向こう正面から競馬場の外へ出ていった。4歳のときに亀川競馬場に転入してきてから、何度も天城が応援したリップルランドとこれが永遠の別れになった。
負けも混んでいたが、もう今日は競馬をする気持ちにはなれなかった。
3歳馬の地方競馬の重賞の多い日でもあったが、天楽競馬を見る気も起きないだろう。17時半、この時間に帰ってきたら母親は夕飯を用意してくれるだろうか。そんなことを考えながら、天城は競馬場を出た。
秋が深くなり、車に乗ったら、ヘッドライトを点けないと運転ができないほど真っ暗だった。
家の前に差し掛かった時、天城は人影が見えてスピードを落とした。それから車をガレージに止めようとハザードをつけて道幅いっぱいに振る。そのとき、そっとその人影が近づいてきた。一瞬、天城はなにか車で当ててしまったのかとびっくりしたが、その人の顔を見たら、落ち着いた。窓を開ける。
「崎津さん?」
心花ちゃんと呼ぶのは馴れ馴れしい気がした。苗字で呼ぶ。
「はい」
暗がりでもわかる白い歯を心花は見せた。
「どうしたの?」
「昨日、ご飯を食べに行こうと天城さんが言ってくださったけど、昨日はお腹が減ってなかったら帰ったんです。でも今日はお腹が減ったから」
胸の前に手を置いて、心花は待っているあいだにずっと考えていたことを言った。
「なんだそれ」と天城は笑ったが「乗りな」と言って、車のロックを解除する。心花が助手席に乗る。天城はハンドルを握り、車を郊外店の飲食店が並ぶ国道へ走らせる。
「体調悪かったんだって?」
運転しながら天城が訊いた。心花はきょとんとする。
「え?」
「陸上の練習休んだんでしょ」
「あー」と言いながらも心花はいやな気分にならなかった。少しでも、天城さんがわたしのことを知ってくれていることがうれしかった。
「昨日、天城さんのサッカーを見てて興奮しちゃったみたいで」
車が赤信号で止まる。天城は心花を見る。心花は顔に熱が上がるのを感じた。
「あのさ、おれのサッカーってそんなに見てて楽しいの? 昨日も三本目のとき、竹部さんに途中で変わりたいって言ったら、言われたんだよね。天城さんがいるから相手チームも試合をしたがってるって。おれさ、サッカー全然わかんなくて、スパイク履いたのも昨日で二回目なんだよ。それなのに周りがあんなにおだてるのがよくわからないんだ」
心花はシフトレバーに置いている天城の手に手を乗せた。
「天城さん、お願いがあります」
「ん?」
「わたしには嘘をつかないでくれませんか? みんな言ってます。天城さんは言えない過去があるんだろうって。大人だから過去があるのは仕方ないし、そのことを全部教えてほしいとは言えません。でも、嘘はつかないでくれませんか?」
信号が青に変わる。天城は両手でハンドルを握るために心花の手を解いた。
「まいったなあ。嘘ついてないんだよ、これが」
「でも、サッカーを始めたばかりであんなに上手いの、おかしくないですか?」
「だからよくわかんないんだよ。……ねえ?」
「え?」
天城が念を押すようにもう一度「ねえ?」と訊く。心花は「はい」と答える。
「みんなって言うけど、おれが言うことと、そのみんなの言うこと、どっちを信じる? おれは崎津さんにはおれの言うことを信じてほしい」
「はい」と心花は真剣な顔で返事をして「信じます。だから、もう一個、お願いしていいですか?」
「なに?」
車は左折をして片側二車線の国道に入った。街灯や店舗の明かりが車内を照らす。信号で車が止まる。天城は心花を見た。
「断ってもらってもいいです。でも、本音は断ってほしくないです。わたしを彼女にしてくれませんか」
冗談ではないのは天城もわかっている。香水もつけていないおとなしくまじめな子。それが天城の心花の印象だった。
天城は一度目をそらして、信号を見る。
「崎津さんってお母さんの歳わかる?」
「えっと、昭和50年生まれです」
「43歳か。なるほどなあ。おれ、昭和51年生まれの42歳なんだよ」
心花が鼻を一度すすって天城を見る。目が潤んでた。
「やっぱりわたしって子供ですか?」
天城は首を振った。
「そうじゃない。そうじゃなくて、おれがおっさんすぎないか?」
この歳で19歳の女の子に告白されることがあるなんて、天城は思っていなかった。芸能人があまりにも若い奥さんをもらって振り回されている姿をネットで何度か見たことがあり、そういうことへの抵抗もあった。それでもこんなに若い素敵な女性から告白されたことは夢のようだった。だけど、夢のようなことが起こらないのが現実だと、天城は長い人生経験から信じていた。
「わたし、天城さんが好きなんです」
「ありがとう」
信号が青に変わる。天城は車を発車させる。
「とりあえず、飯食う時にLINEの交換をしようか。どこか行きたいところある?」
心花は返事が欲しかった。
「あの、お返事は。わたし、天城さんの彼女にしてもらいたいです」
天城は軽く言うことを心掛けて言った。なんとなく、自分があまりのめりこまないようにそう言いたかった。
「うん、よろしく」
心花は、これはオーケーなんだとかみ砕くようにゆっくり理解した。
「腹減ったな。どこ行こうか?」
心花に「好き」と言われてから、天城は口調を少し乱暴に変えていた。
女性の前では気取った口調を無意識にしてしまうのが男である。それはもちろん大切なことであるが、天城の経験上、彼女になった人には自分を飾らないように心がけていた。その天城の態度の変化を見て「あいつは釣った魚に餌をやらない」と怒った女の人も若い頃にはいたけれど、結果的には飾ってしまうと息苦しくなってしまい、持たないのだ。もともとが品性の高い人間なら彼女にもそういう態度が取れるのだろうが、友人よりも大事な人になってしまうと、ありのままの自分で付き合わないと長持ちしないことを天城は知っていた。といっても、気づいたのは何度か恋愛に失敗したあとの25歳のときだったが。
「あの、実は行きたいとこあるんですけど」
心花が小さな声で言う。天城は心花にも飾ってほしくなかった。
「もう彼女になったんだから、あんまり敬語とか使わなくていいよ」
心花が、くすっと笑う。
「そうですね。あ、くせになってる。あの、わたし、おうちの前で一時間ぐらい天城さんを待っていたから、お手洗いを我慢してて、お手洗いに行きたいんですけど」
「あ、じゃあ、急がなきゃ」
言ってから天城が笑った。心配しなくても心花は飾らない子でいてくれそうだ。
天城はすぐにウインカーを左につけて目の前のパスタ店に車を入れる。