思い通りにはいかないのが人生だ
心花はうっとりして天城を眺めていた。手には天城のジャージのぬくもりが残っていた。
「天城さん、パスもトーキックなんすね」
ウオーミングアップ、パスを受けた山下が言うと、天城は舌を出した。
「忘れてた」
言いながらパスを受け、インサイドキックで山下に返す。三脚に乗せたビデオカメラの前で竹部が「天城さん、またとぼけてる」と言う声がビデオに録画される。
センターサークルで笛が吹かれる。第一試合を終えた両チームの選手のうち、三人が審判として立っていた。
「ちょっと行ってきますね」
山下がセンターサークルに向かう。竹部が試合に出ないため、ゲームキャプテンは山下だった。教員クラブのキャプテンもセンターサークルに向かう。教員クラブのユニフォームカラーは水色。そのため西中は水色がチームカラーの、県唯一のJリーグチーム、タートルリバーレ亀川のユニフォームを着ていた。年に一、二回ぐらいしか試合を見に行くことはないが、タートルリバーレの観戦用に買ったものだ。そんなユニフォームでも、ダイヤモンドミラクルズがオレンジだから、教員クラブにはよくなじんでいるように見えた。ただ、背番号はタートルリバーレのエースストライカー、江上選手の11番だが、他に教員クラブに11番をつけた選手がいるので、そこだけがややこしい。同じ背番号の選手がふたりいる練習試合ならではの光景になっていた。
「本日の試合は、ダイヤモンドミラクルズの5対0の不戦勝でよろしいですね」
主審が両チームのキャプテンに言う。教員クラブが登録選手を8人揃えられなかったため、そうなるルールなのだ。「はい」とキャプテンたちが返事をすると、主審は二人の線審を引き連れて県サッカー協会のテントに向かう。キャプテンもそれについていく。
「ダイヤモンドミラクルズの不戦勝です」
主審がマッチコミッショナーの県サッカー協会の職員に告げた。両チームのキャプテンがスコアにサインをする。前半ダイヤモンドミラクルズが5点を入れて、あとは0点の5-0のスコアだった。主審がサインをして、マッチコミッショナーにスコアを渡す。
「承りました」
マッチコミッショナーはクリアファイルにスコアを挟み、鞄の中に入れる。これから先は練習試合になるのでマッチコミッショナーがここにいる必要はない。
竹部はマッチコミッショナーの仕事を終えた県サッカー協会の職員を見る。何度か話したことがある前田さんだった。竹部はカメラから離れ、前田に話しかけた。
「前田さん、あのレアルのユニ着てる人見たことないですか?」
前田は高校の体育教師をしながら、Jリーグの審判もやっていた男だ。その経歴を買われ、タートルリバーレがJFLからJ2に昇格した年にタートルリバーレの職員に転職した。県サッカー協会の職員も兼任している。天城が元Jリーガーならば、前田にわかるかもしれない。
「どちらですか?」
前田はきょろきょろとピッチを見回す。レアルのユニと言われたとき、竹部の言うレアルがレアルマドリードのことなのは前田にもわかった。ただ、前田がイメージするレアルマドリードのユニフォームはホームの白だった。
「あのオレンジのユニの背番号のない人ですよ」
竹部が天城を指さした。天城はFWの選手と軽くボールを転がしていた。前田がその顔を見る。
「……わからないですね」
「おわかりになられないですか? もっと近くで見らえませんか?」
竹部の声には力がこもっていた。前田は首を振る。
「いや、わからないですね。この方がどうかされたんですか?」
竹部の興奮具合に前田が思わず訊いた。
「たぶん、元Jリーガーと思うんですよ。プレーの質がぼくらとは全く違うんです。だけどご本人は、サッカーをこれまでやったことがないとおっしゃってて、でもどう見てもそんなはずないんですよ。だから、Jリーグでレフリーをされてた前田さんならばご存知じゃないかと」
前田はボールを転がしている天城の太ももを見る。困ったように襟を掻いた。
「あの選手がエンジョイリーグレベルでどれほどのスタープレイヤーかは存じ上げませんが、こんなことを申すのはあれですが、サッカーでメシを喰っているプロ選手というのは、たとえJ3でもこの中に入ればバケモノですよ。申し訳ないですが、あの選手の太ももを見る限り、とてもプロでやっていけたようには思えません。ましてやフィジカルだって、あんな身体じゃすぐに骨折しますよ」
「そうですか……」
竹部はJリーグの選手は、スタンドから観戦したことしかなかった。たしかに天城の太ももは、山下と比べても筋肉の付き方が、フランクフルトと焼き鳥ぐらい違った。前田さんの言うことも一理あるなとは思う。
笛が吹かれ、練習で蹴っていたボールがピッチサイドに転がってくる。ピッチサイドのダイヤモンドミラクルズの控えの選手がそれを拾う。センターサークルに主審がボールを置く。山下がコイントスに勝ったらしく、教員クラブのキックオフで試合が始まった。サッカーのコイントスは、勝ったほうが場所を選び、負けたほうがキックオフをするからだ。
「最初の一本目だけでいいんで見て行ってくれませんか」
竹部が前田に頼みこむ。前田はロレックスの腕時計をちらりと見た。
「そこまでおっしゃるのなら」
そう言うと前田はテントに戻った。
主審の笛でプレーがスタートする。教員クラブはキックオフすると、ボールを自陣に下げ、パスを回す。ダイヤモンドミラクルズの守備の出方を確認しているのだ。パスを回しながら、少しずつ全員で上がってきていた。ダイヤモンドミラクルズも最終ラインを上げて応戦する。
天城とマッチアップするのは背番号8の色の黒い選手だった。彼の足元にパスがいくが、天城が近づくと彼はすぐにボールを別の選手に出した。
山下の前にいる教員クラブの10番の選手がボールを持つと、西中と背番号がダブってややこしい11番の選手が手を上げる。10番の選手が11番の選手へ、鋭いグラウンダーのパスを出す。ダイレクトで11番の選手はシュートを放った。シュートはゴールの枠の外に飛ぶ。「ナイスパス」「オーケー、シュートで終われた」、教員クラブの選手たちは手を叩いて称え合っていた。
ディフェンスの位置に戻ろうとしている西中と天城がすれ違う。天城が訊いた。
「もしかして教員クラブって強いのか?」
「強いですよ」
西中が当然のように答えた。
「天城さん、キックオフに入ってもらっていいですか?」
センターサークルで山下が手招きする。
「相手って強いんですか?」
山下にも訊いた。
「強いですよ。去年、うちは4-0で負けましたから」
主審が笛を吹く。山下がボールに触って、天城にボールを託す。
竹部のカメラが天城を追う。心花もスマートフォンのカメラで天城を撮影した。やっぱりかっこいい。
天城のボールを取ろうと相手の8番が向かってくる。三列目のDFの選手が横に走ってきたので天城はダイヤモンドミラクルズの9番の選手にパスを出した。教員クラブの8番の選手は天城のパスを追うように9番に向かって走る。9番の選手はDFを背負っているので前を向けず、ボールは天城に戻ってくる。天城はそのボールをすぐに山下に回す。やっぱり試合が始まり、ボールが近くに来ると天城の世界はスローモーションになった。
前線に走っていた教員クラブの8番の選手が、マークをするために天城のところに戻ってくる。山下が「天城さん、走って」と叫んだ。9番の選手がペナルティエリアの入口で手を上げている。天城もペナルティエリアに向かう。
山下のパスは9番の選手に通らなかった。9番の選手の前に身体を入れた西中が弾いたのだ。こぼれ球をキーパーが拾った。キーパーがボールを、天城と一緒にペナルティエリア付近まで来ていた8番の選手に転がす。
天城は横の山下を見てラインを下げる。8番の選手はパスをするか、ドリブルを続けるか一瞬考えた。相手の10番の選手がボールを欲しがるように手を上げる。
「ボール取りにいっていいですよ」
山下が言う。
マッチアップしてたのだから、8番の選手に身体を寄せなければいけなかったのか? はっと思い、天城は8番の選手に走っていく。8番の選手はボールを足首の後ろに一度回すフェイントをして、10番にボールを出そうとした。だが、8番の選手の足元にボールはなかった。向かってきた天城がボールをドリブルしていた。
天城にはダイヤモンドミラクルズの9番の選手が見えた。直感で9番とゴールキーパーの間にボールを落とす。美しいパスだった。第一試合を終えた選手たちまで、そのパスを見て歓声を上げる。
9番の選手はボールを柔らかくトラップする。シュートをしようと足を振り上げた瞬間、しかしシュートは打てなかった。教員クラブの2番の選手が9番の選手の背後に体当たりをしてきたからだ。審判が笛を吹く。「PKだ!」と山下が叫んだ。
後ろからのタックル、しかもボールではなく身体をめがけて。誰が見ても明らかなPKなのに教員クラブの2番の選手とキーパーは「そんなに強く当たってないでしょ」「ボールいってますよ」と抗議する。審判に言っても判定は覆らず、山下が落ち着いてPKを決めてあっさりダイヤモンドミラクルズは先制した。
「おい、油断するなよ」
「ああ」
教員クラブの10番と8番の選手が言いながらキックオフする。山下が「前からボール取りに行きましょう」と言う。山下が相手の10番にプレスをかけると、10番の選手が8番の選手にパスを出した。しかし、そのパスは8番の選手まで届かなかった。天城がインターセプトしたからだ。天城がボールを持った瞬間、ダイヤモンドミラクルズの選手が相手陣内に走りこむ。やはりダイヤモンドミラクルズの9番の選手の足は速く、味方ならば心強かった。天城は初めて試合をした時にこの9番の選手のせいでくたくたになったものだ。その9番の選手に天城はパスを出そうとしたそのとき。
どん!
背中に激しい衝撃がして、気がついたら天城は芝生の上に転がっていた。相手の8番の選手が斜め後ろから肱で天城を押し倒したのだ。副審が大げさに旗を振り、主審が笛を吹く。「いまの危なくないですか!」、主審に詰め寄る山下。主審は「ボールに対してプレーをしてください」と8番に注意する。8番の選手は「ボール見えたんですけどね。厳しくないですか、今日」と主審に笑いながら言う。
山下のフリーキックで試合は再開した。山下は9番の選手を目指してボールを蹴ったが、教員クラブの選手がヘディングでクリアし、ルーズボールを教員クラブの10番の選手が拾った。たまたま10番の選手の近くにいた天城がボールを取りに行く。慌ててパスを出そうとしたが、ボールはすでに天城の足元にあった。
天城はドリブルで前に進んだ。先ほど注意を受けたのか、8番の選手は横からタックルをしてきたので、天城は飛んでそれを交わした。故意に肩をぶつけてこようとするディフェンスの選手も正面からくるので、スローモーションで交わせた。天城はキーパーと一対一になった。落ち着いてシュートを打とうとしたら、また、どん! と後ろから衝撃が来て、天城は芝生の上に転がった。主審が笛を吹く。見ると教員クラブの8番の選手が大げさに手を振って否定している。
「ないですよ。そんなに相手ばかりPKやらないでくださいよ」
山下がPKで2点目を決めた。
教員クラブのキックオフで試合は再開する。すでに天城の実力を感じたのか、教員クラブは8番の選手と三列目の4番の選手の二人が天城をマークした。天城はボールが近くにない時ははあまり走らない。実際は42歳、体力的に考えて走れないのが正しい。相手の10番の選手を山下がサイドまで追いつめてスローインになる。4番と8番の選手を天城が背負っているおかげでダイヤモンドミラクルズは数的優位になっている。山下のパスを9番の選手がヘディングして3点目が入った。
今度は4番の選手は10番と一緒に山下のマークに入った。
「ちきしょー、中盤支配されてる。立て直すぞ」
教員クラブの10番の選手が言う。声が苛立っている。
キックオフのあと、天城は軽々と8番の選手からボールを奪う。左をオーバーラップしてきたダイヤモンドミラクルズの2番の選手にボールを出そうとしたら、膝を上げて飛び蹴りのように後ろから飛びかかってきた8番の選手にまた倒された。主審が笛を吹く。
「いいかげんにしろよ!」
笛の音と同時に8番の選手につかみかかったのは教員クラブの選手である西中だった。山下が西中をなだめる。
「わかったから西中くん」
主審はポケットからカードを出した。赤いカードだった。
「はあ?」
8番の選手は主審に詰め寄った。
「当たっただけじゃないですか。ボールに行って当たっただけでしょ」
「ふざけんなよ。身体を当てにいってたじゃないか!」
山下の静止を振り切り、8番の選手の襟元をつかんだのは西中だった。そのまま勢いで8番の選手を突き飛ばす。
主審が笛を吹いて、西中にもレッドカードを出した。
「え? 同じチームですよ」
教員クラブのキャプテンが慌てて主審に言う。
「あなたたちみたいなラフプレーの集団と同じチームなわけないだろ」
西中はそう吐き捨てると、ピッチサイドに歩いて行った。教員クラブののシートに置いている荷物を持って、ダイヤモンドミラクルズのシートに向かう。
ピッチの空気は凍りついている。
「練習試合なんだからもっと練習になるような試合をしましょう」
山下がなだめるように教員クラブのキャプテンに言う。
「ですね。レフリーも冷静にお願いします」
教員クラブのキャプテンが10番が主審に対し釘を刺すように言った。顔をひきつらせた山下が、天城が倒された位置にボールをセットする。
「レフリー!」
竹部がピッチサイドで叫んだ。
「天城さんと交替」
レフリーが両手で手首を回して交替のポーズをする。
「え、休んでいいの?」
天城は笑いながらピッチを出て行った。
「教員クラブって学校の先生だろ! あんな汚いことして平気で抗議するとか、教育者かよ、あいつら!」
ダイヤモンドミラクルズのシートでは、西中が心花と知香子に、冷めない怒りをぶちまけていた。
「ナイスプレー」
天城が竹部や他の選手の拍手に迎えられてシートに戻ってくる。西中は手を伸ばしてハイタッチした。
「お疲れ様です。大丈夫ですか?」
天城はわざと深刻な顔をする。
「全然だめだね。明日、仕事できないかもしれん」
天城の顔を見て西中が笑う。
「もう、やめてくださいよ」
明日は日曜だが、例のφ4mmの穴の修正で、西中と天城は仕事なのだ。
心花は天城がケガなどしていない様子なのを見て安堵した。天城さんのサッカーするところが見れると、試合開始前まではわくわくしていた。でも、試合が始まると狙われるように倒される天城を見て、どうかケガをしませんようにとそればかり祈っていた。
「おれ、聞いたんですよ。一回目に相手の8番から天城さん、ボール取ったじゃないですか。あいつ、そのあとめちゃくちゃ悔しがって、天城さん潰すって言ってたんすよ。他の連中も妙にその空気に飲まれて、天城さんがボールを持つと、ボールを取りに行くより天城さんを倒しに来てたでしょ。おれ、それが許せなくて」
「まあまあ、教員クラブだからな」
竹部がなだめるように西中の肩を揉んで、横に座る。
「あいつら学校の先生でしょ」
西中の怒りは収まらない。
「学校の先生だからだよ。天城さんを倒してた8番の色の黒いのなんか、体育教師でサッカー部の顧問なんだぞ。おれらが仕事をしてる時でもあいつらは学校でボールが触れるんだ。トレーニングができるんだ。だから負けられないプライドがあるんだよ」
「なんですか、そりゃ」
「まあ、そんな相手から二人も退場者だしたんだからいいんじゃないか。天城さん、お疲れさまでした」
ピッチを見ると、二人少ない教員クラブをダイヤモンドミラクルズは圧倒していた。9番の選手がゴールを決め、そのあとに山下もゴールを決めた。一本目の15分は不戦勝の公式記録と同じ5-0で終了した。
「もう帰りますね。試合になりません」
教員クラブのキャプテンは一本目が終わった時点で竹部に握手をして言った。もともと不戦敗の試合だ。しかもこのあと2人少ない状態で試合を続けても勝てる見込みはない。
「あ、お世話になりました」
竹部の後ろから西中が顔をのぞかせて頭を下げる。聞こえていないのか、あえて無視をしているのか、教員クラブのキャプテンはなにも言わず、自分のシートに戻って片づけを始めた。
主審が竹部のもとにやってくる。
「あの、教員クラブさんが帰られるんでうちのチームと試合しませんか?」
横から線審が口を出してきた。
「いや、うちともやってくださいよ」
「じゃあ、二本目うちがやって、三本目が省吾のところでどう?」
「いいっすね。竹部さん、お願いできませんか?」
竹部と話している主審と副審は第一試合をやったチームのキャプテン二人だった。竹部は二人とも、天城と試合をしたいのだとすぐに読めた。
「わかりました。じゃあ、あと10分したら始めよう」
二本目、三本目ともに天城はフル出場した。
天城が直接シュートを決めたのも2本目4点、3本目3点と計7点だった。アシストを含めれると何点得点に絡んだかわからない。
とにかく、相手が変わろうと、どの選手も天城にボールを持たせたらまずいとわかっていても、天城の独壇場だった。
心花は、時には声を出して試合を楽しんだ。これが見たかったんだと思った。うれしかった。
そんな活躍をしていても、天城に、二本目と三本目のあいだに10分休憩があったとはいえ、30分間フル出場は苦しいものだったらしく、最後の終了の笛が鳴ったとき、天城はその場に倒れこんだ。
「たしかにすごい」
結局三本目まで見ていた前田がそんな倒れた天城をまじまじと見た。
試合のあとは、女子大生二人は電車で来ていたので、西中の車に四人で乗った。西中なりに気を使って、天城の家で天城と心花をおろした。時間がまだ16時過ぎだった。天城は車を降りた後、心花に「お腹減った? なにか食べにいこうか?」と訊いたら、心花が首を振ったので、車を出して心花を家まで送った。こんな若い女の子を助手席に乗せて車を走らせるなんて、と自分の人生にはまず起こらなかったであろうことが現実に起きたので、天城は心花を送れただけで満足していた。ただし、心花はその日の夜、夕食ものどを通らず、もやもやしながらベッドで泣いた。相談を聞いてほしかった知香子は電話に出てくれなかった。
翌朝、日曜出勤で会社で顔を合わせた西中は、天城を見るなり「昨日どうでした?」と訊いてきた。
「晩飯喰いに行くか訊いたら、腹が減ってないっていうから家に送ったよ」
「え、なにやってるんすか!」
そう言いながら西中は頬を緩めて、知香子と肩を寄せてソファーに座っている写真を見せる。
「ぼくたち、意外にお似合いでしょ」
天城は口を開けて呆気にとられた。
「おまえこそ、なにをやってるんだよ」
「あのあと、ぼくらも食事にはまだ時間が早かったから、ぼくが汗をかいてたし温泉でも行こうかと話したんですよ。んでスパーラに行ったら、家族風呂が待ち時間なしで行けるって言うんで、どうって聞いたら、それまでに車で雰囲気良くなってたから」
はしゃぐ西中を見て天城は頭を抱える。
「おまえ、相手は大学生だぞ。自分が何やってるのかわかってるのか?」
西中は目を開いて反論する。
「高校生じゃないですし、そりゃ未成年の19歳ですけど、別に犯罪じゃないでしょ」
「やれやれ」と言って天城は大きく息を吐いた。
「そういうことを言ってるんじゃないよ。おまえ、28歳だろ。それで仲良く付き合うのはいいよ。でもおまえ、その知香子ちゃんと結婚するのか?」
「それは彼女が学生のあいだはわかりませんけど、面倒見もいいし、親切だし、いいお母さんになりそうだから、結婚できるならぼくはしたいです」
「だろ。だからおまえは浅はかなんだよ」
始業のベルが鳴る。しかし、二人しか会社にいないのだから仕事を始めなくてもいい。
天城は、西中に言い聞かせるように言う。
「おまえ、大卒の初任給っていくらか知ってるか?」
言いながらiPhoneで検索する。
「わかりません」
西中が眉間に皺を寄せて答える。
「平均で20万3400円だよ。入って最初の給料がだよ。なにもできなくてもそれだから、仕事を覚えればすぐに給料が上がるよ。特に今は人手不足だからな。大卒の月収の平均は29万だぞ。いまのおまえがそれだけの給料をもらえる見込みがあるか? いまは学生だから金は持ってないけど、すぐに追い越されるんだよ。そんな男に相手の親父が嫁に行かせてくれると思うか?」
西中は絶句した。
西中は高卒である。リーマンショックで日本中が不景気だったため、高校を卒業しても就職できなかった。アルバイトをしていたが定職に就けと親に言われて、職安で見つけたのが岡崎旋盤製作所だった。給料だっていまだに粗で22万だ。もっとも実家暮らしだから、それでたちまち金に困ることはなかったが、今後収入が増える見込みはない。
「仕事しましょう」
西中は時計を見て、そう言うと工場に入っていった。