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新たなスタートへの準備

 月曜日は定時に上がれなかった。

 社長が短納期の仕事を持ってきたからだ。φ16mmの丸棒加工品が1060個。1個の加工が3分で終わっても53時間かかる仕事だ。それを金曜日には客先に届けなければいけないらしい。もっともその仕事だけすれば不可能ではない時間だが、この製品を作る機械には他の仕事も入っていて、間に合わないことはないが、無理をしないと間に合わない内容だった。

「こんな、どこもしたがらない仕事を取ってきて」

 年輩の工員の反発は強かった。

「間に合うわけないだろ」

 口々に社長に聞こえるように文句を言い、66歳のベテラン職人は火曜日と水曜日は腹を立てたのか会社を休んだ。他の工員も「忙しくてたまらん」と言いながら、それでも定時の17時に帰る。いつも17時で帰るが、社長の右腕であるはずの工場長ですら「勘弁してほしいよな」とやる気を失っていた。彼らは折りからの人手不足のため、絶対にクビにならないことだけは賢くわかってる。

 そのしわ寄せをカバーするのは、天城と西中だった。

「すまんな」と言い残し社長が19時に帰宅しても、水曜日までは23時まで残業した。ようやく木曜日に仕事の目処が立った。

「社長、今日は私と西中、定時に上がりたいんですけど」

 木曜日の午後過ぎには全数完成の見通しが立っていた。

「がんばってくれたからな。今日は、急ぎの分の仕事が終わったら時間にかかわらず、帰っていいよ」

「わかりました。ありがとうございます」

 天城には社長の魂胆がわかっていた。たとえば午前中に全数の加工が終わったとしよう。そうすると天城と西中は12時に退社のタイムカードを押す。すると13時から17時までの四時間は仕事をしていないことになる。この時間を、水曜日までの残業時間と相殺する気なのだ。残業時間は25%割増賃金を払わなければいけない。しかし、相殺すればその時間分の割増賃金が浮く。入社当初は社長のそんなところが「せこい」と思っていたが、そのくらい金に執着心がないと零細企業の社長などつとまらないことも、いまでは天城にはわかっていた。

 結局、途中で年輩の工員の手伝いを西中がさせられたこともあって、タイムカードを押したのは15時だった。



 心花の木曜日の授業は三限目までだった。肩にかかるくらいのストレートの髪に眼鏡をかけていた。朝寝坊したので、髪も結ばず、コンタクトではなく眼鏡にしたのだ。

 18時から回転寿司店でアルバイトを入れている。

 空いた時間、大型ショッピングモールの1階にあるスポーツショップに足を運んだ。いつもなら陸上競技のコーナーを見るだけなのだが、心花はサッカーのスパイクを見ていた。火曜日にも行ってしまい、今週で二回目である。スパイクを見ているだけで、あの人に少しでも近づけたような気がする。

「まず、スパイクだよなあ」

 ふいに声がした。

「同じ26.5でもメーカーによってサイズが違うから履いて選んだほうがいいっすよ」

 そう言ったのが、西中さんと気づいて頬が紅潮してきた。一瞬、はっきり顔が見る。

 赤いユニフォームを着た16番のあの人がいた。私服でいた。

 心花はシューズが並んでいる棚を平行に歩き、陸上のシューズの前で止まる。中距離用の靴を見ながら、たまに視線をサッカーのスパイクを見てる二人に投げた。

「このあいだ履いてたのメーカーはこれだっけ?」

「ですね。とりあえず履いてみます?」

「だな」

 心花は気づいてほしい気持ちと気づかれたくない気持ちが交差する。

 あの人は、サッカーをしてる時よりもずっと大人だった。

 わたしなんか子供にしか見えないかもしれない。

 そう思うと勇気が萎える。土曜日に会えても、子供扱いされるかもしれない。「一目ぼれ」って知香子が余計なこと言ったのが悔やまれる。恥ずかしくなり、胸が苦しくなる。

「そういや、これ、ちょっと踵が空くじゃん。このあいだ、踵にマメできたんだよね。横はこの広さでいいんだけど、縦はもう少し狭いほうがいいかも」

「じゃあ日本のメーカーのほうがあうかもしれませんね」

 心花は息が止まった。

 あの人と目が合ったのだ。

 あの人は私のことを知らない。

 西中が心花だと気づいて話しかけてくれますように。

 いや、二人に気づかれずこの時間が過ぎますように。

 何を考えているかわけがわからないが、祈る気持ちで心花は西中とあの人を見つめる。

 二人は靴がディスプレイされている什器の下から靴箱を探し、次々と試着していた。

「アシックスがいちばんあいますか。色何色にします? ヨエーゼンのチームカラーは赤ですけど」

「じゃあそれ以外で」

「なんでですか! マンチェスターユナイテッドも浦和レッズも赤ですよ」

 そう言った西中と、心花はついに目が合った。

 心花は瞬間、「ヨエーゼンの方ですか?」と言おうとした。でも、言葉が詰まって口から出せなかった。

「白にするか。ちょうどサイズもあるし、若くもない素人が派手なのを履くのも恥ずかしいだろう」

 天城はスパイクを持って頷いている。

 西中は、陸上のときと髪型が違い、メガネを掛けている心花に気づかなかった。



 今日が終われば明日はサッカーだった。

 天城は心持ち軽く金曜日の午前中の仕事をこなしていた。スパイクもソックスもレガースも買った。ハーフパンツも買ったし、明日はダイヤモンドミラクルズに余分のユニフォームがないという話だったので、ダイヤモンドミラクルズのチームカラーのオレンジに合わせてレアルマドリードの3rdユニフォームも買った。明日に向けての準備は万端だ。

 マシニングセンターから製品を取り出し、エアーで切粉を飛ばしている時だった。左ポケットのiPhoneが震えた。製品を置いてゴム手袋を外す。嫌な予感がする。着信を見る。案の定、今朝納品に出かけた社長からだった。

「φ4の穴に相手の丸棒が通らない」

 天城は電話を受けたまま、事務所に入った。加工上り図面の控えから、図面を探す。西中が心配そうについてきていた。

「ヨンイチのキリを測ってくれ」

 天城が西中に言う。西中はマイクロメーターを持って、使用したドリルの直径を測る。

「入るのと入らないのがあると言われてるんだよ!」

 電話口で社長が言っている。

 図面を見ると1本の製品にφ4mmの穴が八か所開いていた。製品の数は1060個なので、全部で8480個の穴。

「すみません」

 マイクロメーターを持った西中がドリルの直径を測って絶句した。使用した表記φ4.1mmのドリル三本のうち、一本が直径φ3.97mmにまで細くなっていたのだ。

「とりあえず、持って帰ってくるよ。土日でやって月曜日に持ってきてくれたらいいってお客さんは言ってくれてるんで」

 社長の電話は切れた。

 西中と水曜日まで無理して作った1060個口。この製品の素材の丸棒は一般鋼材よりも硬い炭素鋼だった。1個目の製品を作ったときはその穴がちゃんと開いていても、8480個もの穴をあければ途中でドリルがへたることは十分考えられる。なんで気づかなかったんだろう。なんで測らなかったんだろう。後悔ばかりがよぎるが後の祭りだ。

 社長が持って帰ってきたら、1060個の製品の穴を調べて、穴が小さいものは穴を開けなおさなければならない。溝堀りやφ4以外の穴は開いている製品なので、開けなおしの作業はマシニングを使うのではなく、ボール盤でひと穴ずつ手作業で開けるしかない。

 どのくらいの時間がかかるのだろう?

 天城は明日のサッカーに行けないかもしれないなと思う。西中が青い顔をしている。

「天城、どうしたんや?」

 66歳の工員が天城に声をかけた。

 天城は「すみません」と言ってから事情を説明する。工員は、ちっと大きく舌打ちした。

「だろ。社長も考えて仕事を取ってくればいいんだよ。無理したっていい品物なんかできるわけはないんだ。そりゃ、不良品も出るよ。あんな無茶な納期だと。そうだよな」

 社長の悪口を言われてもなんの慰めもならない。

 もっとも、問屋で営業をしていた天城にとっては、無茶だろうと無理だろうと、顧客から仕事をもらうことの大変さは工員よりもわかっていた。岡崎旋盤製作所の工員たちは、ずっと物を作ってきただけの人が多いため、仕事は「してあげる」ものという認識が強いと天城は感じていた。まるで、学校の先生が出す宿題のような感覚で、しなきゃいけないからしかたなくしてるけど、ないならないほうがいいと考えているふうでさえあった。ブルーカラーの肉体労働だからということもあるだろう。汗を流しているので、冷暖房の効いた部屋で仕事をしている人に、仕事をしてあげてる気持ちになるのもわかる。しかし、営業職が前職だった天城にとっては、仕事がないと会社が成り立たないのも、給料がもらえないのもわかっていた。だからこそ、無茶な仕事でも残業で乗り越えた。そのため、社長に迷惑をかけたという罪悪感のほうが強かった。

 しかし、普段は仕事がないならないほうがいいような態度を見せている工員だが、こういうときは頼りになる。

「おれ、いまの機械入れてるやつが終わったら、あとは納期が先の仕事しかないから、社長が戻ってきたら手直しに入ろうか?」

「ほんとですか!」

 天城は今日は17時までは手が空きそうになかった。西中も同じだ。1068個口の仕事に昨日まで全力を集中させ、しかも昨日は15時で帰ったため、一週間のうちにルーティンで作らなければいけない仕事が残っていたのだ。

 半日でも、たとえ手直しじゃなくて仕分けだけでもやってもらえたら助かる。

 1060個のうち、どのくらい手直しが必要かはわからないが、半日工員がやってくれたら、半日分は手直しの作業が先行するということだ。半日開けばサッカーに行ける。サッカーに行けるならば、日曜日、一日つぶしても構わない。

「工場長、いいだろう?」

 工員が工場長に言う。

「大丈夫です」

 工場長はへらへら笑った。天城と西中が極端に残業しているおかげで他の工員の仕事量は余裕があるのが常なのだ。

「図面見せてみな」

 天城が工員に図面を見せて説明する。

 岡崎旋盤製作所の年輩の工員は、たしかに仕事にやる気がなく、会社や社長に対する愚痴は多かった。

 しかし、どの人も誰かが困るとほうっておけず、手を貸してくれた。

「おれも手伝えるぜ。いいだろう、工場長」

 天城が図面で説明しているところを見て、別の工員さんもそう言ってくれた。

 天城は西中に小声で言った。

「なんとか明日、サッカー行けそうだな」

「そうですね。よかった」

 青くなっていた西中の顔に少しずつ血色が戻ってきていた。

 


「助かったよなあ。あれだけ人数掛けてもらえるとさ」

 土曜日、午後二時に西中は迎えに来た。今度は天城もちゃんとスポーツバッグを持っている。スポーツバッグの中は替えのTシャツとタオル、スパイクとソックス、レガースも入れている。肌寒いのでユニフォームの上には長袖長ズボンのジャージを着ている。スパイクを履き替えるまではクロックスだ。

「そうですね」

 会社の工員は、どの人も基本的には悪い人ではない。むしろ面倒見がよく困っている時など、感情で訴えると損得抜きで動いてくれる人たちだ。天城は西中より二年入社が早いが、それ以外の人は天城より十年以上先輩だった。そのため新人の頃は親切に仕事を教えてもらえた。ただ、彼らは長年勤めていて年齢も年齢であるため転職など頭になく、更に零細企業であるからどんなにやっても給与が大幅に上がることもないため、悟っていた。そのため、仕事に対してはひどくクールで、誰かが困らないと動かなかった。

「残業で疲れてたんだろうな。昼まで寝てたよ。靴ってさ、だいたい下ろすなら朝がいいっていうじゃん。せめて午前中には下ろしたかったんだけどなあ。まあそういうわけで、まだ下ろしてない」

 スポーツバッグに入った天城のスパイクは箱から取り出したたげだった。

「天城さん、そんな迷信、気にするんですね」

「おっさんだからな」

 天城は言って笑う。

 車は土手を降り、試合会場の河川敷グラウンドの駐車場に向かう。



 河川敷でもグラウンドは、公式戦を県サッカー協会が開催する場所に見合い、よく整備されていた。ところどころコート全体を見ると芝が剥げていたが、8人制はハーフコートのため試合用のラインが引かれた場所はおおむね、雑草も混じっているが緑に覆われていた。ハーフウェーラインの所に県のサッカー協会のテントが立ててあり、そのテントを挟むようにレジャーシートを敷いて、4チームの選手が荷物を置いている。公式戦ということで、妻や彼女を呼んでいる選手も多く、荷物のそばではそのような女性が座って眺めていた。

 心花と知香子はそのピッチから100メートルほど離れた土手の斜面の階段に座っていた。サッカーをする選手たちの声だけでなく、女性の声援や笑い声も聞こえる賑やかな空気に近づけなかった。

「双眼鏡持ってくればよかったね。あの人、どこにいるかわからないよね」

「うん」

 心花は選手をひとりひとり見つめる。あの人らしき人は見当たらない。

 なんとなく来るんじゃなかったなあと心花は思っていた。ファミレスで「ぜひ来てください」と誘ってくれたけれど、もしかしたら社交辞令で本当に来るとは思ってなかったんじゃないだろうか。見ると、心花よりも全然大人で美人な人がテントの近くに何人もいる。あの人に夢中になる人なんてきっとたくさんいる。もしかしたらあのきれいな人の中に、あの人の彼女か奥さんがいるかもしれない。そう考えると近づくことさえ、悪いことの気がしてくる。

 西中とのLINEは日曜日で止まっていた。「天城さん、土曜日に試合出るよ」という西中のメッセージに「すごく楽しみです」と絵文字付きで送ってから、すぐに既読はついたが返事は来ていない。心花は、ピッチで試合が行われていないんだから「どちらにいるんですか」と文字だけ打ったが、メッセージを送信するボタンを押せなかった。「冗談のつもりなのに本当に来たの?」などと言われたらこわい。そう思うと、LINEを送ることすらできなかった。

「わたしたち、ここにいていいのかな」

 小声で言う。

「別に悪いことはないでしょ」

 知香子は笑顔で答えたが、いつもと違い口唇の端が引きつっているように心花には見えた。

 テントからひとりの男が走り出してくる。車にでも戻るのかなと見ていたら、心花たちに手を振ってくれた。

「ほら、呼んでくれてる」

 手を振っていたのは竹部だった。心花たちに階段から降りるように手で招く。

「ごめんね、第一試合にぼくは審判をしていたんで、ほったらかしてて。来てくれてたのわかったけど」

「お邪魔しています」

 知香子が笑顔で答える。

 心花は心臓が飛び出しそうになり、なにも言えなかった。黙って頭を下げる。

 ちょうど駐車場から荷物を持ってテントのそばに歩いてきている西中と天城を竹部が見つけた。

「お、主役も来たよ」

 竹部がボールを持ってはしゃいで天城に駆け寄る。まるで子供のようだった。

「わたしたちも挨拶しよう」

 知香子が心花の手を引いた。「え、待って。気持ちの整理が。まだいいよ」と心花はうわごとのように言っていたが、ふたりに気づいた西中がすぐに笑顔を向けた。

「こんにちは。来てくれたんだ!」

「はい」

 知香子が応える。

「とはいっても、西中君は今日は敵チームなんだけどな」

 竹部が言うと、西中は「しーっ」と人差し指を口唇に立てた。

 竹部が心花を一瞥して、天城に紹介する。

「天城さん、こちらがこのあいだ練習してた有明大の陸上部の学生さん」

 心花は真っ赤な顔をして頭を下げた。天城は「どうも」と一口言った。

「天城さんの応援に来てくれたんですよ」

 西中が空気をほぐすように言う。

「せっかく応援に来てくれたけど、おれ、まだ二試合目だからうまくできるかわからないよ、ごめんね」

 天城は頭をかいた。

「絶対大活躍しますよ」

 竹部が天城の背中を叩く。「どうでしょう」と言いながら天城は笑うと、不意にまじめな顔になって心花を見つめた。心花は反射的に下を向く。息が止まる。

「冴えないおじさんでびっくりしたでしょ」

 心花は大きく首を振った。

「い、いえ、全然。すごいタイプです」

 言ってから、心花は鼻の下と額に汗が噴き出すのを感じた。慌てて肩にかけているバッグからハンカチを出して拭く。

「だそうですよ、天城さん」

 西中が肩で天城をつついた。

「ありがとう」

 天城はそう言うとお辞儀をした。微かに見えた表情は無表情だった。だが、若い女の子にそう言われて悪い気はしない。

 テントから笛が聴こえる。そろそろピッチ練習の時間だ。

「やべ、おれ、教員クラブに挨拶に行かなきゃ」

 西中はバッグを持って走り出す。

「ぼくらも行きましょうか」

 竹部が天城に行った。

「ええ」

 竹部と天城も、ダイヤモンドミラクルズの選手たちが集まっているシートに向かう。

「がんばってくださいね」

 知香子が言い終わる前に、心花は土手の階段に戻ろうと踵を返した。

 慌てて竹部が振り返る。

「もしよかったらぼくらのシートで見ない?」

 断る理由はない。

「いいんですか?」

 知香子が言う。

「ぜひ」

 心花は黙って知香子に手を引かれた。緊張して言葉が出なかった。

 


「天城さん! よく来てくださいました」

 天城を見つけるなり、山下が抱きついてくる。ダイヤモンドミラクルズは、このあいだのヨエーゼンとの練習試合に来ていたメンバーはもちろん、天城の噂をを聞いていたのかこの日初対面のメンバーも大歓迎ムードだった。

 竹部がホワイトボードを出す。3-2-2の布陣で、天城は二列目の右だった。隣には山下の名前がある。

 天城は、竹部も含めて四人も試合に出ないメンバーがいることに戸惑った。自分が今日試合に出ることで試合に出れない人がいるというのは心苦しい。

「教員クラブと話したら、練習試合だから交代は自由にいいと言われた。だから最初からどんどん飛ばして、疲れたら替わってもいいから。よしいくぞ!」

 竹部が言うと、選手全員で「おーっ」と声を上げる。天城もつられて声を出した。

 ダイヤモンドミラクルズの選手はウオーミングアップにピッチに向かう。つられて天城も走ろうとしたが足元がまだクロックスだった。レジャーシートに戻り、スポーツバッグを開く。

 竹部は女子大生二人に声をかけた。横には髪を茶色に染めた、それでいて落ち着いた雰囲気のある女性がいた。

「こっち、うちのかみさん。飲み物とかお菓子あるから困ったら声をかけてね」

「よろしくお願いします」と竹部の妻には心花もちゃんと言えた。

「天城さんのファンなんだよ。特にこの子が」と竹部が心花を指さす。落ち着いてきたかと思ったのに、心花はまた顔が赤くなった。

「すごい人なんだね、天城さん」と竹部の妻は竹部を見て言うと、そのあと心花を見て「わたし、今日が天城さん見るの初めてなの。わたしも楽しみなのよ」と言った。

 天城は長袖のジャージの上着を脱いでいる。足元には脱いだ長ズボンと靴下がくしゃくしゃのまま置かれていた。脱いだ上着をその上に重ね、スポーツバッグからソックスを取り出している。

「たたんであげなさいよ」

 竹部の妻が心花を見て言った。知香子も同調する。

「うん、そうしなよ」

「えー」と口では言っていたが、心花の身体は天城のほうを向いていた。足が進む。「迷惑だったらどうしよう」と思う自分もいたが、「どうにかしたい」という勇気が身体を動かした。震える声で言う。

「たたんでもいいですか?」

 天城はスパイクを履きながら頭を下げた。

「助かります」

 敬語だった。

 心花はそれだけで夢のようだった。ふわふわした気持ちで、まだ体温の感じられる上着をたたむ。失礼かなと思いながらも靴下を丁寧に伸ばした。

「あなた」

 ビデオカメラの準備をしている竹部に、妻が話しかける。

「ほお」

 竹部は手を止めて、服をたたんでいる心花の背中を見つめる。

「ありがとうございます」

 知香子が竹部に笑顔を見せた。ふたりがいい雰囲気になったのがうれしいらしい。

「あなたもいい人を見つけてほしいけど、天城さんほどの人はここにはなあ」

 竹部は知香子にそう言うと首を傾げた。

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