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天城大輔、ダメになった理由と天才の予感

 誰かが魚臭い弁当を持ってきているようだ。その悪臭にえずきそうになるのを抑え、天城大輔はもくもくとコンビニで買ったサラダを口に運ぶ。

 従業員八人の有限会社岡崎旋盤製作所の休憩所。社長と工場長がテレビのニュースを見て、「円高になったなあ」と話している。

 天城は今年42歳になるが、この会社では28歳の西中の次に若い。また、社長を含め他の七人の最終学歴が高卒以下なのに天城だけ大卒であることから、ひとりだけ変わった行動をしても容認されるキャラであった。もっとも西中も、ばたばたと飯を食ったら、モンスターストライクというスマートフォンのゲームに夢中になっている。

 天城はサラダを食べ終えるとコンビニの袋にその容器を捨て、これまたコンビニで買ったカツ丼のフタを右手で開けた。右手だけで器用に割り箸を折る。耳はBluetoothヘッドフォンをつけ、左手にはiPhoneを持っている。

 ブラウザは「地方競馬ライブ」を映していた。インターネットで地方競馬は全レース中継しているのだ。12時10分スタートの地方競馬3レースのファンファーレがヘッドフォンから聞こえる。天城はファンファーレの間にブラウザを天楽競馬に切り替え、買った馬券の照会をする。馬券の数字を覚えて、ブラウザを地方競馬ライブに戻す。

 六十歳過ぎの工員が流し目で天城を見て「また競馬かよ」と話しかけた。馬がゲートに入っている映像に集中してる天城は、口唇の前に人差し指を立て、工員を制す。工員は首を傾げ、別の五十代の工員に話しかける。

「競馬なんて当たらんのに。パチンコのほうが自分で操作できるから面白いのによう」

 テレビを見ていた社長と工場長が工員の声に顔を見合わせ、苦笑いする。

 三年ほど前、天城が天楽競馬を始めたとき、天城に頼めば馬券が買えると会社でブームになったことがあった。スマホ操作に疎いおじさんたちからすれば、天楽競馬に入会した天城は、場外馬券売場が目の前にあるようなものだった。とはいえ、スポーツ新聞の予想印通りに深く考えずに馬券を買うおじさんたちに、勝利の女神は微笑まなかった。おじさんたちはなかなか当たらない馬券に嫌気がさし、二か月もすれば会社で馬券を買っているのは天城だけになっていた。

 天城は地方競馬が好きだった。日本ダービーを頂点にスターホースが凌ぎを削る中央競馬。その中央競馬に比べると、チープな競馬場で少ない客の前で安い賞金のために必死に走っている地方競馬の馬が好きだった。地方競馬で走っている馬は、もともと中央競馬でデビューしたものの、活躍できずに地方競馬に売られた馬が多い。考えてみれば、いま中央競馬で活躍している馬と同じような努力を、地方競馬の馬も中央競馬に所属していた時代は中央競馬の調教師からさせられていたはずだ。それでも才能が足りなかったから、中央競馬を追い出されたのだ。たとえば、中央競馬ではスターホースともなれば月に1回もレースを走らない。放牧と言って長期の休暇を取ることもある。中央競馬では格下のいわゆる条件馬でも二週に1回走ればよく走っているほうなのだが、馬の所属頭数が少ない地方競馬では月に4回、毎週レースを走らさせられている馬がざらにいる。そのように才能がないために過酷な環境で走らないと生きられない地方競馬の馬を、天城は40歳を過ぎても手取りが20万そこそこしかない自分の身の上に重ね、応援したくなってしまうのだった。子供の頃、エジソンの「天才は1%のひらめきと99%の努力が必要」という言葉を親から教えられた時、才能よりも努力が必要なんだと信じていた。だが、大人になってこの言葉のエジソンの本当の意図が「99%の努力をしても1%のひらめきがないと無意味」という意味だと知り、1%の才能もない自分は努力しても無駄なんだと失望したものだ。そんな天城にとって、才能がなくても必死に走る地方競馬の馬が愛らしかった。

 ゲートが開き、レースがスタートする。

「あ、コノヤロウ」

 思わず天城は、愛らしいはずの地方競馬の馬を見て口走った。社長がにやっと笑うが、他の工員は誰も気にしていない。iPhoneのブラウザに映る競馬場の馬場は不良。前の2レースを昼休みに入ってから続けざまに見たが、雨に打たれて足抜きの良くなっている時計の早い馬場は、先に逃げた馬が圧倒的有利の高速馬場になっていた。それなのに天城が三連単を頭から流していた本命馬が出遅れたのだ。レースは天城が二着と三着に予想した馬が一着と二着になった。肝心の天城の本命馬は後半巻き返したものの掲示板ぎりぎりの五着だった。

 しかし、天城はうなずきながらカツ丼に箸を伸ばす。

 馬券は外れたけれど予想は外れてないな。出遅れがなければ、この三連単は取れていた。

 天城は二着と三着に予想した馬が一着と二着だったことと、一着に予想した馬が出遅れたものの好走したことに妙に自信を深めていた。12時50分に発走予定の4レースは大きい勝負しようかなあと考えた。すでに今月二万負けている。それを取り返すには馬場が読める今日なら、と考える。

 もっとも実家でパラサイトシングルをしている天城にとっては五万ぐらいまでなら毎月負けても痛くない金額だ。そして十年前のことに比べれば、毎月競馬で負けるぐらいなんともなかった。



 十年前の2008年、天城はドラッグストア向け商品卸問屋の営業マンだった。

 いまでこそインターネットでFラン大学と揶揄されているが、いまと違い若者の多かった1995年、天城は地元の県立の進学校で勉強してその大学に入ったので、その学歴を恥じてはいなかった。同級生には親は金があるのに、学力が足りずにそれこそ最低ランクの大学さえ受からずに浪人する人間がいたような時代だった。

 就職活動はのちに氷河期と呼ばれる苦しい時代で、新卒でもなかなか内定がもらえなかった。ただ、天城は夏休み前にはこの商品卸問屋の内定を得ることができた。

 まだまだ働き方改革など叫ばれるずっと以前の時代だ。上場企業ではない中小の問屋だから、就職してからの労働環境は比較的厳しかったかもしれない。週に十五時間から二十時間程度の残業は普通だったし、会社は週休二日だったが、ドラッグストアが年中無休のため、土日に携帯が鳴って駆けつけることもままあった。

 それでも天城はその仕事に満足していた。給料も悪くなかったし、ボーナスもちゃんと出ていた。ホワイトカラーであるという誇りもあったし、概ね仕事は嫌いじゃなかった。2007年の冬までは。

 外国為替証拠金取引、いわゆるFXと出会ったのは2007年のことだ。天城は31歳になっていた。2007年の11月、クリスマスをひと月前に控えたある日に、天城は恋人と別れた。理由はささいなことだった。

 恋人と別れた天城は、どこかに合コンが転がっていないかと同僚の紫黒に訊いた。職業柄、同僚に話を聞けば、ドラッグストアの店員との合コンをすぐにセッティングしてくれるものだったからだ。

「女と別れて時間ができたなら投資を勉強しないか? ちょっとした副業になるよ」

 仕事をサボって昼間に二人で向かったファミレス。ノートパソコンを前に紫黒はFXの説明を始めた。紫黒は儲けているみたいだった。また、天城がFXを始めたからと言って、勧めた紫黒にマージンが入るような話でもないことを確認した。初めは儲け話とか嘘っぽいと疑っていた天城も、紫黒の話を聞いているうちに、やってみようという気になった。

 ファミレスでやり方を教えてもらい、それから天城もデモトレードから始めた。一週間ゲーム感覚でデモをしてみたら瞬く間に100万円の利益がでたので、実際に始めてみた。

 はじめはレバレッジを5倍ぐらいにして、やってみたが、デモトレードみたいに甘くはなかった。すぐに5万円を溶かした。それでも、紫黒の「儲かるよ」という言葉を信じていた。負けているうちに相場の波が見えるようになり、冬のボーナスが入り軍資金に余裕が出ると、少しずつ勝てるようになった。2008年の夏のボーナス45万円は、全額FXにつぎこんだ。勝てる自信があったからだ。そして勝てた。気がつけば天城の口座には700万円を越える預金ができた。

「ありがとう。FXを始めて人生変わったよ」

 2008年の夏に天城は、紫黒にそう言うほど感謝してた。

「いやいや、天城が儲かってくれたら、紹介した手前、おれもうれしい」

 紫黒は天城よりもまだ儲かっているようだった。会社を既に辞めていた。FXを教えてもらった時と同じファミレスにいたのだが、平日限定のランチを食べる天城を尻目に、ステーキの単品にドリアを食べていた。しかもそのランチ代すら天城は紫黒に奢ってもらった。貰った紫黒の名刺には「デイトレーダー」と肩書きが書いてあった。

「なあ、天城! 今年の冬にでもおれさ、会社作ろうと思ってるんだ。そのときはおまえもおれの会社に来いよ。いまの倍は給料出せるぜ」

 天城にとっては魅力的な話だった。

 FXで勝ち出してから、天城はだんだんに仕事に熱意をなくしていた。一日で月収ぐらい負ける日もあるが、その倍ぐらい勝つ日もある。それに比べ、500円の商品の粗利10%をどうするかなどの会社の話はスケールが小さく思えていた。値下げを求める顧客も軽蔑していたし、そんな顧客にペコペコするのも嫌気がさしていた。そのため、ルート営業しか回らず新規に営業することはほとんどなく、出社して一度会社の外に出れば営業に回るよりも、ネットカフェに入り浸りFXをしていた。自然、営業成績が下がり、上司に喝を入れられることが増えたが、その怒鳴り声の最中でも、おまえはおれのトレーダーとしての実力を知らないくせに、と内心上司をバカにしていた。

 しかし、天城はあくまで凡人だった。それはFXで新しい会社を作ろうとしていた紫黒でさえ同じだった。

 神は人間に身の程を決めている。その身の程を越えたものを凡人が持った時、神はそれを残酷な形で奪う。天城はそれを痛いほど知らされることになる。

 2008年の冬が来る2か月前の10月24日。一か月前に起きたリーマンショックの影響で、相場は急激に円高になった。天城は10月24日の早朝、1ドルが99円台になった時点で200万円を50倍のレバレッジでドルのロングに賭けた。

 1ドルが100円を切った状態が長く続くはずない。天城はそう読んだ。正確には天城が建て玉をした時は99円50銭だった。1ドルが100円台に戻るだけ、つまり50銭円安になるだけで50万円の利益が出る計算だった。1円円安、つまり1ドルが100円50銭になれば100万だ。

 その日、天城は会議が入っていた。会議中は上の空だった。1ドルが101円、もしくは102円までなってくればいいなと思っていた。たとえ円高に振ってもせいぜい97円50銭ぐらいしかならないだろうとも思っていた。たしかにリスクはあるが、損をしても証拠金の200万円で済む計算だった。もっとも、そんなに円高に振らないだろうと信じていた。だいたい、円が100円を割ったら政府は100円台に戻すようにするだろうとたかを括っていた。

 その読みは大きく外れた。長引いた会議は昼まで続いた。会議が終わるや、会議室から速足で抜け出す。社員食堂で見たテレビのニュースで、血の気が引いた。1ドルは95円まで高騰していた。額から汗が噴き出す。一体含み損はいくらなんだ? 計算もできなかった。秋の風の吹くオフィス街を汗を流して走り、向かったネットカフェのパソコンの前で天城は、瞬間最高値の1ドル90円でロスカットされたことを知る。200万円はあっという間に溶け、更に「三営業日以内に追って700万円を振り込んでください」という追証通知が来ていた。

 すぐに証券会社に電話した。通帳にあと500万円はある。それを払って、支払いを猶予してもらえないか相談したかった。

 しかし、円の高騰で同じような問い合わせに疲れ切ったコールセンターの女性は冷たく「契約時の約款をご了承いただいたはずですが」の一点張り。真っ白になった天城は消費者金融に走ったが、源泉徴収票がないため10万までしか貸せないと言われる。藁をもすがる思いで紫黒に電話したが、紫黒の携帯はつながらなかった。

 紫黒に電話がつながらないので携帯のアドレス帳で金を借りられそうな友人を探していた時、実家の番号が目に止まった。電話に出たのは母親だった。

「母さん、大輔だよ。久しぶり」

「あら、大ちゃん、珍しい。どうしたの?」

 数か月ぶりに電話をした母親の弾んだ声に心が痛む。

「あのさ、仕事でおおへまをやって二百万の借金を作った。三営業日、つまり今日が金曜だから来週の火曜日までに払わないといけないんだ」

「どちらさまですか?」

 母の声が氷のように冷たくなった。

「大輔だよ。あなたの息子の天城大輔。生年月日は昭和51年9月7日、血液型はO型の大輔だよ」

「最近の詐欺はそこまで調べるのね。うちにはそんな子はいませんよ」

 電話は切られた。天城は力なく携帯から手を放し、ネットカフェの椅子からずり落ちて床にへたり込んだ。

 母親は完全に天城を振り込み詐欺と思っているようだった。

 涙がこぼれた。母親に詐欺師と間違われたことが哀しかった。また、詐欺師と同じようなことを母親に言っている自分が情けなかった。

 その天城を救ったのは母親の愛だった。バイブにしていた携帯がLEDランプを光らせながら震えた。「実家」という着信表示をディスプレイに表示していた。びっしりと汗をかいた手で天城は携帯をつかむ。

「もしもし、大輔? お仕事中? さっき、あなたが仕事のミスで200万円必要だと電話してきたけれど、あなたじゃないよね。警察に電話したら、一度本人に確認してと言われたんだけど」

 天城は深呼吸した。渇ききったのどに空気が刺さる。しぼりだすように天城は言った。涙交じりの湿っぽい声が出た。

「ごめん、母さん、おれなんだ……」

 父親にも電話をして天城は事情を話した。仕事と言っても会社の仕事ではなく副業の投機に失敗したことを正直に話した。200万円のためなら親父にどんなに罵倒されようとかまわないと思っていた。父親はただ一言、「200万を家から出せば、おまえはどこにも借金をしてないんだな」と念を押すように言った。

「してないよ」

 ネットカフェの小さな個室で天城は泣きじゃくっていた。言ってからPCの横に置いてあるティシュに手を伸ばす。

「わかった。母さんがおまえの結婚式のために貯めた金がある。それを引き出してすぐ振り込む。そのかわり……」

 父親はそこまで言うと黙った。天城は唾を飲み込む。渇いたのどに絡みついた。

「それのかわり?」

 沈黙を嫌うように天城は声を出した。父親の次の言葉が途方もなく怖かった。

「正月には家に帰って来い。たまには母さんに顔を見せろ。わかったな?」

 三年は実家に帰っていなかった。

 ただ、これで追証が払えると光の見えた天城の気持ちとしては、父親の要求はハードルの低いものだった。そのぐらいお安い御用だ、彼女もいないしと思う。

「わかった、必ず」

 月曜日の朝には、通帳の500万円と一緒に追証を払うことができた。

 土曜日に紫黒が自宅のマンションで飛び降り自殺をしていたが、天城がその事実を知ったのはそれから二週間もあとのことだった。

 しかし、リーマンショックの影響は天城がFXで金を失い、紫黒が命を落としただけでは済まなかった。

 リーマンショックも二か月を過ぎた11月頃、日本の経済にも影響が出てきたのだ。天城が勤める問屋にもドラッグストアから返品が来るようになった。そんな中、一年以上ルートの注文しか取らず、まともに営業をしていなかった天城に、注文を増やす顧客はいなかった。追い打ちをかけるように会社は人員整理を考え、一年以上まともに成績を上げていない天城は一番にその候補になった。

 11月の文化の日の次の日、11月4日に会社に来たら天城の机がなくなっていた。倉庫の隅にストーブと椅子が一脚だけ置かれていた。上司から言われたことは「ただ、じっとしとけ」だった。トイレに立つのも時間が決められていた。つまりは、辞めろということだ。

 心を入れ替えたつもりの天城は二日間は我慢した。だが、三日目の朝、会社に行こうとしたら身体が動かなかった。会社を辞めるしかないと思った。会社に電話をしたら「保険証と辞表を持って来い」と言われた。それを持って行くのですら憂鬱なほど、身体が会社を拒絶していた。

 貯金がなかったので実家に帰るしかない。天城は父との約束よりもひと月も早く、母親が待つ実家に帰った。都会以上に地元は不景気だった。就職はハローワーク経由で書類を送っても面接まで行けることはなく、かといって辞表を出していたので失業保険は半年先まで出ないという状況で、父が知り合いの知り合いという伝手を見つけてきたのが岡崎旋盤製作所だった。油まみれになるブルーカラーの鉄工所だった。入社してから三か月の給料は粗で138000円だった。

 汚れた作業服で受け取った最初の給与明細を見たとき、天城は人生が終わったと感じた。31歳の冬だった。取り返しのつかない失敗をしたことに気づいた。



 結局、FXの口座は解約した。スマートフォンの登場などインターネット環境は2008年から比べると進化していたが、工場で昼間に働いていればいくらインターネットを手軽に見られる端末があっても、見る時間がなかった。それならば、決まった時間に決着のつく競馬のほうがやりやすく、必死になって走る馬のほうがグラフの上下を見つめるだけよりも単純におもしろかった。

 しかも、競馬は賭けたお金以上には負けないという安心感もあった。

 あの時の負けに比べれば、競馬で負けるのなど微々たるもの。

 カツ丼を食べ終わった天城はiPhoneで4レースの馬柱を見つめていた。馬連の一点買いで行けるような予感がした。オッズを見ると7.8倍、5000円買えば39000円になる。

 社長は事務机で昼休みというのに何か電卓を叩いていた。他の工員は自家用車や工場に戻り、タバコを吸ったり、昼寝をしていた。西中だけがスマートフォンをいじっていた。LINEを見て、ため息をついている。

 いよいよ4レースが天城のiPhoneのブラウザの中でスタートした。ゴールの時、天城は「嘘やろう」と声を上げた。天城が馬連で買った二頭は一着と三着だった。人気薄の馬が二位に突っ込んで、天城の五千円もあっさり溶けた。

「これが競馬なんだよなあ」

 思わず独り言をつぶやく。西中がスマートフォンから顔を上げた。

「天城さん、今週日曜日は競馬に行くんですか?」

 天城にとっては平日は休憩時間のネットでの地方競馬、休日は競馬場での地方競馬、地元の亀川競馬場での開催がなくても競馬場で買う地方場外が楽しみだった。ブルーカラーのため、仕事の疲労がたまっている時は一日中家で横になることもあるが、身体が動くときは休日はほぼ競馬場に向かっていた。

「まあな」

「天城さんって足のサイズ、いくつですか?」

 妙なことを聞くなと天城は思う。

「26.5だよ」

「ぼくと同じじゃないですか。サッカーしません?」

「サッカー?」

「そうなんです。草サッカーですけど、相手チームが九人いるんで、うちも九人揃えなきゃいけなくなったんです。八人しか来れないのに」

 天城はふと、サッカーって九人でするんだっけと思う。ただ、何人でするのか明確にはわからない。でも、九人って野球だろう? 野球よりは人数多くなかったか? 天城はそのくらいサッカーを知らなかった。

「いいですか?」

 天城は首を振る。

「おれ、サッカーしたことないぞ」

 天城の子供の頃はサッカーのプロリーグがなかった。Jリーグが開幕したのは天城が高校二年の時だった。そのため子供の頃は球技と言えばひたすら野球で、小学校の頃、昼休みに運動場でやるのはソフトボールだったし、放課後に公園でやるのは軟式の野球だった。それが普通だった。アニメでサッカーのアニメはあったが、アニメとしてみていただけでサッカーには詳しくならなかった。

「なんとかなりますよ。スパイクとかはぼくのを貸しますから。お願いします」

 西中は残業代も欲しかったのだろうが、若くて身体に無理が効くので、天城にとって、納期に追われ仕事がケツを割りそうなときに進んで残業をしてくれる頼りになる男だった。特に他の工員が天城より年上だったため、天城は自分の仕事が間に合いそうにないとき、西中の力を借りていた。今日だって、定時終了後、残業時間に手伝ってもらおうと思っている工程がある。

 そのことを考えると断りにくい。仕事をうまくやるには、西中には恩を作っておいたほうがいい。今日だって残業なのだ。

「本当におれ、サッカーしたことないぞ。大丈夫なのか?」

「大丈夫です。どうせ草サッカーの練習試合なんですから」

 サッカーと言えば常に走っているきついスポーツのイメージが天城にはあったが、四十過ぎの男にそこまで無理はさせないだろうという甘えも天城にはあった。

「わかった。数合わせの要員しかできないけど、行くよ。その代わり、今夜、キー溝の仕上げ手伝えよ」

「はい、ありがとうございます」

 西中は立ち上がって深く頭を下げた。

 


 日曜日の朝9時、西中が天城の自宅まで迎えに来た。天城は西中の着ている赤いTシャツを見て噴き出した。カタカナで「ヨエーゼン太田町」と書いてあった。その同じTシャツを西中が天城に渡す。

「なんだこれ、ヨエーゼンって」

 太田町は西中の地元だ。それは天城にもわかった。

「Jリーグにツエーゼン金沢ってあるじゃないですか。それにあやかって、うちのチームはヨエーゼンってつけたんです」

「なんだよ、そのセンス!」

 そもそも、天城にはツエーゼン金沢がわからない。

「おもしろくないっすか?」

 果たしておもしろいだろうかと考えながら助手席に座る。若者のセンスはわからないと中年臭く考える。天城の格好はジャージの上下に手ぶらだった。普段競馬場に行く格好とさほど変わらなかった。西中はアンブロのいかにもスポーツしますといったトリコットサテンのパンツを穿いていた。

「今日二時間借りてるんです」と西中が言った市民運動公園のサブトラックに着いただけで、天城は競馬場が似合う上下のジャージを着ている自分が場違いな気がして、サッカーをやると言ったことを激しく後悔した。軽くボールを蹴りあっているヨエーゼンのメンバーは、みんな西中と同じようなキラキラしたハーフパンツを穿いている。相手チームはユニフォームまで揃えていて、本格的なサッカー選手のようだった。キーパーでさえ両チームともハーフパンツで、天城ひとりだけ長ズボンだった。

 見た感じ、どのメンバーも二十代に見えた。この中に四十代の競馬場ジャージのおれが混じるのかと思うと愉快な気持ちにはならなかった。

「会社の先輩の天城さんです」

 西中が天城をヨエーゼンの他のメンバーに紹介する。

「よろしくお願いします」「今日は助っ人ありがとうございます」と、彼らにとってメンバーが一人足りないのは大問題だったようで、やたらと礼を言われた。

 二時間我慢すればいいと天城は自分に言い聞かせた。時計を見ると9時半だった。11時半には終わるだろう。休日の地方競馬はナイター開催でスタートが遅いため、午後は疲れていなければ競馬場で、疲れていれば家で寝ながらiPhoneで地方競馬が楽しめる。早く競馬がしたいなと天城は考えていた。

「相手チーム、ダイヤモンドミラクルズっていうんですけど、あそこのキャプテンは天城さんより年上の45歳なんですよ」

 そうやって指さした相手チームのキャプテンはたしかによく見ると年上に見えないこともない。だからこのチームはオリジナルユニフォームを買えるほどお金もあるんだと冷静に思う。しかし、相手チームのキャプテンのランニングしている姿や、目の輝きを見ると、いかにも休日にスポーツをしているオシャレな中年という感じで、毎週休みのたびに競馬場に通っている天城とは明らかにオーラが違い、年齢の割にずいぶん若々しく見えた。

 ヨエーゼンのメンバーも練習に戻ったので、ここまで乗った船だから仕方がないと覚悟を決めて天城もヨエーゼンのTシャツを着る。背番号が一応あるらしく、天城の番号は16番だった。スパイクを履くと、西中がボールを持って駆け寄ってきた。

「蹴ってみてください」

 蹴ってみた。さすがにボールを蹴るぐらいは天城にもできる。西中はそれでもボールを蹴るだけで「すごいすごい」と天城をおだてた。

「いま天城さんが蹴られているのはトーキックというんですよ。シュートとかはそれでもいいんですけど、正確にパスしたいときはこう、ガニ股に足を開いて、足の甲の内側で蹴るインサイドキックがあるんですけど」

 言いながら西中はインサイドキックで天城に向かってボールを蹴った。こうやればいいのか、と見様見真似で西中に返す。西中は驚いたように目を丸くした。

「すごい、完ぺきじゃないですか。本当にやったことないんですか?」

 正確に思い出すと体育の授業で何度かは、サッカーらしきものをやったことはある。ただ、インサイドキックを使うような本格的なことはやったこともなかった。体育の授業では、やる気もなくボールの周辺を走っていた記憶しかない。ボールを蹴ったことはあったんだろうか?

 それでもこんなもの、キャッチボールと一緒だろうと思う。野球をやったことなくたって、ボールぐらい誰でも投げることはできるはずだ。むしろ、大げさに驚く西中を見て、気を使わせて申し訳ないと思った。

「次がアウトサイドです。身体の横にパスを出したいときなどはこれを使います」

 今度はアウトサイドキックの要領で西中がボールを蹴る。天城はなんなくそれをアウトサイドで返した。西中は「すごいっす」と大げさに驚き、他のヨエーゼンメンバーも呼んで天城がボールを蹴るたびに、メンバー全員で「すごいです」「本当に初めてなんですか」と天城を褒めまくった。

 天城はボールを蹴りながら、顔には出さないが、これだからゆとり教育で育った奴らは苦手なんだよなと思っていた。前の問屋にいたときも、新人は叱ると辞めるから褒めろと言われていた。褒められて褒められて個性を伸ばす。そういう教育を受けた彼らは、褒められることが動機付けであり、他人でもその気にさせるためにひたすら褒める。もちろんそれは間違いではないかもしれない。しかし、度が過ぎると不愉快になるのも事実だった。また、前の問屋時代の話で言うと、そうやって育ってきたから、彼らは褒めあうのはうまいが、指摘を受けたら極端に打たれ弱かった。おれみたいに相場で900万円も大負けしたらこいつら全員首吊るだろうなと天城は思いながらボールを蹴る。ボールを蹴ると、またゆとり世代のヨエーゼンメンバーが歓声を上げる。

 そうやって褒められたものの、試合になるとからっきし天城は役に立たなかった。「一本15分の三本勝負です」と西中から試合時間を聞いた時、天城は十分間の職場の休憩に毛が生えたぐらいだしすぐ終わるだろうと甘く考えていた。ポジションは後方のディフェンダーで「ボールを取らなくてもいいから相手の9番にずっとついていてください」と西中に言われていたが、この相手の9番がよく走るのだ。四十代だからそんなに走らなくてもいいように忖度してくれるだろうという天城の甘えはまったく通用しなかった。開始一分もしないうちに天城は競馬の逃げ馬のように息が上がり、ついていけなくなった。たった一分なのに相手の9番につられてのダッシュの連続は疲労が蓄積され、ひどく長く感じた。天城のマークが外れた相手の9番は軽々とボールを受け取ると、フットサルサイズの小さなゴールに勢いよくシュートを打ち付けた。

 開始五分で三点を入れられた。すべて相手の9番だ。天城がフリーにしているから、すぐにキーパーと一対一になる。しかし、息が上がってる天城は走るのもすでに力がなく、9番にまったく追いつけなかった。さすがに天城も申し訳なくなり西中に「9番を止める自信がないし、これ以上ここはできない」と伝える。西中は困ったような顔を見せたが、ここで天城に帰られても困るので、天城を一列前に上げた。

「もしボールに触れるなら触ってくれると助かります。難しいかもしれませんが、特にあの10番の選手がボールを持ったらボールに足を伸ばしてください。身体じゃダメですよ、反則になります」

 天城は西中の言葉を半分ぐらいしか理解できなかった。とにかく、相手の10番、10番だけでなく相手の選手が近くでボールを持ったら足を伸ばせばいいのだなと思った。

 まだ五分しか経っていないのかと時計を見ていたら、ヨエーゼンのキックオフで試合が再開する。たしかに、ヨエーゼンの名に恥じず、ヨエーゼンは弱かった。キックオフ直後にボールを持った西中は相手の5番にボールを取られた。ああやって足を伸ばしてボールを取ればいいんだなと天城はそれを見て思う。相手の5番はすぐに10番にボールを出した。この選手がボールを持ったら取りに行けと言われていたなと、天城は走る。すでにへとへとだ。相手の10番は、よたよたと走っている天城を見て余裕を感じているのかドリブルを続けている。天城は足を伸ばした。驚いたように相手の10番は振り返った。ボールは天城の足元にあった。天城が相手の10番に近づくと、天城に見える周りの世界がスローモーションになり、10番の足元がはっきり見えたのだ。そこに足を伸ばしたら簡単にボールが取れた。

 なんだ、簡単じゃねえか。最初から走り回るよりもこうやってボールを取ればいいんじゃないか。

 天城は足元のボールを見て思った。相手の10番が天城に身体を寄せる。天城は相手に背中を向けボールをキープした。誰に教えられたわけでもないが、こうすれば相手がボールを取れないんじゃないかと直感的に思ったのだ。

「ナイス、天城さん! パスください」

 前線にいる西中が手を上げる。相手の5番がぴったり横についている。なんとなく西中とゴールの間にボールを落とせば西中がシュートを打てる気がした。

 インサイドキックをする余裕などない。天城はトーキックでボールを蹴りあげた。ボールは西中の背中を越え、西中の背後1メートルにふわりと落ちる。西中は振り返ると柔らかくトラップして、シュートを振りぬいた。ゴールが決まる。

「ナイスクロス! 天城さん」

 西中が抱きついてくる。

「すげえ」

 横にいた相手チームの10番の声が聞こえた。

 相手のキックオフで試合が再開する。時間はまだ七分しか経過していない。早く休憩したいけどここだとあんまり走らなくていいから楽だなと天城はボールを持っている相手の10番の足元に足を伸ばす。またスローモーションになって簡単にボールは天城の足元に収まる。

「ナイスカット」

 ヨエーゼンの選手の声が聞こえた。ゴール前を見ると西中も、もうひとりのFWも、ぴったり相手DFに阻まれていた。これじゃパスが出せないじゃねえか、ちきしょう、走らなきゃなんねえと思いながら、天城はドリブルする。相手の10番がスライディングタックルを仕掛けてくるが、またスローモーションになったのでボールを浮かして飛んで逃げる。「おおっ」という声がヨエーゼンどころか相手チームの選手からも聞こえた。西中についていた相手の5番が西中のマークを外して、天城のボールを取りに来る。天城は相手選手に背中を向けて前に進む。置いて行かれた姿勢になった相手の5番は悔しそうに振り返っている。西中にDFがついていないので、天城はボールをパスしようとした。西中が叫んだ。

「オフサイドになるからシュートを打ってください」

 ゴールを見ると目の前のキーパーが天城めがけて走ってきていた。うわ、おっかねえと思った天城は身体を横にそらした。勢いよく飛び出していたゴールキーパーは止まれず前に倒れる。キーパーのいないゴールに向かって天城はシュートを放った。簡単に二点目が入った。

「もしかして、元プロかなんかですか?」

 駆け寄る西中より早く起き上がった相手のキーパーが訊いた。

「なにを言ってる。今日初めてサッカーをやった素人ですよ」

 その声を聞いた相手の10番が大声で笑いだした。

「嘘でしょ。これ、あれですか、テレビかなんかであなた、Jリーガーじゃないんですか?」

 おだてるにもほどがあると、この10番を見て、おどけた顔して天城は西中を指さした。

「プロどころか、西中、おれは単なる旋盤工だよな」

 西中の表情から笑みが消えていた。小刻みに膝を震わせて西中が訊く。

「天城さん、あなた何者なんですか」

 いたって真顔だ。

「何者って旋盤工だよ。趣味は競馬だよ。ほんとだよ」

「嘘でしょ」

「嘘じゃないって、なあ」

 苦し紛れに声をあげて笑う。

 しかし、試合が再開するとまたもや相手のボールを容易に自分の足元にひきつけ、ゴール前のFWにパスを出したり、時には自らシュートを打つ天城の姿があった。はじめに天城が相手の9番に振り回されたことで3点先制されていたが、その後の残り時間で4アシスト、3ゴールの活躍を天城は見せた。

 天城はなんでこんな簡単なことをやってみんな驚くのだろうと真剣に思っていた。

 西中は、天城はおそらく元プロ選手かアマチュアでも相当なサッカー選手だったのだろうと、そのプレーぶりを見て感じていた。

 高校までサッカー部だった西中は相手の10番のことをよく知っている。冬の高校選手権常連校で一年生からレギュラーだった選手だ。プロにはなれなかったが、大学も特待生で進学し、いまは市役所で仕事をしているが、ヨエーゼンがよく試合をする相手の中でもずば抜けてうまい選手だった。その選手から軽々とボールを奪う天城の姿に驚きを隠せなかった。一回目は10番がボールを持ちすぎてまぐれで取ったと思った。それが二度、三度となると……。

 やっと15分間の一本目が終わった。2列目に入ってからあまり走らなかったとはいえ、普段の運動不足がたたり、天城のふくらはぎが腫れ、鈍い痛みが走っていた。天城はピッチサイドまで歩く元気もなく、やっと休めるとその場に座り込んだ。

「すげえ、すげえっす」

 相手の10番が座り込んだ天城の背中を興奮気味に叩く。

 


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