〔3〕
覗き窓を閉じ、奥に戻ってきた男の前にアキラは怖ず怖ずと進み出た。
「あの……」
「ああっ?」
面倒そうな顔を向けた男に、どう礼を言うべきか? まだここが安全とは限らないのだ。
「あの、ありがとうございました。あいつらがいなくなったら直ぐに出ていきます」
「多分それは無理だな……マスター、このチビ共にタオルをくれ」
笑いながら、カウンターの老紳士がタオルを放った。
男は受け取ったタオルを手渡すとカウンターに置いてあったグラスを手に取り、値踏みするかのように上から下までアキラとキリアンを睨め回した。
「ふん、キッド・ナップねぇ……」
びしょ濡れのパーカーを脱ぎ、渡されたタオルで髪を拭くキリアンはプラチナブロンド、グリーン・アイ。そばかす混じりだが白い肌、整った赤い唇。
アキラの方はアジア系にしては色白で、すっと通った鼻筋に薄い唇。意志の強そうな黒い瞳と、妖しい東洋の魅力を思わせる切れ長のまなじり。細い首と細い肩。
いかにも高く売れそうな容姿だ。
にやにやした視線に、次第に気分が悪くなってきたアキラは男を睨み付けた。
浅黒く、彫りの深い顔。いかつく見えるが、どことなく愛嬌のある小さな目。大きな傷跡の残る頬と、そのために少し引きつった口元が笑っているようにも見える。
短く刈り込んだ黒髪には、まばらに白いものが混じっているが年は三十代くらいだろう。
だがアキラの視線など意にも介さず、男はグラスを煽ると真面目な顔になった。
「おまえら、何者だ? あの連中は誘拐犯なんかじゃねぇ、きちんとした組織で訓練されている……まあ間違いなく軍人だな。核ミサイルが落ちてこようと、店の前から動きゃしねえよ」
「軍人?」
意外な言葉にぽかんと口を開いたまま、アキラは少年を見た。そんな馬鹿な、何で俺が軍人に追われる少年とこんな場所に?
「キリアン、その、なぜ君は逃げなくちゃいけないんだい?」
狼狽え気味に尋ねると、キリアンは少し息を吸い大きく吐き出した。震えは止まっていたが、青ざめた顔のままだ。
「彼らに言わせると、私は特別な知能を持っているそうです……」
「天才少年、ってわけか……?」
ボックス席のソファーに身を沈め、アキラは溜息をついた。
「ところで、てめぇは? どうやら追われてんのはこっちの方らしいが」
二人にカウンターの紳士が用意してくれたコーヒーを手渡しながら、男が顎でキリアンを指す。
「ポート・オーソリティでパーカーを譲ってくれと言われて、理由を聞いたらあいつらに追われて困っているようだったからつい……」
つい一緒に逃げることになってしまったのだが、思いも寄らない成り行きに戸惑いを隠せない。これからどうすればいいのだろうか? 目の前の大男は助けてくれる気があるのだろうか?
「ジェフ、おまえさんが借金取りから逃げるルートで逃がしてやったらどうだ?」
カウンターの一番奥の席に座って、ビールのジョッキをあおっていた赤ら顔の男が笑いながら叫んだ。
「ちっ、てめぇこそ、女からこそこそ逃げ回るのに使ってるだろうがっ! ……まあ、いい。カウンターの後ろに下水道に通じている入り口がある、案内してやっからついてきな。どうも嫌な予感がするんだよ……覗き窓を閉めようとした時、追っ手の口元が笑っていやがった……」
「助けて、くれるんですか?」
躊躇いがちに聞いたアキラに、ジェフは引きつった口元をなお引きつらせた。
「つまんねぇ事、聞くんじゃねぇよ。ガキをやばい連中におめおめ渡したとあっちゃ、お袋にどやされらぁ。おっと、その前にかわいこちゃんの服を乾かした方がいいか。おまえも濡れたままじゃあ、その細っこい身体だ、冷えて肺炎おこしちまう。夏の雨は用心しないとな、チャイニーズ・ボーイ」
俺は日本人だしボーイじゃないと、言い返そうとしたその時。
「ヘイ、ジェフリー。急いだ方がいいぜ、まずい事になりそうだ。地下道を行くならどうせびしょ濡れになるんだ、一刻も早くここを出ろ」
見張り番のように覗き窓から外を伺っていた別の男が叫ぶと、アキラはジェフに抱きかかえられカウンターの中に放り込まれた。咄嗟に受け身の体勢を取り、後から同じように投げ込まれたキリアンの身体を受け止める。
「えっ?」
受け止めた感触は意外なほど軽く、柔らかかった。だが続けざまにジェフの巨体が覆い被さるように落ちてきて、アキラはキリアンを庇い身を捻る。
その瞬間、鼓膜が破れるような激しい爆発音が狭い空間を引き裂いた。木製の頑丈な扉は、破れたペーパークラフトのようにぼろぼろに散らばり、衝撃で砕けたグラスの破片が宙を舞う。その中にカランと、金属音がした。
「フラッシュバンだっ!」
誰かが大声で叫んだ。刹那、扉を破った爆発音よりも数倍激しい轟音に頭が真っ白になる。間近で破鐘を叩いたような耳鳴りと、眼の奥を刺すような痛み。しかし多人数の硬い足音を聞き分けて、アキラは店内を伺おうとジェフの下から首を伸ばした。
カウンターの継ぎ目に僅かな隙間を見つけて目を懲らすと、店の入り口近くに自動小銃を手にした黒い戦闘服の男が三人立っていた。
その後ろにいるのは、アキラ達を追っている黒いコートの男だ。
長めの金髪を後ろに流し、細い鷲鼻と鋭い目付き。長身でスマートに見えるが、体躯の良さが着衣の上からでも解る。バスターミナルで銃を取り出そうとした男を制したのは、確かこの人物だった。
指揮官だろうか。
戦闘服の男達は機敏な動きで展開し、耳を押さえて床に踞る客を次々に拘束していく。カウンターの裏が、隠れ場所になるはずもない。
「グズグズするんじゃねえよ、さっさと潜るんだ」
囁くようなジェフの声に振り向くと、後ろ壁に開いた一辺が五十センチほどの穴にキリアンが潜り込もうとしていた。アキラも促されるまま穴に入り、続いて身体をねじ込んだジェフが悪態をつく。
「ちっ、この穴は狭くていけねぇ……肩が引っかかって服が破れるからな」
カウンターにいた老紳士が穴を隠すように酒樽を置き、中からジェフが元のように板で塞いだ。
その直前、アキラの耳に入った言葉はやはり英語ではなかった。
『カザック少佐、標的はいません』
言葉の意味は解らないが、イントネーションからドイツ語のような気もするが……。
『探せ。もし我々以外の手に落ちるようならば、殺してもかまわん』
応えた低く威圧的な声は、鋭利な刃物のような冷たい響きだとアキラは思った。