〔1〕
その日は朝から、ひどく蒸し暑かった。
世界最大級のバスターミナルであるニューヨーク・シティ『ポート・オーソリティ・バスターミナル』。
須刈アキラは、そのゲートの一つでタクシーを拾うべきか何時止むとも知れない雨をやり過ごすべきか、窓の外を眺め思案に暮れていた。
早朝ホテルを出た時点では快晴だったため、天気予報に気を付けるのを怠ってしまった。そして、ほんの半日郊外からの風景を撮影するだけだからという考えの甘さを、激しく後悔する羽目になったのだ。
家路を急ぐビジネスマン、ダークスーツに身を固め機械的な正確さで人混みを縫って歩くキャリアウーマン。もたもたと大荷物を抱えた旅行者。声高にわめき散らすアジア系の集団。
夏の夕暮れに降り出した雨で、多くの人種で込み合ったターミナル内はまるでサウナのような蒸し暑さである。
慣れない構内で他人とぶつかり、荷物に躓き、「Sorry」という単語を百回近く繰り返して、ようやく八番街線の地下鉄入り口に辿り着くことができた。つい、何度か訪れた事のある「新宿」の駅ビルの光景を思い出し、苦笑する。その時も確か、JR線の改札がわからなくなって一時間以上も買い物客の間を歩き回った覚えがあるのだ。
激しい雨は、一向に衰える気配がない。
電車がホテル近くの駅に着くまでに止んでくれることを願うしかないが、東二十八丁目まではわずかな距離であるため期待は出来なかった。防水加工してあるパーカーを被って走ればいいかと覚悟して、乗り場に向かおうとしたその時。
「そのパーカーを、譲ってくれませんか?」
背後から、消え入りそうな声がアキラを呼び止めた。
「えっ?」
振り向くと、石造りの柱の陰から一人の少年がこちらを見ている。声をかけられたのは自分なのかと思わず胸を指さすと、少年は僅かに頷いてアキラを手招きした。
招かれるまま少年に近づいたが、警戒心は起きなかった。
仕立ての良さそうなヨーロッパ調ブレザーとスラックス。綺麗にプレスされた白いシャツ……身なりに怪しげな雰囲気はない。アキラよりは少し小柄に思えたが、年齢的には同じか、もしくは欧米人の体格を考えると少し下かも知れなかった。
柔らかそうなプラチナがかったブロンドの髪はゆるくカールして顔を半分ほども隠していたが、その下からは暗い緑色の瞳が見つめている。それが辺りをうかがうようなおびえた目つきに思えるのは気のせいか。
「この雨じゃあ、パーカーを着ても直ぐにびしょ濡れになると思うよ。どこまで行くんだい?」
少年は何も答えない。
「家は近いの? 誰かに迎えに来てもらうか、タクシーを使ったほうがいいんじゃないかな」
言葉が通じていないのかと思い考え込んだが、何も言わない少年にどうすることも出来ない。
「Sorry」と言ってから、アキラはその場を後にしようと背を向けた。
「待って!」
何か面倒なことになりそうだな、と、思いながらも足を止めて振り向き、パーカーを持つ手を上げる。
「どうしてもこれがいるのかい? でも俺もないと困るんだ。もし手元にお金があるなら、ターミナルのショップで買えると思うよ。だから他の誰かに聞いてくれないかなぁ……生憎、旅行者で案内できるほどこの場所に詳しくないんだ」
困惑の表情を浮かべるアキラに少年は首を振ると、少し変わったイントネーションの英語で答えた。
「見つかりたくない人達がいるのです。それを貸してもらえれば、人混みに紛れ込める」
確かに行き交う人々の中には、黒っぽいレインコートが多く見られた。これから夜の町を楽しむためのおしゃれを、雨に台無しにされたくない人達であろう。
アキラのパーカーもまた、黒に近い濃紺で膝近くまでの長さがあるため、フードを被れば少年の言う「見つかりたくない人達」から逃れるのに都合がよさそうだ。
「うーん……」
人助けは率先してやるべきだと、いつも思っていた。
しかし町中で老人の手を取り横断歩道を渡るような事とは違う、何か危険な予感がするのだ。
「それなら南館一階の番街側にポリス・オフィスがあるから、そこに行くまで着ていくといい、一緒に行ってあげるよ」
「警察は、だめです。味方にはなってくれません」
この場合、どうすればいいのだろう?
アキラは大きく溜息をついた。関われば面倒なことになるのは分かり切っているのだが、このまま知らない振りをして立ち去ることは出来ない。
「困ったな。その連中に捕まると、君はどうなるんだい?」
「……死ぬまで自由を奪われる」
「ふうん、そうか」
アキラはパーカーを開いて少年に被せた。
「行く当てがあるの?」
「ない」
「しょうがないなぁ、とりあえず俺と一緒に来いよ。事情は後で聞くからさ」
アキラの視界には、既にこちらに向かって歩いてくる三人の背の高い男達が写っていた。揃いのダークカラーのスーツ、黒いコート。
「映画で見たFBI捜査官みたいだな」と、苦笑する。
無論、映画のように上手く逃げられる保証など微塵もない。もし勝機があるとすれば、彼らの肩にも届かないような細腰のアジア系少年に、よもや反撃をするつもりがあろうとは思いも寄らない油断にある。
一人が、アキラと少年に気が付いた。背後で少年が、息をのむ気配。
「あんたの言ってた連中が、あの人達じゃないといいなって、思ったんだけどなぁ」
少年を隠すように、アキラは前に立った。
「やあ、チャイニーズ・ボーイ。ちょっと君の連れの顔を見せてもらえないかな? 人を、探しているんだよ」
「はあ、こいつは空港から着いたばかりの俺を迎えに来てくれた友人ですよ。人違いじゃないですか?」
見上げるほど上背のある、いかつい顔の男は作り笑いを浮かべる。
「空港からのバスは、反対側に着くだろう?」
「地下鉄に乗るんですよ」
「ほう、どこまで?」
「東二十八丁目まで」
次第に男がいらいらしてきた気配を感じて、アキラは息を整えた。
「くだらん問答をしている暇はないんだよ。そいつの顔を見せろ!」
パーカーのフードに掛からんとしたその手首を、アキラは素早くつかんだ。そしてその勢いに乗じて、ぐい、と引っ張ると、体勢を崩した足を払い、背中を強く床に押しつける。
這いつくばり、腕をねじり上げられた体勢の男が「ぐえっ!」と情けない声を上げた。成り行きを見守っていた後方の二人の男は、一瞬呆気にとられたような顔になったが、一人が慌ててコートの懐に手を入れた。が、もう一人にそれを制される。
「こいっ!」
アキラは僅かな機会を無駄にせず、少年の腕を掴んで雨の通りに飛び出した。
地下鉄では、タイミング良く電車で相手を捲く自信がない。ターミナル内には他に仲間がいるかも知れないと、判断した上での行動だ。
激しい雨と、傘をさし窮屈そうに行き交う人波に紛れた方が、確実に難を逃れられそうに思えた。
案の定、下方をかいくぐるようにして走る小柄な二人に比べ、男達は顔の高さにある傘に邪魔され思うように追ってこれない。
ちら、と、アキラはたすき掛けにして前に抱えたカメラバックのことを案じたが、まあ多分大丈夫だろうと、あきらめるより他になかった。