〔1〕
メリーランド州に入った所で昼時になり、ジェフはボルティモア郊外のガソリンスタンドを併せ持つハンバーガーショップで車を止めた。
目的地までは、ほぼ半分来たことになる。
「マクドナルドでなくて、悪いな」
まるで、からかうのを楽しんでいるようなジェフの言葉をアキラは無視する。
「あたいはガソリン入れてくるから、先に行ってくれる? オーダーはチリとダイエットペプシ、お願い」
助手席を降りたシンシアが運転席に座り直すと、ジェフが慌てて開いている窓に顔を入れた。
「給油なら俺が……」
「スタンドのコンビニで買いたい物があるんだ。男には用のない物だよ?」
渋々首を引っ込めた不満顔にウインクをして、シンシアは車を回す。
ハンバーガーショップに入って、アキラはコーヒーとシンプルなハンバーガーを頼んだ。キリアンはチキンサラダにオレンジジュースを頼んだようだ。
「いかんなぁ、それじゃ二人とも体力がつかないぞ」
トレーを持ってアキラの横に座ったジェフが、余計な世話を焼く。
そのトレーの上には、うんざりするような大きさのハンバーガーにフライドチキン、ポテト、Lサイズのコーラ。
飢えた熊のようにがっつくジェフに笑みを漏らしたアキラは、いまだ浮かない顔のキリアンに気付いて眉を曇らせた。
「まだ、あの連中が追いかけてくると思うのかい? きっと追っ手はまだ、ニューヨークで君を捜しているさ。ここまで来れば、安心だと思うけど……」
「私が心配しているのは、シンシアさんのことです」
俯く口から、小さな声。
「大丈夫だって。追っ手が現れなければシンシアさんに迷惑は掛からないよ。このまま無事に、シャーロッツビルまで行けるさ、きっと」
「あの人は、シンシアさんではありません」
えっ、と、アキラは飲みかけたコーヒーの手を止めた。ジェフも口を動かすのをやめて、眉間にしわを寄せる。
「そいつは、どういうことだ?」
コーラで食べ物を流し込み、低い声で呟いたジェフを伺い見てキリアンは唇を噛む。だが、目を閉じ深く息を吸うと、決意の眼差しを返した。
「車も、あの人の物ではありません。ハーツ社のレンタカーです」
「何故わかる?」
「私には、読めるからです」
当惑するジェフを差し置き、アキラはキリアンに向き直った。
「読めるって、どういうこと? 君は自分を実験体だと言ったけど、何か特別な人間なんじゃないのか? ちゃんと訳を話してくれないかな」
小刻みに震える手を、アキラはそっと握った。
「心配ないから」
キリアンの目から、涙が落ちた。
「彼等は私を《リーダー》と呼んでいます。私は手にした物から、その全ての情報を読みとる力があるからです」
「はあ? 情報を読みとるってどういうことだ?」
未だに状況が読めないジェフが、気の抜けた声を出した。敵意ある者と対峙する方法は心得ていても、事が微妙な場合においては頭が回らないらしい。
キリアンは、オレンジジュースのカップを手に取った。
「これを手にしただけで、オレンジの産地、砂糖の含有量、添加物の組成、残留農薬の濃度、製造過程、全てを読みとることが出来るのです。カップに印刷されているインクの化学式でさえ」
「んな、馬鹿な!」
そう言ったきり言葉を失ったジェフと同様、アキラも信じられなかった。
「じゃあ、彼女がシンシアでは無いというのは?」
「私が着ている服は確かにナデイアさんの、お孫さんの物だと思います。ナデイアさんの部屋には、テーブルやベッド、食器やソファー、いろいろな物にシンシアのイメージが付随していましたが、どれもあの人とは違ったものです」
「持ち主のイメージも読めるのか?」
「はい」
アキラはジェフと顔を見合わせた。
もしもキリアンの言うことが本当ならば、あのシンシアは何者なのだろう。酒場での武力行使を考えると、追っ手の一人にしては回りくどい手段だ。
「何で、もっと早く言わねぇんだっ!」
怒りを露わに、しかし抑えた声でジェフが詰め寄ると、身を縮ませてキリアンは俯いた。アキラは庇うように、キリアンの前に身体を乗り出す。
「信じて貰えないと、思ったんだろう? もし信じて貰えたとしても、気味悪がられて見捨てられると? だから言えなかったんだ」
アキラの言葉に、ぽろぽろと涙を流すキリアンに狼狽えてジェフは、「悪い、別に責めてる訳じゃあねえんだ」と謝った。
「それにしても、やっぱり俺には信じられねぇ。テレビや映画の世界じゃあるまいし、なんだ、その、超能力っていうのがなぁ、あり得ないというか……。だいたい、そんな力が有っちゃあ普通に暮らせねぇだろう?」
ナプキンで涙を拭って、キリアンは顔を上げた。
「小さいときは、今ほど強い力ではなかったのです……でも、研究所で訓練して強化されました。生活に支障のないように『凍結』と、『解凍』のやり方も覚えました。意識を凍結している間は、目と耳からの情報しか入りません。身体の感覚も無くしてしまうので、うっかり怪我をしても気が付かなかったりしますが……。何か、思い入れのある物をお持ちなら私に持たせてください。嘘ではないことを、証明出来ると思います」
キリアンの抱える秘密、その真意を確かめようと決意して、アキラはバックから一番大切にしている一眼レフカメラを取りだした。
「このカメラの、スペックが解るかい?」
頷きカメラを受け取って、キリアンは目を閉じる。
「〈NiKon F3〉・一九八〇年三月五日発売、寸法148.5×96.5×65.5mm・本体重量700g・電子制御式35mm一眼レフ・フォーカルプレーンシャッターカメラ、デザイン〈ジョルジェット・ジウジアーロ〉、露出制御・絞り優先オート及びマニュアル両仕様、アイレベル・〈DE-2〉標準、ファインダースクリーン・スプリットマイクロ式〈Kータイプ〉標準、TTL中央部重点開放ボディ側光、シャッター・オート8~1/2000秒無段階、マニュアルT・B・X 1/80秒・8~1/2000秒十八段階、ボディ黒縮緬塗装部真鍮・上下左右カバー部チタン、ファインダーカバー・裏蓋チタン、使用レンズ……」
本当か、と、目を向けたジェフに、アキラは首を傾げた。詳細な仕様など、詳しく知っているわけがない。
「もういいよ、キリアン。AIレンズの化学式まで言われても俺には解らない。それよりも、持ち主の情報が見えると言っただろう? そのカメラは人に譲ってもらった物なんだけど、もとの持ち主がどんな人物だったかわかるかい?」
一瞬、開いた目線を泳がせ、再び目を閉じるとキリアンは意識を集中させた。
「ダークブラウンのタートルネック、ツイードのジャケット。黒縁の眼鏡、背の高い…四十歳くらいの男性……アキラによく似ています」
「間違いない、俺の父さんだ。どうやら信じるしか無いようだな。まだ疑うなら、ジェフもキリアンに何か渡してみたら?」
口をあんぐりと開けたままキリアンとアキラを代わるがわる見つめていたジェフは、いきなり憮然とした顔で立ち上がった。
「俺はいい! それよりも、あのシンシアを名乗る女が何の目的で俺達といるのか、確かめねばならん!」
「ちょっ、ちょっと待てよ。相手の正体がわからないのに、いきなり正面から向かっていくのは危険だと思う。何か方法が……」
大股で駐車場に向かうジェフの後を、アキラは慌てて追いかけた。
ようやく追いついたところで、少し離れた先に駐車してある車からシンシアが降りるところを見つけた。
「ごめんよ、遅くなって。コンビニで、しつこい男に絡まれちゃってさ。連れがいるからって逃げてきたんだけど……」
二人に向かって微笑んだシンシアの表情が、にわかに曇る。
「伏せてっ!」
その瞬間、アキラはジェフに突き飛ばされた。
僅かに空気が震え、コンクリートにめり込んだ黒い痕跡。
何が起きたのかと思う間に、倒れたままの二人に駆け寄ったシンシアが銃を構える。が、その銃口は、正面に立つ黒いコートの男に向けられていた。
「穏やかじゃないわねぇ、サイレンサーでいきなりなんて。それにしても、あなた反応が良いじゃない? 海兵隊では軍曹だったそうだけど」
目線を銃口の先に向けたままシンシアがそう言うと、身体を起こしたジェフは苦々しい顔になる。
「取り敢えず礼を言うよ。狙われたのは俺の足らしいが、アキラに怪我はさせられねぇしな。あんたはいったい……」
「動くな!」
男の銃口が、新たな狙いを定めようとした僅かな動きにシンシアが叫んだ。
「自己紹介は、またの機会にするわ。早くキリアンを連れて車に乗りなさい。私が、あいつの動きを止めているから」
「あんたは、どうすんだ?」
「仲間がいるから、心配しないで」
仲間? いったい何の仲間なのだろう?
コンクリートに座り込んだままのアキラの手を、ジェフが引っ張った。
「いつまでも腰抜かしてるな、キリアンを入口まで連れてくるんだ!」
わけのわからないまま、アキラは急いで店内に戻った。




