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ルーズフォーカス(「叢雲」番外・須刈アキラ 編)  作者: 来栖らいか
【第3章 ジェフリー】
13/25

〔2〕

最小限、身の回りの物だけ用意するように言われて、アキラは一旦ホテルに戻った。

 逃げ出してしまおうと思えば、逃げることが出来る。

 日本に帰れば、ジェフがアキラを捜す手段など無いはずだった。それどころか逃げた卑怯者など探す気にもならず、あきれ果て、蔑み、日本人すべてを嘲笑するかも知れない。

 関係のないことだと思う反面、自尊心が許さなかった。

 自分でも何か出来ると思いたかった。

 何よりキリアンの、あの瞳が頭から離れない。

 結局、まんじりとしないままに朝を迎え、帰国が延びたとホテルに余計な荷物を預かってもらって、アキラは再びジェフのアパートに向かっていた。

 まだ遅くない、まだ引き返せる。

 そう思いながらもナイロンバックの中、鉄の異物の重みが肩にのしかかる。

 一晩中気になっていたのだが、とうとう手にすることが出来なかった。これだけでも返しておかなければと自分に言い訳し、地下鉄に乗った。

 会えば後戻りが出来ないことぐらい解っているはずなのに、自分が思うほど深刻な事にはならないと、期待する気持ちがどこかにあった。

 結局、バージニア州シャーロッツビルに暮らすジェフの母親にキリアンをしばらく匿ってもらうことになったのだが、その場所までの同行を当然の義務と言われれば返す言葉がない。他にアキラに出来ることはなく、ジェフの好意に甘えるより仕方ないのだ。

 公共の交通機関利用は危険だから、車を調達すると言っていた。車となれば、たとえ何事もなくキリアンを送り届けても片道五百キロ以上の行程だ。ジェフは、道路事情も考えて少なからず三日は見て置いた方が良いと言っていた。

 三日だ……アキラは深く息を吸い込み、ウエストサイドの外れ、雑然と建つ旧い雑居ビルの一つに足を踏み入れた。

 部屋のドアをノックすると、隙間から伺うように顔を出したジェフは驚いた顔をした。

「内心、もう来ないと思っていたが」

 にやりと笑われて、アキラは眉をひそめる。だが、思いついたようにバッグのファスナーを開けて〈SIG P203〉を取り出した。

「あんたが逃げるなって言ったんだろう? それに、返さなきゃならない物もある」

 ジェフは、ちらりとそれを見たが受け取ることはせずアキラを招き入れた。

「まだ持っていろ、扱い方は後で教えてやる」

 まさか本当に、これを使うことがあるのだろうか。

「あの……キリアンは?」

「昨夜おまえが出てった後にナデイア婆さんが来てな、泊めるつもりなら自分が預かるって連れてったよ。俺は正常な性癖の持ち主だから心配ないって言ったんだけどなぁ……。取り敢えず今から車を調達してくるから、おまえは婆さんの所からあの子を……」

 突然言葉を切り、ジェフは険しい眼をドアに向けた。

「不用心だねぇ、ドアが開けっ放しじゃないか……」

 女の声にアキラが振り返ると、ドアの向こうにキリアンと一人の女性が立っていた。

「見慣れない女だ、ここの住人じゃないな……あんた誰だ?」

 ジェフはアキラの前に立ち、用心深くドアに近付く。

「あたいはシンシア、業突張りのナデイア婆さんの孫娘だよ」

 シンシアと名乗った女は、にこやかに微笑んだ。魅力的な笑顔だ。

 赤いスカーフで一つにまとめた、ブルネットの長い髪。はっきりとした目鼻立ち、気の強そうな太めの眉と黒い瞳。形の良い豊満な胸を際立たせるように首元が大きく開いた、オレンジ色のTシャツ。踵の高いサンダルを履いた長い素足は、短い黒革のスカートからすんなりと伸びて美しい。

「あの婆さんの孫娘がこんな美人だとは思わなかったが、キリアンを連れてきてくれて感謝するよ。婆さんの所に、よく来るのかい? 次に来るときに、食事に誘いたいんだが」

 軽口を叩きながらも、ジェフは警戒しているようだった。アキラは成り行きを伺い、身を硬くする。

「生憎だけど、あたいの住んでるところはノースカロライナのダーラムなんだよ。スパニッシュ・ハーレムに住んでる叔母さんの所に遊びに来てたんだけど、ナデイアに会ったら帰るつもりだったんだ。次に来るのが、いつになるかなんて解らないわ」

 大げさにがっかりした顔になったジェフに、シンシアはお愛想で笑って見せた。

「ところでこの子は口がきけないのかい? さっき会ったばかりだけど、ひとっ言もしゃべりゃしないんだよ。ナデイアに聞いても何も教えてくれなくて……ただ、あんたのとこに連れてってくれと言われただけなんだ」

 ジェフが口止めしたのだろうと、アキラは思った。

 今朝のキリアンは顔色も良く、薄いピンクのTシャツに白いデニム地のスカート姿だ。シンシアのお下がりだとすれば、かなり幼いときの物に違いない。

「口が利けない訳じゃねぇが、わけありでな。ちっとばかり、つらい目にあってまだ脅えてるのさ」

「へえ、何があったの?」

 そこでジェフは、しまった、という顔になった。

「ま、まあ……いろいろとな。ところでシンシア、あんた今からダーラムに帰るのか?」

「そうよ、憂鬱になるくらい長いドライブだわ。一人だから退屈だし何より物騒で……連れでもいればいいんだけど」

「車で来てるのか?」

「そうよ」

 ジェフは振りかえると、アキラを見て思案顔になった。そしてシンシアに向き直る。

「シンシア……頼みがあるんだが、俺たちを途中のバージニアまで乗せてっちゃくれねぇか? 実はシャーロッツビルに住んでる、お袋の所に急いで行かなくちゃならねぇんだよ」

「あら、それなら……」

 シンシアは目を細め、また魅力的な笑顔をしてみせた。

「願ってもないわ、交代の運転手がいれば楽だしね。あんたが信用できるかわかんないけど、その子達も一緒なんでしょ? なら心配なさそうね」

「そいつはありがたい、是非お願いするよ」

「それじゃ、ナデイアに伝えて車を取ってくる。一時間後に表通りで待ってるから」

 シンシアの後ろ姿を見つめるジェフに、アキラは不快な気持ちになった。ジェフにとってはキリアンの安全よりも、美人とのドライブの方が重要らしい。

「やれやれ、運がよかった。結構悲観的に考えていたんだが、思いの外簡単に済みそうだ。実は車を借りる金の当てが無くてな、ブルネットの美人とドライブも出来るし、お袋の所までいければ金も借りられる。結構、何とかなるもんだ。念のため、州境に着く前に赤毛のウイッグとカラーコンタクトは用意するとして……」

 憮然としているアキラに歩み寄ると、ジェフは肩に手を置いた。

「考えてみたんだが、おまえはやはり日本に帰った方がいい。深入りは身のためにならんよ。何事もなく済めばいいが、銃を持ったこともないおまえが万が一にでも不測の事態に巻き込まれたら命に関わる。俺一人では心許なかったがシンシアがバージニアまで一緒だ、追っ手の目を誤魔化せるだろう。チケットの予約は、もう取り消しちまったのか? 確か今日の夜の便を……」

「いまさら、何だ!」

 いい知れない怒りが込み上げ、思わずアキラは叫んでいた。

「俺は最後まで付き合うと決めた、自分の意志でだ。あんたの指図は受けない」

「だがなぁ……」

 ジェフは困惑の表情を浮かべたが、譲るつもりはなかった。このまま引き下がっては、自尊心が許さない。

 ジェフは大きく溜息を吐き、肩を竦めた。

「そうだな、悪かった。ではアキラ、おまえが自分で自分の面倒を見られるように、出発前にやることがある。〈SIG〉を出すんだ、扱いを教えてやる」

 無言で頷きバックを持ち上げたアキラは、もう迷わないと自分に言い聞かせた。

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