〔5〕
かび臭い、湿った空気。
暗い裸電球一つに照らし出された部屋は、天井や壁に無数の鉄パイプが走っている。ひび割れたコンクリートむき出しの床には埃をかぶった旧い型のテレビや冷蔵庫、壊れた食器棚や破れたソファーの類が雑然と積み重ねられていた。
「奴等も流石にここまでは追ってこれまい。あの場にいた連中は俺のアパートなんざ知らねぇし、カウンターの爺さんは口が堅いから心配いらねぇ。安心しろとは言えないが、服を乾かして何か腹に入れるくらいの時間はあるはずだ」
ジェフはそう言うとキリアンを担いだまま、がらくたの中からソファーを足で蹴って引きずり出し、下水道に通じる扉の上に運ぶ。アキラも僅かに残った力を出し切りそれを手伝った。
スクラップになった冷蔵庫の後ろに回ると鉄パイプの隙間にドアがあり、扉の向こうになおも階段が続いていた。ジェフの後から段を上りながら、アキラは必死で頭を整理する。
自分の置かれた状況が、まだ理解できない。
いったい、何から逃げ回っているのだろう? 何故逃げているのだろう?
この男は何者なんだろう? 安全なのか? 信用できるのか?
これから、どうすればいいのだろうか?
「ぼうっとしてんじゃねぇぞ、大丈夫か? ジャパーニーズ……」
「アキラだ」
「OK、大丈夫そうだな、アキラ」
ジェフが笑った。
その笑顔に、悪い人間ではなさそうだと、少し気が緩む。
階段を上りきったところに狭いエントランスがあった。そこで乗り込んだエレベーターを五階で降り、ぼろぼろのカーペットに躓きそうになりながらついていくと、突き当たり右手の部屋の鍵をジェフが開けた。
「男やもめの部屋にしちゃあ、綺麗なもんだぜ?」
綺麗、と言うよりは何もない殺風景な部屋だった。リビングにあるのはソファとテレビ。テーブル代わりらしい木箱、そして寝袋。
「さっさとその服を脱いで、これでも着ていろ。管理人の婆さんが乾燥機を持ってるから、服を乾かしてもらってくる。業突張りのイタリア人でなぁ……いくらか取られると思うが、おまえ金を持ってるか?」
奥の部屋に消えたジェフが、ネル地のシャツを二枚手に持ち戻ってきた。
迂闊に財布を見せるべきか。ちらりと頭の隅を不安がよぎったが、既に思考さえも曖昧になりかけていた。
どうにでもなれと、バッグのサイドポケットから出した財布を渡すとジェフは、その中から二十ドル紙幣を取り投げて返す。
「何か食い物もいるだろう。安心しな、ガキからチップはとらねえから」
傷のある頬を歪ませ笑ったところを見ると、どうやらジョークのつもりらしい。
懸念が去ったわけではないが、言われたとおり濡れた服を脱いで渡されたシャツに着替えた。
冷え切った身体に乾いたネル地は心地よく、体温が戻っていくのを感じ、ほっと息をつく。大きすぎるシャツは袖口を半分も折らなければ手を出すことが出来ず、裾は膝がかくれるほどもあった。
「どうやらこっちは、自分で脱ぐ力も残ってないようだ。手伝ってくれ、着替えさせてベッドに運ぼう」
見るとソファーにぐったり身体を預けたキリアンは、指一本動かす力も無いようだ。
ジェフがその背を支え、アキラがパーカーを脱がそうとしたとき。うっすらと目を開けて、弱々しくその手を払った。
「やめ……て、自分で出来る。バス……ルームを貸してくださ……い」
「なんだ、よほどお育ちがいいんだな。人前じゃあ脱げないとでも……」
不愉快そうな顔をしたジェフの表情が、次の瞬間、困惑のそれに変わった。
「おまえ、まさか。いや、そうだったのか」
ちっ、と低く舌打ちして憮然となったジェフは再びキリアンをソファに横たえ「待ってろ」と言うと、呆然とするアキラに構わず部屋を出ていった。
しばらくして戻ったジェフが連れてきたのは、見たところ七十歳には思える、かくしゃくとした一人の老婆だった。手には、なにやら着替えらしき物を持っている。
「管理人のナデイア婆さんだ」
紹介も終わらないうちに、二人そろってドアの外へと追いやられてしまう。
「いいかね、覗き見なんてゲスな真似するんじゃないよ!」
ヤニに茶色く染まった前歯をむき出すようにしてジェフを睨んだ老婆は、アキラに向かって、にっ、と笑った。
「おまえさんは、中にいてもかまわんが?」
するとジェフはアキラの頭を掴み、忌々しそうに老婆を睨み返した。
「こいつはガキじゃねぇんだ、なりはちぃせえが一人前の男だ」
ふふん、と鼻を鳴らした老婆の姿がドアの向こうに消えると、アキラはジェフを見上げた。
問いかける眼差しに苦々しく笑って、ジェフは肩をすくめる。
「ありゃあ、女だ」
「女? 確かに年を取ったご婦人ですが……」
「馬鹿、ナデイア婆さんじゃねぇ。キリアンのことだよ」
「ええっ?」
つい大仰な声を上げたアキラの口を、ジェフが手で塞いだ。
「でかい声を出すな、誰かに見られたら困る。東洋人のガキを連れた海兵隊崩れなんざ噂の元だ、いろいろな意味でな。追われてんだろ?」
黙って頷くと、その手が離れた。
「担いでるとき、やけに軽いと思ったが……そこまで頭が回らなかった。おまえも気が付かなかったのか?」
「はあ、俺もてっきり男の子だと思って……」
そう言えば酒場のカウンター裏で身体を受け止めたとき、柔らかな感触を受けた事を思い出す。置かれた状況下で深く考える暇も無かったが。
「やっかいの種ってのは一つ抱えると、どうしてこう次々に増えていくんだろうな」
溜息をつくジェフを横目に見ながら、アキラも同様の思いにうなだれる。
明日の夜には日本に向かう飛行機の中にいるはずなのに、今はそれが叶わぬ現状に思えた。
「とにかく、あのお嬢さんから詳しく話を聞かせてもらおう」
ドアが開き老婆が顔を出すと、ジェフはそう言ってアキラの肩を、ぽん、と叩いた。




