秘密のFK
最初にそれを聞いたとき、生まれて初めて腰が抜けるという経験をした。齢20にして我が友、鮫島に彼女ができたのだ。お相手は1学年下の新井茜陽さん。俺もキャンパス内で何度かお見かけしているが、例えるならリスのような大変可愛らしい、鮫島の恋人とするには惜しい程の女性だ。
長野からわざわざ名古屋まで来て大学に入った以上、必ず彼女を作ると決めていたという鮫島は、1年生だった昨シーズンは4戦全てで相手からの答えがノー。しかも試合後、彼女らと会話すらしておらず、引き分けで勝ち点1とも言えない完敗。今年度もバイト先の先輩に挑んだ開幕戦を落とし、いよいよ精神的にギブアップかと思われた通算6戦目、同じ長野出身の新井さんという勝利の女神がようやく鮫島に微笑んだ。
「で、今日は何だ? のろけ話でも聞かされるくらいなら向こうのサッカー談義に混ざったほうが楽しそうだが」
「まあそう言うなよ」
学食で向かい合って座るのはいつものことだが、かけうどんを奢られたのは通算7回目、今シーズン3回目だ。過去6回はいずれもアタック直前の作戦会議に俺を出席させるためだった。しかし鮫島にはもう彼女がいる。
まさか、振られたか? それはありえない。今のところ順調に良好な関係を築いているはずだ。
「実は……来週の水曜、茜陽ちゃんを遊びに誘おうと思ってるんだ」
「なるほど。つまりデートの作戦会議か。来週の水曜って言えば、グランパスのホームゲームがあるな」
「まあ、そういうことだ。グランパスがどうのとかは知らないけど」
鮫島も新井さんも控えめな性格という点では同じだが、鮫島の場合はただ回りくどいだけだ。
作戦決行当日。気象庁の予報通り、日本晴れ。我々は名古屋港水族館を決戦の舞台に選んだ。午後1時キックオフと新井さんには伝えておき、俺と鮫島は正午からアップを始める。実績以外は完璧な俺のエスコート理論により、見事に作戦通り、いい感じの雰囲気で南館1階の深海ギャラリーまで移動できた。文系の利点は、水曜日の午後が休みになることだ。深海魚のコーナーには今、誰もいない。
深海を再現するため、ギャラリーは静かで暗い。水槽の中にはグロテスクな見た目の魚たち。影から俺も見守る。予想通り、新井さんは深海魚に怯えている。吊り橋効果を狙った作戦だ。深海魚を見たことによる恐怖で、気の小さい新井さんの心臓は鼓動を速める。隣にはデートに誘った男。そう、彼女は勘違いを起こすのだ。鼓動が速いのは彼の隣にいるからではないか、と。
そこまでくれば後は勢いだ。直前のミーティングでは『ゴール前のフリーキックだと思って強引に行け』と言っておいた。フリーキックを略してFK作戦。ミッションは彼女の唇を奪うこと。大人しい彼女のことだ、キーパー以外の全員で壁を作るくらい厳しいディフェンスかもしれない。俺が個人的に好きなサッカーの例えが多い気がするが、それはそれとしてテクニカルエリアよりも離れた陰で戦況を見守る。
「茜陽ちゃん」
「は、はい。あ、えっと、なんか怖いですね。深海魚って。あっ」
以降、声は聞こえなくなった。どうやらゴールを決めたらしい。そうとわかれば俺は撤収だ。深海魚ギャラリーから元の展示室へ続く道は1つだけ。ここで俺と鉢合わせするわけにはいかない。先回りして、ミュージアムショップで待機する。
————
茜陽が学生マンションに帰宅したのは、午後8時を過ぎた頃だった。鮫島にシャチのぬいぐるみまで買ってもらった。
「はあ……」
服も脱がず、ベッドに倒れる。まだ胸は高鳴り、顔は紅潮したままだ。
「先輩、やっぱ覚えてないのかな」
茜陽が小学5年生だった1995年の夏、長野県の企画でキャンプが開催された。茜陽のテントには、当時6年生の鮫島もいた。鮫島は夕食の火を起こせなかった茜陽を手伝った。それだけなのだが、茜陽は性格上、異性との交流が著しく乏しいため、それだけで鮫島に好意を抱いた。夜、テントのメンバーが全員寝静まった頃、茜陽は隣で寝息を立てている鮫島に……。
シャチの腹に顔を埋める。鮮明に思い出すと、鼓動が加速した気がする。明日はまた9時から授業だ。気分をできるだけ落ち着けて、立ち上がる。独り言が出た。
「覚えてないよね。もう8年も前のことだし、先輩は寝てたし」
First Kiss の思い出は、彼女だけが覚えている。