#9
「私がヒロインだけど、その役は譲ります」の小話『気になるあの子』の時の話です。
そちらを読まなくても特に問題はありませんが、先に読んだ方が面白いような気がします(※私の主観です)
それは突然に起きたことだった。
栞はいつものごとく、一人になってゆっくりと妄想をするためにお弁当を持って中庭へ向かっていた。
相変わらず周りが栞を見る目は冷たく、そんな視線にうんざりしながらも、特に気にすることなく栞は学園生活を送っていた。
人の噂も七十五日。悠斗も最近は栞に気を遣っているのか、人目のあるところで栞に話しかけてこない。だからその内、こんな風に見られることも減るだろうと、栞は楽観的に考えている。
気にするだけ無駄。人の悪意というものは気にしたって仕方がないのだ。それが栞にどうしようもないことで向けたられたものなら、なおの事。
(それにしても…悠斗様も本当に諦めが悪い。もういい加減に諦めてくれればいいのに)
悠斗はいまだにあの小説の在り処を探ることを諦めていない。
少し油断すると言葉巧みに吐かせようとするのだ。何度ぽろりと言いそうになったことか。油断も隙もありはしない。
(別に害があるわけでもないのだし、放って置いてくださればいいのに……って、あれ?)
栞がいつもの場所へ足を運ぶと、そこには先客がいた。
いつも人がいないのに珍しい、と栞は驚き、場所を変えなくちゃ、とくるりと回れ右をしかけたとき、その会話が耳に入った。
「蓮見様、今日のお菓子はなんですか?」
少し高めの、可愛らしい声。その声と、その声の主が発した名前に栞は動きを止め、その声の主たちをガン見した。
先客のうち、一人は女性だった。ふわふわとした背中くらいまで伸ばした髪に、華奢な体。目はぱっちりと大きく、その目を縁取る睫毛は羨ましくなるくらい長くてくるんと上向いている。肌は日焼けなどしたことがないかのように白く、小さな唇は桃色だった。そこらの女優さんやモデルに負けないくらい、いや、それ以上に愛らしい容姿をした女性。
もう一人はその女性の隣に並んでも遜色のないくらい、とても格好いい男性。女性にそっと寄り添い、パッと見は冷たそうに見えるのにその女性を見る目だけは蕩けるように優しく、甘い。
栞が呆然としている間にも、お似合いの二人が楽しそうに会話をしている。まさに楽園はここか───。
栞は現実逃避をしかけたが、なんとかそれを凌ぎ、自分に落ち着けと言い聞かせて、すっと大きく息を吸い込み、改めて二人をよく見た。
何回見ても二人は栞の良く知る…いや、栞が一方的によく知っている人物だった。
女性の方は、栞の憧れの人。悠斗の姉である神楽木凛花。
男性の方は凛花の恋人で婚約者でもある蓮見奏祐。
桜丘学園高等部の卒業生で、現在は大学部に通っているはずの二人がなぜか高等部にいる。
そのことに疑問を覚えるよりも、憧れの人をこんな間近で見られたことに栞はとても興奮して、手に持っていたお弁当箱を落とした。
その音に気付いたのか、二人が栞の方を振り向いた。
憧れの凛花が栞を見つめている───。
そんな状況に栞はとても混乱した。
「な、ななななんで…!? え? え? なんで…? あ、もしかしてこれは夢…? うん、そうに違いないわ。でも一応試して……あれっ? い、痛い…?!」
一人で漫才をするかのように栞は自分の頬をつねり、思い切りつねり過ぎたのか、あまりの痛みに思わず涙目になった。
しかしその痛みが栞に、これは現実だということを教えていた。
「ああ…この痛み…夢じゃない…まさか、こんな事があるだなんて……私、今まで生きてて良かった…! 神様、ありがとうございます…正直、今まであなたの存在なんて信じていませんでしたが、今日からはあなたの存在を信じ、毎日祈りを捧げます…! 神様ありがとうございますありがとうございます…!!」
今まで信じたこともない神様に栞はお礼を言った。
もしかしたら私、死ぬのかもしれないとも思ったが、これで死ねるのなら本望だとも思った。今なら死んでも何も惜しくない。
一人で暴走している栞に、凛花と奏祐は戸惑った顔をしていたが、それにも栞は気付かない。
そんな栞に凛花は優しく声を掛けた。
「ねえ、あなた」
「は、はい…っ?!」
突然憧れの凛花に話しかけられ、栞は大袈裟に反応してしまった。
そんな自分の反応が恥ずかしくて、栞は顔を俯かせた。変な反応をしてしまったにも関わらず凛花は優しく栞に声を掛けてくれる。
「失礼だけど…あなたのお名前は葛葉栞さんで合っているかしら?」
「は、はい…私が葛葉栞です…」
「まあ、やっぱり。申し遅れました。私は神楽木凛花と申します。ご存知かしら。神楽木悠斗の姉なのだけれど…」
「し、知ってます!」
「まあ。知っていて貰えて嬉しいわ。あ、こちらは蓮見奏祐様。私の婚約者ですわ」
「初めまして、葛葉さん」
「は、はじめまして…」
なぜ栞の名を知っているのかと言う疑問は、憧れの二人に話しかけられたことに興奮している栞に浮かぶはずもなく、栞は顔を真っ赤にさせてもじもじとした。
色々話したいのに、何を話せばいいのかわからず、どうしようどうしようと栞は未だにパニック状態だった。
(と、とりあえず落ち着かなくちゃ…落ち着け、落ち着くんだ私…!)
落ち着けと自分い言い聞かし、すーはーと深呼吸を繰り返すと少しだけ落ち着いた。
栞は軽く頭を振って雑念を払うと、もっと早く浮かばなければならない疑問が浮かんできた。なので、栞は恐る恐る凛花たちに質問をした。
「あ、あの…お二人はなぜ高等部に…? かぐら…悠斗様にご用ですか?」
もっと最初に聞くべきだった質問に、今さら、という顔をせずに、凛花はにっこりと微笑んだ。その微笑みを見て、栞はぼうっとしてしまう。
「別に、悠斗に用があるわけではないの」
「え…? なら、どうしてこちらに…?」
「少し気になることがあってね」
凛花にとって代わるように奏祐が質問ににこやかに答えた。
栞は奏祐はもっと冷たい感じなのかと思っていたので、にこやかに答えて貰えて驚くと同時に戸惑った。
(蓮見様がそんな風にするのは凛花様の前だけいいのに…)
そんなファン心理を知ってか知らずか、奏祐はにこやかに栞と会話を続ける。
「君はよくここに来るの?」
「え、ええ…ここは人目につきにくくてゆっくり出来るので…。あ、ここは蓮見様も高等部に通っていらした時に使っていた場所なんですよね?」
「そうだけど…それは誰から?」
「かぐ…悠斗様からです」
「へえ…君は悠斗と仲が良いんだね」
「いえ、そんな…仲が良いというほどでは…」
「仲が良くない相手に悠斗がそんなことを話すなんて俺には想像がつかないけど」
「…そう、かもしれませんね。私は、その……悠斗様にはよく気に掛けて頂いていますので…そのよしみで…」
悠斗との関係を言い表すのは難しい。
まさか、神楽木姉弟の禁断愛を描いた小説を書いていて、それが見つかってしまったため、目を付けられているだけだなんて言えるはずもない。そのモデルとなっている本人と、そのモデルの恋人の前では、絶対に言えない。
後ろめたい気持ちが思い切り出てしまい、栞は露骨なほど視線を彷徨わせてしまった。嘘を言っているわけではないが、ちょっとした負い目を感じてしまう。その負い目をきっと奏祐は見抜いているのだろうな、と栞は思い、どう誤魔化そうかと頭を抱えた。
その時、助け船を出すように凛花が奏祐との会話に割って入ってくれた。
「まあ、そうなの。弟がお世話になっているようで」
にこにこと可愛らしく微笑んで言う凛花にまたもやぼうっとしかけ、栞は慌てて意識を戻す。そして必死に否定をした。
「お、お世話だなんて、そんなこと! むしろ、私の方がお世話になっているんです」
「そうなの?」
「はい。あ、あの…調べ事があって高等部の方に来られたんですよね? 私なんかと話をしていても大丈夫なのですか…?」
「そうね……なにか問題がありますか、奏祐さん?」
「いや。特に何もない」
「…ということなので、気にしなくても大丈夫」
「は、はあ…」
「それとも…こうして私たちとお喋りをするのは迷惑だったかしら…?」
「迷惑だなんて、とんでもありません! 私、凛花様たちにすごく憧れていて…だからこうしてお話しできて、とても嬉しいです」
ここぞとばかりに、憧れていると真剣に凛花たちに言うと、凛花はかあっと顔を赤らめ、小さな声で「ありがとう…」とお礼を言った。どうやら照れているようである。
そんな様子もとても可愛らしく、栞は妄想の世界に旅立ちそうになったその時、それを阻止するかの如く凛花と奏祐に声が掛けられた。
「姉さんと蓮見さん…!?」
その声にはっと振り向くと、目を見開いて驚いた様子の悠斗が立っていた。