#4
栞がノートを失くした翌日の昼休みにさっそく悠斗は動き出した。
「葛葉さん、いるかな?」
教室の片隅でこっそりと読書を楽しんでいた栞は、突然の呼び出しに体を震わせた。
クラス中の人が栞を注目している気がする。地味で目立たなくて平凡な栞は誰かに注目されていることに慣れていない。手と足の動きが一緒に出そうになりながら、栞がなんとか皆の痛いくらいの視線から耐え抜き、栞を呼び出した人物のもとへと参じた。
「…私に何かご用でしょうか」
「用がなければわざわざ呼んだりしないよ?」
「……」
にっこりと微笑む目の前の人物──神楽木悠斗の台詞に、栞は遠い目をしたくなった。
悠斗の微笑みを見て、クラスのあちこちから黄色い悲鳴が上がるが、そんなことは今の栞にとってはどうでもよいことだった。
「ちょっと話があるんだけど、今、時間は大丈夫?」
「だ、だいじょ、ぶです…」
大丈夫じゃないと言おうとしたが、このまま席に戻るのも怖いし、何よりも目の前にいる悠斗が怖い。
なので、渋々と栞は頷き、悠斗のあとに続いて歩いた。
悠斗の後ろを歩いていると、あちこちから視線を感じて居た堪れなくなった。皆、興味深々といったように栞たちを見ている。
これはいったい何の試練だろうか。栞は昨日うっかりノートを落としてしまった迂闊な自分を呪った。
痛いくらいの視線に耐え抜き、悠斗に連れて来られたのは生徒会室だった。
生徒会室は生徒会のメンバーでなければ、普段は入れてない部屋だ。そんな場所に悠斗と二人っきり。普通ならドキドキするところだが、残念な事に栞には嫌な予感を覚え、違う意味でドキドキしていた。
「…あの、それで私に用というのは…」
「もちろん、昨日の事だよ。ねえ、オレに教えてくれる気になった?」
「……」
出口を塞ぎ、にっこりとした怖い笑みを浮かべて栞に問いかける悠斗に対し、栞は黙り込んだ。
栞はなんと脅されようと、文芸部のサイトのことを悠斗に話す気はないのだ。あれは一部の生徒たちの癒しでもあるし、栞にとっても大切な欠かせない場所だ。そんな場所を失うわけにはいかない。
そう、すべては萌えのためなのだ。
「一晩じゃ考えは変わらなかったようだね」
「……あの、神楽木様」
「なに?」
「私のノートを返してください」
昨日、栞は結局ノートを返して貰えなかった。そのため、書こうと思っていたネタが思い出せず、昨日はモヤモヤとして、執筆が進まなかったのだ。
「返さない」
「ど、どうしてですか…!?」
「どうして? そうだな、一言で言えば不愉快だから、ってところかな」
「ふ、ふゆかい…」
栞は悠斗の不愉快発言にショックを受けた。
だが、考えてみれば悠斗が不愉快に思うのも無理はない。誰だって自分をネタにした小説を、しかも実の姉との恋愛話を勝手に想像し書かれるのは不愉快に思うだろう。
でも、あれは栞の物なのだ。不愉快だからと言って、返さなくていいという理由にはならないはずだ。
「…確かに神楽木様にとって、あのノートに書かれた内容は不愉快なことなのかもしれません。でも、私にとっては生き甲斐なんです。もう二度と神楽木様の目に触れないように気を付けますから、見逃して貰えませんか?」
「生き甲斐、ね…」
悠斗は考えるような仕草をし、栞を見つめた。
「君は、どうしてあれを書こうと思ったの?」
「どうして、ですか…? そうですね…一言で言えば、恋です」
「……こ、恋?」
「私、中学三年生の時、初めて高等部の学園祭に行ったんです。その時に仲睦まじいお二人の姿を見て、素敵だと憧れました。人に聞いたらあれは神楽木家のご姉弟だと聞いて、あんな素敵なご姉弟がいらっしゃるのだと、どきどきして高等部に入学しました。高等部で再び見かけたお二人は相変わらず仲睦まじくて。私は昔から読書が好きでしたから、文芸部に入部しました。そしたらそこには私と同じように感じている方がいて…そこから妄想が膨らみ、小説という形になったのです」
「へ、へえ…」
悠斗は曖昧な笑みを浮かべた。
姉と一緒にいるところを見て憧れた。そう言われて悪い気はしない。
しかしそれと恋になんの関係があるのだろうか。
そもそも、どうしてこういう小説を書く事に至ったのかが全く理解できない。
小説を書くのは別に構わない。ただ、その内容が問題なのだ。これが普通の姉弟愛を描いたものだったなら、悠斗もここまで小うるさく小説の在り処を問い質したりしない。普通の姉弟愛ではない上に破廉恥な内容だからこうもうるさく聞いているのだ。
悠斗は憧れると言われて喜ぶべきなのか、それともどうしてこうなったと突っ込むべきなのか悩んだ。
「お二人はまるで物語の騎士とお姫様のようで、本当に私の憧れなんです。去年は遠くからお二人の姿を眺めているだけで満足していたのですけれど、ほら、凛花様が卒業されてしまったでしょう? なので萌えが不足してまして、それを補うために創作活動をしているんです」
「そ、そうだったんだ…」
「はい!」
にっこりと嬉しそうに頷く栞に、悠斗はなんと言葉を返せばいいのかわからない。
「萌えは人生に必要不可欠な要素です。それがなくなったら生きていけません…ですので、どうか見逃してください!」
お願いします、と深く頭を下げた栞に、悠斗は返事をせずに別の問いかけをした。
「……ねえ、その小説を書いている仲間に、男もいる?」
「へ? いますけど…」
今の質問が見逃すことと何の関係があるのだろう?
そう疑問に思いながら肯定すると、にっこりと綺麗な笑みを悠斗は浮かべた。
「なら、駄目」
「ええ!? な、なんでですか!?」
「なんでも」
「そこをなんとか…!」
「無理」
「お願いします、どうかお慈悲を…!」
「…なんかオレが悪代官みたいになってるけど…でも却下」
「そ、そんなぁ…」
ばっさりと断れた栞はしゅんと肩を落とす。
なんとなく、見逃してくれそうな気がしていたのに。何か回答を誤っただろうかと栞は先ほどの自分の台詞を思い出してみた。しかし、何が悪かったのかさっぱり思いつかない。
「…姉さんのあんな破廉恥な姿を男に想像されているなんて、許せるわけがない」
「………」
ぼそりと呟いた悠斗の台詞に、自分の回答の何が間違っていたのかを栞は悟った。
(正真正銘のシスコンだわ…周りから聞くのと、本人から直接聞くのではだいぶダメージが違うというか…すごく残念というか)
そんな失礼なことを栞は考えつつも、悠斗のシスコンぷりを知っていたのに、それを考えずに迂闊に答えてしまった自分の愚かさを嘆いた。
しかし嘆いたところで前言撤回ができるわけでも、時間を巻き戻せるわけでもない。なんとかして見逃して貰わなくてはと、栞は意気込む。
神楽木姉弟の話を待っている人がいるのだ。その人たちのためにも、栞は絶対にサイトの事は黙秘しなくてはならない。
───すべては萌えのために!
栞は使命感に燃え、きりっとした顔で悠斗を見上げた。
「私、絶対に言いませんから」
「…大人しそうに見えて強引だね、君」
「私だけのことではありませんので」
栞と悠斗の視線が交わり、睨み合う。
栞は内心ドキドキとして冷や汗をかいていたが、それを悟らせないように必死に悠斗から視線を外さなかった。
どれくらい、睨み合っていたのか。不意に悠斗がふっと笑った。
「オレ、君みたいな子は嫌いじゃない」
「それはどうもありがとうございます。でも教えませんから」
「…ふぅん? じゃあ、なんとしてでも口を割らせないと」
にっと意地悪そうに笑う悠斗に栞はときめきを押さえることが出来なかった。
(そう、こんな感じに意地悪そうに笑って「素直じゃない姉さんにはお仕置きが必要だね。ねえ、どうされたい?」って悠斗様が仰るの。「ち、違うの…! 聞いて悠斗」「言い訳なんて聞きたくないよ」…なんて! 壁ドンして凛花様に詰め寄る悠斗様! 追い詰められる凛花様に悠斗様は顔を近づけて……きゃああ! やだもう素敵! 次の話には絶対この流れいれよう…!)
「やだもう…萌えをありがとうございます…ありがとうございます…!」
「……君、大丈夫?」
〝君〟と〝大丈夫〟の間に『頭』という単語が見え隠れした口調で悠斗は問い掛けた。
とても奇妙なものを見るような、憐れむような、残念なものを見るような、そんな顔をして悠斗が栞を見ている。そんな悠斗の表情に栞はハッとする。
悠斗の意地悪そうな笑みにうっかりやられて妄想の世界に入ってしまった。栞の悪い癖である。
「大丈夫です。私は平常です」
「……うん、君はそうなんだろうね…」
悠斗は乾いた笑みを浮かべた。悠斗のその表情に栞は首を傾げる。
しかし新たにネタが降って来た栞はすぐにそちらの妄想に夢中になり、「…なんだか似てるなあ…」という悠斗の呟きは栞には届かなかった。




