#3
栞はペロリとあれが神楽木姉弟のことであると吐いた。
そして恐る恐る悠斗の反応を伺う。
「…やっぱり」
悠斗は少し呆れたような顔をしたあと、またすぐにあの綺麗な怖い笑みを浮かべた。
「消したと思ったのに…まだ根強く残っているのか」
「…え?」
不穏な悠斗の台詞に栞は瞬きを繰り返した。
栞の聞き間違いでなければ今、悠斗は〝消した〟と言った。
(もしかして…先輩方にかかった謎の圧力って…)
ちらりと悠斗を見ると、相変わらず悠斗は怖い笑みを浮かべており、栞は自分の予想は外れていないと確信した。
「2年3組、葛葉栞──それが君の名前だろ?」
「え…そ、そうですが…」
「なんで名前を知っているのかって顔しているね? オレはこう見ても生徒会長をやっているんだ。生徒の顔と顔くらい覚えている」
「えっ? ぜ、全員ですか…?」
「高等部だけだけどね」
さすがに小学部や中学部、ましてや大学部はわからないと肩を竦める悠斗に、栞は呆然とした。
悠斗は簡単そうに言っているが、高等部だけでも800人近くの生徒が在籍している。それだけの人数の顔と名前を覚えるのは決して簡単なことではない。むしろ覚えている方が異常だと感じる。
とても優秀だとは聞いていたが、ここまでだとは思っていなかった栞は純粋に感心した。
よく目立つ生徒の顔と名前は憶えていても、栞のような目立たない地味で平凡な生徒のことを悠斗が知っているとは、夢にも思わなかった。
「このノートに書いてあるものの本編…どこにある?」
「え…? ほんぺん……本編!?」
「そう。このノートに書いてあるのはほんの一部だけで、もっと長いやつが他にもあるんでしょ? それはどこ?」
「そ、それは…」
「言った方が君のためになると思うよ?」
相変わらず綺麗な笑みを浮かべて、その笑みとは正反対の怖い言葉を吐き栞を脅す悠斗に、栞は体を震わせて俯いた。
悠斗は礼儀正しく、誰に対しても優しい。それが悠斗に対する周りの評価で、悠斗自身もそうあるべきだと考え、そう思われるように行動していた。
ところが、今の悠斗は大多数の生徒が悠斗に持っているイメージとは正反対の行動を取っている。栞が体を震わせて俯いたのも、イメージとは違う悠斗に失望したからだと悠斗は判断した。
だからと言って、栞に対して取り繕おうとは思わない。栞の悠斗に対する心象よりも、栞が持っているデータの方が悠斗の優先順位は高い。
それも敬愛する姉、凛花のため。栞のノートに書かれていた内容を見る限り、悠斗と凛花の乱れた描写がある可能性が高い。自分だけならまだ許せるが、姉のそんなあられもない姿を想像されるのは、悠斗には断じて許し難かった。
とはいえ、少し脅し過ぎたかもしれない、と悠斗は反省した。
怖がらせ過ぎて逆に口が開けなくなっても困るのだ。栞にはこのノートのおおもとの場所を教えて貰わなければならない。そのために、少し優しい言葉を掛け安心させようと悠斗は考えた。
「葛葉さん───」
「……………………ぃ」
「え?」
栞は小さな声で何かを呟いた。しかし悠斗はその言葉を上手く聞き取れず、思わず聞き返した。
しかしすぐに悠斗は後悔する。聞き返すんじゃなかった、と。
「……イイ! すごくいいです、その表情!」
「……は?」
「普段はとても温厚で優しい悠斗様が、愛しい凛花様のために誰かを脅し、そんな姿を見られてしまって二人はすれ違うの。見られた事を迂闊だとは思っても脅したことに関しては微塵も後悔していない悠斗様と、無理に悠斗様に誰かを脅させてしまったことを後悔する凛花様。すれ違ってしまった二人だけど、やっぱりお互い想う事はやめられなくて、仲直りをする……ああっ、イイ! すごくいいです!!」
「……」
俯いていた顔を上げ、キラキラとした瞳で悠斗を見つめる栞に、悠斗は絶句した。
栞は興奮しているのか、若干鼻息が荒く、頬は先ほどよりも上気していてほんのりとピンクに染まり、うるうるとした目でうっとりと悠斗越しに何かを見ているようだ。
放心している悠斗に気付いていないのか、栞はマシンガントークのように自分の妄想を語る。その勢いの良さに、さすがの悠斗も引いた。
しばらく栞の妄想を呆然として聞いていたが、放心している場合じゃないと思い直し、悠斗は栞の話が途切れたのを見て、話を元に戻すのを試みた。
「ああ…なんて素敵。まさに禁断の恋…なんて甘美な響きなのかしら…!」
「……うん、まあ、それは置いておこうか」
いや置いておくのはまずいか、と内心で悠斗はツッコミながら、引きつりそうになりながらもなんとか笑みを作る。
そんな悠斗を見て、栞は一瞬きょとんとした顔をしたあと、今の現状を思い出したのか、さっと顔色を変えた。
「ご、ごめんなさい…私の悪い癖が出てしまったようで…」
「いや…まあ、うん。大丈夫、知り合いに似たような人がいるから…」
はは、と笑った悠斗の目はどこか虚ろだった。
その知り合いとは仲良くなれるかもしれない、と栞は内心で思いながら、現在栞が置かれている状況を思い出し、まずいまずいと焦った。
逃げ道を探してみるが、どう逃げたとしても目の前の人物から逃げきれるとは思えない。悠斗の方が栞よりも素早いし、反射神経も良いことは想像でき、逃げようとしたところでまた捕まることは容易に想像できた。
なら、大声を出して助けを呼ぼうかとも思ったが、地味で平凡な栞の言うことと、皆から慕われている生徒会長様の言うこと、どちらを信じるかといえば、ほとんどの人が悠斗の言うことを信じるだろう。
つまるところ、栞に逃げ道はない、ということだった。
「…それで。そのノートの続きはどこにあるの?」
ごっほん、とわざとらしく咳ばらいを悠斗はして、怖い笑顔を浮かべて再度、栞に問いかけた。
サイトのことを教えるわけにはいかない。サイトを悠斗に教えたらきっとサイトはなくなってしまう。あのサイトは一部の生徒たちのオアシスとなっているのだ。そんなオアシスを栞のせいで失うわけにはいかない。だから、なんとかして悠斗を誤魔化さなくてはならない。
「…ノートの、続きは……私の頭の中に…」
「は?」
「で、ですから、私の頭の中にあるんです…まだあれは続きで」
「…ねえ、それ本気で言ってるの?」
悠斗の声が一段と低くなった。
雰囲気は明らかに怒っているのに、その表情だけは変わらない。それが余計に栞は怖く感じた。
「ひっ…」
「あのノートの中をじっくりと読んだわけじゃないけど、いくつもの話があるようにオレは感じた。そのうちのどれかは没になったのかもしれない。だけど、いくつかはそのまま完結させてあるんだろう? ノートに書かれていたネタはたくさんあったからね」
「そ、それは…その…」
「まだ恍けるつもり? ふうん…ならオレにも考えがある」
「考え…?」
なんだかとんでもなく嫌な予感がする。
栞はその予感に身をぶるりと震わせて、未だに綺麗な笑みを浮かべている悠斗を上目遣いに見つめた。
「今はオレに教えたくないようだから、今は引いてあげよう。だけど…」
悠斗はゆっくりと栞に顔を近づけた。
段々と近づいてくる悠斗の整った顔に、栞の体温が上昇し、心臓がうるさいくらいに音を立て始める。
(も、もしかして…キスされちゃう!?)
栞はぎゅっと目を瞑る。そして自分のこの立ち位置を凛花に変えてみるという現実逃避めいた妄想をして心を落ち着かせる前に、悠斗は低く囁いた。
「君自らオレに教えたくなるように仕向けてみせる。───どんなことをしてもね」
その台詞の恐ろしさと自分の勘違いの恥ずかしさに栞が思わず目を開くと、悠斗は悪魔のように微笑んでいた──。