恋の嵐をキミに
諸事情により短編としていたものを入れました。内容は変わっていません。
哀しい調だった。
悲痛に満ち溢れた音。その音が心に染み込んで、いつしか私の目からは涙が滴り落ちていた。
「哀しい…」
透き通った美しい音色なのに、私にはピアノの、演奏者の慟哭に思えてならなかった。
私の目の前にあるグランドピアノはベヒシュタイン。ピアニストから高い評価を得ている高価なピアノは、少しの間ピアノを習っていた程度の私には到底弾きこなせるはずのない代物だ。それをいとも簡単に弾く、細くて長い綺麗な指をもつ彼に訳もなく私は嫉妬したくなる。
彼は国内でも屈指の音楽大学に軽々と受かる程の高いレベルを有した学生だ。将来を有望視されている彼と、才能の無さ故に音楽の道を諦めた私とでは天と地ほどの力量差があるというのに、自分の奥底から沸き上がるのは激しい妬心と劣等感。人の心を指一つで揺り動かすことができる彼が眩しくて、たまらなく悔しかった。
何より、その高みに一緒に登ることのできなかった自分が情けなかった。
音は次第に甘く優しく囁く恋人の睦言のように変化していく。泣き疲れた恋人をあやし、涙をそっと拭うように、先程までの悲痛さは霧散していた。
私は彼の横顔を見つめた。昔二人で集めたビー玉みたいに透明感のある目は閉じられ、薄く開いた唇は頻りに何かを紡いでいる。今こうして演奏することに陶酔しているのか、はたまた別の所に意識があるのか、私には判断ができない。ただ、一つ言えることは彼にとってピアノを弾くことは息をするのと同じことで、だからこそ天才と呼ばれるのだと。
その指は、私に触れることはないのに。
どうしてピアノを、恋人に触れるように弾くの。
音が柔らかく艶やかに広がっていくほど、今度は私の心からピアノへの嫉妬が溢れ出していく。自分の知らない自分を引き出されるような感覚に怯えながらも、それは止まらない。
妬ましくて、憎らしくて。
でも、愛している。
彼の紡ぐ音も、彼自身も。
だから辛い。旅立つ彼を見送るのが悲しい。彼の隣に立つことのできなかった自分の能力が厭わしい。そして、愛しているものを妬み疎みたくなる自分が浅ましくて醜くて、たまらなく嫌になる。
そうよ。私は貴方を愛してる。
誰よりも大切だわ。
だからこそ、貴方を笑って送り出すことを決めた。自分の本心など押し殺してしまえばいい。だって私たちは友達でしかないんだから。
「なのに、酷い」
しまい込んだ想いを白日の下に晒すように、彼の奏でる音が私を暴いていく。厳重に鍵をかけた心をこんな風に抉じ開ける。
音はいつの間にか止んでいた。
俺がピアノを弾くと、いつも彼女は泣きそうな顔で微笑む。痛みを堪えるようなその目が、不自然なくらい綺麗に弧を描く唇が、俺を責める。彼女がいるから、初めて出会った時に見せてくれた彼女の笑顔が見たいから、だからピアノを弾いているのに、俺が焦がれるように弾けば弾くほど、彼女は淋しそうに微笑うようになった。
彼女もかつてはピアニストを目指していた。
出会った頃の彼女のピアノは無邪気で、少女が軽やかに舞うみたいにあどけなさが見えた。それが少しずつ深みを増して、大人に変わっていった。少女が大人の女性へと美しくなっていくように、彼女の音も良い意味で変化をしていった。
成長の分からない俺の音よりずっと、潜在性のある音。
俺はその音を愛している。そしてそれを生み出す彼女を。
彼女に触れたいと、彼女の傍にいたいと、そう願っていたのに。彼女は俺を拒んだ。
多分、彼女にその自覚はない。俺と彼女は仲の良い友人の一人で、それ以上でもそれ以下でもないのだから。けれども彼女は間違いなく俺を拒んだ。俺の愛する音を奏でるのを止め、そしてピアノを捨てた。俺と彼女の唯一の繋がりを彼女は簡単に切り捨てた。
今、俺はそんな彼女のためだけにピアノを弾いている。
俺の中にある感情をそのままに、彼女に伝えるために。
俺の心を奪ったくせに、手の隙間から逃げていく彼女が憎い。
最愛の人に拒絶されたことが、たまらなく悲しい。
でも、いつも淋しげな彼女を慰めたくて包みたくて。本当は心のまま、彼女を愛していたい。
激しい想いは綺麗な慕情ではなかった。醜くて穢らわしい、劣情だらけの想い。言葉にしたら今度こそ彼女が逃げ出すだろうと思うほど、狂気じみている。
だから俺は俺の紡ぐ音で、彼女へ恋情を伝える。
出会った時から好きだ。
今も恋してる。きっとこれからもずっと、キミを愛するだろう。
こんなにキミしか見えないのに。
「好きだよ」
きっと彼女には聴こえない。でも伝えたかった。
この町を去る俺が、彼女の心に残ればいいのに。どんな形であれ俺の声を彼女に届けたい。
だって、これが最後なんだろ?
俺は目を開け、そして。
雷に撃たれたような何かが体の中を突き抜けた。
突然ピアノの音が止んだ。私は夢から覚めた思いで彼を見た。演奏はまだ終わっていなかったはずだ。彼が一度だけ聴かせてくれたあの曲ならば、この後に激しい濁流のような音の乱舞がある。心どころか体も全て、渦の中に放り込まれたみたいに激しく揺さぶられて、フィナーレまで一気に駆け上がっていく。この曲の見せ場と言っても良い部分を前に、何故手を止めてしまったのか。
訊こうとした私は信じられないものを見てしまった。
「なんで、泣いてるの」
彼の滑らかな頬には幾筋もの涙が伝っていた。彼はゆるゆると自分の頬に指を添え、そこで初めて自分が泣いていることに気づいたらしい。愕然とした表情で濡れた指を凝視するその目は、まるで世界が明日破滅すると言われた人みたいに絶望を滲ませていた。
「なんで、」
掠れた声が千切れ、そして嗚咽に変わる。
私は衝撃のあまり、息をすることができなかった。そしてその衝撃を掻き消すように次の衝撃が私を襲った。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ガンッという音と同時に部屋に響いた不協和音。私が今まで聴いてきた中で一番濁って痛々しい音。それが、先程まで美しい音を奏でていた指と同じ指が生み出したとは思えなかった。
再び感情を露に振り下ろされた指が、力任せにベヒシュタインの白鍵を強く叩きつける。体の中を針金で掻き回されるような不快感に眉をしかめた私に構うことなく、彼は鍵盤をガンガンと叩く。
「やめて!!指が!」
ピアニストの指は繊細だ。そんなに激しく叩いたら折れてしまうかもしれない。そうしたら彼はピアノを弾けなくなってしまうかもしれない。それだけはダメだ。許せない。
私は彼に駆け寄り、鍵盤を叩きつける彼の頭を抱き締めた。
「やめて!貴方の指が折れちゃう!!」
「……どうせ弾けなくなる」
「え?」
ポカンとした私の胸から顔を上げると、彼は虚ろな目で私を見上げた。
「今、気づいてしまったんだ。…俺はきっとピアノを弾けなくなる」
「どういう…こと」
「キミがいないのに、弾けない」
え………?
音が、遠くなっていく。
「キミがいなくなると思うだけで息ができなくなる。俺の音で笑顔にできないキミが、他の誰かによって笑顔になると思ったら気が狂いそうだ。キミが俺の傍にいない未来を認識した瞬間、指が動かなくなった。指がピアノを弾くのを拒んでいる」
自嘲的に唇を歪めた彼を、私は信じられない思いで見つめていた。狂気を孕む激情は生々しくて混沌としている。
なのにそれは、熱烈な愛の告白に聞こえて。
「キミが俺から離れていく。俺が愛しているキミの音を、消してしまった」
ぽつりと落ちたのは独白。
力無く下ろされた腕はだらりと椅子に落ちた。
「俺なんかより将来性のある音を捨てて、俺だけをピアノに縛り付けた。俺にとってピアノは、キミと繋がる道具でしかないのに」
「そんなことない…。私は貴方の音を愛しているの。私には才能が無かった。貴方と高みを見る力が無かったの」
「違う!キミのピアノは、常に成長していた!蛹から蝶が羽化するように、成長していた…これからももっと成長する。なのに、ピアノから、俺から逃げたのはキミだ!!」
彼は私の肩を掴み、体を揺さぶる。私はただされるがままになっていた。彼の叫びに、胸が引き裂かれていく。
「俺は」
いつしか腕が私の背に回り、私の体はそのまま彼の胸に引き寄せられていた。彼の腿の上に座らされ、きつく抱き締められる。
「キミが憎い。キミがたまらなく憎い。でも同じくらい愛している。キミが俺の世界から消えたら、俺はピアニストどころか俺じゃなくなる」
心臓がスタッカートを刻む。
「キミがあの日の約束を破ったと知った時、俺は崩壊し始めた。狂っていく自分を自覚している。その狂気を、どうしたらいい」
『二人でピアニストになろう』と約束した幼い日のことを彼がまだ覚えていたことに驚きつつ、私は澱んだどす黒い喜びが胸に溢れていくのを感じていた。
彼が心を揺らすのは私だけ。
天才と謳われた彼が、自身の音を私に捧げている。心から狂おしく愛する音を、彼を、彩るのが私だなんて、そんな幸福が他にあるだろうか。
「…なら、私のために弾いて」
「え?」
険しい表情が一転、あどけない少年のような顔をした彼が私を仰ぐ。
私は熱くなる胸を感じながら、小さく微笑んでみせた。
「私のためだけにピアノを弾いて。私は貴方の音が好き。私を置いて階段を駆け上がっていく貴方が好き。だから弾いて。遠くにいても分かるように」
どんなに離れても、貴方の音を感じられるなら、私は貴方を待っていられる。
彼の目から涙が再び溢れ出す。その涙を唇を寄せて吸い取ると、彼は頬を染めて口元を弛めた。
「キミが俺のことを待つために俺の音が必要なら、ピアノを弾き続ける。この音がキミへと繋がっていくように。俺がキミの所へ帰れるように」
涙で潤んだ瞳がキラキラと光を反射する。
「私の心を貴方が浚っていってしまったのだから、ちゃんと帰ってきてくれなきゃ困るわ」
私がいないと彼がピアノを弾けなくなるように、私も彼がいなければ何も感じられなくなる。歪んだ執着だと思うけれど、これが私たちの在り方なのかもしれない。
彼は私に顔を寄せると、返事のように唇を重ね合わせた。触れた熱は私の心を満たしていく。
「どんなことがあっても、帰る場所はここだけだ」
離れた唇から零れた言葉は力強く、まるで宣誓のようだ。
「なら、ちゃんと帰ってきて」
笑った私に、彼は嬉しそうに笑い返し、幼い仕草で頷いた。
「…この曲は、大切な人のために作ったものです」
ピアノを弾いた後、取材に来ていたテレビクルーに告げた俺は、小さく笑みを作った。
今弾いた曲は、彼女に愛を告げるためだけに作ったもの。激しくて哀しくて、でも幸せで。昔は彼女の前だけで弾いていた。
けれども今はこうして場合によっては他人の前でも弾くことがある。それはそうしてほしいと彼女が望んだから。
「今もテレビを通して彼女はこの曲を聴いてくれている」
身重で入院をしている彼女は、備え付けられたテレビで聴いているはずだ。目を閉じれば、幸せそうに微笑む彼女が見える。
「貴方は先程、私の原動力は何かと訊かれましたね」
俺の言葉を受けて片付けかけていたカメラを慌てて向けたカメラマンに苦笑しつつ、俺は鮮やかに笑んでみせた。
「私の最愛の妻ですよ。そしてその妻が与えてくれるもの全てが私の原動力です。妻だけが私をピアニストとして生かし、そして殺すことができる。昔からね」
これもテレビで流れているのだろうか。テレビを観ている妻が聞いたら何と言うのだろう。泣くだろうか、それとも微笑むのか。
いずれにしても、俺の言葉で彼女の心を満たすことができるのならこんな幸福はない。
「この『恋の嵐』は妻に捧げた曲。彼女のためだけです」
テレビクルーの動揺に、俺は笑った。明日のニュースの話題にされるのかもしれない。今まで俺は既婚者だということは伏せてきた。それは彼女が望んだからだ。
もしかしたら批判もあるかもしれない。けれども言わずにはいられなかった。未だに俺の心を信じない彼女に、たった一つの俺の声を届けるために。
「妻を愛してます。ずっと」