一夜の夢を見るのなら(後編)
逃げたお前が、悪い?
「やっと、手に入ったと思ったのに。すっげぇ幸せな気持ちで眠って朝…目が覚めたら、黒澤さんいないし」
え?
「その時の俺の気持ち、分かるか?」
暗い光を宿した目がゆらりと揺れる。
「許せないと思った。あんなに幸せそうな顔をして抱かれて、処女のくせして俺を素直に受け入れて、俺の…俺の名前を切なげに何度も呼んだのに。幸せの絶頂から不幸のどん底に叩き落とした黒澤さんが許せなかった。
しかも今日、まるで金曜日のことなんか忘れてるみたいにいつもどおりで、黒澤さんにはあの夜のことは無かったことなんだと思ったら、身体が沸騰しそうで」
ふっと自嘲的に微笑う彼。こんな風に笑う姿なんて、一度も見たことがない。
傷ついた目をした彼を見たことなんて、なかった。
「………だって、萩野君…彼女いるでしょう?」
動揺と混乱で考えがまとまらない。何か言わなければと、圧されるように呟いた問いに彼は目を丸くする。
「彼女?」
「うん。噂になってたもん、可愛い彼女がいるって」
金曜日の飲み会だって、彼の恋人がどんな人か同僚の男性陣がその話を酒の肴に盛り上がっていたではないか。飲み会の度に各々の恋人や妻の愚痴やら惚気やらを話すのがうちの部署の定番で(仕事上、外で仕事の話ができない)彼だってその話に混ざっていた。
彼はしばらく考え込んでいたが、やがて合点がいったのか呆れた顔で私を見遣る。
「…飲み会での話なら、あれはちょっとした嫉妬によるものだから。俺が黒澤さんをかっさらうのが気に食わない奴等が言ってるだけ。黒澤さん、男たちに人気あるんだよ」
「でも、萩野君だって否定してなかったじゃない!」
「最初はしてたけど、途中で面倒になったんだ。それにあんな風に牽制したくなる気持ちも分からない訳ではないし」
さらりと言ってのけるが、否定してくれなかったせいで私は長い間、悶々と悩んでいたのに。
恨みがましく見上げると、さすがに申し訳ないと思ったのか「悪かった」と彼は頭を下げた。
「俺にはこの数年、彼女はいない」
「…私は、萩野君には彼女がいて、その彼女と勘違いされて抱かれたと」
だって彼は私のことを想ってるなんて素振り、一度もしたことがない。
ふと見れば彼は何故かポカンとしている。
「私、変なこと言った?」
「いや…抱いてる時、ちゃんと明日香って呼んでたのにどこに彼女と勘違いする要素があったのかなと」
「アスカって彼女の名前じゃないの?」
「彼女いないから。…黒澤さんの名前に決まってる。どうしてそんな曲解するんだ」
やや脱力した様子の彼に、私の肩からも力が抜けていく。どうも私たちの間にはいくつか認識の違いがあるらしい。
「あの夜、萩野君は私を抱いたつもりだったの?」
誰かの代わりじゃなく、私を。
彼は真剣な面持ちで頷くと、私の頬に手を滑らせた。
「あぁ。酔ってるフリをして、酔った黒澤さんを抱いた。もしも朝、拒絶をされたら酒のせいで起きた事故だとでも言えば傷つけずに済むと思ったんだ。…俺、ちゃんと覚えてる。黒澤さん…明日香の表情も、声も、仕草も。明日香が好きだ、大切だって…もしもこれが最後だとしても忘れないようにって抱いたから」
彼の言葉で、あの夜向けられたもの全ての意味が変わっていく。私に幸福を与えてくれたものは、他の誰かじゃなく私自身に向けられたものだったんだ。
そう実感できるほどに、今私を捉えて話さない闇色の瞳は、あの夜のように熱をたぎらせていた。
夢じゃなくて良いんだ。ぼんやりと考えれば、とろりと身体の奥から熱が溢れ出してくる。
次から次へと零れ落ちていく涙が止まらない。
「…避妊、しなくてごめん。忘れた訳じゃなくて、子供ができれば良いと思ってやった。子供ができたら責任を取る形でも明日香を捕まえられるって、自分勝手なこと考えてた。本当にごめん」
私の涙に何を思ったのか、彼は慌てるように言葉を重ね、私の頬を両手で包み込む。その優しい温もりに涙が更に溢れ出した。
少し捻れた思考ではあるけれど、そこまでして私を手に入れたいと思ってくれていた事実がどうしようもなく嬉しくて。大好きな人に愛されている現実に、こんなにも自分が満たされるなんて思わなかった。
「ごめん…身体、大丈夫だった?初めてだったのに辛かっただろう?」
「うん…」
オロオロする姿は普段の落ち着きはらった立ち振舞いとは全然違う。それが彼の想いが本物だという何よりの証拠な気がした。
彼の手に自分の右手を添えると、彼ははっとしたように私の目を見た。私だけを映してほしいと願った瞳には、泣きながらも至極幸せそうに微笑む私が映り込んでいる。
「萩野君、私…ずっとずっとあなたが好きなの。酔ったフリして、彼女の代わりで良いから一夜の思い出を求めるほど、好き」
言いたくて、でも言えなかった想いがやっと言葉になる。
彼は息を飲んで、そしてその滑らかな頬に朱を走らせた。
「…夢じゃないよな」
ぽつりと落ちた独白はひどく間抜けで、私は思わずクスクスと笑ってしまう。
「私は夢だなんて嫌だよ」
「俺も。でも夢みたいだ」
コツンとくっつけられる額。至近距離に見える彼の顔に戸惑いつつ、その顔が柔和に綻ぶのが分かると目が離せなくなってしまう。心底嬉しそうな笑顔が、私の裡に染み込んで優しく細波を立てて過ぎていく。
やっぱり好き。
どうして思い出だけを抱いて忘れられると思ったのだろう。部署が変わって会えなくなっても私はきっと彼を忘れられる訳なんかなかった。
少しだけ背伸びをして、私から彼の唇にキスをする。あの夜の始まりのような触れるだけのそれは、悲しみじゃなくて新たな幸せを運んできてくれる。
「俺も、ずっと明日香が好きだった。本当に好きだ。…俺と付き合ってください」
唇をほんの少しだけ離して彼が告白してくれたのだが、吐息が唇を擽るものだからこそばゆくて身体の奥が熱くなる。
真っ赤になって何も言えずにいる私にクスリと笑った彼はもう一度キスをすると、そっと私を抱き締めてくれたのだった。
情報管理部の部屋には防犯カメラがあり、いくらカメラを遮るように彼が私に向き合っていたとしても長い間その状態でいると不審がられるということで、私たちは早々に退社した。
会社の外に出てからどちらともなく指を絡めて手を繋ぐ。想いを確認するどころか一足飛びに身体の関係を結んでしまった私たちにとっては初めての行為で、なんとなくむず痒い気持ちになる。
それは彼も同じらしく、いつもなら適当な話題を振ってくれるのに今日は無言だ。どこへ向かうとの意思表示もなく、ただ歩き続けた。
目の前に見えてきたのは、彼のアパート。昨日は真っ暗でよく分からなかったけれど、クリーム色の割と新しそうなアパートだ。
彼はアパートの前で立ち止まると徐に私に向き直った。
「明日香にお願いがある」
彼の中では定着したらしい名前呼びに顔が熱くなりながらも、真面目な表情で見下ろしてくる彼の言いたいことが分からなくて私は首を傾げた。
「なぁに」
「あの、こんなことばかり考えていると軽蔑されそうで怖いんだけど…もう一回、ちゃんと抱かせてほしい」
「え、え?」
ちゃんと抱かせてほしいって…
告げられたお願いが理解できると、私の全身は沸騰した。
「素面で、明日香の気持ちがあると分かった状態で、抱きたい。やり直したいんだ。誰かの代わりだと思って抱かれた悲しみを忘れるくらい、たくさん明日香を愛したい」
「萩野君…」
「ちゃんと避妊もする。明日香が嫌だと思うことはしない。だから、俺にチャンスをくれないか」
真摯な声音には、嘘は見当たらない。言い募る声が少しだけ震えているのが分かって、私は彼の腰に腕を回して抱き締めた。
「あの夜も、私は幸せだったんだよ。でも辛かった。
…私も萩野君の気持ち、ちゃんと感じたい」
愛されているってことを身体で感じたい。
「萩野君、大好き」
「っ!」
「私、まだ初心者だから…優しく抱いてね?」
顔を胸に押しつけると、彼が私を強く掻き抱いた。ぎゅうぎゅうと締め付けられて少し苦しいけれど、その痛みさえ彼がくれるものなら嬉しい。
「きゃっ!ちょ、」
身体が離された、と思った次の瞬間、私は彼に横抱きにされていた。いわゆるお姫様抱っこで、私は恥ずかしさで身悶えする。
言葉もなく、突然私を抱き上げた彼は私の抗議など無視して自分の部屋のドアの鍵を開け、一度私を床に下ろす。そして靴を脱がせてドアに鍵をかけた後、また私を抱き上げ、そのままベッドに横たわらせた。
あまりの早さに目を瞬かせる私に小さく笑みを溢しながら、あの夜と同じように彼は私の身体を跨いで両の手のひらを重ね合わせてベッドに縫いつける。
「明日香…」
掠れた声に潤んだ瞳。
何一つ変わらない、あの夜の再現のような現状に私の心臓は早鐘を打っている。
「愛してる。大切にするから」
ふわりと微笑んで落とされたキスが、胸を震わせる。
なんて幸せなんだろう。
「私も智君を愛してる」
始まりは偽りからだった。酔ったフリ、なんて逃げ道を作って繋がった関係。
それでも、動いたからこそ続いた未来がある。
彼がくれる愛を必死で受け止めながら、私は何度も愛を囁く。やっと手に入れた彼に想いを伝えることに何の躊躇いがあるだろう。
「愛してる…」
そう呟いて彼の首に腕を回し、頬を重ね合わせる。それだけで胸が震えて仕方ない。
一夜の夢が、現実に変わっていく。
夜はまだ始まったばかりだ。