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一夜の夢を見るのなら(前編)




好きなのに。

好きって言いたいのに。

あなたを想うほど言葉が見つからない。




あなたが好き。




愛される幻を望むくらい、誰よりも大好き。




だから



なけなしの勇気を



どうか拒まないで。






お酒に呑まれた結果、とんでもない相手と過ちを犯したり、失態をして他人に迷惑をかけたり…なんてことは決して珍しくない。それをお酒の魔力だと言う人もいる。理性を狂わす媚薬は恐ろしいほど効力を示すのだ。

とはいえ、私にはこの魅惑的な液体の効果は現れることはない。どれだけ浴びるように飲んだって酔うことなど皆無に等しい。



なのに私は、一夜の過ちに身を投じようとしている。それも酔ったフリをして。



私の身体を跨ぎ、手のひらを重ねてベッドに押さえつける男の目は水気を多く含んでいて艶やかだ。平素ならば優しい笑みを浮かべている唇からは熱っぽい吐息に混じって濃厚な酒の匂いが吐き出される。それだけで、彼がかなり酔っていることが手に取れた。

飲み会の後、足取りもおぼつかない彼を彼の住むアパートに送り、自分は帰るはずだった。なのに私は今、彼のベッドに寝転んでいる。

そう仕向けたのは私であるし、彼が望んだのは恐らく私ではない。彼には彼女がいて、腕の中に囲っていたいのも彼女のはずなのだ。チクリと胸は痛んだが、このチャンスを逃がしたくはなかった。

彼は目を細め、小さく小さく言葉を紡ぐ。

「あすか…」

甘く囁かれた名前に大きく心臓が鳴る。

私の名前は明日香、だ。けれども彼には『黒澤さん』と名字でしか呼ばれたことがない。きっと彼女の名前もアスカなのだ。

私のことを呼んだ訳じゃない。

頭では理解しているのに、初めて名前で呼ばれたことに喉を突き上げるような衝動が生まれて、思わず泣きたくなりながら私はできるだけ自然に見えるように微笑んだ。

今、心の裡を覗かれたら、私は簡単に崩れ落ちていく自信がある。唇から零れていきそうな想いを飲み込んで蓋をする。彼が自分の彼女だと誤解しているなら好都合だ。



そう、彼を感じていられるなら私だと認識されてなくたっていい。



恋慕う彼との思い出を自分に刻みつけるなら。



だってこれが最初で最後だもの。




柔らかい彼の唇が優しく私の唇に重なる。羽根で触れるような口づけ。彼はしっかりと酔っているから、乱暴な扱いをされるかもしれないと思っていたのに。寄せられた体も、私を縫いつける両手も、触れた唇も、普段と変わらないくらい温かさに溢れている。

心臓がトクトクと早鐘を打ち、胸が苦しくなっていく。

(さとる、君」

唇が離れた隙に私は彼の名を呼んで、細波が立つ闇色の目を見つめた。


本当はずっとずっと彼の名前を呼びたかった。


彼女のフリをしてる今だから遠慮せずに呼べる。


大好き。


心の中で呟けば、身体の奥がきゅうっと収縮する。

彼は一瞬だけ目を見開き、そして今度は瞼を下ろしてからまた唇を重ねてきた。今度は先ほどより強く唇を啄まれ押しつけられる。

私の頭を抱くように彼がベッドに肘を付いたから、先ほどまではあったはずの二人の身体の距離は近づき、互いの心音が伝わるくらい密着する。彼の胸に押されて自分の胸の膨らみが潰されているのを感じ、そこから馴染んでいく二人の体温に羞恥で目眩がした。



心臓が、壊れそう。



唇を離した彼がワイシャツを脱ぎ、私のブラウスのボタンをもどかしげにゆっくりと外していくことも、身体と心がドロドロに融けそうなくらい熱せられた目で見つめられることも、まるで大切にしているものを慈しむように優しく丁寧に触れられることも。

そして、彼がくれた熱と痛みを、少しずつ引き出される快楽をこの身で感じられることも。

まるで夢の中にいるようで。

息ができなくなるくらい、本当に幸せで。

その幸福を与えてくれているのが他でもない、大好きな彼で。



このまま死んでしまっても、きっと私は満足だ。



浅く速い呼吸を耳元で聴きながら、彼の心に私がいないことが辛くて、きつく目を閉じた。






目が覚めた時、私は彼の腕の中にいた。当然だが二人とも裸。頭の上にある目覚まし時計は朝の3時をちょっと過ぎた時間を指している。

彼はスウスウと穏やかな寝息を立てていて、私が腕から抜け出しても起きる気配はない。昨日はだいぶお酒を飲んでいたから、こんな早い時間に起きられはしないのだろう。それでも彼が起きてしまわないよう細心の注意を払い、私は自分の身支度を整えていく。

下腹部が痛い。本当は動きたくないくらい怠い。立ち上がった拍子に太股の内側をドロリとしたものが伝って、私はカバンから取り出したティッシュで拭き取った。かなり酔っていたから彼は避妊するのを忘れたらしい。

…家に帰ったら産婦人科に行かなきゃならない。確か24時間以内なら緊急避妊の薬が効くはずだ。彼の子供が仮にできても、彼が困るだけ。それに彼に事実を隠して産んでも、子供も私生児として扱われるのは可哀想だ。

たかが一回のことで子供はできないかもしれないけれど、絶対にないとは言い切れない。避妊をするということを失念していた自分を情けなく思いながら、部屋に忘れ物が無いことを確認した私は長くため息を吐いた。







週明けの月曜日、私はいつものように会社へ出勤した。情報管理部はその名のとおり、会社の様々なデータやコンピューターの整備を扱う部署なのでセキュリティがしっかりしていて、指紋認証システムを採用している。タッチパネルに暗証番号を入力し、人差し指を指を画面につける。

『ニンショウシマシタ』

機械の無機質な音声の後、ドアのロックが解除された音が聞こえ、私はドアを開けた。

「おはようございます」

「おはよう、今日も早いね」

部長の朗らかな声に私はニッコリとする。

「はい、仕事を整理しておこうと思って」

来週には私は人事部に異動する。今のうちにある程度引き継ぎができる形にしておかないと、次に来る人に迷惑がかかる。

私の言葉に部長は少しだけ眉を下げて淋しそうな顔をした。

「そうか、来週には黒澤君はここにいないんだったな」

「はい。新卒で仕事のいろはも全く分からなかった私をここまで育ててくださってありがとうございました」

「僕は大したことはしてないよ。キミが誰より努力家だったからだ。本当は優秀なキミを手放すのは惜しいんだがね、人事部がどうしてもキミを欲しいと言うから」

「そんな、買いかぶりです」

私がゆるゆると首を振り席に着くと、部長は小さくため息を吐いた後、人事部でも頑張りなさいと言ってくれた。

父親と同じくらいの年齢の部長を私は心から慕っていた。これからは同じ場所で仕事ができなくなることは淋しいけれど、部長にとって自慢の元部下であれるように努力し続けたい。


仕事を始めてしばらくすると週末の夜を過ごした彼、萩野智が入ってきた。ダークグレーのスーツを着込んで髪も整えられた彼はいつもどおりで、愛想のいい笑顔を見せて挨拶をする。

私も微笑んで挨拶を返しながら、彼をそっと観察した。大きくはっきりとした二重の目は涼しげで、口元は常と同じで緩やかな弧を描いている。


あの目が、熱を持って私を見つめていた。


それはたった3日前なのに、遠い出来事のようだ。今の彼には残滓すら見当たらない。

やっぱり、彼にとってもあれは夢の中の話で、それも抱いたのは彼女なのだろう。私には一生忘れられない記憶なのに。二人の間にある温度差が切なくて、私は一人唇をきゅっと引き結ぶ。


一時の夢があればいいと思っていたのに。


今はただ彼に焦がれていた時よりも苦しくて淋しくて、心がねじ切れそうなくらい悲しかった。





終業と同時に部屋からは同僚たちが次々と出ていく。いつもは遅くまで残業している部長も家庭の方で用事があるらしく、今日はそそくさと帰ってしまった。

部屋に残っているのは私と彼だけ。それが何とも息苦しい。

今日はもう帰ろうか。パソコンの電源を落とした時、不意にキーボードに影が落ちた。驚いて振り返れば、そこにはデスクトップと私の椅子の背に手を置いた彼がいて、その顔の近さに心臓が大きく跳ねる。

「ど、したの」

縺れる唇でなんとか告げた質問は囁くような音になってしまい、息継ぎに失敗した私はひゅっと喉を鳴らすことになった。

彼は黙って私を見ている。普段は波風すら立たない闇色の瞳に映るのは、怒り。その色に私は知らず慄いた。


もしかして、金曜日の夜のことを気づかれてしまった?


よく考えればすぐにバレてしまうことなんて分かる。彼女に訊けば良いのだから。そして賢い彼が金曜日の自分の足跡を思い起こしていけば、自ずと誰を抱いたのかなんて気づくはずだ。

浅はかな心を晒された気がして、目頭が熱くなっていく。



夢で良いから抱かれたいと、そう思った罰が当たったんだ。



きっと彼は私を軽蔑した。もう笑いかけてくれはしないのかもしれない。


「ごめ「何で、帰った」」


ごめんなさいと謝ろうとした私を遮った彼の声に、私は現状を忘れて目を何度も瞬かせた。彼が何を言ったのか、聞き落としてしまった。

困惑した私に畳み掛けるように彼はもう一度、口を開く。

「金曜日…いや土曜日の朝、何で帰ったんだ」

「え?」

何を言われているのか、まったく理解できない。

帰ってはいけなかったの?彼女のフリをして抱かれてごめんなさいと、その場で謝らなかったことがいけなかったの?

私にはそんな強い心は無いし、彼に軽蔑の目を向けられるなんて耐えられない。…それを受け入れなかった私を、彼は許せないというのだろうか。

じわじわと視界が滲んでくる。胸が痛くて痛くて、張り裂けてしまいそうだ。

「ごめ、んなさ…」

もうダメだ。この場から消えてなくなってしまいたい。

ボロボロと頬を伝う涙が熱い。自分の浅ましい策略が情けなくて、衝動に任せた自分がたまらなく醜くて。そんな自分を大好きで仕方ない彼に晒している今が惨めで辛い。

「ご、めっ…」

涙を拭おうと手を持ち上げた私はそのままの状態で硬直した。



何が起きているか、分からなかった。



彼の顔が近づいたと思った瞬間、左の目の下に柔らかい感触を感じて。熱くてヌメる何かが涙を絡め取っていく。それが右の目の下にも感じられて、我に返った私は羞恥で顔を真っ赤にした。

「っ!!!」

目を見開いた私を見た彼はニヤリと目を細めて顔を離した後、自分の唇を赤い舌で舐めた。



涙を、舐め取られた。



何が何だか分からない。何が起きているの?

先ほどとは別の意味で泣きそうになった私に、意地悪な笑みを向けた彼が言葉を紡ぐ。


「俺から逃げたお前が悪い」

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