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乳濁液の作り方

『好きと嫌いの境界線』の水瀬馨視点です。

俺は人に何かを頼んだり、頼ったりするのが苦手だ。仕事を頼めば相手に迷惑をかけるんじゃないかと心配になる。誰かを頼ってしまえば次も頼りたくなる。心が弱くなる。俺にとって誰かに心を許してもたれ掛かることは不安を掻き立てるものでしかない。



だというのに、松木里桜は俺に無遠慮なほどに他人に手を差し伸べてくる。



松木さんは同じ年齢、同期採用の女性である。彼女はさっぱりした性格で豪快だ。多少大雑把ではあるが男前で、上司にも可愛がられ、後輩や同期にも慕われている。澄ましていれば美人なのに、性格が邪魔をするらしく恋人ができても長続きしないのは残念なところだが。

対して俺は細かいことが気になる質で、他人には潔癖とも完全主義だとも言われる。人間関係は浅く広くだけど、それ故に心を許せる相手がいないのも事実だ。

そんな性格の真逆な二人だが2年前から同じ部署になり、何の因果か席が隣同士だ。その結果は誰もが想像のできるもので、俺と松木さんが犬猿の仲だという話は1ヶ月も経たないうちに社内の人間の知るところとなった。…別に俺は松木さんのことが嫌いなわけではないし、多分松木さんもそうだ。ただあまりに性格が違うから苛立ちを感じるだけで。




急に降って沸いてきた明日のプレゼンの資料作成のせいで残業をしていた俺は、席を立って缶コーヒーを買いに行くことにした。隣の席を見れば松木さんはまだパソコンとにらめっこをしている。

今まで松木さんが担当していた取引先の対応を後輩に引き継ぐことになり、そのための準備に追われているらしい。彼女は来年度、他部署へ昇進という形で異動になることは内々で打診があったようで、実はこんな風に隣同士で仕事をするのはあと少しなのだ。

なんとなく、淋しいなと感じつつ俺は席を立った。できたらケンカではなく普通に会話ができたら良いのにと思い、たまには自分から歩み寄ってみようかと考える。


「松木さん、お疲れ」

缶コーヒーを差し出すと、松木さんはパソコンの画面から目を離して俺を見た。あぁ水瀬君か、という表情をした松木さんは素直に缶コーヒーを受け取ると嬉しそうに顔を綻ばせる。

「ありがとう。水瀬君、まだ帰らないの?」

松木さんは仕事に区切りがついたらしく、パソコンの画面はシャットダウンの是非を問うコマンドが表示されている。

「俺は仕上げておきたい仕事があるからね」

せっかく二人きりなのに結局まともに話ができなかったなと苦笑すると、松木さんの視線が反れた。その視線を追えば、彼女の目が時計を捕らえているのが分かる。今の段階で既に就業時間はとうに過ぎていて、これからまだ仕事をするとなると深夜になることに気づいたのだろう。彼女の眉間にシワが寄った。そして彼女は俺の机の上のパソコンの画面を覗いた。

「これ、本当に終わる?」

画面には明日の会議の資料のパワーポイントが開けっぱなしになっていた。ワンマンで独断的な社長の意向で急遽会議が開かれることになり、今度大口の取引先に売り込むことが決定した製品のプレゼンをしなければいけなくなったのだ。

松木さんは心配そうに俺の顔を見る。仕事だと理解していても、残業続きの俺に同情しているんだろう。

「社長の気まぐれだろうと、仕事だから。やるしかないよ」

そう言って俺はパソコンに向き直る。泣き言を言えば松木さんは助けてくれるだろう。でもそうしてしまえば彼女まで帰れなくなる。それは申し訳ない。



「手伝おうか?」



え?



てっきり帰るだろうと思っていた松木さんからの提案に、驚いて松木さんを見た。彼女はにっこりと笑顔をみせて

「その内容は私、ちゃんと頭に入ってるから。この前久世君を手伝ってデータ集計したし」

なんて言いながらマウスを手にしている。


…久世の奴、松木さんにあの資料を作ってもらったのか。


久世は俺についている新人君だ。不器用で要領が悪く、なかなか仕事が身に付かないタイプで正直手を焼いている。

「何やってるんだよ、アイツ。道理で資料の出来が良かったわけだ。悪かったな、忙しいのに」

「良いよ。新人の時って皆そうじゃない」

素直に謝れば、松木さんはあっけらかんとしてそう笑った。

松木さんにも新人は付いていて指導をしているが、うまく育てているから今やその新人は先輩たちと変わらない仕事をしている。だから、単に俺の育て方が悪かっただけだ。

「ありがとう。助かったよ。俺の指導不足だな…」

自分の情けなさに泣きたくなる。俺たちもスタートは同じだったのに、今は松木さんのが先を歩いている。新人たちの姿がそのまま自分たちの姿に重なって、余計に惨めだった。


どこで道がかわったんだろう。


暗い気持ちになっていると、チョコが俺の机に乗せられた。


「困った時はお互い様。…そもそも私たち、同期なんだから甘えてくれたって構わないのよ?」


彼女の言葉に俺は息を呑んだ。



困った時はお互い様。



その言葉が心に波紋を作って広がっていく。

小波のように伝わる訳の分からない感動が胸を震わせて、熱を生み出していくのを感じながら俺は強く脈打つ心臓の音を聴いた。



いつの間にか松木さんはパソコンを起動し、データを社内メールに添付して俺のパソコンに送ってきた。

「とりあえずそれは完成してる資料だから使って。あと、配布用にレジュメが要るよね?私はそれ作るよ。そういうの得意だから」

晴れやかな笑顔が眩しい。それは今まで俺には向けられたことのなかったものだ。俺が意固地になればきっと、この笑顔も曇ってしまうんだろう。

「…ありがとう」

素直に厚意を受け止めると、松木さんは更に嬉しそうな顔をした。彼女の表情が俺の心を温めていく。

「私、終電には乗りたいから。早く終わらせようね」

「夜道を一人で歩かせられないから。車で送ってくよ」

深夜に一人で帰って彼女に何かあったらと思うとぞっとする。

「本当に?やった!…って変なことしないでよね」

俺の言葉を受け、いつものように茶化した松木さんの声が少しだけ上擦っているのが可愛い。

「バカ、俺は紳士だ」

「嘘だぁ、絶対肉食系の野獣タイプじゃない」

俺は松木さんの目にどう映っているのだろうかと、一瞬疑問に思う。そんなに野蛮ではないはずだと考えながら、でも肉食系ではあるのかなと思い直す。恋愛でも何でも追われるより追う方がいい。

「まぁ肉食なのは否定しない」

「ほらね!送り狼にならないでよ?」

傍目にも楽しそうな彼女をいつもと同じようにからかう。それが何故か楽しい。普段なら、面倒だなとかまたかよと思うのに。

「送り狼になりたくなるようなムードもないくせに」

「何よ!私の魅力が分からないなんて」

他愛のない会話がいつまでも続いたら良い、と願った自分に驚きながら、俺はその心地よさに身を投じた。



ただ素直に厚意を受け止めただけなのに、こんなにも松木さんを近く感じる。



最初からこうしていたら良かったのかな。



これからも、こうしていられたら良いな。







それからも相変わらずケンカはするけど、それを楽しむ余裕ができてきた。最初は松木さんの厚意を受けることに若干の抵抗があったが、困った時はお互い様、という言葉どおり助け合うようになってからは彼女を受け入れることを自然にできるようにもなった。

元々共通点の多かった俺たちが仲良くなり、だんだん心が近づくのが分かると幸せを感じるようになった。



松木さんと一緒に生きていきたいと考えるまでになるのにも、さして時間はかからなかった。

松木さんとなら、きっとお互いを支え合って生きていくのも苦でない気がした。



「松木さんが好きだ。結婚してほしい」



交際期間もぶっ飛ばした上に、愛してるの言葉は照れ臭くて言えなかった俺を、豪快で男前な彼女は笑って受け止めてくれた。



「私も水瀬君が好き」



飛び込んできた松木さんを抱き止めると、仄かに甘い花の匂いが鼻腔を擽った。トクトクと速い互いの心音が絡まって一つになっていく。腕の中に収まる温もりが愛しくて堪らない。







「俺たち、結婚します」

宣言した時の皆の表情は今でも忘れられない。未確認生命体を見つけた時のような驚愕に満ちた目が俺たちに向けられ、思わず二人で笑ってしまった。

俺だって、2ヶ月前には里桜と結婚する未来など想像していなかった。でも今は、これで良かったと思う。互いの弱さも強さも認め合い支え合える、かけがえのない存在が隣にいる。そんな幸運は、あの時彼女を受け入れなければ手に入れることはできなかった。




「幸せだ」




呟けば彼女はクスクスと笑って、私も、と囁いてくれた。






俺と里桜は水と油だ。混ざり合うことは有り得ない。けれどもマヨネーズのようにうまく乳濁できれば、味を引き立てる調味料になる。要は混ぜ方次第なのだ。

これからも理解するために何度もぶつかりケンカをするのだろう。傷つけ合うこともあるはずだ。しかし、その度に打開する方法を模索していけばいい。

最初から逃げてしまえばそれまでだ。逃げなければ必ず道が生まれる。それが分かっていれば大丈夫だ。

ややヘタレな水瀬君と男前な松木さんですが、真逆だからこそ意外に合うのです。結婚したら水瀬君は間違いなくお尻に敷かれるでしょう。


お読みくださりありがとうございました。

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