足跡が続けば
僕は人と関わるのが苦手だ。
平気で人を傷つけるし、真実を語るように嘘を吐く。かと思えば、感情を剥き出しにして相手を攻撃することもある。
僕にとって人間は『信じてはいけないもの』であり、『いつか裏切られるもの』でしかない。それは僕が今まで生きてきた中で学んだこと、心の奥に深く刻まれたものだ。
僕の育った家庭環境は些か複雑である。共働きの父母、優等生な姉がいるという家族構成。そして経済的にも不自由はなく端から見ればごく一般的な平凡な家庭だと思う。
けれども僕らの間には溝がある。そもそも両親は、打算と妥協によって為された関係だ。一応、対外的には恋愛結婚としているが、最初から僅かも愛情もなく契約を結んだだけなのだから、白々しい話だ。仮面夫婦、という言葉がここまでお似合いの夫婦もなかなかいないだろう。
それが良い証拠に、父は家庭を一切省みないし、子育てもノータッチだ。姉が母の腹に入った時も「俺に面倒をかけるな」と宣い、僕の時は「跡取りだから殺すな」と名言されたと母から聞いている。確かに父が家庭に興味を持ったり、母に歩み寄る姿は一度も見たことはないから、あながち嘘ではないのだろう。
仕事から帰れば自分の部屋に籠りきりで、僕や姉は成人するまで父とまともに話したことすらなかった。希薄な親子関係のせいか、僕たち姉弟は父に甘えることはしないし、おそらく母が居なければ同居はできない。実質、僕たちを育ててくれたのは母なのだ。母子家庭状態で成長したといっても過言ではない。他人よりも遠い身内、それが父だ。
そして母は、そんな父を愛してはいない。
母には本当は結婚を考えていた恋人がいたらしい。けれども実家の事情でその人とは結婚できず、親の望む条件だけで選んだ相手が父である。
社会的信用を得、無償で身の回りの世話をする家政婦が欲しかった父と、親が望む条件を満たす結婚しなければならなかった母。
それでも、そこから愛情が生まれれば良かったのに、それは無かったのが不幸の始まりだ。そりゃあ、歩み寄るどころか溝が深まっていたら無理だと思う。父は不倫相手がいるみたいだし、母はそれを知っていても興味を示さない。真実、全く興味が無いのだろう。
「干渉さえされなければ、後はどうでもいいの」
と、父の不貞に対して母に抗議した僕に投げられたのは乾いた言葉と面倒臭そうな表情だけだ。
その表情が今でも網膜に焼きついて離れない。何故か、裏切られたと感じたことも覚えている。
姉はそれでも、大学に入るくらいまでは両親の間に愛情があると信じていたし、結婚にも憧れていた節がある。けれど次第に、本当に愛情など無いと気づいたらしい。いつしか姉は異性と深い関係になるのを疎むようになった。30に近くなった今では、立派な男性不信だ。
それは僕も同じ。ただ僕は男だから人並みに性欲もある。適当にお付き合いをして性欲処理をし、そして時期を見て別れるということを繰り返していた。結婚なんて考えるだけで反吐が出る。
でも長男である以上、いつか結婚しなければいけなくなる日が来るだろう。その時、できるだけ自分の都合の良い相手と結婚するんだと漠然と思っているが、想像するだけで辟易する。いつか寝首をかかれそうで恐怖しかない。
職場からの帰り道、僕はスーパーに向かった。就職と同時に一人暮らしを始めてからは自炊を心がけているので、週に2回はスーパーに立ち寄っている。最初は面倒だったが、これが一つのルーティンになっている今は苦でも何でもない。
買い物かごを手にして野菜を物色していると、鮮魚売り場の方からコツコツと軽快な足音が近づいてきた。顔を上げると明るい茶色の髪の女性が思案顔でキョロキョロと何かを探している。
彼女は白いブラウスに濃い青色のフレアスカートといった出で立ちで、清楚な雰囲気を漂わせていた。化粧も派手ではなく、顎に置かれた指も至ってシンプルだ。
僕は彼女を横目に見ながら、何となしにピーマンをかごに入れる。そうだ、今日はピーマンの肉詰めにしようか。
ふと彼女を見れば、まだ何かを探している。どうやら僕には全く気がついていないらしい。普段なら会釈くらいするのに、それが無い。そこまで真剣に何を探しているのかと思い、僕は彼女の方へ歩み寄った。
「こんばんは。何をお探しですか?」
「え?あ、こんばんは。仕事帰りですか?奇遇ですね」
声をかけると、彼女は一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。切れ長の大きな目が微睡む猫のように細められる。ここ最近は見慣れた笑顔に、僕の表情も弛むのを感じた。
かごを見れば、子持ちカレイの切り身にシメジと生姜、ニンニク、豆腐、アンチョビの缶に薄口醤油が入っていた。どんな料理を作るのか想像してみるが、何となくイメージしにくい。カレイの煮付けと、後は何を作るんだ?
「どうしたんですか?」
かごの中身をじっと見たまま動かない僕に、彼女は首を傾げた。
「いや、何を作るのかなと」
「あぁ、なるほど。カレイの煮付けと、シメジとニンニクのオリーブオイル炒めと、あとはルッコラとアンチョビの炒めご飯」
「ルッコラ?」
「はい。この前、料理番組で見て作ってみたくなったんです。でも普段使わないから場所が…」
見上げた目は困ったような色を湛えている。
「ルッコラって葉物だから、水菜とかの辺にありませんか?」
「う〜ん……あ、あった!」
ルッコラのパックを掲げ、彼女が嬉しそうな声を上げた。無邪気な姿はまるで少女のよう。僕は込み上げる笑いを堪えて、応酬をした。
「良かったですね」
「はい。ありがとうございました!」
「どういたしまして。では」
「ではまた」
にこりと微笑むと、彼女もフワリと相好を崩した。
僕はその場を離れ、買い物を再開する。夕飯の材料を手にしながら、彼女の笑顔が脳内で何度もリフレインしていた。
そういえば、出会って2ヶ月経つのか…。
感慨深くなり、小さく笑みを溢す。
彼女を初めて見かけたのは自宅の最寄り駅だった。その日、改札口を出てすぐに仕事の電話がかかってきて、僕は壁際に移動した。
話の内容は同僚のミスで製品の発注日が間違っており、取引先に至急謝罪にいかなければならないというもの。その同僚は生憎と昨日から出張で、相手会社の窓口になっている方と面識のある僕にお鉢が回ってきたらしい。
せっかくいつもより早く直帰できたのについてない。うんざりしながら聞いていると、目の前をクリーム色のジャケットを羽織った女性が通り過ぎていった。たくさんいる通行人の中で彼女に意識が向いたのは、パールピンクのワンピースが目を引いたのと、颯爽とした歩き方が綺麗だったから。本当にたまたま興味を持っただけだった。
彼女は出口へ向かって歩いていったのだが、何故か途中でぴたりと足を止めた。そして、突然しゃがみ込んでしまった。
体調でも悪くなったのか?
思わず首を伸ばした僕は次の瞬間、目を瞬かせることになった。
彼女は床に落ちていた空き缶を拾い立ち上がると、改札口に向かって歩いていく。そして、ゴミ箱にその空き缶を捨てると何事もなかったかのように、また出口に足を向けたのだ。もちろん誰も見てはいないし、お礼や謝罪も貰えるわけではない。それなのに彼女は平然と、落ちていた空き缶をわざわざ遠くのゴミ箱まで捨てに行ったのだ。
カコン。
空き缶がゴミ箱の中に落ちる音がした。その音とともに、僕の心臓も大きな音を立てた。
きっと彼女にとっては当然のことで、意識せずにやったことなんだろう。けれども僕には衝撃的な出来事だった。まだ電話越しに言葉は聞こえていたが、ただ文字の羅列として脳をすり抜けていく。
見返りの無い善意で、行動できる人がいるんだ。
胸に何か暖かいものが広がる。
電話の相手に会社に戻ることを告げて通話を終了すると、僕は改札を通ってちょうど来た電車に乗り込んだ。電車に揺られながら、僕は先程の女性を思い出す。どこか晴れやかな表情で去っていった彼女の後ろ姿がいつまでも脳裏をちらついていた。
次に彼女に出会ったのは自宅近くの公園だった。僕は休日にジョギングをするのが習慣になっていて、朝から近所を走っている。1時間ほど走った所で僕は近所の公園に立ち寄った。その公園は落葉樹が植えてあり、前日通った時に紅葉が美しかったので休憩かてがて見物をしようかと考えていたのだ。
朝早いこともあり公園は静かだ。ゆっくりと歩きながら、木々を見上げる。鮮やかな赤や黄が綺麗だなと感嘆しつつ、ベンチを探す。少し歩いたところで、トレンチコートを来た女性が大事そうに何かを両手で包んで歩いて来るのが見えた。
こんな朝早くに珍しいと顔を見て、僕は息を飲む。
あれは、この前の…
女性は俯きがちに手元を見ていたが、視線を感じたらしくこちらに目を向けた。不思議そうに見上げられ、僕は思わずたじろいでしまう。
「おはようございます」
少しハスキーな声だが、柔らかい響きで聞き心地が良い。
「おはようございます。…あの、それ…」
「あ、これですか?トイレの所で見つけたんですけど」
促されて見れば、鳩がぐったりとした様子でクルクルと鳴いていた。翼が変な方向に曲がっているから、骨が折れているのかもしれない。
「多分、石をぶつけられたんだと思うんです。翼が折れてるし、血も滲んでいたので」
「酷いですね」
「ですよね。…本当はどうしようか迷ったんです。理由が何であれ、これはこの子の運命ですから。でも、人の悪意によって傷つけられた姿を見たら放っておけなくて。偽善ですね」
彼女は手の中の鳩を一瞥し、そして真っ直ぐ僕を見た。自嘲的な響きの言葉を投げかけたとは思えないくらい静かな光を湛える双眸に、吸い寄せられる。
体の中で、グニャリと何かが大きくうねった。
今のは、何だ?
体の中を走り抜けた衝撃の意味を、うまく飲み込めない。
普段なら息をするように飛び出す甘言や賛辞が、何も出てきてくれない。何か話さなきゃと思えば思うほど、頭が真っ白になる。
僕は瞠目したまま、ただただ彼女を凝視した。
「あの、私の顔に何か?」
「何もついてないですよ。それより…その鳩、良いんですか?」
戸惑った声に、僕は何とか思考を取り戻して無難な返答を捻り出す。
「あ、そうだった。とりあえず今から動物病院へ行ってきます。では、失礼します」
苦し紛れの言葉は幸いにも、彼女の意識を鳩に向けてくれたらしい。鳩を抱え直すと、元気よく礼をして歩き出した。
「お大事に」
「ありがとうございます!じゃあ」
足早に去る背中に声をかければ、彼女は振り返って快活に笑ってくれた。
彼女の名前を聞くのを忘れたと思い出したのは、家に帰ってシャワーを浴びてからだ。たった2回会っただけの人なのに、名前を知らないのはひどく口惜しいと思う自分に驚きつつ、胸には不思議と温かい何かが流れていた。
その後近所のスーパーで再会し、会話を交わす間柄になるとは当時の僕に知る由はない。ただ、いつかまた彼女と会いたい、と願っていたのだった。知り合ってから、彼女が僕の3つ下、22歳のOLだと知った。他にも、有木という名字であること、お酒は好きだけどすぐ酔うこと、朝が弱いこと、趣味が美術館巡りで休みの度にあちこち出かけること、高校まで剣道をやっていて有段者であること、切れ長の猫目にコンプレックスがあること…彼女のパーソナルデータは少しずつ溜まっている。
でも、二人の距離は最初から何も変わらない。ただの、知り合いだ。
彼女と会うのは最寄り駅かスーパーで、二人で会う約束をしたことはないし、そもそも互いの連絡先すら知らない。彼女相手だと、何故かそういう雰囲気にならないのだ。
もちろん、彼女に魅力が無いわけではない。
彼女の凛とした横顔は綺麗だと思うし、はにかんだ表情は可愛くて見惚れたこともある。飾らない性格も好ましく感じている。
それでも僕の食指が動くことはない。いつものような、適当にお付き合いする相手にもなり得なかった。
僕にとって女性は家族か、性欲処理の相手か、興味のない人か、そのどれかに区分される。それが彼女には当てはまらない。
区分が分からないから、彼女にどう接したら良いのかも分からない。
それでも、彼女と関わらないという選択肢は浮かばないのは何故なんだろうか。
そして、彼女と出会ってからは心が凪いでいて、とっかえひっかえ女の子と付き合うことも無くなっているのはどうしてか。
分からないことだらけだ。でもそれも悪くないと思う自分がいて驚いてしまう。
冬になり、風が肌を刺すようになった。最近は仕事が忙しく、帰宅は深夜になるのが常だ。自炊をする余裕は無いし、必然的にコンビニに寄って夕飯を買うことになる。それすら億劫だと何も食べずに寝てしまう。当然いつものスーパーには寄れないから、彼女に会うこともなかった。
そんな日が数週間続き、やっと解放されたのは街がクリスマス色に彩られ始めてだった。
プレゼンがうまくいったこともあり、その日は皆、早々に帰宅することになった。大きなプロジェクトが軌道に乗ったのにも関わらず、疲労困憊のあまり、打ち上げは後日にということになっている。燃え尽きたように虚ろな目で部屋を出ていく同僚を見送り、僕は椅子の背凭れに体を投げ出した。体は疲れていて、このまま横になればすぐにでも眠れそうだ。
けれども、僕は帰らずに誰もいなくなった部屋に居座り続ける。どこか感傷的な気持ちを刺激する濃紺の空に目を向け、大きなため息を吐いた。
昨日、僕は久々に同僚たちと昼食を食べに外へ出ていた。僕の勤める会社はオフィス街にあり、定食屋や喫茶店が点在している。
「何、食う?」
「俺、たぶん重いものは食べれない…」
「俺は美味くて安いのが良い。今月、小遣いがヤバいんだよ」
「妻帯者は大変だよな…じゃあ、この先を曲がってすぐにある定食屋に行こう。ワンコインで食べられるから」
わいわいと話しながら横断歩道を渡る。片道三車線の広い道路だから、中程まで歩くと信号が点滅し出した。それを見た僕たちは小走りになった。
僕たちが渡り切ると、ちょうど信号は赤になる。連日の疲労が溜まった体は、少しのダッシュで悲鳴を上げ、各々が乱れた息を整えながら苦笑した。
そういえば、ここ1ヶ月は走ってないなとぼんやりと考え顔を上げた時、僕らの進行方向にある曲がり角から一組の男女が出てきた。男性はかなり背が高く細身で、西洋人形のような容姿をしている。モデルやアイドルだと言われても驚かないくらい整った外見だが、スーツを着て仕事鞄をぶら下げている所を見ると、サラリーマンらしい。一瞬見たことがある人のような気がしたが、よほどのことがなければ忘れられない容姿だから気のせいだろう。
こんな男性が連れて歩く女性はどんな人だろう。僕は視線を右にずらし、そして絶句した。
何で、彼女がここに?
ダークグレーのジャケットに、ラインストーンのついたシャツ、オフホワイトの膝丈スカートを着た彼女は、しばらく見ないうちに幾分か綺麗になった気がする。隣の男性を見上げて微笑む横顔は輝いていて眩しかった。
「…でね、先輩ったら意地悪なのよ。私がエクセル苦手なの知ってるくせに押し付けてきたんだよ?」
弾むような声。僕と話す時には聞いたこともない声が、男性に惜しげもなく向けられている。対して男性の方も柔らかな表情を彼女に向けていた。
「とは言うけど、壁谷先輩はキミのことを猫可愛がりしてるからね。育てたいだけだよ」
「それは分かってるけど…怜人みたいに何でもできちゃう人じゃないもん、私」
ぷぅっと膨れた彼女に、男性が破顔した。
「稜子、小学生みたいなんだけど。…分からない所があったら助けてあげるからそんな顔すんな」
僕が知らない、彼女の名前を男性はいとも簡単に呼び捨て、そして自然な動作で頭をぽんぽんと叩く。
彼女はくすぐったそうにしながらも無邪気に笑う。
「やった!やっぱ怜人って優しい!!」
楽しそうなテンポの良い会話を交わしながら、二人は歩き始めた僕らの脇をすり抜けていく。
すれ違う一瞬、彼女と視線が交わり、彼女が目を丸くしたのが分かったけれど、僕はそれを無視して同僚たちの会話に混ざった。
胸がズキズキと痛み、心臓が張り裂けてしまいそうだ。苦しくて、痛くて、叫び出したくなる。
こんなにも心が揺り動かされたのは初めてかもしれない。
彼女が傍にいないことが辛い。
彼女の隣にいるのが僕ではないことが悲しい。
彼女の笑顔が他の男に向けられるのが、たまらなく腹立たしい。
次から次へと湧いてくる想いが強烈すぎて、目眩がした。
自分が、自分でなくなっていく。
何故そう感じたのか、答えはすぐそこにある気がした。
けれども、知ってしまえば今までには戻れないと警鐘が鳴る。
僕は目を閉じて、そして警告を受け入れた。知らなくてもいい。知りたくない。
その後食べた昼食の味は覚えてない。感覚を働かせたら、別の感情まで呼び起こされそうで、僕は全てから目を背けていた。
外がしっかりと暗くなり、向かいのビルの窓から洩れる光が鮮やかになってから、僕はのそりと動き出した。このまま会社にいても仕方ないし、今日こそ何も考えずに泥のように寝たい。
コートを羽織りマフラーを首に巻くと、鞄を手に部屋を出た。
会社の外は風が強く、鼻先がすぐに痛くなる。コートの襟を立てて風を避けながら、僕は駅までの道を歩いていった。途中、騒ぎながら飲み会に向かう集団や、幸せそうに寄り添うカップルにすれ違ったが、ついその中に彼女の顔を探してしまう。そんな自分に気づいて自嘲的に唇を歪め、ポケットに手を突っ込んだ。
電車を降りると、金曜日の夜ということもあり、駅はそれなりに賑わっていた。僕は人混みをすり抜けて改札口へ向かう。
そういえば、彼女と初めて出会ったのはここだったっけ。
あの時は改札を出た彼女に、偶然僕の意識が向いたんだった。澄ました顔で颯爽と歩く彼女が魅力的に見えて、つい気を取られてしまった。その後すぐに受けた衝撃は強烈で。
思い出すと、ぎゅうっと胸が収縮した。泣きたくなるくらい甘い痛みに、また彼女を想う。
僕の中に、彼女が溢れていく。
会いたい。どうしようもなく会いたい。
そう思った時、
「夏目さん!」
彼女の、声が聞こえた。
暖房の効いた喫茶店の中は一昔前のジャズナンバーが流れている。時折混ざる、リズムを刻むようなサイフォンが立てる音を聞きながら、僕はコーヒーカップから口を離した。
僕の目の前には、あれだけ会いたいと願った彼女がいる。ただ机とキスができそうなくらい項垂れているから表情は分からないけれども。
「有木さん、顔を上げてください」
「うぅ…無理です…っ!穴があったら一生そこから出てこないです」
私、しばらく駅には近寄れない…。
鼻を啜った彼女に、僕は小さく笑みを溢してティッシュを渡す。それにお礼を言って彼女は鼻をかんだ。前髪から覗いた目は真っ赤になっている。
あの時駅で彼女に名を呼ばれて振り返った僕は、確かにひどく狼狽えていたと自覚している。色んな感情が入り乱れて混乱している所に、その元凶が現れたのだ。狼狽えて然りだと思う。
けれど、事情を知らない彼女からしたらそれは、拒絶に感じられてしまったらしい。前日に僕が無視して素通りしたことや、ここ数週間ピタリと出会わなかったことも相俟って、自分が何かをして僕に嫌われたと思ったようで。
『嫌いにならないで!』
が彼女の第一声だった。
言われた意味が分からず呆けた僕に詰め寄り、さらに泣きながら一言。
『ずっと好きなんです…っ!夏目さんの傍にいたい…』
その破壊力は凄まじく、今までの鬱々としたものを全て吹き飛ばして。僕は心臓を的確に撃ち抜かれたような衝撃と、胸の内から湧いてくる熱い想いによろめく。
そして唐突に思った。
好きだ。
僕は、この人が好きなんだ。
言葉が心にすとんと落ちる。
彼女をカテゴリーに区分できなくて当然だ。だって彼女は特別なんだから。
認めてしまうと気持ちが楽になって、残ったのは彼女へ向かう優しい想いだけ。
僕も…
僕も、キミが好きだ。
手を彼女の髪に伸ばしかけ、ふと、やけに静かな周囲に気がついた。はっとして見回せば、足を止めて興味津々でこちらを観察する人々の輪ができている。
そこで初めて僕らが駅の通路のど真ん中で派手なラブシーンを繰り広げていることに思い当たった。自覚した途端、顔だけでなく全身が火照りだす。それは彼女も同じだったようで、今置かれた状況に気がつくと、みるみるうちに顔が真っ赤になっていった。
これ以上、見世物になっては堪らないと僕は彼女の手を取り、駆け足で人の輪を抜けてその場から逃げることにした。後方から悲鳴や歓声が聞こえたが、恥ずかしくて振り返る気にはなれない。
走ってしばらくした後、とりあえずゆっくり話そうということになり、泣いている彼女と入ったのがこの喫茶店であり、注文したコーヒーが届いた後、現在に至る。
「昨日、有木さんといた男性は誰ですか?」
これほど思い悩む原因となった男性のことが知りたくて問いかけると、彼女はきょとんとして首を傾げた。
「…お兄ちゃんが何か?」
「え、お兄ちゃん?」
「同じ会社で勤めている正真正銘、実の兄です。髪の毛や瞳の色合いとか似てませんでした?」
そう言われて、昨日の男性を思い出す。そう言われてみると全体的に色素が薄めで虹彩も明るい黄色がかった色だったような。目の前の色とそっくりな色を思い返し、今度は僕が項垂れたくなった。
そういえば、鼻や目の形もそっくりだったではないか。どこかで見たことがあると一瞬感じたが、何のことはない、彼女に似ているから既視感を覚えたのだ。
実のお兄さんに、嫉妬していたのか…。
恋は盲目というが、全くもってその通りだ。
「稜子、」
「え?」
「って呼び捨てにして、有木さんも相手を呼び捨てにしてたから。本当に楽しそうだったし、恋人なのかと思った」
素直に告げれば、さらに彼女は不思議そうな表情を浮かべた。泣きはらして化粧は全部取れているが、それはそれで可愛い。見惚れる僕に、彼女は疑問符を増やしたようで口がポカンと開いた。
「兄妹ってそんなものじゃないんですか?」
「兄妹だって分かってそう思うけど、知らない人が見たら仲睦まじい恋人同士だよ」
言いながら、僕は彼女の言葉を素直に受け止め、そしてそれを疑っていない自分に気づいた。それは彼女の考えが偽りなく表情や言葉に出ているからだろうか。それとも、好きだから信じたいのか。
よく分からないけれども、こうして疑うことなく誰かに接することができるのは、温かい。
「僕も、有木さんのことが好きなんだ。あまりに仲が良くて妬いたよ」
見ないふりをしてきた気持ちを浮き彫りにするほど、激しく妬いた。
そう言えば彼女は頬を紅潮させた。それが愛しくて、彼女の指を自分の指に絡めて握り締めた。
喫茶店を出ると、いつの間にかちらつき始めた雪は街を白く染めていた。積もる雪に二人の足跡が寄り添い、続いていく。
できればこれからもずっと、続いたら良いのに。
おまけ
「ところで、お兄さんのことを何で呼び捨てにしてるの?」
「あ〜…前に職場で『お兄ちゃん』って言ったら、お兄ちゃんに『仕事中にお兄ちゃんって言うな。俺と稜子は職場では同僚なんだから、弁えろ』って怒られて。それからは怜人って呼んでるの」
「…僕のことも名前で呼んでよ。彼氏なんだから」
「ええっ!無理!無理です!」
「何で?簡単でしょ。ねぇ、稜子さん。名前で呼んで」
「う…、その流し目はズルいです。心臓に悪い………、も、も…もえ、萌葱さん…」
「…や、破壊力が凄いな…。稜子さん、可愛すぎます」
「も〜!恥ずかしいから言わないで!!」
ポカポカと萌葱の胸を叩く稜子。それがやっぱり可愛いと口許が弛む萌葱。
「そういえば、夏目さん」
「また呼び方戻ってますよ」
「い、良いんです!…じゃなくて、私のが年下だし、敬語を使わなくて良いですよ」
「う〜ん…それは難しいですね。小さな時から敬語を使うようにしつけられていますから」
「敬語を使うようにしつけられる家って…夏目さんのご実家は旧家か何かですか?」
「ああ、伝えてなかったでしたか。僕の実家は老舗の呉服屋で、僕はその跡取りです。本当は一人称も『私』だったんですが、同級生たちにからかわれて『僕』に変えたんですよ」
「…知らなかったです。私、一般家庭で育ったんですけど、お付き合いして大丈夫ですか?」
「もちろんですよ。そもそも政略ならぬ契約結婚で失敗した両親ですから、さすがに息子に同じ轍は踏ませたくないみたいですし。何も言わないですが、好きな女性と好きに付き合えば良い、という感じです」
「はぁ…それなら良いですけど。何だか気後れします」
「そう言われても僕は稜子さんを手放したりしないです。諦めてくださいね」
「………はい」
真っ赤になった稜子の頬を、萌葱が指の腹でなぞる。
「あ、そうだ。来月、兄が結婚するんですが、式に来てくれますか?」
「良いんですか?」
「…恋人として、夏目さんを紹介したいんです。お義姉さんも喜ぶと思うし」
「では伺わせてください」
「本当ですか?!ありがとうございます!…あ、お義姉さんって小説家なんですよ。最近人気のある吉永舞って知ってますか?」
「『契約恋愛』の著者ですよね。へぇ、お兄さんもまた凄い方と結婚しますね」
「お兄ちゃん、舞さんにベタ惚れだから。舞さん、美人さんなんですよ。だからお兄ちゃんと並ぶと迫力があるんです」
「お兄さん、びっくりするくらい美形ですからね。でも、稜子さんもとても綺麗です。僕にとっては稜子さん以上の女性はいませんから」
「だから、恥ずかしいですってば!夏目さんこそ、日本人形みたいに美人じゃないですか。そこら辺の女の人より断然美しいです」
「…」
「あれ、照れてます?」
「まぁ…はい」
「ふふふ…可愛い、夏目さん」
「稜子さん、からかってますよね?」
「気のせいですよ」
最後までお読みいただきありがとうございました。
稜子は前話の登場人物である有木怜人の妹です。怜人は自分を慕う妹を溺愛してます。
萌葱の父は実は極度の不器用で、ちゃんと彼なりに奥さんを大切に想ってます。ただ空回りばかりで結果、奥さんに浮気していると勘違いされている哀れな人、という設定があったりします。