小説みたいな恋愛を
12月の声に街は鮮やかに様変わりをしている。対して空はどんよりとした鉛色で、湿っぽい風は雨の匂いを運んできていた。
「一雨来るかなぁ」
空を仰いだ私の頬に、ポタリと水滴が落ちる。
あ…と思った次の瞬間に、ざぁっと雨が降り出した。咄嗟に布製の手提げ袋を抱き締め、私は辺りをキョロキョロと見回す。とはいえ、住宅街の中には店もなく、雨宿りできるコンビニはここから大分遠い場所だ。普段なら常備している折り畳み傘も仕事用の鞄に入れっぱなしで、ここには無い。
そうこうしている間にも雨足は激しくなっていく。
「確か…」
この先に公園があったような。
公園なら雨宿りができるはず。私はとりあえず歩を進めた。
公園の滑り台の下に逃げ込んだ時、私の体はしっかりと冷えきっていた。全身ずぶ濡れ、生憎と着替えもない。家までは少し距離があるから、帰るのも難儀だ。
冬の冷たい雨が、しとしとと降り続いている。
「天気予報の嘘つき…」
今日は1日曇りだって言ってたのに。文句を言いつつ鞄の中を覗く。そしてそこにある茶封筒の宛先が滲んでいるのを見つけて、私は溜め息を吐いた。
本当についてない…。
叶わない夢と思いつつ、諦めきれなかったそれ。これで最後にしようと思い、出しに来たのに。それは出せなくなってしまった。
『お前には才能は無いよ』
そう言ったあの人の声が脳裏を過る。
私は小さな頃から小説家になりたかった。本の上で踊る表情豊かな言葉は美しく、いつしか私はその虜になっていた。私も美しい言葉を紡ぎたい。それが始まり。
でも、今はそんな気持ちは薄らいでしまっている。
何度小説を投稿しても選考は通らない。挙げ句に今日のこれだ。神様が、私に最後通牒を突きつけてきたとしか思えない。
「何、やってんの?」
俯いた私の頭上から不意に声が落ちてきた。見上げれば、眉を潜めた男性が傘を差し出している。
「風邪ひくよ?大丈夫?」
何も言わない私に気にも留めない様子で、男性は不躾に私の顔を覗きこんだ。色素の薄い瞳がじっとこちらを見つめている。
誰、だろう。
こんなにカッコいい人、知り合いにいたっけ…?
彼は私に傘を差し出しているせいで髪の毛はぺたんこになり、毛先から水が滴っていた。彼のグレーの背広は黒ずんでいる。
ってこの人、びしょびしょじゃない!
我に返って、傘を差し出す手を押し返す。
「だ、だいじょ」
「って大丈夫なわけないよなぁ、これで。びしょびしょだし。風邪引くよ?」
大丈夫です、と言おうとした私の言葉は遮られ、私はただ呆けたように彼を見つめた。
「よし、僕の家に行こう」
は?
「大丈夫、心配しないで。今の時間なら姉貴がいるし」
え?
「ほら、行くよ」
不意に男性が私の手を取る。それがあまりに自然で、私はぽかんと口を開けた。
「じゃあ、行こう」
「…って、ええっ!?ど、どういう…」
「ほら、あれ。パステルピンクのアパート。あれが、そう。目の前でしょ?」
確かに100メートルもない所に淡いピンク色のアパートがある。まだ建って数年だろうか、造りはシンプルだがわりと小綺麗だ。
「じゃなくて!なんで私があなたの家に」
「そんなに濡れて風邪ひくよ?てか、その格好で街中歩いたら目立つけど…」
「それは、まぁ」
「じゃあ行こう」
「え、ええぇっ?いやっ!待って!」
私の悲鳴を余所に男性は歩いていく。当然だか、腕を掴まれているので、私も歩くしかない。
最悪続きのこの日。
私は見知らぬ男性と知り合うことになりました。
キーボードを叩きながら、私はカレンダーを見た。次のコンテストの日は2週間後。
往生際の私は、前回の出来事からまた執筆活動を再開していた。
あの雨の日、あの人が私を拉致して強制的にシャワーを浴びさせ、服を着替えさせられたあの日。
強引に連れ込まれた(しかもお姉さんは不在だった!)先で、私は何度も目を瞬かせていた。
「姉貴の」
新手のナンパかと警戒しつつも、部屋に入り、強制的にシャワーを浴びさせられてタオル一枚で出てきた私に、彼はご丁寧に服を差し出してきた。
あれ?思ったより良い人?
キョトンとした私は、彼のもつ服に目を遣り、そして沈黙した。
差し出された服は所謂ゴシックロリータ。もちろんだが人生で一度も着たこともない。
「ごめん、服がそういうのしか見つからなかったから」
あなたの趣味じゃないよね?
訝しげに見上げた私に彼も察するところがあったらしい。
「僕の私物じゃないよ。悪いけど着てください。目のやり場に困るから」
そう言われてしまえば服を着ざるを得ない。仕方なく着たのだが、顔から火が出るほど恥ずかしかった。しかも胸の辺りがスカスカで、ウエストはややきつい。
あなたのお姉さん、どんだけスタイルが良いのよ。
若干惨めな気持ちになり、私は一人項垂れた。
ふと見れば、男性は私の小説を読んでいる。さっき封筒から取り出して乾かしていたものを読んでいるようだ。許可もなく勝手に読んで…とは思ったが率直な意見を聞いてもみたい。そう考えた私は黙っていることにした。
彼は静かに読み、そして顔を上げた。西洋人形のような綺麗な顔がこちらを向く。
「えっと、生活作文…?」
その言葉に、私は更に赤面した。「違うから!小説よ、小説!」
「え…ごめん」
「…何で、生活作文だと」
「いや、あの…登場人物の心理描写があまりに少なくて、淡々と事実だけが書かれているし。抑揚もなくて、クライマックスが分からなかったので…」
正直なコメントに泣きたくなる。恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。
「私の小説には何が足りないのかな…」
気づけば、そんなことを呟いていた。
何が足りないんだろう。私が書いた小説と、出版される人の小説では何が違うんだろう。
「…心、じゃないですか?」
「心?」
「うん。これは恋愛の話ですよね。恋ってもっと綺麗で、でも汚くて、時に利己的なものだと僕は思います。もしかしたら、あなたは…」
その先の言葉は続かない。彼は目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。青みがかった黒い瞳が、ゆらりと揺れる。
「僕が、教えましょうか?」
あまりに真剣な表情に思わず見惚れてしまう。
今、何を。
「実は今、僕は元カノに付きまとわれて困っています。それはきっと僕がフリーだから。けれど今は恋人云々って気持ちじゃないんです。だから、恋人のフリをしてくれる人が欲しい。
一方、あなたは小説を良くしたい。なら、自分が恋愛するのが一番です。そうであれば、僕を使えば良い。大事に扱います。
どうですか?悪い提案ではないと思うけど」
真顔で告げられた言葉に、私は先程と違う意味で絶句した。
初対面の相手と交わすにはふざけすぎた提案を、平然と言ってのけた目の前の男。心に呆れと失望が滲み出していく。
結局、ナンパなのね。
てっきり善意の行動だと思ってたのに。
「…良いわよ。交渉成立ね」
我ながら冷たい笑顔だったと思う。あなたがその気なら、私もあなたを存分に利用するまで。
彼は嫌みなくらい満面の笑みを浮かべて、よろしく、と右手を差し出したのだった。
思い出したら、腹立たしい。
恐ろしく美形のあの人(実は私より2つ年上だった)は、あれから毎日私に会いに来る。最早あなたの方がストーカーです、と言いたいくらいだ。
イライラとしながらキーボードを叩く。けれどそれは文章にはなってくれない。
「外に出ようかな」
一文字も書けなくなった私は外へ散歩に出ることにした。
1月が近くなると、防寒具を付けても寒い。吐いた息が白くて、寒さを余計に感じてしまう。
「こんにちは、舞さん」
低い声がして、私は振り返る。と、背中から抱きすくめられ、私は首だけ動かして顔を確認した。
「怜人さん、不意打ちは卑怯だと言わなかった?」
案の定、怜人がいて、悪戯っぽく笑っていた。
有木怜人、それがあの日出会った彼の名前。180センチの身長に童顔、長い手足はすらりと伸びている。
「何で?僕たち恋人じゃないですか」
「…だからって、抱きつかれる筋合いはないから。危うく肘を極めるところだった」
「うわ、ひで〜。恋人に言うことじゃないし」
「恋人(仮)でしょうが」
そう言うと、怜人がぷうっと膨れた。二十歳を過ぎた男がやることではないが、童顔のせいか違和感がない。初めて会った時も精々18くらいだと思ってたら、実は26ですとか言われて二度見したくらいだ。
可愛い表情に絆されそうになった私は慌てて顔を引き締めた。
「あのさぁ、元カノさんから直談判されたんだけど、本当にいい加減決着付けて」
「僕だってちゃんと断ってます。なのに諦めないんです。…ごめんね?舞さんのこと、守るから」
「いや、その前に別れて。で、諦めて元カノさんと復縁しなさい。それが一番いい」
「ぜっっったいにやだ!」
言いながら、ぎゅうっと抱き締められる。端から見たら、ただのバカップルだろうな。ふと、そう思った。
「だってさ!アイツ、ストーカーなんだもん。怖いじゃん!」
「警察行けば?」
「相手にされなかったんだってば!」
そりゃそうだろう。元カノさんの言動は決してストーカー行為ではない。復縁しろと直談判にはしょっちゅう来るけど、つけ回したり嫌がらせをしたりはしていない。そもそも本気で拒絶してるように見えないから、元カノさんも来るんじゃないかなぁ。
「…諦めたら?」
「だ〜か〜ら〜、それだけは無理。死んでも無理!」
そんなに力説されてもねぇ…。
脱力すると、これ幸いと怜人は私の肩に額を預ける。本当に子どもみたいなんだなぁ。大型犬にじゃれられてる感じかも?
こんな姿を見て、つい許してしまう私も悪いんだけど。
コイツが女たらしというか、ホストっぽいから、いけないのではないのだろうか。
そんな気がする。好きでもないのにこんなことされたら、普通は勘違いするよね。怜人なら、誰にでもしてそうだし。
「舞さん?」
「ん?」
「僕と一緒に暮らす?」
「お姉さんと怜人と私で?」
「いや、僕と舞さんの2人」
何でよ。会って2週間の女とルームシェアするバカがどこにいるのよ。
「やだ。一緒に暮らすメリットがない」
「僕が用心棒代わりに」
「あなたが一番危険だし」
「そんなこと言わないでよ…本当にお願い、マジで」
「いやです」
どうでも良いことに振り回される私の身にもなってほしい。
年の近い独身男性と一つ屋根の下にいれば、間違いが起きないとは限らない。
それに、私には…
「意地悪」
「失礼な」
「…もういい。とりあえずお腹空いた。ご飯に付き合って」
「良いよ。どこ行く?」
「え〜っとね…」
いつの間にか体は離れ、私の右手に怜人の左手が重なって、指が絡む。
心地よい体温に、不意に涙が溢れそうになる。
―――あの人の指は、冷たかった。
もう、二度と触れることはできない。でも、その体温を忘れることもできない。
ほら、また閉じ込めた心が溢れ出す。
私はきゅっと目を閉じ、衝動を押しやる。
―――実の兄に恋してる、なんて言えない―――。
絶対に、誰にも言えない。知られてはいけない。
私は高校生の頃から兄にずっと恋をしている。
吉永風太。
私より10歳年上の、実の兄だけど外見は全く似てなくて、隣を歩いても、誰も兄妹だとは気づかない。小柄で童顔の私と、背が高く涼しげな顔立ちの兄。
私はいつも兄の背中を追いかけてきた。かっこよくて優しい兄は私の憧れだったから。
でも、高校2年のあの日から、私は男性として兄を愛するようになってしまった。
兄を、初めて一人の男性として見るようになったのは、ちょうど12月だった。
その日、私は彼氏にフラれて酷く落ち込んでいた。クリスマスを目前にして、この有り様。
涙が止まらなかった。
泣きながら家に帰り、玄関を開けた。その日は家に兄しかいないのは知っていたから、兄に愚痴を聞いてもらおうと思っていた。
「ただいま〜…」
玄関で靴を脱ぎ捨てると、そこに華奢なシャンパンゴールドのハイヒールが置いてあることに気づいた。
誰か、来てるのかな…?
私はスリッパを履くと、そっとリビングに向かった。リビングに続くドアは半開きで、中からは人の気配がする。私はドアの隙間から中を覗いた。
そして私の目は、兄の横顔に釘付けになった。
兄と、兄と同い年の幼なじみのお姉さんがキスをしている。
その事実など忘れてしまうほど、私は初めて見た兄の、男の人の顔から目が離せなくなっていた。
愛しさを隠すこともなく、熱を帯びた目。蕩けてしまいそうなくらい甘く優しい微笑み。
その時受けた衝撃は一生忘れないだろう。
気づけば私は家を飛び出し、駆け出していた。
触れたい、と。
触れて欲しい、と願ってしまった。それも、実の兄にだ。
涙が溢れて止まらない。
どうしようどうしようどうしよう。
誰にも言えない罪を背負ってしまったかのように、胸がつかえて苦しい。禁断の味は甘くなく、ただただ苦かった。
街をうろついて、やっと落ち着いた頃、私は家に帰った。玄関を開ければ既にハイヒールは無く、兄も出掛けたらしかった。
階段を上がり、自分の部屋に閉じ籠る。机の上の兄と二人で撮った写真が目に入った。はにかむ兄の姿に、胸に甘い痺れが広がっていく。
もう、戻れない…。
その事実が悲しくて、私は写真立てを倒した。
それからずっと、私は兄を避けるようになった。兄は時々淋しそうにしていたが、やがて仕事も忙しくなり帰宅が深夜になることも多くなったためか、顔を合わせることは急激に減っていった。
対照的に、口に出せない想いは日に日に募り、膨らんでいく。
何度言ってしまおうかと思った。でも、言えなかった。兄から、どんな風に見られるのか、考えただけで恐ろしかった。
でももう、伝えられない。
兄はその次の年の6月に、事故で死んだ。私が高校3年の夏のことだ。
事故のことを聞いた時、私は自分を責めた。
これは兄を愛してしまった、私への罰なのだと。
愛してはいけない人を愛したから、その人を失ってしまったのだと。
心に空いた穴は大きくて、思い出せば息もできないほど苦しくなる。
会いたくて、恋しくて。
今日もまた、私は泣きながら眠るのだろう。
怜人と恋人契約をしてから、半年が経った。クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーとイベント事を怜人と過ごした。誰かと過ごす特別な日は本当に数年振りで、くすぐったく感じたが、もう今は諦めが先に立つ。
今日も、怜人とデートのために駅で待ち合わせていた。
汗ばむような陽気の今日、私はパステルグリーンのカーディガンに丸襟のブラウス、クリーム色のフレアスカート、深緑のパンプスという、新緑の季節に合わせた装いだ。気合いが抜けているような感じだが、実はかなり頑張っている。半年前まではTシャツにジーパンというラフな姿だったのだから、大きな進歩だ。最近は綺麗になったと同僚に言われ、ナンパもされるし、会社の先輩に告白された。そういう意味では、女として意識せざるをえない状況を作ってくれた怜人に感謝している。
でも、これもあと少しだ。
昨日、やっと元カノさんが諦めてくれたと聞いた。元カノさんは新しい彼氏に夢中らしい。
「ま、これでお役御免ね」
長かったような短かったような。考えたら、なかなか美味しい契約だった気がする。かっこよく、優しい良い男と付き合える機会なんてそうそう無い。
待ち合わせまで、あと20分。そよいだ風が心地よい。一瞬感じた淋しさから目を反らし、穏やかな気持ちで怜人を待った。
水族館では、私は深海魚のコーナーで釘付けになり、怜人は海ガメの水槽に張り付き、デートだろうかと思うくらい別々に行動した。お互いに満足したところで、水族館を出た時には既に夕方だった。…一体何時間見ていたのだろう。正直、考えたくない。お互いにマイペースなので、そんなこと日常茶飯事だ。
「ご飯、和食でいい?」
「うん。どこ?」
「海鮮料理が旨い店だよ」
「へぇ、楽しみだなぁ。お腹空いた」
二人並んで歩く。こうして歩くことも、これが最後かもしれない。感慨深く歩いていると、そっと右手を掴まれた。大きな手は温かい。
「あ…」
どうしてだろう。きゅっと胸が締め付けられる。
「どうした?」
不思議そうな顔をして、怜人が私を覗きこんだ。色素の薄い瞳が柔らかに揺れる。
私はその瞳から目を反らせずに、ただ見つめた。吸い込まれるような感覚に、目眩がしそうだ。
「舞…?」
優しい低い声。
『舞』
怜人の声に、大好きな兄の声が塗り潰されていく。体に染み込んで、泣き出しそうな幸せな気持ちが広がっていく。
その事実に私は驚いた。死ぬほど驚いて、喉が詰まった。同時に恐怖を覚えた。
兄の存在が私の中から薄れていく。それは、兄をもう一度殺すような気がして。自分の罪を忘れてしまう気がした。
「…何でもないよ」
私は笑顔を作る。もう会わなくなる人に話すことではない。
「何でもないって顔じゃないけど」
そう言って、怜人は私を抱き寄せる。人通りも疎らな場所とはいえ、歩いている人はいる。通りすがりに人が好奇の眼差しを向けてきた。
「ちょっ、怜人さん…やめて、人が見てる」
「良いよ、別に。恋人なんだし、後ろ指差される関係じゃない」
「恋人、のフリ、でしょ!それももう必要ないし!」
「なんで?」
なんで?
「元カノさんは新しい彼氏ができたんでしょ?もう、逃げる必要もない」
そうなのだ。元々は、それが発端なのだ。
怜人は更に私を強く抱き締める。骨が悲鳴を上げた。
「れ、いと!痛い!」
「…舞さん、僕はあなたが好きだ。恋人のフリ、なんて途中からどうでも良かった。
舞さんと一秒でも長くいたくて、いつかこの関係が本物になってくれたら良いと思ってた」
え?
私の世界から、怜人以外の存在が消えていく。
「そ、んな」
「本気だよ。僕は舞さんと一緒にいたい。お願いだから、僕を男として、見て?契約の相手じゃなくて、僕のことを考えて」
嘘、でしょ?
心臓が、痛いくらい速く鳴る。怜人の鼓動はもっと速い。
苦しい。
泣きたい。
「好きです。僕と付き合ってください」
あぁ…どうして、こんなことになってしまったのだろう。
積み重ねた時間が、意味のあるものに変わっていく。
でも、
「ごめん…私、忘れられない人がいるの」
きっと、私はこの返事を後悔する。でも、兄を忘れていくのも怖い。これは兄を愛した私の罪。
「舞さん…」
切ない声に、涙が溢れる。
「ごめん、なさい…」
時が止まれば良いと思った。
怜人と会わなくなって、2ヶ月が経つ。私は住んでいた部屋を引き払い、別の場所で住んでいる。
私は怜人との関わりをすべて絶ち、ただひたすら日々を生きていた。
あれだけ、兄を想っていたのが嘘のように毎日、怜人を想い、怜人の夢を見る。
兄を忘れたわけではないけれど、とっくの昔に想いは昇華されていたのだ。今さらそのことに気がつく私はバカだと思う。
私は、いつからか、怜人を愛するようになっていたのだ。どうしようもなく恋しくて、会いたくなる。
もう、戻ればしないのに。
会社からの帰り道。駅への道を歩く足取りは遅い。体が鉛のように重くて仕方なかった。最近スキルアップのために英会話教室や資格取得のための学校に通ったりと、休む間も無いくらい忙しくしているからだ。…そのくらいしないと、淋しさに耐えられなかった。
俯きがちに曲がり角を曲がった瞬間、私は誰かとぶつかった。
「すみません、」
「…舞さん?」
「え?」
名を呼ばれて、私はその人の顔を見上げる。そして思わず目を見開いた。
「怜人さん…」
会いたくて会いたくて仕方なかった、怜人が目の前にいる。久しぶりに会った怜人はやっぱり綺麗で人形みたいだ。濃紺とも深緑ともつかない不思議な色彩の瞳が、さざ波のように揺れていた。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
声を聞いただけで、目頭が熱くなる。
やだ、泣きそう…。
口を開いたら零れ落ちそうな涙を必死に押し止め、笑顔を作ってみせる。我ながらぎこちないと思ったが、そうでもしないと怜人に泣き言を言って縋りそうだった。
「元気?」
「うん、怜人さんは?」
「僕も」
社交辞令の会話すら、今の私たちは続けられない。当然だろう、二人の関係は、円満な別れにはならなかったのだから。
「あの」
沈黙する私たちを見ていた、怜人の隣の美女が口を開く。けばけばしい美しさじゃなくて、透明感のある美しさが、眩しい。
「怜人、この方は?」
鈴を転がしたような声。なんて綺麗なんだろう。これが怜人の新しい彼女だろうか。だったら私では敵わない。
はっと美女に目を向けた怜人は、慌てて表情を取り繕う。その頬が紅潮していて、戸惑ったような目で私を見た。
それは、どういう意味?私が邪魔ってこと?
そう思った瞬間、体から熱が失われていくのを感じた。
あぁ…過去に振り回されていたのは私だけだったんだ。怜人はもう新しい恋を始めている。
「あ、彼女は…」
「吉永舞です。怜人さんとは、昔の知り合いで。
…どこかに向かわれている途中ですよね?ごめんなさい、お引き留めして。私も急いでいるので、失礼します」
営業スマイルを浮かべて、頭を下げる。喉から胃にかけて、冷たい何かが満ちてくる。
何か言いたげな怜人の表情が視界に入った。けれども私はそれに気づかないフリをする。
もう、私たちは関係ない、ただの知人なんだから。
私は二人の横をすり抜けると、脇目も振らず駅へ向かった。歩がだんだん速くなっていく。
涙が溢れて止まらない。
捨てたのは私なのだ。今さら遅い。分かってる。でも、涙は止まらなかった。
改札口を通るとタイミングよく、いつも乗る電車がホームにあった。私はそれに乗り込むと、座席に座る。電車の中は暖房が効いていて暖かった。
この電車は各駅電車で、大抵において乗る人は全くいない。今日も誰もおらず、私は人目を気にせず鼻を啜った。
ハンカチで目を押さえていると発車のベルが鳴る。
これで存分に泣ける、と安堵した瞬間、誰かが駆け込む音がして、私は顔を上げた。そして、目を見開いた。
「何、泣いてるの」
そこには、さっき別れたはずの怜人が息を切らして立っていた。少し硬い声。緊張が滲んだその声が、苛立ち紛れなその視線が、私に降り注ぐ。
ドアが閉まり動き出した電車の中に、私と怜人だけが閉じ込められた。完全な密室に逃げることなんてできなくて。私はただ、涙を流したまま怜人を見つめた。
「お願いだから、泣きそうな顔して笑うの止めてよ。期待しちゃうじゃんか」
その言葉は、あなたにそのまま返したい。泣きそうな顔して微笑ってるのは、あなたの方じゃないの。
そんなことを考えて、でも口にはできなくて黙りこくる私を気にするでもなく、怜人は言葉を紡ぎ続ける。
「住んでた部屋も変わって、携帯も連絡つかなくて、僕は切られたんだって思った。ショックで立ち直れなくて、でも前に進もうと、諦めようと決めたのに、」
怜人が膝をつき、私の涙を指で拭ってくれる。
見上げた表情はひどく優しい。
「なんなわけ、さっきの」
「え?」
「他の女性といるところを見て、泣くくらいなら、最初から逃げなきゃいい」
「だ…って!気づいたの、離れてから、だもの!それに、怜人さんだって彼女が」
「…まぁ、舞さんらしいというか、なんというか」
盛大にため息を吐いた怜人は、悪戯っぽく笑う。その笑顔に胸がきゅうっと締め付けられる。
「あの女性は、僕の従姉。今日は、僕の友人を紹介するはずだった。ま、うまく落ち合えたみたいだから、僕はお役御免だけど」
「そ、そうなの?」
「僕、結構一途なんですよ。そんなすぐ、他の女性と付き合えるほど器用じゃない」
自分で言っておきながら照れたのか、怜人は頬を赤くした。それが可愛らしくて思わず笑みが零れる。胸に広がるのは、温かくて優しい想い。
あぁ、もう逃げられない。
私はこの人がどうしようもなく好きだ。
この人の気持ちを受け止めよう。そして、全てを話そう。きっとそれからでも遅くない。もしも拒絶されたら、たくさん泣こう。
「舞さんこそ、忘れられない人とはどうなったの?」
「…怜人さん、聞いて?」
怜人が頷くと、私は話し始めた。兄のこと、全部。怜人は黙ってその話を聞き、私の頭を撫でてくれた。
話し終えると、怜人は笑った。
「舞さん、可愛い」
「なにがっ?!」
「全部。
不器用だなぁ、舞さんは。確かに、忘れられない人がお兄さんだと思わなかったけど。
でもさ、忘れなくたって良いんじゃないの?それを含めて舞さんなんだから。どんな形であれ、真剣に恋をした、その事実は今の舞さんに繋がっているはずだよ」
事も無げに怜人は言う。
「そして僕は、その想いごと、舞さんを受け止めたいんだ」
「うん…」
「もう一度、聞くよ。
僕と、付き合ってくれませんか?」
真っ直ぐに見つめられて、私は頷いた。
もう逃げない。いつの間にか大切な存在になっていたこの人の傍にいたい。
「怜人さん、好き」
「僕も」
どちらかともなく、唇を合わせる。触れたところが熱い。
兄との記憶の上に、怜人との思い出が塗り重ねられていくことも今は怖くない。
その後、電車を降りて二人で私の家に向かった。ただ手を繋いでるだけなのに、どうしようもなく幸せで。
家に着いて、お互いにシャワーを浴びて、ベッドに腰かけた。帰る途中でコンビニに寄った時に買った明日のパンとコーヒーは、無造作に机の上に置かれている。
「舞さんと夜を一緒に過ごすの初めてだ」
「そうね、恋人契約の人と夜を過ごす義理はないし」
「まぁ、そりゃね。…なんか緊張するな。ヤバいくらい鼓動が速い。心臓が痛いし」
そう言って、怜人は私の頭を抱き寄せた。耳から軽やかなテンポが伝わる。その音が、とても心地よい。
「私も。…好きよ、怜人さん」
「怜人でいいよ」
「ん…」
頭を優しく撫でられ、旋毛に唇が触れた。その感覚に体の芯が熱をもつ。
「舞…」
優しく押され、怜人とともにベッドへ体を沈めた。
「ねぇ、何書いてるの?」
「私の恋愛」
「ん?」
「私ね、ずっと自分の気持ちに嫌悪してた。だから、心を言葉にすることを避けてた。今ならわかるの」
怜人のワイシャツを着ただけの私を背中から抱き締めて、彼は小さな相づちを打つ。表情は見えないけれど、微睡んだような穏やかな色を浮かべている気がした。
「ありがとう、私を選んでくれて。心をくれて」
あなたがいたから、私の時間は動き出した。ゆっくりと回り始めた時計の歯車は、これからあなたと時を刻んでいく。
読んでいただきありがとうございました。