舞台の裏側で
「僕は人を殺したことがある」
突然の告白。
ひょろりとした男にスポットライトが当たる。
「だから、キミをここで手にかけることは造作もない」
広がる声は低く、なのに軽やかだ。
言葉は危険な香りしかしないのに、その音はどこまでも明るく、伸びやかに広がる。
そのギャップと、男の甘く熔けそうな微笑みが、本能的な部分を刺激する。押しのけようとしても、恐怖に思考も身体も支配される。
「僕のものにならないのなら、」
気づくと、男の顔が目の前にあった。
細面で優しげな顔。私を見つめる暗褐色の瞳は爛々と燃えている。
私の首を掴んだ両の掌はとても冷たくて。
きっと、私の表情が凍りついたのだろう。
男の笑みが、深くなる。
「愛してる。だから、僕のために」
その手に力が込められ――――
すべての灯りが落ちた。
「お疲れ様でした!」
練習が終わり、役になりきっていた演者たちが、演じていた時とは異なる素の表情を浮かべ始める。
まだ役の話で盛り上がっている姿もあるが、先程までの緊迫した様子から見れば、断然柔らかい空気が漂っている。
ここにいる人たちは、本当に芝居を愛している。
演じることだけで名声を得、華やかな生活を送ることができる人は、ごくわずかだ。いつか自分の演技が誰かの目に止まることを夢見て、苦しい生活をしている人も少なくないだろう。
特に、この劇団は小さく、知名度も低い。当然実入りも少なく、芝居の練習が終わればアルバイトに向かう劇団員も多い。
それでも芝居を止められない。
自分とは違う生き方をしている人物の人生を、演じる。その魅力に囚われているのかもしれない。
ぼんやりと考えながら、私は帰り支度をするために更衣室へ向かった。
軋んだ音を立てる扉を開け、薄暗い廊下に出る。演じていた高揚で熱かった身体が冷え、少し肌寒い。
廊下に出て、後ろ手で扉を閉めると、私はふぅと息を吐いた。
目を伏せると、知らず強張っていた身体が弛緩する。
後頭部で一つに縛っていた髪を解くと、肩に髪が落ちてくる。
「エリー」
不意に声をかけられ、私は顔を上げた。
「…あ、翼くん」
細身の長身、繊細そうな細面の端正な容姿の男。
舞台の上で、私に愛を囁いた彼は、無表情に私を見つめている。
大きくて、少し垂れた目は無機質で、熱を感じない。
常の表情に私は安堵しつつ、へらりと笑ってみせる。
「お疲れ様。どうしたの、こんなところで。帰らないの?」
いつもなら、稽古が終わればすぐにいなくなるのに。
暗にそう告げると、彼は数度唇を小さく開閉した後、きゅっと唇を引き結んだ。
何か言いたいことはあるのだろうが、口数の少ない彼のことだ。恐らく待ったところで言葉は出てこない。
「私、今から用事があるの。お先に」
立ち尽くす彼をそのままに、私は隣を通り過ぎた。
通り過ぎたのだが、そこから動けなくなってしまった。理由は簡単だ。彼、真瀬木翼が後ろから羽交い締めにしているからだ。
何故そんなことになっているのか、理由は分からない。
けれども、ぎゅうぎゅうと抱き締められるものだから、その腕から逃げようにも逃げられない。
嘆息しつつ、私は彼の腕に右手を添える。
「本当にどうしたの?舞台から下りたのに、まだ役のままでいるの?」
軽口を叩いてみたが、拘束は強まるばかり。挙げ句、左肩に彼の頭が乗せられて、密着度が増した。
そろそろ皆がこの廊下にやってくるというのに、困ったものだ。
「話があるなら、とりあえず場所を変えよう。ここじゃ話せないでしょう」
「…うん」
やっと声が聞こえ、拘束が解けた。
私は振り返り、彼を見上げる。相変わらず無表情だから、何を言いたいのかさっぱりだ。
「着替えて、小道具置き場に集合。そこなら人も来ないし、良いんじゃない?」
提案すれば、こくりと肯かれる。
その様子を見、私は踵を返して更衣室へ向かった。
私、赤塚恵里菜はごく平凡な女である。
中流家庭に生まれ、父親に似た凡庸な容姿をし、特筆する美点もなく、なんとなく大学を出た。
劇団に入ったのは、大学のサークルの先輩に誘われたから。
柄にもなく華やかな世界を夢見て入った演劇サークルの先輩が、今の劇団にいて、流されるままに入っただけ。
演劇に熱意を持っていたわけでもない。それなのに、20代後半になった今も続けているのは、もはや惰性だ。
他の人のような熱量もない私は、劇団では少し異質である。
それでも時折、役をもらえるということは、今までやってきた何よりも、演じることに適性があるのかもしれない。
ただし、普通の人よりほんの少しだけ。一流の人の足元にも及ばない。
親からはいい加減に定職に就け、いやなら結婚をして家庭に入れ、などと頻繁に言われるが、そんな風に生きる自分が想像できない私は、のらりくらりと流している。
しかし、そろそろ止めようと思ってはいる。
いい加減な私が続けていけるほど、この世界は甘くない。いつまでもアルバイトをして生きていくのにも不安がある。
何より、あと少しで、私を劇団に引き止める理由が無くなってしまうから。
着替えてすぐに向かった小道具の倉庫は、ひどく狭かった。
案の定、そこには件の彼しかおらず、それを確認してから私は扉を閉め、念の為内鍵をかけた。
「ごめん、待たせた?」
そう問うと、彼はゆるゆると首を横に振る。
「じゃあ、さっきの続き。私に用事があった?」
近くにある椅子に腰をかけると、それに倣うように彼も隣へ腰かけた。
二人だけの、静かな空間。
互いの鼓動さえ聞こえるのではないかと思うほど、音の無い世界に身を委ねるのは、ほっとする。
どれくらい経ったか分からないくらい長い沈黙に、脳が眠気を訴えてきた頃、彼がぽつりと言葉を落とす。
「エリーは、劇団を止めるの?」
「うん?そうだよ。よく知ってるね。まだ座長にしか言ってないのに」
無駄に足を揺らしながら、軽い口調で応えた。
驚いた。何でバレたの。
内心は驚愕しているのに、そんな気持ちは見せない。
隠していたはずのことが露見して、焦っている。けれどそんな姿、彼に見せられない。どうでもいいプライドが、頭を擡げる。
「座長と話してるのが聞こえた。もう止めるって。
何で?どうして?」
隣を見れば、まっすぐに向けられた目とぶつかった。
「どうしてって…。一生売れない役者やっているわけにはいかないし。普通に働こうかな、と」
思わず言い訳じみたことを告げてみるが、彼は眉を顰めてしまった。
「そんな顔しないでよ。潮時だったんだからさ」
口角を上げて、笑顔を作る。この笑顔は唯一、可愛いと定評があるのだ。誤魔化す時はよく作っている。
彼は目を何度も瞬かせ、口を噤んだ。
「翼くんだって、芸能事務所からスカウトされてるんでしょ。そのうちここからいなくなるじゃないの」
そうなのだ。彼は整った外見と、類まれなる才能を有している。
故に、噂を聞きつけたスカウトの人が、この前の公演に来ていて、彼に声をかけた。
事務所に入れば一躍時の人だ。
何せ、大学時代からモデルのスカウトをされるようなイケメンで、本来はこんな所で燻っている人間ではない。
彼が有名になれば、もう完全に手の届かない人になる。
こうして話すこともないだろう。
「すごいね、翼くん。
テレビや映画に出ることあったら、絶対に観るよ。応援する」
彼が名声を得た後、若い頃を懐かしんだ時に、この劇団での日々を思い出してくれるのだろうか。
私のことも思い出すのだろうか。
私はその時、何をしているのだろう。
もしかしたら何となく結婚して、子どももできて。この俳優さんと、一緒に舞台に上がったことがあるんだよ、と子どもに話すのだろうか。
そんな風に生きていけたら。
私はきっと。私は。
「エリーは、どうして、いつだって僕を見てくれないの」
未来を夢想していた私に、突如としてぶつけられた言葉。
どこか怒りを孕んだ口調に、目の前の彼に視線を戻した。
「ちゃんと見てるよ」
「見ていない」
「見ているよ。こうして今だって、」
「そうじゃない!」
演技でない彼の怒鳴り声を初めて聞いた。
さすがに表情を作れなくて、自分の目が大きく見開かれたのが分かった。
彼の顔は、表情が無い。
けれども、いつもと違う。怖いくらいの熱が、その目に凝っている。
先程舞台の上で見た、燃えるような眼差し。
本能的な恐怖が、身体を突き抜ける。
「翼くん、どうしたの?」
縺れながらも、無理矢理声を出す。
その様子に、彼がふわりと微笑んだ。
「エリー」
睦言のような甘い声。
劇団の中でも密かに彼に憧れている女性は多い。
こんな風に呼ばれたいと思っている人も。
けれども、今の私には恐怖でしかない。
「僕は貴女に焦がれている。
焦がれて焦がれて焦がれて、気が狂いそうなくらいだ」
だから、続いた言葉に文字通り私は驚愕した。
「何を」
何を言っているのだ、この男は。
今まで一度だって、そんな素振りもなかったのに。
人形めいた容姿に隠されていた、激しいほどの熱。舞台でしか感じなかったものが、彼の中にあったなんて。
「年下で、演じることでしか想いを伝えられない、情けない僕のことなんか、貴女はどうでもいいんだろう?
座長だって、僕の気持ちを知っていた。他のみんなも知っている。
だから、いつも僕の恋人役はエリーだったのに。
それなのに、見向きもせず、僕が事務所に入ることを喜ぶ。自分は劇団を止めて、唯一の繋がりを絶とうとする」
彼の両の掌が、私の首に添えられる。
「僕のものにならないのなら、僕のために死んで。
そうしたら、永遠にエリーは僕のものだ。
エリーが死んだら、僕も後を追う」
まさに芝居の再現。
違うのは今が現実で、彼が本気で私と心中しようとしていること。
緩やかに手に力が込められる。
暗褐色の瞳があまりに真剣だったから、一瞬だけ、死んでもいいかな、と思った。
彼と二人、死を選ぶ。仄暗い甘美な誘惑。
けれども、それではあまりにも報われない。私も彼も。
ぱちんっ
目の前の綺麗な顔が、左にぶれ、右頬が赤くなる。
その拍子に首を締めていた手は解けた。
「ばかじゃないの。何やってるの、あんた」
惚けたように私を見る彼。
たぶん、叩かれると思っていなかったのだろう。珍しく驚いたという顔をしている。
「私は舞台の上で演じた、あの女とは違うから。翼くんのために、死んでなんてあげない」
言えば、泣きそうに顔が歪む。
「だいたい何なの。殺したくなるくらい好きなら、言ってよ。
翼くんより私の方が泣きたい」
腹立たしい。
惰性だけで生きてきた私の中にも、マグマのような激しい感情はある。
膨れ上がった熱は、溢れ出したら止まらない。
だから、隠していたのに。
「私が翼くんを見ていないと思ってたの?
見ていたかったから、この劇団にいたんでしょうが。
本当はすぐに止めるつもりだった。でも、止めたら翼くんを見つめる理由が作れなくなる。だから続けていたのに」
「エリー…?」
「でも、私たちは住む世界が違うから。せめて翼くんの門出を祝おうと、快く送り出してあげようと思っていたのに。
何なの一体。馬鹿なの?」
焦がれて、気が狂いそうだったのはこちらの方だ。
何にも無関心な人間が、夢中になれるものを見つけたら、恐ろしいほどに執着する。
自分がその類だと自覚していたから、気持ちを抑え込んでいた。
それを滅茶苦茶にしたのは、目の前の男だ。
「私のことを愛しているというのなら、ちゃんと一流の俳優になりなさいよ。
そして、私に自慢させなさい。昔、一緒に演じたことがあるの、って」
「エリー、それって」
「言わないと分からないみたいだから、餞別に伝えてあげる。
私はキミと未来は歩けない。
だけど、ずっと見ているから。応援するから」
「何で!僕の隣にいてくれないの?」
ポロポロと涙を零し始めた彼に、私は笑いかける。
「だって、私は翼くんが大きな世界に羽ばたく姿が見たいもの。それは私といては見られないもの」
「そんなことない!僕はエリーがいないと、役者になれない」
「大丈夫だから。キミの才能は、私が一番よく知ってる。
ちゃんと見てるよ」
そっと唇を重ねると、彼にきつく抱き締められた。
震える肩に腕を回せば、縋りつくように身体が引き寄せられる。
「愛してる。だから、輝いて。
翼くんのこと、大好きだから。最初で最後のわがまま、聞いてよ。
お願い、一流の俳優になって」
本当に手放せなくなる前に、私を解放して。
互いに恋い焦がれていた、そんな日々が美しいままであるように。
そんな想いも込めて伝えた言葉に、彼からの返事はなかったけれど。
私たちの道は、もう重なることはない。
しばらくして、彼は大手の事務所に入り、私は劇団を出た。
今は地元に帰り、小さな会社で働いている。
アルバイトをしながら舞台に立っていた日々は、今や懐かしい過去だ。
最近、翼くんは映画の主演に抜擢された。番宣もあるのだろうが、相手役の女の子と付き合っているなんていう報道もあった。
あれから5年、人の心を変えるには十分な時間だ。
「懐かしいなぁ」
テレビの画面越しの彼は、前より少し洗練された。
カメレオン俳優なんて言われ、すっかり一流俳優の仲間入りを果たしている。
そんな彼と二人過ごしたことがあるだなんて、きっと羨ましがられるのだろう。
苦笑しながら、テレビを消した。
懐かしく思い返せるだけの余裕ができても、私の中にはまだ彼への想いが溢れている。
他の人に愛を囁く彼を、平気な顔をして見られるまでになるには、まだ時間がかかりそうだ。
時計を見れば、もう昼を指していた。
休日だからと遅く起きてしまった。昼食を作らなければ。
そう思って立ち上がった時、インターホンが鳴った。
「はい!」
大して確認もせず、私は扉を開けた。
そこには、ひょろりとした長身の、ちょうど先程までテレビ越しに見ていた男が立っていた。
「エリー、確認してから開けなよ。不用心だろ」
彼は相変わらず無表情で、そのくせ目元を優しく緩めながら、私を見下ろしている。
「どうして、ここに」
思わず呟いた言葉に、彼が破顔した。
「決まっているじゃないか。エリーのお願いを叶えたから、会いに来たんだ」
見たこともない満面の笑みで、そんなことを言うものだから。
私は、その場にへたり込んでしまった。
かくして、私と彼は、長い攻防戦の後、一緒に暮らすようになる。
どんな情報操作があったのか、彼が売れる前からずっと好きだった女性をやっと捕まえた、という話が広がり、周囲は二人の関係に好意的だ。
たぶん、羽ばたく彼の背中を押して私が身を引いた、ということになっていることも要因なのだろう。
同棲を公表したら、ファンが減るのではと心配していたのだが、一途で情熱的なところも良いと、寧ろファンは増えたようだ。
今は事実婚状態で、そのうち彼は籍を入れようと画策している。
手放したはずの彼と、こうして一緒にいられる今が、とても幸せで、少し怖い。
もしも、また彼を手放さなければならなくなった時、私は手放せないかもしれない。
そんな不安を抱えながらも、この幸せに揺蕩いながら、私は彼と二人生きている。