恋が融ける
私の記憶が鮮明である小学3年の頃には既に、隣の家の政則君は高校生で、元気いっぱいのサッカー少年だった。子供から大人に変わる、微妙な年頃ゆえに、不安定ではあるが、それでも生来の優しさはそのままで、私には輝いて見えた。
そう、10歳になったばかりの私は、17歳の政則君に恋をしていた。
彼のすることは何でもカッコよく見えたし、彼の言動に一喜一憂して日々を過ごしていたのだ。正に恋は盲目、あばたもえくぼ状態で、私の世界は政則君を中心に回っていた。
………まさか、それが20歳を越え、社会人になって3年経った今までずっと続くとは思わなかったのだけど。
政則君は今や、30歳のおじさんになり。年相応に老けてきたのだが、哀しいかな私には昔と変わらずキラキラと輝いて見える。フランチャイズのコンビニの店長をしていて年中無休だから、だらしない格好もよく見るのに、だ。
もう、政則君のいない生活などできないと思うくらい、彼のことしか見えていない。
好きで好きで好きで。
こんなに好きで堪らないのに。
私の想いはいつだって空回りする。
私はただの幼馴染み。それ以上でもそれ以下でもない。
だって政則君には大切にしている彼女がいる。
大学生の時から付き合っている、綺麗で優しい女の人。香保里さん、というパティシエールが政則君の恋人だ。
香保里さんがフランスへ修行に行ってしまったから、結婚はしていないけど、半年後には式を挙げるらしい。
二人は毎日スカイプで連絡を取り、時々エアメールを送りあったりと本当に仲が良い。
それを知っているのは私だけだけど、二人から惚気られる度にチクチクと胸が痛む。
本当は、分かっている。
この恋を諦めなきゃいけないこと。誰よりも傍で二人を見ている私だから、分かる。
なのに、私はこの恋を失うのが怖い。政則君以外の誰かに恋をする自分を、私は認めたくない。
もしも他の誰かを好きになったとしたら、今まで政則君に恋をしてきた私はどこへ行くの?
それならずっと、哀しい恋に浸っていたい。
「これ、良かったらどうぞ」
目の前にすっと出されたのは、可愛らしい包装の箱。それを差し出す左腕には、シンプルだけど高価なシルバーの腕時計が付けられている。
視線を上にずらしていくと、悪戯っぽく微笑む焦げ茶色の瞳が目に飛び込んできた。切れ長で少しだけ吊り目のその人は、飽きもせず、あれこれとお菓子をくれる…変な人。
私の中では変な人のカテゴリに区分されているのに、社内の女性陣からはクールでカッコいいと人気がある。お堅いから恋人としては微妙だけど、夫としては理想だなどと言われていたりする。
「それ、この前イギリスへ出張に行った時のおみやげ。ほら、本社での研修で。向こうで今流行りのチョコレート専門店の一番人気なんだって」
不躾な視線を向ける私をものともせず、彼は重ねて言葉を紡ぐ。私の冷たい態度に慣れっこな彼は、最初から返事を期待していなかったようだ。
私は唇を引き結ぶと、自分の手元に目を落とした。先ほど校正したばかりの報告書はもう修正箇所などないのに、まだ校正の途中だったかのように凝視する。
文章もグラフも脳内で上滑りしていく。でも私は顔を上げない。
「浅利さん。僕のプレゼントは、合格点?」
そう訊いてくる声はテノールとバスの間くらいの音域で、とても優しい。ねぇ、とどこか甘えた囁きが掠れていて、ほんの少し照れが含まれているのが分かる。
不快ではないけれど、心臓に悪い声色が、私は苦手だ。
「…良いんじゃないですか」
素っ気なく答えると、そっか、なんて嬉しそうな声が降る。
そっと彼を見ると、チョコレートを溶かしたみたいな目が私を見つめていた。
この、柔らかな色も、私は苦手だ。
「じゃあ、浅利さん、受け取ってくれる?」
先ほど肯定したのだから、今さら否、なんて言わないのを分かっているくせに。
「………もらってあげても良いですけど」
思わず高飛車な物言いになってしまった私に、彼はほんのり笑んだ。優しくて、チョコの匂いが薫りそうな甘い顔で。
この笑顔も、私は苦手だ。
デスクの隅に箱を置いて去っていく、ダークグレーのスーツの背中は大きくて、そういえば学生時代に野球部だったと誰かが言っていたのを思い出す。
背が高くて筋肉質な身体が頼りがいがある、なんて言う女の子もいるけれど。
やっぱり、その大きな背中も苦手だ。
彼を象るすべてが、私は苦手なのだ。
だって、私が見る彼は、他の人が話すクールな男性ではなく、熱をもった…こちらが融かされてしまいそうな男性だから。
真っ直ぐに、反らされることなく向けられる目が、進むことも戻ることもできない私を責めるように感じるから。
向き合う度に揺らいでしまう、そんな自分が嫌だから。
だから、彼が苦手だ。
槻岡祐という、5つ上の先輩が。
就業時間が1時間ほど経った頃、私は会社を出た。
配属されているマーケティング部は、年がら年中忙しいのだが、急な案件が無ければ週に1回、定時退社の日がある。今日はその日だったので、私はそそくさと退社したのだ。
外に出た瞬間に冷たい風が頬を刺し、私は思わず目を細めた。1月の半ば、日の入りは早く、空には月が浮かんでいる。
就職した時に奮発して買ったグレーのコートのポケットに手を突っ込むと、右手に何かが触れた。軽く握れば、小さい箱だと分かる。
「一体、何のつもりなわけ」
ぽつり、と涌き出た言葉を紡いでみる。本当に、何のつもりなのだ。
指に触れている箱は、槻岡さんが今日の朝、おみやげと称して置いていったもの。
ありがとう一つ言えない私に、1年近くも笑顔で話しかけ、そして物を置いていく。お菓子だったり飲み物だったり、時には文房具や装飾品だったり。
安直な考えをするのなら、彼が私に好意を持っているのだろう。
けれども、1年前まで私たちは関わりもなかった。彼は海外営業部、私はマーケティング部。接点など皆無に等しい。
それなのに突然、彼は私の前に現れた。
『これ、もらってくれますか?』
そんな風に微笑んで。
いつの間にか辿り着いていたコンビニの駐車場で、私は足を止めた。
夜の帳を掻き消すような明るい街の中でも、負けないくらい明るいコンビニの光の下に、政則君の姿が見える。ちょうど客足が途絶えたのか、彼はスマホを確認し、そして嬉しそうにふわりと微笑んだ。
痛みが胸を侵食する。
私はぼんやりとその笑顔を見つめ、そしてその場を立ち去った。
目を閉じても鮮明に浮かべることができる、政則君の幸せそうな笑顔。
それは私には絶対に向けられないもの。
分かっているのに、心が軋んで悲鳴を上げる。
ポケットに突っ込んだままの手には、槻岡さんがくれた箱があって、それがまた私の心を揺さぶる。
どうして、なの。
何よりも欲しいものは別の人のものになって。
欲しいと望んでもいないものは容易く目の前に差し出されて。
何で、こんなに恋はままならないのだろう。
いっそのこと、この恋と一緒に、思い出も何もかも消えてなくなれば良いのに。そうしたら、きっと。
足元に落ちていた小石が淡い黄色のパンプスに当たって、車道へと転がっていく。
小石は走ってきた白い軽自動車の左前輪に弾き飛ばされ、また遠くへと飛んでいった。それを目で追いかけていくと、道路の反対側に誰かが立っているのに気づいた。
「槻岡、さん」
ぼんやりとした街灯の光の下でも分かる、見慣れた長身がそこに在って、僅かな驚きを含んだ表情で私を見ている。
自動車が二人の間を何回も通りすぎるから、私には槻岡さんの声は届かないし、きっとそれは彼も同じだ。
けれども私には、彼の口が「浅利さん、どうして」と動いたのが分かった。正確にはそうだろう、と思った。
私は槻岡さんを嫌というほど見てきている。それこそこの1年なら、確実に政則君よりも頻繁に出会っている。分からないなんてこと、今さらあるわけがない。
それはともかく、どうしたら良いだろう。
不用意に視線が絡まったせいで、タイミングを逸してしまい、動くに動けない。
いい年した大人が道路を挟んで見つめあっているというのも、なんとも滑稽だけれど、お互いに蛇に睨まれた蛙のように動かないものだから、奇妙な沈黙が流れていく。
こういう時に限って誰も通らない。さっきまであった車通りまで無くなってしまった。
なんだかどうしようもなく泣きたくなって、私は唇を噛みしめる。
その時、槻岡さんが突然道路を渡ってこちらへと歩いてきた。足の長い彼が歩けば、両側一車線しかない細い道路は、ものの数秒で歩ききってしまう。
彼は着崩れ一つないスーツ姿で、私の前に立った。そして困ったように眉をひそめる。
「浅利さん、」
切羽詰まったように呼ばれ、心臓が変な音を立てた。
俯く私に、彼は小さく「どうして」と呟く。いつもの穏やかな声色ではなく、どこか苦しげな声で。
初めて聞く声色に、何故か私の心臓は、再度ぐにゃりと不快な動きをした。同時に胸が苦しくなって、喉が締め付けられる。
こんな感覚、私は知らない。
槻岡さんと出会ってから、私は自分が知らない自分を見つけてばかりだ。
だから、私は槻岡さんが苦手なのに。
何で、こんな風に私を見つけて、私の前に立つの。
胸の裡に滞り続ける想いが、渦を巻いて暴れ始める。それを私はどこか他人事のように傍観するしかなかった。
「浅利さん、顔上げて」
感情の整理がつかない私に、槻岡さんが声をかけてくる。今度は優しくて、どこか甘い音だ。
言われるがまま、そっと見上げると、闇に陰る焦げ茶色の瞳があった。
とろり、と融けてしまいそうな深い色。
吸い込まれていきそうなくらい、綺麗だった。
「浅利さん、泣いてるの?」
その問いに、うっかり見惚れていた私は我に返った。
私が、泣いてる?
「え?」
慌てて目元に手をやるが、特に涙が出ているわけではない。
困惑して見上げれば、彼は少しだけ笑う。
「ごめん、言い方が悪かった。今にも泣き出しそうな顔して、どうしたのって言いたかったんだ」
「泣いてるのと泣き出しそうなのでは、全然違います」
「うん、だからごめん。でも、決壊寸前だった」
真っ直ぐ見つめられて、私は言葉を失った。確かに私はさっきまで、泣き出しそうだった。
けれど、何でそれが判るの?私の表情は変わらないことで有名なのに。
「何でそんなこと判るんだ、って言いたそうだね。でも僕はなんとなく判る」
ほら、今はすごく動揺してる。
そう告げられ、私は目を何度も瞬かせた。
「何で分かるんですか」
親ですら、私の表情から何かを読み取ることなどできないのに。政則君だって、分からないって言ったのに。
「判るよ。だって、僕は浅利さんをずっと見てきたから」
「ずっと…?」
「そう、ずっと。2年前、ちょうどこの場所で、浅利さんを見てからずっと」
槻岡さんは、言いながら、さりげなく私の首に自分のマフラーを巻き付ける。
私はぽかんと口を開けたまま、その行為を受け入れた。
柔らかなマフラーのお陰で、身体が温かくなったのが感じられる。同時に、槻岡さんがよくつけてる、ウッディーな香水の匂いに包まれる。
「寒いけど他に何も無いし、それで我慢してくれる?…もう少し、話に付き合ってもらいたいし。そうだなぁ…近くにファミレスあるし、そこに行く?」
私には彼と話すことなど無いのだけれど、彼がしたいという話の内容が気になった。黙ってこくりと頷くと、槻岡さんは僅かに嬉しそうに笑んだ。
ファミレスに入り、槻岡さんは手際よく注文をすると、すぐにドリンクバーへ向かった。と思ったら、あっという間に戻ってきて、目の前にコーヒーを置いてくれた。
湯気を立てるコーヒーと、店内の空調のお陰で、防寒具をとっても、身体が温かい。じんわりと心も緩んで、私は安堵の息を吐いた。
「今日は本当に寒いね。これだけ寒いと、この温かさのありがたみを普段以上に感じるね」
向かいでコーヒーを一口飲んだ槻岡さんも、ふぅ、と幸せそうな吐息だ。
「それで、話って」
「あぁ、そうだった。えぇと…どこから話そう。まずは2年前のことからが良いのかな」
カップをソーサーに戻すと、槻岡さんは真面目な顔をした。
「2年前、あの場所で、浅利さんは男の人と歩いていた」
「…は?」
唐突な始まりに、私はきょとんとした。
男の人…?
「男の人は年上に見えた。浅利さんは隣を歩いていて、何かを話しかけているみたいだった。相手もそれに相づちを打っていた」
その話を聞くに、思い当たるのは政則君だけど、それが何なのだろう。
槻岡さんは軽く目を伏せ、微笑む。
「浅利さんって、会社では美人なのに無表情無反応で有名だったから、あんなに穏やかな寛いだ表情をするんだ、と驚いた。
それで見つめていたら、突然、浅利さんが笑ったんだ。きっと何か楽しいことがあったんだろう。それは伝わってきた。
でも、そんなことは関係なくて、僕は浅利さんから目が離せなかった」
私にとっては、そんなことあっただろうか、と思う程度の出来事だ。けれど、槻岡さんには特別なことだったらしい。
それが無性に恥ずかしくて俯きたくなるが、どうしてか、彼の表情を見逃すのが惜しくて、私はただ槻岡さんを見つめ続けた。
槻岡さんは、ふ、と息を吐くと、こちらを見た。
「一目惚れ、したんだ。浅利さんに」
時が止まる、という表現はこんな時のためにあるのだと、私は場違いなことを考える。
槻岡さんの焦げ茶色の瞳が、熱をもって融けていく。
「僕は一目惚れなんてしたことなかったし、それまでは一目惚れから始める恋を馬鹿にさえしてきた。
なのに、気づけば浅利さんを探していて、会えば嬉しくて、あの笑顔が欲しいという気持ちで満たされて。
あぁ、浅利さんのことが好きなんだ。そう気づいた。それが1年前。そこからは必死だった。
どうにか浅利さんに振り向いてほしくて、少しでも長く傍にいたくて。今まで友達にすら買ってきたことのないおみやげを、あれこれと買ったりして。
今まで知らなかった自分が、たくさんいることに気づかされたのも、浅利さんを好きになってからだ。自分が変わっていくことも、そう。でも、不快じゃなかった」
「変わっていくのに?」
「うん、不思議だけどね。人を好きになって変わっていく自分に戸惑いはあったけど、それも悪くないと思えたんだ」
槻岡さんは、机の上にあった私の左手をそっと握った。その仕草が優しくて、私はそれを振りほどく気にはなれなかった。
「僕は、浅利さんが照れて俯くことも、素直にお礼が言えなくて「しまった」って顔するところも、お菓子を食べるときに小さく笑うことも、知ってる。
あなたが不器用なだけの、可愛い女性だって知る度に、僕は浅利さんを好きになる。そして、その度に僕は幸せになる。
それって、良いことじゃないかな?」
クール、なんてやっぱり嘘。そんな風に優しく、そして幸せそうに笑う槻岡さんは、全然クールじゃない。
でもそれは、槻岡さんが私に向けて送る想いが優しくて温かくて、甘いからなのだ。
そう思うと、不思議と胸が温かくなる気がした。
「槻岡さん」
「うん」
「私、好きな人がいます。10年も好きだったんです。でも、その人は他の人が好きで、半年後には結婚します。
終わりが見えているのに、今さら、この恋を捨てられない。諦めてるのに失いたくない。
だから私は槻岡さんの気持ちに応えられません」
ほどけた心のままに告げると、気持ちが軽くなる。槻岡さんは切なげに微笑んで、手を握る力を少しだけ強めた。
「それも判ってる。だから今まで何も言えなかった」
目の前の焦げ茶色が緩む。
今まで苦手だったそれが、今は少しだけ…ほんの少しだけ、良いな、と思える。
「ごめんなさい。でも、変化していくことが悪いことじゃないって、知ったから」
新しく恋を始めることも悪くないのかもしれない。
変化することを幸せだと笑う、この人が傍にいるのなら。
いつか私も変化していくことを受け入れられるかもしれない。
ただ、今はまだ無理だから。
私は曖昧に微笑んで、槻岡さんの目を見つめた。
槻岡さんは驚いたように目を見開いたが、やがて柔らかく目元を緩める。僅かに頬が赤くなっていて、照れているのが伝わってくる。
「じゃあ僕は、これから変化していく浅利さんを見ていきたい。もっと変わっていく僕を知りたい。それは許してくれる?」
とても優しく、どこか甘えた囁きに、私は頷いた。
それだけできっと槻岡さんは判ってくれると思う。
今はこのまま。
でも、きっと。私たちの関係が変わるのも、遠い未来のことじゃない気がする。
それがやっぱり怖くて、想像もできないけれど。
もしもそんな未来が来たとしたら、彼は優しく微笑んでくれるに違いない。
それを思うと、少しだけ楽しみだとも思う。
まだ春は先だ。蕾はひたすら雪の中で花開く日を待っている。
やがて雪融けが来たとき、綺麗な花が咲く。
その日を今は待ち続ける。