ハルヨ、コイ
松野部長に呼ばれた時から、多分そうなんだろうなとは思っていた。それなのに、人当たりの良い柔和な笑顔が何故か私の心を乱していく。
「川住、この度の人事異動で、キミにはK支社の広報部へ異動してもらうことになった」
K支社があるのは、私の実家があるK県の県庁所在地であり、予てより異動を希望していた場所でもある。だから本来は喜ばしいことなのだ。小躍りしたって良いくらいの話なのに。
今、私の心は晴れない。寧ろ、どんよりした曇り空が広がっている。
ちくりとした胸の痛みを感じつつ、私は頭を下げた。
「はい。今までありがとうございました」
「川住がいなくなるのは淋しいが、向こうでも頑張れよ」
顔を上げれば、部長が優しく微笑んでいる。母子家庭で育った私は、年のだいぶ離れたこの部長を本当の父親のように慕っていた。部長もそんな私を娘のように可愛がってくれていた。
「部長、本当にありがとうございました。私、頑張ります」
恐らくもう二度と、部長の下で働くことはないだろう。もしかしたら会うこともないのかもしれない。
今までのことを思い出し、私は深く深く頭を下げ、溢れてくる涙をぐっと堪えた。
ミーティングルームを出ると、慌ただしく同僚の穂積さくらが駆け寄ってくる。グレーの地味なスーツを着ているが、年齢不詳の童顔とその小柄な体では職場体験に来た高校生にしか見えない。
「春菜ちゃん!どうだった?」
私が部長に呼び出された理由は総務部の誰もが知っていることではあるのだが、やはり気になるのだろう。そわそわと見上げてくるその顔には、知りたくて仕方ないとしっかり書いてある。…さくらと私のやりとりに耳を澄ます同僚たちの視線も伝わってくる。
「K支社へ異動だって」
苦笑しながら伝えると、さくらの目が潤み出す。
「良かったね…!ずっと帰りたいって言ってたよね」
「うん、ありがとう」
「でも、春菜ちゃんがいなくなるのは淋しい…」
そう呟いて俯くさくら。栗色のふわふわな髪の毛がハラリとほどけて滑らかな頬にかかる。
「それは私も。だけど、さくら。貴女、来月には寿退社するんだから、どちらにしろ会えなくなるでしょう」
「それとこれは別だよ。K支社は隣の県だから、お休みの日に会うこともできなくなっちゃうんだし。私、淋しくて生きていけないかも」
目に涙を溜めて顔を上げたさくらは、不服そうに唇を尖らせた。私と同じ26歳とは思えない可愛らしさだからこそ似合う仕草だが、私がやったら不似合いなこと間違いなしだ。
どうでもいいことを考えて、私は曖昧に笑って見せる。
「そんなこと言ってると神谷君が泣いちゃうよ」
神谷君は私たちと同期採用で営業部にいる。少しだけタレ目の男の子。入社した時からさくらのことが好きで、押して押してやっと結婚までこぎつけたのだ。私は彼の恋愛相談に嫌というほど乗ってきたから、無事にまとまってくれてほっとしていたりする。
「別に、あの人が泣いたって良いもん…」
「何言ってるんだか。…とにかく、仕事するわよ」
ぶつぶつと強がりを言うさくらの背を押し、私は自分の席に戻った。机の上には社内の広報紙の原稿やら、この前営業部から頼まれた書類のファイルやらが山積みで、毎朝作るやることリストにはまだいくつかの案件が残っている。
深呼吸をしてパソコンのキーボードに指を置いた時、私はディスプレイの隅に貼ってある付箋紙に気がついた。
『異動、良かったね』
名前は書いてないが、その言葉が誰からのものか、私はすぐに思い当たった。
付箋紙の上を踊る決して綺麗とは言えない癖のある角張った文字は、この4年で見慣れたものだ。
誰にも気づかれないようにそっと顔を上げて目を滑らすと、眼鏡をかけた男性が書類を読んでいるのが見えた。大人の余裕を醸し出すその風貌に、私の胸はとくりと音を立てる。
乾課長…。
心の中でそっと呟き、そして俯く。
私より10歳年上の直属の上司で、とても仕事が早い人。どれだけ私が失敗をしても怒らずに、根気強く指導をしてくれた。見た目は中年という感じで冴えないし、最近では少しお腹も出てきていて、正直に言えばカッコいいタイプではない。優しくて面倒見の良い課長に認められたくて、入社時からずっと私はその背中を追いかけてきた。
ゆくゆくはどこかの支社長になると言われており、平社員の私には手の届かない雲の上の存在。
なのに、私は乾課長に恋をしている。
最初は憧れと尊敬の対象だったのに、いつの間にかその気持ちに『好き』が加わっていた。課長がくれる言葉の一つ一つに意味を求めるようになって、気づけばその想いは大きく膨らんでいて。
奥二重の目が柔らかく細まるのを傍で見る度、心臓が痛くなるくらい鼓動が鳴ったり。偶然に触れた手に息が止まりそうになったり。たまにくれる旅行みやげに胸を弾ませたり。
上司に従順な部下の仮面をつけた私は、誰よりも課長の傍にいて、そして多くの時間を共に過ごすことを許された。それが嬉しくて、本当はずっとこの時間が続けば良いと思っていた。
「何、考えてるんだか…」
私は首をゆるく振り、画面に目を戻した。自分の思いに沈んでしまえば、仕事が手につかなくなる。今日も残業になることは分かっているが、それでもできるだけ早く帰るために仕事に取りかかるしかない。
キーボードをかたかたと打ち始めれば、自分の中に冷静さが戻ってくる。
優先順位を、頭の中で反芻しながら私は仕事を始めたのだった。
仕事に目処がついたのは、20時を回ったところだった。同僚たちは既に帰ってしまっていて、室内は静寂に包まれている。
「んん~っ!」
椅子の背凭れに体を預けて背伸びをすると、ばきばきと骨が鳴った。肩も凝っていて、なんとなく頭も重い気がする。そのまま机に突っ伏したいところだが、それをしたら朝まで寝てしまいそうだし、まだやるべきことが残っている。
とりあえず机に積み上げた書類を分別し、明日の朝一番に各部署へ渡す準備をしたら、あとは明日すべき業務を書き出さなければ。
もう一踏ん張りするために、私は席から立ち上がり、同じフロアにある休憩室へと向かった。
薄暗い廊下はひんやりとしており、ジャケットを脱いでブラウスになっていた私にはそれが肌寒く感じる。思わず身震いをし、休憩室へ急いだ。
休憩室は自動販売機が設置され、椅子が3つあるだけの狭い空間である。ガラス張りの小部屋には当然のことながら誰もおらず、ブゥンという機械の音がやけに大きく響いている。
休憩室に入って無糖の缶コーヒーを買った私は、椅子に座るとそのままズルズルと体を滑らせ、横になった。残業の常連である私は、この時間になるとフロアに誰もいないことをよく知っている。だから、こんなだらしない格好を知られることはない。
「………転勤、かぁ」
椅子の上で丸まり、缶コーヒーを額に当てる。缶コーヒーの熱がじんわりと指先や額から伝わってきて、強張っていた体が弛緩をしていくのを感じた。
「そっかぁ………もう、終わり…かぁ」
ポツリ、と言葉が落ちて、同時に眦から何かが滑り落ちた。
「最後なんだなぁ………。乾課長に会うことも、もう無いんだなぁ…」
目をぎゅっと瞑ると、この4年間のことが思い浮かんでくる。総務部で過ごした日々は本当に楽しくて、かけがえのない時間だった。無くなったら淋しいと思うくらいに、大事な時間。
そして乾課長はいつだって私を励まして、支えてくれた。決して優秀ではない私は総務部のお荷物だったに違いないのに、課長はいつも笑いかけてくれた。泣き言を聞いてもらったことも、嬉しい時に一緒に喜んでくれたことも、他愛のない会話も、すべてが懐かしくて愛しい。
自分で望んだ異動なのに、今までが無くなると分かった瞬間、どうしようもない切なさに胸がいっぱいになってしまった。
溢れて止まらない涙が、シートを濡らしていく。
「何を泣いているんだ」
呆れたような、それでいてどこか優しい声音に、私はそっと目を開けた。既に退社しているはずの大好きな人の声の幻聴が聞こえるなんて、私の耳はどうかしている。
苦笑しつつ、私はもう一度目を閉じた。まだ大切な思い出に浸っていたかったのだ。
「川住?大丈夫?こんな所で寝たら風邪引く」
幻聴にしてはやたらと具体的な忠告だ。目を開け、声のした方を見上げる。そして文字通り、私は固まった。
な、なんで…?
そこには私を見下ろす乾課長が、眉を少しだけ下げて微笑んでいた。
「か、課長…!なんで、」
がばりと飛び起き、私は椅子の背凭れにしがみつきながら口をパクつかせる。頭が混乱していて、何を言えば良いのか全く分からない。
目を丸くしてパニックになっている私が相当可笑しかったのだろう、課長はクスクスと笑っている。
「お前なぁ、驚きすぎ。もう少し落ち着いたら?」
「だ、だって!課長、帰ったんじゃなかったんですか?」
混乱したまま、私は浮かんできた質問を口にした。何故ここに課長がいるのか、理由が分からない。
「忘れていた仕事があったからね。急いで戻ってきたんだ」
穏やかな笑みを浮かべて課長がゆっくりとその場に跪いた。一気に目線が近づいて、皺の刻まれた目尻や、薄く生え始めた髭までしっかりと見えるようになる。
カッと体が熱くなって、私は動揺のあまり視線を彷徨わせた。
課長はそんな私の頭にふわりと手を乗せる。
「そんなに動揺する川住を見るのは初めてだ」
どこか嬉しそうな響き。ポンポンと頭を叩かれる感覚。それが私の胸を押し潰す。息苦しさに呼吸がままならない。
恐らく赤面しているであろう私とは対照的に、課長は変わらず微笑んでいる。突然の出来事に動揺する小娘とは違い、落ち着いた大人の男の人の匂いを漂わせる課長。年齢だけでなく、精神面や経験面でも大きな差があることを認識させられて、絶望に似た哀しさを覚えた。
やっぱり、この人は私の手の届かない人なんだな。
胸を過るのは諦めと、切なさ。
恋しいと思う気持ちがスタズタに切り裂かれていく。
「か、ちょう…仕事は」
込み上げてくる何かを堪え、私は必死でそう紡いだ。これ以上傍にいたら、平静を保てない。早くこの場から逃げ出したかった。
自動販売機の無機質な機械音しか聞こえない狭い空間でお互いの目を見つめ合う、長くて短い時間。
やがて、課長が口を開いた。
「仕事は、今からだよ」
「え?」
「だから、川住にはその仕事に付き合ってほしい」
言われた意味が分からなくて、状況を忘れてぽかんとした私の頭を課長が撫でていく。
課長の仕事に、私が関係するものがあるのだろうか。訳が分からなくて、私は首を傾げた。
「それは、」
何ですか。
そう聞こうとしたのに、その言葉は他でもない課長に遮られてしまう。
「今から言うことは、僕の独り言だと思ってくれたらいい。
突然だが僕は、川住が入社してからずっと、キミを年の離れた妹のように思ってきた」
静かに始まった独白に、私は口をつぐむ。同時に、妹のように思ってきたという言葉が胸を刺した。分かっていたことだけれど、いざ言葉にされると深く傷ついている自分がいて、苦笑するしかない。
「頑張り屋で、不器用で。失敗する度に泣きそうな顔をして、うまくいくと嬉しそうに笑って。普段は澄ました顔をしている川住の素の姿を見ていると、なんだかこう…温かな気持ちになれた。僕は男兄弟の中で育ったから実際には妹はいないし、独身だから娘もいないけど、妹や娘がいたらこんな風なのかなといつも思ってた」
初めて聞いた課長の想い。けれどそれは自然に受け入れることができる。私を見る課長の目が優しかったのは、家族に向けられる種類のものだったからだったのだ。理解はできるけれど、そうであってほしくないと願っていた私には残酷な真実だ。
ううん、本当は課長が私を何とも思っていない…そんなこと、分かっていた。
でも。
私は。課長のこと。
「…私は、課長を兄や父親のように思ったことはありません。私は、課長のこと、一人の男の人として好きです」
もう会うことがないのなら、想いを知られたって構わない。寧ろ、これが最後なら知ってほしい。妹だって思われたままは嫌だ。
衝動的に告げた想いに、課長が目を丸くした。有り得ないものを見ているような顔が、私を傷つける。
呆然とした様子を見ていたくなくて、私は目をきつく閉じた。
「川住、なんで」
「…最初は憧れだったんです。優しくて面倒見の良い上司を、純粋に尊敬していました。でも、いつしかそれが恋になって…課長を、好きになってました」
ただ傍にいられるだけで良かった。でも誰よりも近くにいたくて、課長を独り占めしたくて。
傍にいるためだけに私は仕事に没頭した。もちろん仕事にやりがいが無かったわけじゃない。ただ、それはがむしゃらに頑張るようになってからのことで、最初は仕事の楽しさもやりがいも、全く理解できていなかった。
「課長にしてみたら私は子供にしか見えないのは分かってます。分かっていたんです。片想いなことくらい。ただ傍にいられたらそれで良かった。…でも、もうおしまいです」
私は目を開け、課長を見る。
目の前の真っ黒な瞳はゆらゆらと揺れて光を弾くだけで、何の色も見当たらない。そのことに落胆しつつ、私は微笑んだ。
「課長、今までありがとうございました。この気持ちはもう捨てます。課長に迷惑かけません。だから、課長も「川住」」
課長も忘れてください。
その言葉はいつもより強い口調の課長の声に掻き消された。
「川住、僕の話を聞いていなかった?」
「え?」
課長の話?
口を開けて硬直した私はさぞかし間抜けだっただろう。困った様子で課長は苦笑している。ただ指先は、私の髪を撫で付けては掬い上げるという無意味な動作を繰り返していた。
「本当に全く…。僕は仕事があって、川住に付き合ってほしいと言ったのに」
物分かりの悪い子供をたしなめるみたいに、課長は諭すように言葉を紡ぐ。
「さっきも言ったけど、最初は妹か娘のようにキミを見てた。なのに、それは少しずつ変化していったんだ。
僕は、川住よりだいぶ年上で、年相応におっさんだよ。だから、川住に好意を抱いた自分にひどく驚いた。可愛い部下に向けてはいけない気持ちをもった自分が信じられなかった。できたらそんな自分を知りたくなかった」
「課長…」
「なのにさ、川住は真っ直ぐに僕を見るから。その大きくて綺麗な目で僕を見るから、僕はキミから逃げられなくなってしまったんだよ」
その矢先の転勤だった。
切なげに漏れた吐息が艶かしくて、私はその色気に赤面した。普段の穏やかなだけの姿からは想像できないくらい艶めく瞳が綺麗で、目を反らすことができない。
「川住が転勤すると分かって…激しい喪失感を覚えた自分を自覚してしまったら、もうダメだった。10も年下のキミを好きになるなんて、有り得ない…あってはいけないとそう思っていたのにな」
自嘲的な笑みが、胸をきゅっと締めつける。
好き、と言ってくれた声が震えていて、何故だか懺悔を聴いているような錯覚すら覚えた。
好き、って言ってくれたのに。
何で、そんなに辛そうなの…?
嬉しいという気持ちより、苦しいという気持ちが先に立つ。
そんな風に笑う課長を、私は見たかったわけじゃない。
私を好きになることは、悪いことなの?
「…課長は、私を好きになって後悔しているんですか?」
「ん?」
掠れた声になってしまったせいでうまく伝わらなかったのか、課長は不思議そうにこちらを見遣る。
私は課長を睨み、そして息を小さく吸った。
「私は、課長のことを好きになれて良かった。後悔なんてしません。でも課長は違う。私のことを好きになりたくなかった。まるで遭いたくもない事故に遭ったかのように、後悔してる」
私はそんな課長の気持ちを知りたくなかった。
知らなければ、私は課長への気持ちを大切な思い出にできた。知らなければ、こんな惨めな気持ちにならずに済んだ。
「課長はズルい。私のことを後悔してるくせに、どうして告白するの?どうして黙っていてくれなかったの?」
私は課長へ想いを告げ、課長も私へ告白した。お互いの気持ちを知ってしまった今、もう今までどおりの関係になんて戻れないのに。
頬を伝う涙が熱い。体温を奪うように落ちていくそれは、私の心まで冷やしていくように思えた。
課長はしばらく黙って私を見ていたが、やがてゆっくりと両手で私の頬を挟み込んだ。
「川住はさ、先回りして色んなことを考えるから早とちりしてばかりだよな。少しは直ったかと思ったのに全然じゃないか」
「課長…?」
「確かに、川住を好きだと気づいて後悔したのは事実だよ」
その言葉に胸がつきんと痛む。
眉をひそめた私に課長は小さく笑うと、自分の額を私の額に押しつけた。こつんと触れた場所から熱が伝わって、じんわりと痺れていく。
「好きになったこと自体は後悔していないんだ。けれど、この気持ちが川住の未来を狭めてしまいそうで怖かった。…僕は来年度、副部長になるんだよ。人事に口出すことはできる。例えば、川住を補佐に指名するとかね」
冗談じゃなく、本当に実行したくなる自分が怖いよ。
目が伏せられ、睫毛が表情に影を落とす。
「本当は今日、キミへ最後の励ましの言葉を贈ろうと思っていたんだ。ただの上司として接するつもりでいた。僕は明日からしばらく出張だし、その間に川住は転勤してしまうから。…なのに、キミの泣き顔やキミの気持ちを知ってしまったら、全てが吹き飛んでいた。川住が欲しい、って思った」
心臓が、速くて苦しい。苦しくて、息ができない。
激流のように体の奥から溢れてくる衝動が、喉を突く。
「わっ、私!ひっく…課長の、こと…本当にっ、本当にっ、好き…っ!」
嗚咽混じりの告白に、やっと課長がふわりと笑う。私の大好きな優しい笑顔。それが少し照れくさそうで。胸がきゅっと締めつけられる。
課長の唇が僅かに空いて、吐息が私の唇をくすぐる。
「僕もキミが好きだ」
飾り気のない、想い。けれども、私がずっと欲しかった想い。
涙が溢れ出して視界が波打つ。それでも、歪んだ世界の中に課長だけがいるのが分かって、その幸せに目眩がした。
願い続けた状況に陶酔していると、唇が少し冷たい何かに塞がれた。パチパチと目を瞬かせれば、至近距離に課長の睫毛が見える。
私、課長にキスされてる…。
優しく触れる唇に胸が熱くなる。
目を閉じて課長の背中に腕を回すと、重なった唇がより合わさった気がした。
ずっと諦めていたことが今現実になっている。たまらなく課長が愛しくて恋しくて、言葉にならない。
頬を伝う涙は止まらず、きっと化粧はぐちゃぐちゃだ。それでも課長から離れたいなんて思えなかった。
大好き。
ずっとずっと傍にいさせて。
その後は怒濤の日々だった。
晴れて課長…将大さんの恋人になれたと喜んでいた私なのだが、将大さんはその先のことまでしっかりと考えていたらしい。転勤して半年後、初めて将大さんの家にお泊まりをした次の日の朝、私は彼からプロポーズをされた。スーツ姿の将大さんと、掛け布団を体に巻きつけただけの私、という…何ともちぐはぐな状態だったけれど、真面目くさった顔で指輪を左手の薬指に通してくれたので、それだけで胸がいっぱいになってしまった。
「春、僕の所へお嫁においで」
返事もできず何度も頷くだけの私に、照れたような笑顔を見せてくれた将大さんを、私は一生忘れないだろう。
あれよあれよという間に結納が済み、一緒に住むマンションも借りて。うちの会社は夫婦で働くのはOKだから仕事は辞めないし、将大さんも仕事を辞めなくて良いって言ってくれたから、しばらくは週末しか一緒に過ごせそうにないけれど。
トントン拍子で準備が進み、今私はウェディングドレスを着て、将大さんの待つ場所へ歩いている。父のいない私の付き添いは松野部長だ。
「川住、恋が実って良かったな」
隣を歩く部長の言葉に私は目を瞬かせる。
「はい。…いつから私の気持ちを知ってたんですか?」
誰にも話したことなどなかったのに、いつから気づいていたのだろう。
不思議がる私を部長は一瞥して笑う。
「川住が入社して1年目。あんな風に見つめてたら分かるよ。乾も川住を特別気にかけてたし…いつかこんな日が来るのは分かってた」
「そう、ですか」
どうやら部長には最初からバレていたらしい。顔が意図せず熱くなっていく。
照れて俯いた私に、あぁそうだ、と部長が話を続けた。
「川住の転勤のことだが、2年間の出向扱いになってるから、来年はまた本社に戻ることになるぞ」
「えっ?」
「手塩にかけた川住を、俺が手放すわけないだろ。あれはなかなか煮え切らないお前たちの尻に火を点けるためだけだ」
さらりと言われた言葉に、文字通り私は絶句した。
それって、最初から仕組まれていたってこと?
思い返してみれば、不思議なことはたくさんあったのだ。例えば、K支社での私の扱いが長期出張の人のようだったことや、今の私の業務の一部が本社で扱っていた案件と同じなこと、将大さんが賃貸じゃなくて分譲のマンションを選んだこと。
こうして種明かしをされると、全てに合点がいく。
「…ということは、将大さんも知っていたんですね。私の異動の意味」
全て知ってて告白したとしたら、将大さんはとんでもない策士だ。彼の手のひらで転がされて一喜一憂していたかと思うと淋しくなる。
これから式だというのに気分が下がってしまった私の背を、部長が軽く押した。
「まあ、一応。ただそれを乾が知ったのは、結婚報告に来た時だ。…アイツ、川住と結婚するからK支社へ異動したいとか言い出して。仕方ないからバラした。今、乾に抜けられるとキツイんだよ。
川住がどう感じてる知らないが、乾はお前を大切に思ってる。朴念仁だと言われた男を本気にさせたんだから、責任取ってやれ」
「…はい」
「さ、そろそろ行くぞ。乾が待ってる」
「はいっ!」
部長の腕に手を絡ませ、私たちは歩き出す。
ドアが開けば光の向こうに愛しい彼のシルエットが見えた。
バージンロードを踏みしめ、私は将大さんの元へ急ぐ。あと数歩、というところで将大さんが私に手を伸ばした。
「春、おいで」
その時、一陣の風が吹き抜けて私の背を押した。
押された勢いのまま、私は部長から手を離し、将大さんの胸に飛び込んだ。