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いつまでも見つめていたい

少し長めです。

友達同士なら楽で良いじゃない、そんな気軽な気持ちから結婚を決めた。

友愛はあれども恋慕など露ほど無い。それを良しとしたのは私であり、夫となった友人だ。




「ただ一緒に暮らすだけなんだから。所詮はルームシェアだろ」




とは夫の言である。それに対して確かにそうだね、と答えたのは私。

まぁ結婚なんてようはルームシェアだし、子どもが欲しければその時考えたらいい。他人から求められるのは二人が愛し合っていることではなく、夫婦であるという事実だけだし、体裁があれば問題もない。

そんなこんなで友人期間18年、交際期間0日で私たちは結婚することになった。もちろん、永遠を誓い合う愛は存在しないから結婚式は無しだ。

…双方の両親からは嘆かれたが、何が悲しくてこっぱずかしい宣誓をしなきゃならないの、と夫が開き直ったため、今では何も言われないのはありがたい。




「ねぇ。私は高校の同窓会に行くけど、姫野君はどうする?」

姫野君、は私の夫の名字だ。結婚してからも名前で呼ぶ習慣ができず、彼も頓着しないから未だに独身時代の呼び方で通している。

姫野君はう〜ん、としばらく唸った後、首をゆるゆると横に振った。ちなみに今日は洗濯物干しが姫野君の当番だから、彼はベランダの窓を全開にして軒先に洗濯物を干している。

春先でまだ寒いのに窓を開けっ放しなのは、以前私が彼の存在を忘れて窓の鍵を閉め、1時間ほど放り出したからだ。

よっぽど堪えたらしく、あれ以来ベランダに出る時は窓を全開にしている。

「僕はいかない。仕事だし。幸村さんが行くなら迎えに行くよ」

姫野君は私を旧姓で呼び、パタパタと服を伸ばした。

「分かった〜。場所は駅前のホテルだから別に送り迎えしなくて大丈夫だよ。あ、その日の夕食当番を交代はしてほしいな」

「了解。帰ってきたらまた皆の近況を聞かせて」

ハンガーにかけられた洋服たちは彼の軽い応酬のように風ではたはたと軽やかに動く。

こんな風に二人の衣類が同じ場所に干されているのを見ると「結婚したんだな」と実感する。

日頃から互いを名字で呼び合い、結婚前と変わらず良好な友人関係を築き、必要以上のスキンシップは無いのだから、結婚を生々しく感じることはほぼ無いと言っても過言ではない。それ故に、こうして夫婦だと認識できてしまう瞬間はたまらなく恥ずかしい。

「皆、どうなってるのかな?」

背を向けたままの姫野君に気づかれないよう、さりげなく体の向きを変えてポツリと呟く。

「あれから15年だもんな。それなりに大人になってんじゃないか?」

「それはそうだよね。顔とか分かるかなぁ…」

共に過ごした時間は懐かしくなるほどに遠い昔だ。

私の仕事机の上に置かれたフォトスタンドをぼんやりと眺め、一つ溜め息を吐く。

フォトスタンドには高校時代に撮った部活の仲間たちが映る写真が収められている。まだあどけなさの残る屈託の無い笑顔が眩しい。まさか結婚するだなんて思ってもいない私と姫野君が隣同士で無邪気に笑っていた。

物思いに耽っているとガラガラと窓が閉まる音がして、彼が部屋に入ってきた。

私はそっと写真から目を外し、手元にある本を弄ぶ。彼はそんな妻の不自然な様子に何を感じたのか、クスリと笑うと私の頭に優しく手を載せた。

「幸村さんが覚えてなくても周りが声かけてくるから大丈夫だよ。高校の時、幸村さんって人気があったから」

「え?」

「高校時代、幸村さんは男子の憧れだったんだよ。彼女にしたい子ナンバーワン。嘘じゃないから加藤さんに聞いてみたら」

加藤さんは部活の仲間で気前のいい姉御肌の女の子だ。

思わず姫野君を仰いだ私に彼は淡い笑みを見せた。

「何で僕と結婚するはめになったのかって、きっと皆に詰問されるよ。今も昔も僕は冴えない男だからね」

少しだけ淋しげに、でもいつもと同じ柔らかな笑顔で姫野君は私を包み込む。



………胸が、痛い。



結婚する前から度々感じてきた痛み。柔く心臓が掴まれたような苦しさと同時に訪れるそれは、誰にも感じたことがないものだ。家族や過去の恋人たちにも、一度だって無かった。



姫野君だけ。



こんな風に切ない痛みを、理由の分からない苦しさを、私に与えるのは昔から姫野君だけだ。


「どんな理由であれ、私は姫野君と一緒にいる今を後悔したことは無いんだよ。寧ろ、嫁ぎ遅れた私をもらってくれてありがとうって思ってるのに」

バーで出会った男性と長い間不倫関係にあった私を諭し、泥沼から掬い上げてくれたのは姫野君だった。

そう告げると、姫野君は笑顔とも泣き顔ともつかない複雑な表情を浮かべる。

「………幸村さんが弱ってる時に傍に居たのが、僕だったから。きっと他の人だって僕と同じ立場なら、同じことをしたはずだよ」

「けど、実際に傍に居てくれたのは姫野君だもの。私の旦那様が姫野君なのは変えられない事実でしょ」

むきになって言い返せば、姫野君はわざとらしく溜め息を吐く。

「…はぁ。昔から幸村さんに口喧嘩で勝てたこと無かったもんなぁ…分かったよ。僕がどんなに冴えない男でも幸村さんが良いと言うなら、僕は構わない」

私の頭から姫野君の手が離れていく。

姫野君はこれ以上会話を続ける気がないらしく、くるりと踵を返した。元来おしゃべりではない彼だから、こんな風に会話が一区切りすると去っていってしまうことも多い。

「はぁ…」

私の口から零れた大きな溜め息は長く部屋に留まって憂鬱な気持ちにさせる。



夫婦、だけど夫婦じゃない。



この関係は姫野君の優しさ故の同情と、私の打算の下に成り立ったものだ。


なのに、私は何を望み何に憤っているのだろう。


分からない。


正体の見えない感情に、私は振り回され続けている。







「幸村〜!」

ロビーで受付を済ませ、トレンチコートを預けようとした私に、ワインレッドのパーティードレスを身に纏った女性が駆け寄ってきた。華やかな装いとは異なり、少女のように笑う彼女はとても可愛らしい。

「ふふ、加藤さん久しぶり。今は私、姫野なの。結婚したって言ったでしょ?」

茶化すように答えると、加藤さんはそこで初めて私を旧姓で呼んだことに気づいたらしい。一瞬、しまったという顔をした後、すまなさそうに眉を下げた。

「ごめん。姫野君と幸村…じゃなくて美千留が結婚したのは理解してても、呼び方は直らなくて」

「いいよ、別に。ずっと友達だった私たちが結婚したのって意外だったでしょ?」

話しながら、結婚報告した時に友人たちが驚いていたことを思い出された。「冗談?」なんて聞いてきた人もいるくらいだ。

加藤さんはしばらく唸った後、静かに話し出した。

「う〜ん…驚いたけど、納得だったかな。私としてはやっと一緒になったんだね、って感じ」

「え?」

予想外の言葉に私は目を見開いて加藤さんを凝視した。

「高校時代、二人が一緒にいる時の雰囲気が私は好きだったの。私には二人とも幸せそうに見えたし、それを見てる私も幸せになれたから。

だから、二人が結婚したらステキだなってずっと思ってたよ」

にっこりと笑った加藤さんは、「本当に良かったね」と言葉を接いだ。

「…うん」

彼女の言葉に頷きながら、私は体の内側を引っ掻かれたような違和感に戸惑いを覚えた。




私、幸せそうだったの?




傍にいるのが当たり前で、自分がどう感じているのか考えたこともなかったけれど。私は、姫野君は幸せだったんだろうか。

今の私たちは、どうなんだろうか。

脳裏を掠めたのは切ない笑みを浮かべる姫野君だ。

彼は時折、何かを堪えるように、何かを諦めたように、ふわりと笑う。



それは幸せなの?



幸せなら、そんな哀しい顔はしないはずだ。

姫野君のことを思い出すだけで胸がチクリとする。




この淋しさに似た痛みは何?




「美千留」

ふと名前を呼ばれて私は我に返ると加藤さんを見た。

加藤さんは今まで見たこともないくらい真剣な目で私を見つめている。その目は私の困惑を見透かすように真っ直ぐだ。

「な、」

「私は、姫野君の気持ちを知ってる」

何?と聞こうとした声を遮るように凛とした加藤さんの声が上から被さった。

何を言われたのか聞き逃して困惑する私に、更に彼女は言葉を重ねていく。

「昔からずっと変わらない、こっちが泣きたくなるくらい優しくて切ない彼の想いを私は知ってるの」




え?





「私、姫野君のことが好きだったから。彼が誰を想ってるのかも…私の恋が叶わないことも理解してた。

だから、これで良かったの」




同じ、だ。




痛みを堪えるように唇を結んだその姿に、切なく微笑う姫野君が重なっていく。



あぁ…そういうこと。



唐突に彼の不可解な表情の訳を私は理解した。


…姫野君はどうしてそんなに馬鹿なのだろう。


きっと姫野君にも、私じゃない他に恋慕う人がいるのだ。

それなのに自分の恋心を殺してまで、腐れ縁の友人を助けたりなんかして。

不倫の果てに身動きが取れなくなった愚かな私と結婚する必要など無かったのに。

昔から姫野君は貧乏くじばかり引いて、良い役回りを横からかっさらわれていた。それでも、仕方なさそうに笑うだけで。




胸が、痛い。




ずっとこの痛みの理由が分からなかった。でも今なら分かる。きっと、彼への後ろめたさと申し訳なさからだ。

私が情けないばかりに、大切な友人の幸せを奪ってしまった。


「ごめん、全然知らなくて。加藤さんの気持ちを踏みにじって」

ホロリと零れたのは謝罪。姫野君の気持ちだけじゃなく、私は加藤さんの気持ちも殺させてしまった。

私がいなかったら、加藤さんは。

「謝らないでよ。言ったじゃない…高校時代、二人が一緒にいる時の雰囲気が私は好きだったって。それにもう昔のことだから。今は私にだって彼氏がいるの」

困ったように笑った加藤さんは「こんなこと言うつもりなかったのに…こっちこそごめん」と頭を下げた。

「姫野君と二人で幸せになってね」

綺麗な笑顔を見せた彼女には陰は見えなくて。

私は凝った気持ちを押し隠しながら曖昧に笑った。








同窓会は思った以上に有意義だった。外見は変わってしまったが、青春時代を共に過ごした仲間たちと語らうとまるで昔に戻ったみたいで、時を忘れた。

私は沈んでいく心をなんとか浮上させて会話に混ざった。途中で「昔、好きだった」という告白をされて驚いたが、それも淡い記憶の中のこと。その人は大恋愛の末に結婚した奥さんと幸せな生活を送っているとのことだった。


そういえば、私は人気があったって姫野君が言ってたっけ。


ぼんやりと思い出し、何故だか泣きたくなってしまったけど。





会がお開きになり、私はとぼとぼと帰路についた。二次会に誘われたがそんな気持ちにはなれなかった。

家はすぐそこなのに、夕暮れの道がとてつもなく長く続いているような気がする。自分の足取りが亀のように遅いことを自覚しながら、私は重い体をただ動かす。


「姫野君に、どんな顔して会ったら良いんだろう…」


今朝まで傍に在った彼が今はあまりに遠く、普段どおりに接する自信が無い。

自分のことでいっぱいで、彼の事情など考えてもみなかった。そのことが今、結果として表れてしまった。



別れた方が良いんだろうな。



声に出さず口の中で呟いた言葉は、いつまでも私の心に留まり続けていた。












私たちが住むマンションは住宅街にある。最寄り駅まで徒歩5分、近くには大型ショッピングモールがあり、公共施設も充実している一等地だ。

家賃は姫野君持ちだからよく分からないけれど(彼が元々住んでいた所に私が転がり込んだので)決して安くはないと思う。


姫野君は大手企業に勤務するシステムエンジニア。

高校の時から優秀だった彼は私よりも遥かに良い大学を出て、エリート街道まっしぐらだ。お給料を聞いたことはないけれども、同年代のサラリーマンの平均月収よりも稼いでいることは確実だ。


片や私は地元の機械部品を作る会社の受付事務、従業員は20人程度の小さな会社だ。就職難の煽りを受けてもれなく就活に失敗し、今の会社に勤めることになったのだ。

とはいえ私も33歳、事務所ではお局様。周りは若い子に変わり、入社当時の女性の先輩や同年代は皆揃って寿退社している。

お金も地位も無い上、明らかな行き遅れ、それが私である。


色んな意味で姫野君に劣る私は、ほとんど彼に甘えきっている状態で。この結婚生活も彼には利益が無く、ただの慈善事業に等しいものでしかない。


冷静になればなるほど、姫野君の足手まといである自分が浮き彫りになって泣きたくなる。

同窓会でも


「エリートな旦那様で羨ましい」


とは言われても


「お似合い」


とは言われなかった。言ったのは加藤さんくらい。周りから見たら有り得ない結婚だ。

「はぁぁ…」

唇からは本日何度目になるか分からない溜め息が漏れる。

結婚して3ヶ月、夫婦の営みもないまま共同生活を続けて。生活費の大半は姫野君が賄って。



こんなの、ダメだよね。



姫野君が手を差し伸べてくれた時は自分のことばかりだった。今だってあまり変わらない。

でも、気づいてしまったら現状維持なんて無理だ。


私は左手を見る。薬指には結婚指輪が無く、節くれだった指がそのままあるだけ。姫野君が用意すると言ってくれたのに、迷惑かけた上に出費させるなんてと固辞したためだ。

互いの呼び方は旧姓のまま。これは「今までどおりで構わない」と二人で決めたこと。

白い結婚だから、最後に身体の関係があったのは元不倫相手。書類上は妻なのに、姫野君は決して私をベッドに誘わない。

生活はルームシェアと同じ。家事は姫野君のがよくできるので、甘えてしまってる。


こう考えると、本当にただの友人同士が一緒に暮らしてるだけなんだと思う。

私たちは夫婦じゃない。

紙切れ一枚、書類上の夫婦なだけだ。





………だったら、元に戻っても良いよね?





ありがたいことに元不倫相手は奥さんとやり直すことを決め、今はしっかりマイホームパパをしている。姫野君と結婚してから一度だけ会ったが、清々しい憑き物の落ちた顔をして笑っていた。

前みたいにストーカー紛いのことはされないだろう。

結婚の理由は、不倫相手からのアプローチを避けて、綺麗に別れることだった。そういう意味では当初の目標は達成し、姫野君は晴れてお役御免になるのだ。

もう、今は全てが解決した。それならば、こんな結婚から姫野君を解放してあげた方が良いに決まってる。





いつの間にか辿り着いたマンションのエントランス。エレベーターに向かおうとした私は見慣れた姿を発見した。その途端私の体は無意識にピクリと飛び跳ねる。

「姫野君…」

小さな声だったのに、スマホを手に俯いていた姫野君は顔を上げ、私を目で捉えると足早に近寄り淡く口元を緩ませた。

「お帰り」

「ただいま。何で姫野君、ここにいるの?」

ぎこちなく尋ねれば、彼は照れ臭そうに頬を掻く。

「茅ヶ崎から連絡来てて。幸村さんは二次会出ずに帰ったって教えてくれたから、そろそろかなって待ってた」

もう少し待って帰って来なかったら迎えに行こうかなって思ってたんだよ。

そんな風に告げる声色は柔らかくて温かい。



まるで、日だまりの中にいるみたい。



穏やかな温もりで滲んだ心を隠すように私は精一杯笑顔を作ってみせた。

「ありがとう」

形だけの妻に、こんなにも気遣いをくれる姫野君。どこまでもお人好しで優しくて。

どう考えても私にはもったいなさすぎる。




やっぱり、この人を解放してあげよう。




責任感が強く、情に深いこの人が心にしこりを残さないように綺麗に別れよう。



チクリ、とまた胸が痛む。


「ねぇねぇ、今日のご飯はなぁに?」

「幸村さんが軽い物のが良いかなって思って、サワラの塩焼きに湯豆腐作るつもり」

話題を変えた私に、姫野君は丁寧に答えてくれる。

「美味しそうだね」

「幸村さんが湯豆腐好きだから、喜ぶかなって思った」

「ふふ、ありがとう。姫野君って本当に優しいね」

普段どおりの会話。だけど、それが淋しい。



………あれ?




何で今、淋しいって感じたの?




過った微かな困惑。


もしかしたら、あと少ししかこういう会話ができないかもしれないからなのだろうか。


沸き上がる疑問を掻き消し、私は前を見る。

何故か今日は隣にある横顔を見上げるのがとても怖かった。









翌日、仕事に向かう姫野君を送り出すと私は職場に行き辞表を提出した。

辞表は簡単に受理され、しがない事務の私が引き継ぐ仕事などほぼ無いから、来週から来なくて良いと言われた。

10年以上勤めたのにこんなものかと思うと空しくなるが、実際そんな程度なのかもしれない。

想像以上に呆気なく、私と会社の縁は切れてしまったが、そのことに何も感慨は無い。

本当は心のどこかでこの日を待っていたんだろう。清々しさすら覚えてしまう。

「幸村さん、辞めるんだって」

「まぁお局様だし、居心地悪そうだもの。私ならとっくに辞めてたよ」

私の退社はすぐに社内に伝わったらしく、こそこそと噂をする声が聞こえてくる。

その内容があまり好意的では無かったから、きっと皆は私を腫れ物だと思ってたに違いない。

それでも「幸村さんがいなくなると淋しいです」としょんぼりしながら言ってくれた営業の川上君は、とても良い人だ。普段からもっと話をしてみたら良かったかなと感じるくらいには嬉しかった。




定時で上がり、スーパーに寄ってから家に帰ると私は洗濯物を取り込み、その後夕御飯を作り始めた。

冷蔵庫に買ってきた物をしまい、必要な物を取り出していく。

今日は姫野君の好きなオムライスと野菜たっぷりのコンソメスープ、デザートにパウンドケーキを作るつもりだ。

結婚する前から料理は毎日していて、腕前もそれなりだと思う。ただ前の彼と不倫していた時は、ホテルのレストランや個室がある料亭など外食ばかりで手料理を振る舞った記憶は無い。

「そういえば、手料理を食べさせるのって姫野君が初めてだなぁ…」

歴代の彼氏とは家でのんびりすることは無かったし、私も自分の家に上げたりしたくなかった。



姫野君、だけなんだよね。



自分の生活に深く関わってきたのは後にも先にも姫野君だけ。友達の時からずっと、彼だけは特別だったのだ。

料理を作りながら、私はぼんやりと今後のことを考えてみる。


実は先日派遣社員の登録をしたところ、運良く新しい職場が決まったのだ。あまりの距離の遠さに躊躇ってしまったけど、姫野君と別れるなら、その距離の遠さはありがたい。


姫野君と別れた後、ここから離れた街で派遣社員をしながら安いアパートで暮らし、一人で生活をする。

33歳の貧乏なオバサンに下心で近寄ってくる人はいないだろうから、恋愛だってしないはずだ。

乾いた生活に淋しさを感じながら一生を終えるのだろう。


フライパンの中のご飯にケチャップを混ぜながら、私は思わず苦笑した。

結婚する前だって似たような生活だったのに、抵抗を感じる自分がいて驚いてしまう。たかが3ヶ月、ぬるま湯に浸かった生活をしてしまったせいで、私は随分と贅沢になったらしい。


人は楽を知ると、苦労を疎ましく思うものだと誰かに言われたことがある。


本当にそのとおりだ。

私は今の生活を手に入れてしまったために、元の生活に戻るのが嫌だと感じている。

「でもねぇ…」

この生活を続けても、その先には何も見えない。見えるとしたら、姫野君が不幸になる姿だけ。



泡沫の夢、だったんだ。



そう言い聞かせて、私は料理に意識を戻すことにした。

これから身辺整理をしながら、少しずつ気持ちにも折り合いをつけていこう。

押し寄せてくる不安と淋しさから目を背ければ、気づいてはいけない何かからも逃げられる気がした。

















姫野君は基本的に忙しい。休日に仕事で呼び出されたり、残業で夜遅かったりと定まらない生活をしている。

そんな姫野君とゆっくり話す機会はなく、気付けば同窓会の日から2週間が経過していた。

この2週間、私は役所に離婚届をもらいに行ったりもしたし、新しいアパートを探したりもした。

新しい仕事は来月からで、育休に入る人の代わりだとのこと。時間があるお陰で私は落ち着いて様々な物の整理ができた。

離婚届は既に書き終えてある。荷物もある程度片付けた。

…少しずつ自分の物が家から減っていくのが淋しい、なんて。そんな感情が無くなってしまえば、きっと辛いと感じなくて済むのに、割り切ることができない私はエゴの塊なのかもしれない。






二人の間にある机の上には私の分だけ書き込まれた離婚届。唐突に渡されたそれに眉をしかめる姫野君に、私は笑顔を作って首を小さく横に傾げる。

「別れよっか」

今日は久しぶりに姫野君がお休みの日。まさか朝っぱらから離婚を切り出されるとは思っていなかったのだろう、驚きを隠せない様子で私を見つめている。

「…幸村さん。順を追って説明してくれないかな」

困惑を露にそう呟く姫野君に、私は頷いた。

「ずっと考えてたの。姫野君にとって私はただのお荷物だし、迷惑しかかけない存在じゃない。

…だから、そろそろ離れなきゃいけないなって」

今まで姫野君にお世話になってきて感謝してること、これ以上はお世話になっちゃダメだと思ってること、一人で生きられること、私では姫野君を幸せにできないこと…できるだけ誠実に話した。

「大して価値も無い私を大事にしてくれてありがとう。本当に嬉しかった」

いつだって姫野君は私の気持ちを大切にしてくれた。どんな時でも優しく包み込んでくれた。

それが嬉しくて、幸せだった。




…そっか。



ずっとずっと、私は幸せだったんだ。




姫野君といればそれだけで、私は泣かずに笑顔でいられた。




加藤さんの言葉が今ならよく分かる。

私は確かに幸せだった。

そう思うと切なさで胸が捩れそうになる。

「私、姫野君が大切だよ。だから私のことなんか構って、自分の幸せを捨てないでほしいの」

笑顔を見せれば、姫野君が苦しげに眉を寄せた。

「………それが幸村さんの答え、なんだね」

掠れた声に私の息が止まる。



何で、泣きそうなの。



捨てられた子犬のように、ゆらゆらと揺れる目で彼は私を見る。



ようやく自由になるはずなのに何でそんな顔するの。



動揺しながらも私はしっかりと頷いた。きっと今見えてるのは私の願望だ。姫野君が私と一緒にいたいと願ってくれていると思いたいから。

「うん」

頷けば、姫野君はくしゃりと前髪を掴み溜め息を吐いた。

「…分かった。

僕は幸村さんが望むようにする。それが幸村さんにとって一番幸せになれる方法なんだろう」

自嘲的に笑うと、姫野君は何かを堪えるように目を伏せた。

そして目を上げた時はもう普段の穏やかな笑みを浮かべていた。




「良いよ。別れようか」




それは私が決めたことだったのに、胸を深く突き刺して、いつまでも抜けることはなかった。











別れてから2ヶ月、私は新しい生活を始めていた。

設計事務所の事務の仕事は単調で、以前と代わり映えはしない。定時で上がり、コンビニに寄ってから家に帰る。それが私の日常になりつつある。

姫野君と別れてから、私は料理をすることが無くなった。作ろうと思っても「美味しい」と食べてくれた姫野君がいない現実を実感するだけで、淋しさが増す。


料理を作っても、そこに食べてほしい人がいなければ空しくなるだけだ。


それを知ったのも最近のこと。

今はコンビニで適当にサラダやチーズなどを買って、それを日数かけて少しずつ食べている。ご飯は週に一回炊いたら、冷凍庫にいれておいて食べる時に解凍する。



同じことを繰り返しながら毎日流されるように生活している今は、自分が生きているのか死んでいるのかひどく曖昧だ。

ただ時間だけが過ぎて、何も感じられない日々。




姫野君は今、何をしているんだろうか。




ふとした瞬間に思い出されるのは姫野君のこと。

好きな人と幸せになってるのかな、あの淋しげな笑顔は見せなくて良くなったのかな。

そんなことばかり考えて。




私、姫野君のことが好きだったんだな。




毎日姫野君を想って。やっと私は認めたくなかった自分の本心に気づくことができた。



振り返れば思い出のあちこちに姫野君がいた。



私はずっと彼だけを見ていて。



きっと高校の時から、私は姫野君に恋をしていた。




認めてしまえば今までの不可解な胸の痛みも全てが理解できる。



…今さら気づいても遅いのに。



気づかないうちに始まった恋を、他でもない自分で終わらせてしまったのだから笑えない。




もう二度と恋はできない。




それも悪くないかな、と。姫野君への想いを抱き締めていられるなら、それで十分だ。


心に空いた穴は思ったより大きいけれど、見ないふりをすれば幸せな思い出に浸ることができた。













今日は高校の同窓会で再会した友人と会うことになっていた。

彼女は家庭があるから必然的に近場で会うことが決まった。場所は姫野君の住むマンションの最寄りの喫茶店。そこは学生時代の私と姫野君がよく立ち寄った店である。

友人は私の事情など知る由もないから、きっとここを選んだのだろう。

だけど私にとっては今は行きたくない思い出の場所で。

言葉を濁しているうちに勝手に決まった予定に私は深く溜め息を吐いた。



そんな出来事が2日前。


重い体を引き摺り、私は電車から降りた。2ヶ月ぶりに帰ってきた街は何も変わらず、いつものまま。使い慣れたこの駅も、変わったのはポスターくらい。

そんな光景から目を反らし、私は胸を突く痛みを無視した。



ホームでよく姫野君と喋りながら電車を待っていた。


階段を上る時にはいつも姫野君が後ろにいた。そういえば「短いスカートだし痴漢に遭ったらどうすんの」なんて言ってたっけ。


突然の夕立で、傘を忘れた私たちはアーケードの下をうろうろして雨が止むのを待ったこともある。




見る場所見る場所に思い出が溢れていて、それが今の私にはたまらなく辛い。

今だって、もしかしたら姫野君が向こうから歩いてくるんじゃないかって思っている。何も無かったかのように笑顔で手を振ってくれる気がしている。




本当に、重症だ。




力なく笑って階段の下に目を下ろした時、電流が体を駆け抜けていった。




「姫野君…」




一瞬他人のそら似かと思ったが、18年も見続けてきた姿を遠くでも見間違えるはずがない。そこにはスーツを着た姫野君いて。

彼の隣にはパステルカラーのカーディガンに暗色のスカートを穿いた加藤さん。

二人はじゃれあうように何かを話している。その姿は仲の良い恋人同士にしか見えない。



「そっか…」



私の唇から零れ落ちたのは微かな吐息と諦め。

姫野君と加藤さんは本当にお似合いだ。落ち着いた雰囲気が似ているし、何より加藤さんは私より遥かに優秀で綺麗だ。



姫野君の好きな人は加藤さんだったんだね。



私がいなくなって、姫野君が幸せになれたならそれで良い。



なのにどうして視界が歪むんだろう。



平静を装わなきゃ。

二人を見ないようにしながら階段を下り始めた私は、階段を踏み外してしまったらしい。体がぐらりと傾いて、重力に従って下に転がり落ちていく。


事故の時に景色がコマ送りで変わっていくって本当だったんだ。


他人事のように考えながら………私はそのまま意識を失ってしまったのだった。










ぴ、ぴ、ぴ…

規則的な音に私は目を覚ました。体を動かそうとすると全身がズキズキと痛む。腕には管が繋がっており、どうやら点滴をされているらしかった。



そっか、私は階段から落ちたんだった。



姫野君と加藤さんの姿に動揺して足を踏み外しただなんて、情けなくて涙が出そうだ。

目を瞬かせた私に、不意に聞き慣れた声が降ってきた。

「幸村さん?気がついた?大丈夫?具合は?」

「姫野、君…?」

ぎこちなく紡げば、彼の顔が私の顔の前に突き出される。

「うん。…良かった…」

安堵したような囁き。至近距離にある目は涙を湛えていて。

「幸村さんが死んだらどうしようかと…本当に生きてて…」

くしゃりと歪む顔。震える唇。

何が起きているのか分からず呆然としていた私の頬に、温かい何かが一滴落ちてきて。

その後すぐに姫野君の顔が近寄ってきたと思ったら、額に柔らかいものを感じていた。





って、え…?





寝起きでぼんやりしていた頭が勢いよく覚めていく。



今の、キス?



私が驚いているうちに姫野君は唇を離し、そして優しく両頬に手を添えるとふんわり微笑んだ。その微笑みは艶かしく、私は自分の頬が熱を持つのを止められずに視線をさまよわせる。

それを満足そうに見た姫野君がゆっくりと唇を舐めて笑った。

「良かった、脈はありそうで。そんな顔するってことは、僕にも勝算があるってことだよね」

「え?」

脈?勝算?

私の疑問に答えることなく彼は笑みを深くする。

「やっと、今までの関係を変える覚悟ができた。

僕は幸村さんが好きだよ。たまらなく愛しくて…あなただけが欲しくて、他の人に譲りたくなんかない」




え?




姫野君の言っている意味が分からない。


私が…何?


「僕の幸せは、幸村さんが傍にいて笑顔でいてくれること。幸村さんの目に僕が映っていること、それだけだ。

幸村さんがいたら僕はそれで幸せなんだよ。だから今、すごく幸せだ。

お願いだから、僕の傍にいてよ。友達でも構わないから僕に幸村さんを見つめていさせて」

熱っぽく蕩けそうな目で姫野君は私を見つめる。いつもの優しい目じゃなくて、愛を乞う男の人の目で。

私はパクパクと口を動かしてただ喘ぐことしかできない。




胸が熱い。




今まで感じてきた痛みなんか忘れそうなくらい、胸が焦げ付きそうだ。


「幸村さん…ううん、美千留さん。僕はキミがいれば良い。だから僕の隣で微笑んで」


姫野君の唇が私の眦に落ちる。そこで私はやっと自分が泣いていることに気づいた。

「そっ、そんな…加藤さんが」

「加藤さん?」

「姫野君は加藤さんが好きなんでしょう?」

だから一緒にいたんでしょ?

そう問えば、姫野君はポカンとした後、クスクス笑い出した。

「冗談きついから。あれね、僕と美千留さんが別れたって聞いた加藤さんに説教された後だったんだよ。

高校時代に私をフったくせに、何やってるのってね」

「加藤さんを、フった?」

そんな話、私は知らない。

「高校の時に告白されてさ。でも僕は断った。だって好きな人がいたからね」

「え…?」

「僕は、美千留さんのことがずっと好きなんだ。ここまで執着するなんて、我ながら狂ってるとは思ってるよ。でも止まらない」

頬に添えられた手が、そっと髪を撫でていく。

「僕の初恋は美千留さんだよ。僕の心は美千留さんだけに捧げている」

姫野君の言葉で胸がいっぱいになる。溢れ出した想いで窒息してしまいそう。

すごく息苦しいのに、どうしようもなく嬉しくて。

「姫野、君っ」

体はうまく動かせないけど、必死で彼の手のひらに頬を寄せる。

「私も、姫野君の傍にいたいよ…離れたくないよ…」

「美千留さん」

「姫野君が大好きだもの。幸せになってほしいって願うくらい大切だもの。…高校の時から、私には姫野君だけだった。姫野君だけが私の特別だったの」

私の中から紡がれていく言葉は次々と唇から零れていく。

私の体の上に姫野君がそっと重なって抱き締めてくれるまで、私は泣きながら何度も何度も姫野君へ慕情を訴えていた。














階段から転げ落ちたわりには打撲で済んだ(あんなに痛かったのに!)私は次の日には退院、仕事に復帰した。

あの後、想いを確認し合った私たちだけど、結局はそのままになっている。姫野君は相変わらず仕事が忙しいらしく、なかなか会えない日々が続いていた。

少し淋しいけれど、姫野君の心がいつも傍にあると思えば頑張れる気がして。なんとなくやっていた仕事も、今では真剣に取り組むことができている。

「幸村さん、この書類なんだけど…」

「この仕事、頼んでいい?」

なんて、最近では職場で仕事を頼まれることも増えた。それが嬉しくて、仕事が楽しくなってきたのも新鮮だ。









久々に二人の休日が重なった日、私たちはドライブに出かけることになった。

「美千留さん!」

駅で待つ私に、車の窓を開けて顔を出した姫野君が手を振る。落ち着いた色味のグレーのジャケットにVネックのシャツが似合っていて、実年齢より彼を若く見せていた。

「姫野君、おはよう」

「おはよう。ごめん、待たせた?」

ドアを開ければ申し訳なさそうな顔で姫野君が私を見る。

「ううん、全然」

待ったと言っても数分程度だし、待ち合わせ時間にはまだ30分もある。謝られるほどのことは何も無いんだけど。

彼の困ったような表情を横目に、私は何も追及せず助手席に乗り込んだ。

車内は綺麗にされていて、二人で好んでよく聴くジャズが流れている。

今までもこんな風に乗せてもらうことはあったけれど、想いを通わせた今は、この場所にいられることがたまらなく幸せだ。

「じゃあ行こうか」

私がシートベルトをしたのを確認し、姫野君はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。

危なげなく動き出した車のフロントガラス上部にはドライブレコーダーが搭載されている。

運転の仕方といい、ドライブレコーダーといい、やっぱり姫野君は慎重だなぁと感心をしていると、彼が徐に口を開く。

「…やっと会えたね」

感慨深げな様子に私は思わず苦笑する。

「そうは言ってもまだ2週間だよ?」

そんなに時間経ってないよと告げた私に、目線を一瞬ちらりとこちらに寄越した姫野君は心外そうな声を出した。

「2週間も、だよ。僕は美千留さんに会いたくて仕方なかった」

友達の時にも似たような言い回しを聞いてきたはずなのに、私は思わず目を瞬かせて姫野君の横顔を凝視してしまった。



どうしよう…ドキドキする。



姫野君に出会って18年、彼への好意を見ないふりしてきた時は同じことを言われてもここまでの動揺は無かった。けれど、自分の気持ちを認識している今は彼の言動の一つ一つがダイレクトに届いて心臓に悪い。



今までよく平然とできたよね、私…。



早鐘を打ち続ける鼓動を感じながら、彼がゆったりと口にする話題に相槌を私は打った。



どうか、この心臓の音が聞こえませんように。



そんな願いが通じたのか、それとも気づかないふりをしてくれたのか、姫野君はそのことに触れることはなく、お互いの近況を話しているうちに目的地である自然公園に到着した。




「ん〜、良い匂い」

車を下りて息を大きく吸い込むと木々の瑞々しい匂いが鼻から入ってくる。

暦の上では初夏にあたるから汗ばむ陽気ではあるが、生い茂る葉が木陰を作り、歩いていても暑さは感じない。

「ねぇ、姫野君が見せたいものって結局何なの?」

歩きながら私は隣の姫野君を見上げた。

どうしても一緒に見たいと言われて来たのだが、その理由がイマイチ分からない。

「まだ内緒」

首を傾げた私に、姫野君は目を細めてそんな風に答える。この分では答える気はないんだろうな、と私は早々に問い質すのを諦めて歩くことに専念した。



二人、他愛もない会話を交わしながら歩いて30分。



「わぁ、きれい!」



林道を抜け、小高い場所に出た私は広がる景色に年齢を忘れて歓声を上げた。

眼下には種々の木々の緑が散りばめられ、稲が青々と生育する千枚田がその間に広がっている。長閑な風景だが、まるで一枚の絵画のように美しい。

「喜んでもらえた?」

後ろから聞こえた姫野君の声に、私は振り返ることなく頷いた。

「うん。…ありがとう、姫野君。こんな素敵な場所に連れてきてくれて」

都会の喧騒から離れた優しい風景は、日々の生活で疲れた心を癒してくれる。

姫野君は小さく息を飲んで、私の右手を自分の右手でそっと包み込んだ。

「ここね、僕の両親が初めて出会った場所なんだ。だから小さい頃からよく連れてこられてさ。

…いつか美千留さんと見たいって思ってて。こんな風に美千留さんと二人で」

静かに紡がれた言葉に私は何も言わず、背中に触れている姫野君の体に寄り添った。


鳥の囀り、風の音や新緑の匂いをただ感じながら、二人でいる無言の空間。

それが不快でなく、心地よいのはきっと相手が姫野君だから。

しばらく寄り添っていると、姫野君が私の手をきゅっと握り締めた。


「ずっと願っていたんだ」


ポツリと落ちた言葉に、私は背後に立つ姫野君を振り返った。姫野君は穏やかな笑みを浮かべて、真っ黒な瞳に私を映している。

「いつか美千留さんの特別になれたらって、高校の時からそう願い続けてた」

静かな告白は私の心に染み込んで、ただ優しく揺らして。

それがくすぐったくて目を伏せると、ふっと姫野君が笑った。

「照れると目を伏せる癖、全然変わらないよね」

恥ずかしい時についしてしまう私の癖。さも特別ではないことのように姫野君は言うけれど、私が目を伏せる理由を知っている人は彼だけだ。

高校の時、秘め事を告白するように自分の癖を暴露した日の夕焼けが瞼の裏に浮かんでは消える。



やっぱり昔から姫野君だけは特別なんだ。



元来私は自分のことを他者に語らない。別に知ってもらわなくたっていいし、知ってほしいと望んだこともない。

なのに姫野君には色んなことを話してきた。誰にも言えなかった悩みだって相談できた。

…数ヶ月前だって泥沼不倫に陥っていることを告白したのだって、姫野君だったから。

「姫野君はずっと私の特別だったよ。姫野君だけが知ってる私ってたくさんあると思う」

顔を上げてそう告げた私に姫野君は笑みを深くすると、腕を伸ばしてふわりと私を抱き寄せた。

「…うん。でも、僕は欲張りだから。まだ知らない美千留さんをこれからも知っていきたい。年を重ねて変わっていく美千留さんを隣で見ていたい」

背に回った腕に力が籠り、力強い抱擁に変わる。



本当に長く一緒にいたのに、この人がこんな力強さを秘めているなんて知らなかった。



馴染んでいく互いの体温に照れ臭さを感じつつも、心は喜びで溢れていく。


トクトクと速い心音が、首筋を掠める吐息が、もどかしげに引き寄せる腕が、姫野君の存在がただ愛しい。



友達だった頃にはもう私は戻れない。



この温もりを、愛を乞う瞳を、惜しげなく晒される心を知ってしまったのに、今さら戻れるわけなんてない。



「私も姫野君とずっと一緒にいたい。一番近くで見ていたい。

…高校の時から私には姫野君しか見えてなかった。きっとそれはこれからも変わらない。

だから、姫野君の特別でいられる権利が私は欲しいの。私と、結婚してください」

私の特別はあなただけ。

そう伝えると、姫野君は私の肩を掴んで距離を取った。その顔にはいささか複雑な色が見える。

「あのねぇ………どうして美千留さんはそんなに男前なわけ」

「え?何が?」

「何で先にプロポーズをしちゃうかなぁ。確かに僕は頼りないし冴えないヤツだけど、僕にプロポーズさせてよ」

そう抗議されても、残念ながら口に出した言葉は戻らない。

「ご、ごめん。つい…」

上目遣いに恐る恐る見上げれば、唇を尖らせた姫野君が不満げに私を見下ろしていた。

「まったく………。美千留さんには負けるよ」

しばらく黙り込んでいた姫野君は長く息を吐いた後、眉根を解いて苦笑すると、頬を少し赤らめて私をじっと見据えた。

真っ黒な瞳が陽炎のようにゆらゆらと揺れる。


「僕は美千留さんを愛してます。18年もの間、あなただけを見つめてきた。これからもあなたと共に在りたい。

不器用で頼りないけど、あなたの傍に在り、愛し続けることだけは誓えるから。




どうか僕と結婚してください」



姫野君らしい、率直なプロポーズに頬が熱くなる。

仕切り直しのようなプロポーズだったのに、いざ真摯に紡がれると、呼吸もままならないくらい胸がいっぱいになって。

込み上げる衝動を抑えられずに涙を溢れさせ、私は何度も頷く。

滲む視界にも、変わらず微笑む姫野君がいて、涙を拭う繊細な指がそっと目の下を滑る。



姫野君が傍にいる。



姫野君に触れている。



ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに幸せなんだろう。



「姫野君、」



返事の代わりに少し背伸びをして唇を重ねて。

突然のキスに目を丸くし、恋を覚えたばかりの少年のように顔を紅潮させ固まった姫野君が可愛らしい。

ふわりと温かくなった胸のまま彼を見つめると、一瞬照れたように目を反らされた。けれどすぐに彼の瞳に甘い熱が溶け込んで、艶やかに煌めきだす。その様子を視界の端に収めながら私は瞼を下ろした。


目を閉じれば感じる、私を包む熱。後頭部を押さえる大きな手のひらが、少しだけ乱暴に掻き抱く。背中に回った腕がもどかしげに蠢いて。

「美千留さん…」

唇をくすぐる吐息が艶かしく私の名を象る、それだけで体の奥が熱をもつ。

「愛してる、姫野君」

愛してる、誰よりも。

息継ぎをするように離れた唇から自然と零れた本音に、はっと姫野君が息を吐いて硬直した。

動きを止めた姫野君を不思議に思って目を開ければ、




「何で泣いてるの」




伸ばした指で頬に触れると、静かに滴り落ちる雫が指を濡らしていく。

「美千留さん…僕も美千留さんを愛してる」

ポロポロと涙を溢しながら、それでも嬉しそうに微笑んだ姫野君の姿に、胸が苦しくなる。

「もう…姫野君ったら泣き虫なんだから」

指で涙を掬い取ると、くしゃりと目の前の表情が歪んで。

気づけば、私はきつく掻き抱かれていた。


骨が軋むくらい、力いっぱいに抱き締められて。


肩を震わせながら何度も何度も愛を囁かれて。


その深く重い愛をこの身に受けることが、どうしようもなく嬉しい。



ずっとずっと、この人の隣にいたい。



これから先も、この人を見つめていたい。



きっとそれが私の望んだ未来。


形だけの結婚がもどかしいくせに何も言えなかったのは、きっと二人の繋がりが切れてしまうのを恐れていたからだ。

回り道はしてしまったけれど、そのお陰で今がある。

ここから始まる新しい関係は、私たちを繋ぐ柔い束縛。

今までの私なら、そんな関係は要らないと一蹴していた。



けれど姫野君が相手なら、こんなに幸せなことはないだろう。



いつまでも傍であなたを見つめていたい。



心の中で呟いて、私は彼の背に腕を回した。




………色々と面倒なことはあるけれど、今は見なかったことにしようと心に誓いながら。

お読みくださりありがとうございました。

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