ビターとスウィート
いつもより少し長めです。
何故こんなことになった。
私の目の前には、私が呼び出した眼鏡をかけた理知的な男の子がいる。そして、遠巻きに何人かの男の子たちがこちらを覗き見ているのが分かる。彼らは男の子のクラスメイトであり、見知った顔ばかりだ。
呼び出したのは一人だけのはずが、なんでギャラリーまで連れてきたわけ?
今、自分が置かれている現状を正確に把握すると目眩がした。…明日からどんな顔して学校に来たら良いのだろう。
困惑と羞恥で逃げたくなったが、呼び出しておいて今さら何も言わずに去ることができずに私は、泣きたいのを堪えて準備していた言葉を口にした。
「好きです」
緊張で力が入ったせいか予想以上に声が大きくなってしまう。それは少し離れた所にいる人たちにも聞こえたらしく、なんだかえらく盛り上がっている。
てかなんで、公開告白しなきゃならないの。
普通、さして仲良くもない女の子に呼び出されたら事情を察することができるだろう。というより察してほしかった。
恨めしく思いながら彼を見ると、琥珀に近い茶色の瞳が有り得ないと言いたげに真ん丸になっていて、私はきゅっと唇を噛み締めた。ただ想いを伝えられたらと告げた言葉が無惨に散らばっていく。
もう…最悪。
彼にとってはこんな告白など日常茶飯事で、些末なことかもしれない。だから、私がどう感じようが興味がないのかもしれない。
でも、フるんだったらもっと優しい方法にしてほしかった…
私ってそんなに嫌わてたのかな?
「…本当に、俺で良いの」
頬を涙が滑り落ちたのを見計らったかのようなタイミングで聞こえたよく通る声に、私は彼をポカンと見つめた。
言われた意味が分からない。
それは周りも同じだったようで、唐突で誰も予想しなかったであろう言葉に閉口し、沈黙が落ちた。彼はそんな友人たちを気まずそうに見回した後、ぎこちなく私に笑いかけた。
「本当に、俺で良いの?」
返事もできずに固まっている私に、彼は再度同じ問いをする。
俺で良い?
告白したのに、何それ。
熱くなってきた目頭を感じながら、私はこくりと頷いた。もうどうにでもなれ、と半ばやけくそに頷いた私を見て、彼はふわりと柔らかく微笑んだ。
わ…可愛い…
クールで笑うこともほとんどない彼が見せた笑みは私を釘付けにする。
「良いよ、付き合おうか」
え…?
ゆっくりと歩いてきた彼が、頭が真っ白になって立ち尽くしている私に再度微笑む。
「よろしく」
青天の霹靂。
自分から告白しておいてとんだ言い草だけど、私にとっては有り得ないこと。嬉しい、よりも困惑が先に立つ。
彼に手を引かれてその場を去った私は知らない。
「何でアイツはいつもそうなんだ…」
男の子たちがそんな風に肩を落としていたことを。
有り得ない出来事から1ヶ月、私は一応まだ彼と付き合っている。クールで天才肌で女の子から人気があるのに、告白は絶対に受けないと評判だった彼の例外に収まるのは想像以上に気苦労は絶えない。うちの学校の人たちは割と穏やかで良心的だから、マンガみたいな嫌がらせもなく生活は平和ではある。
でも、周りの視線は痛い。
「あれが大須賀君の彼女なんだ。へぇ…大したことないじゃん」
と直接言われたことはないけど、視線がそう訴えてくる。
彼、大須賀秀の外見は客観的に見て中の上、「言われてみればカッコいいかも」の扱いに入る。だから知らない人ばかりの場所で一緒にいるには特に注目もされず、私も怖じ気づくことはない。
しかしながら校内では常に注目の的になる。テストでは常に学年トップ、陸上部では部長を任されており、加えて彼は県大会の常連である有望な選手だ。スポーツ万能で、絵に描いたような文武両道ぶりを知っている人たちからは憧れを持たれる存在で。
うっかりそんな人の彼女になったために、今まで目立たない所で生きてきた私も注目されてしまっている。
「あ〜…何でオッケーされちゃったんだろう…」
「…なに贅沢言ってるの。大須賀秀と付き合いたいと思ってる子は山ほどいるのに」
机に突っ伏してぶつぶつと泣き言を溢す私に、クールビューティーな女の子が呆れたようにツッコミを入れる。彼女、浅岡詩保里は私の親友であり、恋愛の相談相手だ。
詩保里は私を一瞥した後、付き合ってられないとばかりに本の世界に戻ってしまう。
「だって、こんなに注目の的になるだなんて想像もしてなかったんだもん。…詩保里と大須賀君だったらお似合いだし、誰もが認めたんだろうけど…相手が私じゃあねぇ…」
はっきり言って役不足。
勉強だって運動だって普通、外見や性格はご覧のとおり地味だ。唯一自慢できるのは幼稚園から習い続けているピアノの腕前だけど、それだって音大を目指せるほどじゃない。
「そんなこと言われても迷惑。私、彼氏いるし」
一刀両断に切り捨てる詩保里には確かにそれはそれはカッコいい年上の彼氏がいる。幼馴染みだから扱いが雑だと文句を言っているが、詩保里が彼氏のことを好きでたまらないことは知っている。
不毛なことを言ったと反省しつつ、私はため息を吐いた。
大須賀君を好きな気持ちは事実だが、あまりに不釣り合いすぎて今のポジションにいるのが辛い。
それに。
「大須賀君、私のことをどう思ってるんだろう」
私の自信の無さに拍車をかけているのは、何よりも大須賀君の態度なのだ。付き合い始めた頃、もしかしたら大須賀君も私を好きなのかなと期待していた。たくさん告白された中から私を選んでくれたのだ。そんな甘い想いを抱いていた。
でも、何だか違う。
デートに誘えば塾や部活で忙しいと言われ、一緒に帰ろうと言えば友達と帰るからと断られる。放課に教室へ会いに行ったら逃げられた。
…これ、彼女に対する態度ではないよね?
別に大須賀君とベタベタしたいわけじゃない。彼が頑張ってるのを邪魔したくもない。ただ少しくらいは一緒にいて色んなことを話して彼をもっと知りたい、思い出を作りたい、って思ってるだけなのに。そんな気持ちを彼は簡単に砕いてしまう。
「はぁ…」
心が折れそう。
もうすぐ春休みがやってくる。本当なら楽しみなはずの長期休暇が、今はすごく鬱だ。ただでさえ関わりが無いのに休みを挟んだら余計に大須賀君との距離が遠くなってしまう気がする。
「どうしたらいいのかなぁ…」
ポツリと呟いた声に被さるように始業のチャイムが鳴った。
終業とともに私は隣のクラスに向かう。大須賀君のクラスは私のクラスの隣で、会おうと思えば簡単に会える距離なのだ。
なのにどうして見事なほどに会わないのか。
遭遇する確率だけなら付き合う前の方が遥かに高かった。普通逆だろうと思うけれど、理由は考えなくても分かる。
「嫌いで避けるくらいなら付き合わなきゃ良いのに」
会いたくないくらい嫌われてるだなんて、悲しいを通り越して滑稽に感じる。
彼に嫌われることを何かしただろうか?もしかしたら、私を幸福の絶頂からドン底まで叩き落とすために付き合い始めたのかな?だとしたら効果覿面だ。私の幸福度指数は日に日に目減りして底をつきかけている。
多分今日も無駄なんだろうと思いつつ、一緒に帰ろうと彼を誘うために隣のクラスを覗けば、大須賀君は友達たちと今まさに帰ろうとしているところだった。テスト週間で部活もないから荷物はいつもより軽そうに見える。
私は大須賀君に近寄り、彼を見上げた。周りの男の子たちがニヤニヤしてるのが分かって顔が熱くなるけれど、気づいていないフリをする。
「大須賀君、今日は一緒に帰れる?」
目をぱちくりとさせている彼にそっと尋ねると、彼の顔が強張った。それを見て彼の友達の一人、中井君が大須賀君の脇腹を肘打ちする。
「おい、秀」
「あ、あぁ…ごめん。今日はあの、」
急かされて大須賀君が紡いだ言葉は今日も拒絶するもの。胸がズキズキと痛んだが、私はにっこりとする。
「分かった。じゃあ私、帰るね。足を止めさせてごめんなさい。また明日」
「あ、」
「ちょ…っ、八田さん!おい、秀!お前な!!」
目頭が熱い。身体の向きを変えた私を中井君や他の男の子たちが呼び止めてくる。でもそんな声を無視して教室を出ると、そのまま走ってトイレにかけこんだ。
個室に入ると涙が次から次へと溢れ出してくる。
「もう、無理…」
毎日毎日逃げられて、あんな風に拒まれて。その度に好きだって気持ちが踏みにじられていく。大切にしてきた想いは傷つき泥だらけで、どれだけ汚れを拭い傷から目を背けても、次の日にはまた泥濘に投げ捨てられてしまうのだ。
ただ、彼が好きで。
その気持ちを知ってほしくて。
たったそれだけだったのに。どうして彼は私の心を否定するのだろう。
「やっぱり、別れるべきよね」
大須賀君と付き合うだなんて最初から無理があったのだ。釣り合わないと分かっていて彼女になったのは私。どれだけ浮かれていたのかが分かる。
高校入試の時に、私が落としたお守りを拾って手渡してくれた大須賀君。入学してすぐに、校内で道に迷った私を部室に送り届けてくれた大須賀君。1年の時は彼と同じクラスで、私が宿題のプリントを忘れた時に内緒で自分のプリントを譲ってくれたこともある。少し男の人が苦手な私はその宿題を出した先生が怖くて仕方なかった。それを知ってたのか、大須賀君は「宿題を忘れた」と嘘をつき、代わりに怒られてくれた。
一つ一つの積み重ねで、私は少しずつ大須賀君を好きになった。
そんな彼と付き合えることに浮かれて、確かに私は現実を見ていなかった。
どうして彼が付き合ってくれたのか知ろうとしなかった。
その報いが今なのだ。
涙を必死で拭い、落ち着いた頃には外も暗くなっていて、私はとぼとぼと帰路についたのだった。
「詩保里、私…別れる」
「は?」
口に入れようとしただし巻き玉子をポロリと落とした詩保里は、まじまじと私を凝視した。玉子は机の上に転がっているが、そのことに彼女は気づかない。
「ごめん、新菜。言ってる意味が分からない」
いつも冷静な詩保里にしては珍しく動揺しているのか、何回も目を瞬かせている。
私は彼女にできるだけ自然な笑みを向けた。
「私、大須賀君と別れる」
この2日、よく考えたのだ。悩んだし、本当は別れたくない。でも付き合ってる意味もない。
「あのさ、新菜。確かにアイツは近年稀に見るヘタレだと思うし、見かけ倒しだから愛想を尽かしても仕方ないけど…本当にそれでいいの?」
「うん」
「うん…って、あんなに好きだったのに諦められるの?」
真剣な顔をした詩保里に、私は迷いながらも頷いた。本当は諦める自信は無いけど、このままじゃ前に進めない。何より私が耐えられない。
詩保里は私の目をじっと見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「アンタがちゃんと考えて決めたなら私は何も言わない。でも別れる前にきちんと話し合いなさい。…ストーカーにでもなったら面倒だし」
「ストーカー…?私ってそんなにしつこい?」
大須賀君と別れても、彼を目で追ったりするのは変わらないだろうけど、それだけでは留まらずにつきまとうようになるのかな。
ズドンとヘコんだ私に親友は苦笑して「違う違う」と椅子の背に身体を凭れかけさせた。
「ストーカーはあっち」
「あっち?」
「あ〜新菜は知らなくていい。
大体さぁ…アイツも幼稚だけど、新菜もかなり鈍感だよね。
前に新菜は、私と大須賀君が付き合ったら良かったのにって言ってたけど…あれ、本当に有り得ないから。私がアイツの相手だったら周りが黙ってなかった。新菜はふわふわしててお人好しだから、みんな優しいから何も言わないと思ってるでしょ?」
私は素直に頷く。
「私なんかが彼女になっても静観してくれるなんて、みんなが優しいからだよ」
よく考えたら今の状態は本当に幸せだ。これで嫌がらせまであったら私は本当にダメになってた。
詩保里は私に呆れたような眼差しを向けると、鼻歌を歌うような軽い口調で話し出した。
「みんなが何も言わないのは、アイツの彼女になったのが新菜だからだよ。
……新菜はアイツの外側を好きになったわけじゃないでしょう?それなのに何で、彼氏になった途端、見えてる現象だけでアイツの気持ちを決めつけるの?
アイツの肩を持ちたくないけど、アイツは一途で不器用で…好きな女の子のことしか頭にないヤツなの。好きな子に見てほしいがために、今の地位を築き上げた大馬鹿男だからね」
詩保里の言葉が沁みる。大須賀君に好きな子がいるっていう事実がチクチクと胸に突き刺さる。
でも…
詩保里や他の人たちが知ってることすら知らなかったなんて、私は大須賀君の彼女になってから一体何をしてたんだろう。
そもそも、何で私を選んでくれたのか、最初に聞かなければいけなかった。それをしなかったのは傷つきたくないという私の弱さからだ。気まぐれだ、冗談だって彼の口から直接聞きたくなかった。
大須賀君に避けられてる理由も、勝手に決めつけて被害者ぶってた。本人に問い質して嫌われたらと思うと怖くて言えなかった。
「…私、大須賀君と話をしてくる」
食べかけの弁当をそのままに立ち上がった私を、詩保里は右手で制して時計を指差した。
「もう昼休み終わるから。話すなら帰りにしなよ。…今日はアイツが逃げないようにみんなに手伝ってもらうから」
綺麗な笑顔を見せた詩保里の目が全く笑っていなかったことは気のせいだと思いたい。
終業と同時に私は詩保里と隣のクラスへ向かう。本当は気が重いけれど、先延ばしにしても事態が好転するはずもない。
自分のクラスで長々と詩保里にレクチャーされていたにも関わらず、隣の教室には大須賀君とその友人たちが残っていた。他の人は誰もいないから、詩保里がうまく根回しをしてくれたのだろう。
「あ、八田さん!良かった、来てくれたんだね」
「帰っちゃったらどうしようかと心配してたんだ」
半ば詩保里に引き摺られる格好で教室に入った私に、中井君や工藤君、水波君といったいつもの面々が表情を明るくしてお出迎えをしてくれた。
「こ…こんにちは」
何でそんなに歓迎ムードなのかはさっぱりだが、無視するわけにもいかず小さく頭を下げる。その拍子に友人に囲まれて突っ立っていた大須賀君の肩がぴくりと跳ねた。
そんなに私が嫌い?
怯えた様子に気分が落ち込んでいく。話をしなきゃと意気込んできたけど、やっぱり逃げたい。
詩保里の制服の裾をきゅっと掴むと、彼女は小さくため息を吐いた後、大須賀君を睨めつけた。
「バカ秀、アンタがヘタレなせいで話がややこしくなってるじゃないの。せっかくお膳立てしてあげたのに………ふざけんじゃないわよ」
冷気が漂ってきそうなくらい低く冷たい声が教室に響く。あぁ、詩保里キレてる…。詩保里の怒気に大須賀君だけじゃなく他の男の子たちも顔を強張らせた。…そりゃあ、彼女はうちの学校の裏番長なんて言われてるくらいだから、怖いよね。
「詩保里…あの」
「新菜は黙ってなさい。この馬鹿男には私の怒りを受け止める義務があるの」
学年トップの成績を誇る大須賀君を馬鹿呼ばわりした詩保里は、鼻息も荒く彼に近づくと、胸ぐらを掴んで持ち上げた。もちろん、男の子の中でも背の高い大須賀君が浮き上がるほどの身長も腕力も詩保里には無いから、少し顎を上げさせるのに成功した程度だ。
目を丸くした大須賀君に詩保里はグッと顔を近づけると、何事かを囁いた。その途端、大須賀君の顔が真っ青になる。
「そんなの…嫌だ」
詩保里の手が離され、解放された大須賀君がぽつりと呟く。その様子に詩保里は鼻を鳴らした。
「んなこと知るか。アンタの自業自得でしょうが。
…中井君、ごめんね。こんな馬鹿男の世話焼かせて。工藤君も水波君も、ありがとう」
呆然としている大須賀君を無視して視線をその友人たちにずらした詩保里は表情を和らげて、中井君に微笑みかける。
「いや、別に大したことないから。こんなんでも大事な友達なわけだし。気にすんな」
中井君たちはお互いに顔を見合せ苦笑した。その目はとても優しくて穏やかだ。
「ま、秀。あとはうまくやれよ。ここからは俺たちじゃ何もできないし」
「…」
「…浅岡さん、コイツ魂抜けてるけど、何言ったの」
放心状態の大須賀君に、中井君が頬を引きつらせる。
「別に〜。じゃあ中井君、そろそろ行こうか。新菜、言いたいことはちゃんと言っておいで」
「う、うん。ありがとう、みんな」
事情は分からないけれど、4人とも私と大須賀君のことを心配してくれているのが伝わってくる。私は緩んだ涙腺をなんとか留めながらお礼を言った。
4人は口々に頑張ってとエールを送って去っていった。
教室には俯いたままの大須賀君と私だけになり、一気に部屋が大きくなったような感じがした。窓からは夕焼けが射し込み、大須賀君の横顔をオレンジ色に染めている。
「大須賀君、私…あなたに聞きたいことがあるの」
そっと呟いたつもりだったのに、静かな教室に私の声が響く。その声が思ったより落ち着いていて、私は胸を撫で下ろす。
今、すごく緊張してる。心臓が痛いくらい鳴っている。
詩保里には、落ち着いて冷静に見えるように話しなさいと言われている。それが良い女の鉄則だと彼女は笑った。
私は尚も顔を上げない大須賀君を見据えて言葉を紡ぐ。
「どうして、私の告白を受け入れたの?」
本当に私はあなたの彼女なの、とか、何で逃げるくせに付き合ったの、とか、私のことが嫌いなの、と聞きたいことはたくさんあって両手じゃ足りない。でも私は問うのは1つだけにした。実はこれも詩保里のアドバイス。
話し合いをするときは、自分の手の内を全部見せてはいけない。カードを1枚ずつ切るように、慎重に言葉を選ばなければいけない。じゃないと、相手はうまく逃げていくよ。
そんな風に彼女は私に何度も念押しした。詩保里のアドバイスを1つずつ思い出しながら、私は大須賀君の言葉を待った。
それはとても長い沈黙だった。
時計の針がカチカチと音を立てているのが分かりそうなくらい静かな時間。
この時間が永遠に続くんじゃないかと思った時、大須賀君がゆっくりと顔を上げた。その表情に、私は目を見開く。
なんで、そんな泣きそうな顔してるの?
切れ長の目は潤み、唇は引き結ばれている。まるで幼い子供が迷子になった時のような顔。予想していなかった表情に私は続ける言葉を失くした。
彼はゆっくりと唇を舐めた後、戸惑ったように揺らぐ目で私を見据えた。それがあまりに艶かしくて。私は思わず頬を染める。
「そう問いたいのは俺の方だ。なんで、俺に告白したの」
彼に見惚れていた私は言葉を聞き落としてしまう。
「え?」
きょとんとした私に、大須賀君は苦しげに顔を歪めた。
「八田さん、本当に俺のことが好き?俺が『付き合おう』って言ったら困った顔してたし…付き合い始めてからもそうだ。誘いを断っても怒らないし、悲しそうな顔もしない。何で?とも聞かない。そうなんだって当たり前みたいに受け入れていなくなる。そればかりか俺の話を聞こうともしない。
何で?どうして?俺のこと、本当は嫌いなの?」
「そんな、」
止めどなく溢れだしてきた彼の心の叫びに、私はその場に立ち尽くすしかなかった。
大須賀君も、悩んでいたの?
彼を疑って、彼の一挙一動に傷ついていたのは私だけだと思っていた。なのに、彼の口から出たのは、私と同じ苦しみ。
「俺は…周りが言うほどカッコよくも万能でもないんだ。自分に自信が無くて、いつも不安で。…好きな子に好きと言えないくらい情けなくて。
そんな俺のどこに好かれる要素がある?外見は普通、勉強や運動なんか俺よりすごい人は山ほどいる。性格はこんなだし」
目を閉じた大須賀君の唇が震えている。
「……私は大須賀君が好きだよ。ずっと前から好きだった」
自然と滑り落ちた言葉に、驚いたように大須賀君が私を見た。
「私、今まで何回も大須賀君の優しさに助けられてきた。誰にも言えずに困ってる時も、当たり前みたいに手を差しのべてくれた。そんな大須賀君だから私は好きになったの。
確かに大須賀君が文武両道なのはカッコいいと思ってる。でも、もしも文武両道でなくても私はあなたを好きになってた」
寧ろ、そんなキラキラした外側の部分のせいで私は大須賀君の隣にいることが怖かったのだ。
詩保里のアドバイスのことが脳裡を過ったが、もう駆け引きするだけの余裕は私には無かった。今はただ、大好きな彼の心の痛みを溶かしてあげたい。
「こんな弱気でヘタレで、好きな子に何度も告白させてしまうような男でも、八田さんは俺を好きだと思ってくれるの?」
琥珀色に煌めく瞳が切ないほどにゆらゆらと揺れる。私はそっと彼の頬に手を伸ばしてその輪郭に触れた。ピクリと体が跳ねたが拒絶はされない。それを確認すると、私は両手で彼の頬を包み、できるだけ柔らかく微笑んだ。
顔は熱いし、心臓は速く打ち過ぎて息苦しい。当然余裕なんて無くて、今の状態で精一杯だ。
でも大須賀君に伝えたい。誰よりも大須賀君が好きだって。大須賀君じゃなきゃダメなんだって。
お願い、届いて。
私と彼の身長差は大きい。ぐっと背伸びしても顔の距離はまだまだ遠い。
「大須賀君、かがんで」
「え?」
「いいから」
唐突な要望に困惑しながらも大須賀君は腰を屈めてくれる。顔の距離が近くなって、目線が合う。
私は彼の頬を親指で撫で、そして目を細めた。
「どんなあなたも大好き。だから私を信じて」
彼の目が驚きを映す。
それを確認し、私は彼の唇に自分の唇を重ねた。
キスをすること自体が初めてだから距離感が掴めなくて、少し勢いがついてしまう。優しい口づけにはほど遠い、どちらかといえば衝突のようなキスなのに、胸に広がっていくのはほんのりと甘い感覚。ほろ苦いビターチョコみたいな想いが私を満たしていく。
なんだか胸が詰まって泣きそうだ。
唇を離し、未だ放心状態の大須賀君に精一杯微笑みかける。
「大好き、秀君」
初めて名前で呼ばれたことで我に返った彼は何度も目を瞬かせた後、その頬を夕焼けの中でも分かるくらい真っ赤にさせた。
うわ…
大須賀君の様子に、私の顔も沸騰しそうなくらい熱くなる。
私、なんかとんでもないことしちゃった気がする…。
どうにか自分の想いを信じさせたい、とは確かに思ったけど。
大須賀君は好きな子がいるって言ったのに、それを無視してキスした私って女の子としてどうなんだろう。
自分の短絡的思考に頭を抱えたくなった私の手に、彼の大きな手が添えられる。はっとして顔を上げれば、照れたように目元を下げてはにかむ大須賀君が目に飛び込んできた。
「…俺も、八田さん…いや、新菜ちゃんが好きだ。大好きだ」
え?
言われた意味が分からなくて、間抜けにも口をぽかんと開けた私に彼は笑みを深くする。
「新菜ちゃん、目が落ちそうなくらい真ん丸。やっぱり可愛いなぁ…俺、新菜ちゃんが好きだよ」
「う、うん…って、大須賀君、私のことが好きなの?!」
やっと言葉が脳内で正常に処理され、彼に好きだと言われたことが理解できた。気持ちを返してもらえて嬉しいはずなのに、私の口をついたのは驚きを露にしたもので。
私の手を優しく下ろしながら、大須賀君が苦笑する。
「呼び方、元に戻ってるし。それに何でそこで驚くかな?普通、付き合おうって言った段階で気づくでしょ」
今まで誰の告白も断り続けてたの知ってるだろ。
唇を尖らせて大須賀君はなんだか不満げだ。そうは言われても。
「いや…気まぐれか何かで承諾したのかな〜と」
正直な話、大須賀君と恋人になるなんて予想は全くしてなかった。フラれるだろうけど想いが伝えられたら良いな程度だったのだ。
オッケーをもらった時、もしかしたらという期待が無かったとは言わない。でもそれは大須賀君の態度ですぐに掻き消えた。だから、あれは気まぐれなんだと思い込んでいたんだよね。
それを素直に話すと、大須賀君はあからさまに項垂れた。
「………ごめん。結局は俺が悪かったんだよな。ずっと前から好きだった女の子と付き合えたは良いけど、会えば緊張して頭真っ白だし、そんな情けない姿見られて嫌われるのも怖かったんだ。でもそれは俺の勝手だから。本当にごめん」
「良いよ。この1ヶ月、辛くて悲しくて、何度も別れようと思ったけど…大須賀君が私を好きでいてくれたのは嬉しいから」
彼の行動全てが、私への想いによるものなら、ちょっと悔しい気もするけれど許さないわけにはいかないじゃないか。
温かな気持ちに包まれた私に、何故か大須賀君は顔を引きつらせた。
「本当に別れたいって思ってたの?!」
「ん?…うん」
「絶対嫌だ!俺、新菜ちゃんと別れたら生きていけない…」
散々無視してたくせによく言うよ、とは思ったけど、本当に泣きそうだったので言わないでおく。
こうして見ると、大須賀君はクールではなくて、気持ちを伝えるのが不器用なだけなんだと実感する。多分、普段の彼はクールな自分を演じているだけで、本当はこっちが素なのだろう。カッコいいからは程遠いけど、こんな風に表情豊かな大須賀君の方が私は好きだ。ずっと色んな大須賀君の表情を見ていられたらいいなぁ。
「私も別れたくないよ。だから、大須賀君のこともっともっと好きにならせてね。私も大須賀君に好きでいてもらえるように頑張るから」
「………うん」
言葉少なに頷くと大須賀君は私を抱き寄せる。彼の温もりを感じて、彼の匂いに包まれるだけで頭がくらくらしてくる。トクトクと速い心音を聴きながら、私は目を閉じた。
「新菜ちゃんを大切にする。好きでいてもらえるように努力する。だから、別れないで。俺の彼女でいて」
「…はい、喜んで」
「新菜ちゃん、大好きだ」
「ということで、ちゃんとお付き合いすることになりました」
「はいはい、良かったね」
「うん、詩保里のお陰だよ。ありがとう」
夜、詩保里に電話をするとクスクス笑いながらも事の顛末を喜んでくれた。
そんな親友の様子に嬉しくなりながらも、私はふと疑問を口にする。
「そういえば、何で大須賀君の彼女が私だと皆は何も言わないんだろう?」
詩保里に聞いてからずっと気にはなっていたのだけど、やっと想いが通じ合って舞い上がっていた私は大須賀君に訊くのを忘れていた。
結局何でだったんだろう。
首を傾げた私に詩保里は堪えきれないと言わんばかりに盛大に笑い出した。
「なんで笑うの?」
「いや、鈍感姫が相手じゃ大須賀君も苦労するよなぁって思っただけ」
「鈍感姫って、私?」
「他に誰がいるのよ。
で、皆が生温い目で見守ってる理由?そんなの簡単だよ。誰の目にも大須賀君が新菜に夢中で、大好きだって体全体で表してたから。この2年ずっとね。気づかなかったの、新菜だけじゃない?」
「そんなまさか…有り得ない」
知っていたらそもそも今回の騒動は無かったはずだ。
誰も見ていないのに、私は首を左右に何度も振った。そんな私の行動を見透かすように詩保里はわざとらしくため息を吐いた。
「本当だから。そもそもね、入学してすぐの学力テストで後ろから数えた方が早い成績だった人が1年もしないうちに学年トップなんて、そっちのが有り得ない」
そう言い切られても、あまり実感がない。私の中では大須賀君はヒーローで万能な人というイメージしかないのだ。
詩保里は「ん〜、これ覚えてるかなぁ?」と呟き、そして話をがらりと変える。
「1年の遠足のバスの中で、女の子たちでどんなタイプの男の子が好きかって盛り上がったの覚えてる?」
入学して1ヶ月くらい経った頃にうちの学校は遠足に行く。まだお互いのことをよく知らない状態で連れていかれるから、生徒は遠足を楽しむためにお互いを知るための情報交換をバスの中で行うことになる。その中の話題の1つに好みのタイプがあったのは覚えている。
「確か詩保里は、イケメンで年上のくせして頼りないワガママな人が好きって答えてたよね」
つまり彼氏さんのことなのだが、なんとも言えない空気がバス内に漂ったんだった。
「まぁ…事実だし。じゃなくて、新菜は自分が何て答えたか記憶にある?」
「私?全然。何て言ってた?」
「『頭が良くて運動もできて、困っていたらさりげなく助けてくれるヒーローみたいな優しい人が良い』」
「…うわぁ」
私、そんな贅沢なことを言ってたのか。
羞恥に見悶えた私は、はた、とあることに気づく。
それ、なんだか…。
「大須賀君のことみたい」
てことはその時から私は大須賀君のことが好きだったのかな?でも好きだと確信したのは2年生になってからだ。
電話から大きなため息が聞こえ、詩保里が呆れ返って眉間を指で解す姿が想像できた。
「大須賀君のことみたい、じゃなくて…今の大須賀君そのものでしょ。
あんな狭いバスの中の話なんか皆に聞こえてるから。しかも新菜の声、よく通るし。あの時、新菜の言葉を真に受けた馬鹿がいてね。それが大須賀君」
「え?」
「アイツは新菜に好かれたい一心で、新菜の好みになろうと死に物狂いで努力してた。ただ残念なのは中身はヘタレのままなことと、新菜がそのアピールを全部スルーしてたこと。周りで見てた人たちは大須賀君が可哀想過ぎて、恋が叶うと良いのにねぇって同情してたの。だから新菜と付き合い始めた時、皆が喜んだ。…なのにこれだもん。本当にお騒がせカップルよね」
互いの誤解が解けた後、私と大須賀君は今までのことを話した。いつから好きなのかとか、付き合うまでのことを暴露したはずなのに、そんなこと大須賀君は一言も言ってなかった。
「何で教えてくれなかったのかなぁ…」
しょぼんとした私に詩保里が苦笑混じりに教えてくれる。
「さすがにそんなカッコ悪いことをバラせないって。新菜に振り向いてもらいたくて頑張ってるけど、実は勉強は苦手だし運動もイマイチです、なんて言えるわけないでしょ。…新菜、男心を少しは勉強したら?」
「う…はい」
「とりあえず良かったね。あ、この話はアイツに内緒だから」
「なんで?」
「私としてはちょっとした意趣返しだけど、アイツからしたら嬉しくないお節介だから」
詩保里の言っていることはよく分からないけれど、彼女がそう言うなら内緒にしておいた方が良いのかもしれない。何かと私を心配し助けてくれる親友が、私を傷つけるアドバイスをするなんてあるはずがないんだから。
「うん、分かった。詩保里、本当にありがとう。私は詩保里が大好きだよ。これからも友達でいてね」
「当たり前よ。私の大切な親友なんだから」
私の言葉に、珍しく照れたように返事をする詩保里。電話の向こうで鼻を啜る音が聞こえた。
あれから数日後。私と大須賀君は相変わらずの日々を送っている。今日も私は隣の教室へ彼を迎えに行く。
教室を覗けば大須賀君は中井君とお喋りをしていた。
「大須賀君、中井君、こんにちは」
声をかけると中井君はにっこりと笑顔を作って応えてくれる。中井君を見ると、イケメンというのはこの人のためにある表現だなぁとつくづく思う。爽やかな王子様は大須賀君とは違う次元で女の子に大人気だ。
中井君に笑顔を返すと、私はちらりと自分の彼氏を見た。大須賀君は今から何かと戦うんじゃないかと心配になるほどの鬼気迫る顔で机とにらめっこしている。よく見れば耳が真っ赤だ。
「大須賀君、一緒に帰ろ」
私は彼の前に回るとしゃがみこみ、下から彼を見上げた。その途端弾かれたように目線が上がって、私と大須賀君の視線が絡まる。
「一緒に帰ろうよ」
じっと琥珀に似た瞳を見つめて告げると、彼の顔が強張った。
前なら拒絶されていると傷ついた彼の表情も、ただ照れているだけと知っている今は可愛くて仕方ない表情である。
「ね?ダメ?」
尚も沈黙する彼に私はもう一押しする。今度は詩保里直伝の男の子を落とす仕草付きだ。首を横に傾け、困ったように眉を下げつつ相手の上目遣いで目を覗き込む、というのがぐっと来るらしい。残念ながら私にはさっぱり理解できないけど。
大須賀君は目を丸くして私の顔を凝視している。
「ねぇ、秀君。帰ろ?」
「……………うん」
やっとのことで返事がもらえた私は勢いよく立ち上がり、ニッコリとした。
「良かった!一緒に帰ろ」
「…うん」
大須賀君が席を立ち、鞄を持つ。本人は無表情を貫いてるつもりだろうけど、顔が赤い。
「じゃあ中井君、また明日!バイバイ」
大須賀君の服の袖を掴み、私は中井君に小さく手を振る。中井君は苦笑しながら大須賀君の背を叩いた。
「気をつけて帰れよ」
「あぁ。ありがとう」
「ありがとう、中井君。じゃあね」
鼻唄が聴こえそうなくらいルンルンとした私と、照れて顔を真っ赤にさせた大須賀君が教室を去った後。
「八田さんってスゲー」
「てか秀のヤツ、デレデレだな。リア充爆発しろ」
「何あのやりとり。胸焼けがする」
とクラスメイトたちが呆れていたという話を後日、中井君から聞いた私と大須賀君が赤面し、帰りは昇降口で待ち合わせにしようと決めたのはまた別の話。
………大須賀君のキャラが崩壊してしまった…。
最後までお読みくださりありがとうございました。