お久しぶりです、愛しい人
目の前にいる可愛らしい顔立ちの青年がニッコリと口角を上げた。唇から覗く白い歯が太陽光に照らされて輝いている。とんでもなくカッコいい。芸能人と言われても納得できそうなくらいキラキラしている。
しかしながら、私にはこんな美形の異性の知り合いはいない。何故私を呼び止めたのだろうか。
もしや、スカートが捲れてる…とか?
慌てて目線をスカートに走らせた私に、青年はフワリと笑う。
「お久しぶりです、香澄さん」
………ん?お久しぶり…?
ポカンとその長身を見上げる私に、青年は何故か照れたように頬を染める。
「そんなに熱心に見つめないでください。恥ずかしいです」
確かに私は目の前の人物をまじまじと眺めていたかもしれない。熱心な眼差しだったかは別として、仮に私が彼の立場だとしても恥ずかしいと感じるだろう。それは否定しない。しないのだが。
根本的に私と彼との間には大きな隔たりがある。
「あなた、誰?」
その瞬間、青年の顔が強張る。顔面蒼白という言葉が今の彼の表情にはぴったりだ。
そんな顔も整った顔立ちの人物だとさまになるのだなとぼんやりと考えた私に、彼は泣きそうに目元を歪めながら恐ろしいことを宣った。
「酷いです…俺と香澄さんは十年来の知り合いで、将来を誓い合った仲じゃないですか」
「はい?」
全然、記憶にない。
もしやと思うが…昔、大学生になりたてで浮かれていた時代に若気の至りでワンナイトラブに興じた相手だろうか。それとも当時入れ込んでいたホストクラブの誰かか。これだけ可愛いのだ、もしかしたら勢いに任せていたいけな少年(10年前は間違いなく未成年のはず)を美味しくいただいたのかもしれない。
いずれにしろ私にとっては消してしまいたい黒歴史であり、忘れてしまっていたとしても何ら不思議ではない。
…って、今さらそんな過去の産物が出てこられても困る…っ!
とりあえず何としてでも思い出さなければ。
角度を変え、何度も見てみるがやはり全く覚えがない。
「…人違い、とか?」
一縷の望みをかけて呟いた言葉に、青年は顔を両手で覆って項垂れてしまった。
青年は、上岡隆一と言うらしい。そういえば高校時代に上岡という名字の友達がいたなぁと懐かしく思い出していたら、なんと彼はその友達の弟だということが発覚した。彼女も美少女だったし、言われてみれば彼女に似てないこともない。それに彼女には年の離れた弟がいた気もする。
「でもねぇ…全くあなたのことを覚えていないの」
上岡君のことは記憶からさっぱりと抜け落ちている。高校時代は既に遠い過去の話だ。同級生の名前や顔をすっかり忘れていて、友達がいがないヤツだと詰られたのはつい先日の同窓会でのこと。
「俺は覚えてます。姉貴を迎えに来る香澄さんをいつも見ていたから」
「そう………だっけ?」
3年間学友だった人のことすら記憶の彼方に葬り去っている私が、友達の弟を覚えてる訳がないよねぇ。
心の中で自己弁護をした私に、彼は恨めしげな目を向ける。
「そうですよ。当時小学6年だった俺は、あなたに声をかけることすらできずにいたんです」
子供ながらに心臓がドキドキして、あなたが家を訪れた夜は眠れなかった。
そう目を伏せた彼に少年時代の面影を探してみる。けれど、結局何も出てこなくて、私は天を仰いだ。
今、彼は小学6年だったと言った。そこから10年後が今だとしたら彼の年齢は22歳。話を聞いていると当時、私たちはまともに会話すら交わしたことが無いようだし、思い出せと言われても無理な話かもしれない。
それにしても22歳かぁ…。
私は今、28歳。彼より5歳も年上だ。私の弟は24歳だから、実の弟よりも年下の男の子に(恐らくだけど)懸想されている現状に頭が痛くなってくる。
「ところで、何で10年経った今になって私に会いに来たの」
思い出せないけれど、私と上岡君が顔見知りだということは分かった。
彼の姉とは今も連絡は取っているから、私の職場や住んでいる場所を彼女から訊いていたとしてもおかしくはないが、何故会いに来る必要があったのか分からない。
首を傾げた私に、彼は唇をきゅっと噛み締める。何かを堪えるようにきつく目を瞑った後、ゆっくりと目を開けた彼は忌々しげに口を開いた。
「…約束したからです」
その言葉があまりに真剣だったから、重みのある声と共に胸に沈み込む。
「香澄さんが東京の大学に進学すると姉貴に話してたのを聞いて…決死の覚悟で告白した俺に『キミが社会人になったら付き合ってあげてもいい。だからカッコよくなってね』って言ったのは香澄さんです。香澄さんは俺の頭を撫でて、頬に優しくキスしてくれた。…だから、俺は」
彼の邂逅にふと脳裏を過ったのは、小さくてあちこち傷だらけの少年の姿。日に焼けて真っ黒な肌で、いつも泥だらけだった。
その姿に次々と記憶が蘇ってくる。
上京するからしばらく会えないねと友達と遊んだ日の帰り際、普段は顔すら見せない少年がボロボロと涙を溢れさせて『好きだから、僕と一緒にいて』と言われた。
いつもは遠巻きに見ているだけの少年に告白されるとは想像もしていなかったが、驚きと同時に温かい気持ちになったのだ。
その時はただ少年の涙を止めたくて、口当たりのよい方便を告げたつもりだった。
10年も経てば私のことなど忘れてしまうだろうと。
でも、彼にとっては大切な約束だった。
きっと心の支えだったんだろう。保証もないただの約束を信じて、東京まで出てきてしまうくらいには、あの日の言葉は彼の全てだったのだ。
心に溢れるのは後悔と困惑。
私の不用意な言動が一人の男の子の人生を左右させてしまっただなんて、今さら嘆いても巻き戻すことはできない。
「ごめんなさい…」
気づけば私は彼に頭を下げていた。私にできる唯一のことは謝罪くらいだ。
二人の間に流れた沈黙を嘲笑うかのように、遠くから聞こえてくる楽しげな子供の声や鳥の囀りが何とも長閑だ。たまたま買い物に出掛けようと家を出てすぐの再会だったから、家族連れで賑わう公園に場所を移すしかなかったのだけど、真剣な話をするには不向きな場所を選んだ気がする。
それにしても長い沈黙だ。
そっと頭を上げた私は、文字通り硬直した。
目の前には人形もかくやというほどの端正な細面が表情の削ぎ落とされた状態で晒されている。
「…それは、俺はあなたにとって恋愛対象にもならないということですか」
静かに紡がれる言葉が、冷気を孕んで私に刺さる。
記憶の中の少年は、こんな冷たい声で怒りをぶつけたりはしなかった。
「だって、10年前のことよ?私じゃなくても良いじゃない」
喘ぐように告げた私に向けられたのは、憎しみに似た目。
「あなたじゃなきゃ、ダメなんだ…。他の誰でも香澄さんの代わりにはならなかった。俺の心を奪っておいて、そんなことを言うな…っ!」
ギリ…っ
彼が歯を食いしばったのが分かって、私は肩を震わせた。その様子に気づいたのか、上岡君は衝動を抑えるように拳を強く握り込む。
「自分でも分からないくらい、香澄さんが好きなんです。
太陽みたいな笑顔も、彼氏にフラれたと泣いていた顔も、恥ずかしくて顔を上げられなかった俺の頭を優しく撫でる手も…一つとして忘れたことはない。10年も経って俺が変わったように、香澄さんも変わったことは分かる。
でも…っ、大人になった香澄さんを見た時、胸が熱くなった。やっぱり好きだって、また恋に落ちたって思った」
滑らかな頬をハラハラと涙が滑り落ちていく。大きな目から溢れるそれらは宝石のように美しい。
けれども、その姿が私にはあの日の少年のようにしか見えなかった。姉の友人である私に必死で追い縋る幼い男の子。今は面影すら見当たらないのに、彼があの男の子なのだと私はようやく受け止めることができた。
まさか、こんなに長い年月を経てもう一度同じ人に告白されるだなんて思いもしなかった。
やんちゃだった少年が美しく落ち着いた大人の男性になり、尚も私に剥き出しの愛を語っている。
戸惑いながらも、それが何故だか嬉しいと思う自分に驚いてしまう。少年の成長を微笑ましく思ってのことか、それとも別の理由か、今の私には判別できない。
でも。
「ちゃんと周りを見て、それでも今の私が良いと言うのなら、その時は付き合ってもいいよ」
上から目線で私はあの日と同じ提案を彼に提示する。もしも彼が私に幻想を抱いて恋をしたのなら、現実に幻滅する可能性だって大いにある。
何せ、彼は見た目だけでも極上品の部類に入るのだ。その実直で一途な心も好感が持てる。相手は選り取りみどりなのだから、私に囚われて全てを拒絶するのは惜しい。彼はもっと多くのものを見るべきなのだ。
「それなら、香澄さんは俺と付き合うことになります」
「今、人の話を聞いてた?」
「はい。俺の想いを見くびらないでください」
先ほどまでの殊勝な姿はどこへやら。一転して不敵な笑みを浮かべた上岡君があまりに艶やかで、私は不覚にも頬を染めてしまった。
結果としては、なんというか彼の思うつぼになった訳であるのだが。後日、彼の姉である友人にことの次第を話したところ、腹を抱えて笑われてしまった。
「アイツ、がっつり肉食系だし一途というかしつこいから。御愁傷様。まぁ、良くも悪くも真面目だから香澄を泣かせることはないと思うよ。我が弟ながら良い男だからね。
あ、結婚式ちゃんと挙げなさいよ〜…その先に子供ができてそうだけどねぇ」
友人はやはり上岡君の血の繋がった姉な訳で。「結婚する訳ないでしょ」と高を括っていた私を嘲笑うかのように、現実は彼女の予言どおりになっていく。
…そして、彼女の危惧したとおり式を挙げる前に妊婦になった私はウェディングドレスより先に彼の子を腕に抱くことになった。
ともあれ、過保護な旦那様と可愛い子供に囲まれて、今は幸せです。
結論、流されやすい香澄さんは見た目可愛い羊な狼さんにペロリといただかれたのでした。
うじうじしていた弟を送り出したのはお姉さん。弟の奥さんが香澄だったら私も楽しいし遊べるし楽で良いよね〜という自己中な考えのもと、弟をけしかけたわけです。
因みに隆一君の外見は香澄の好みど真ん中ストライクです。…これも実は彼のお姉さんがそうなるように弟を教育した結果であって、弟のプロデューサー兼マネージャーは有能なのです。
要はお姉さんの手の上で踊らされていた二人ですが、隆一君の気持ちは本物だし、香澄さんも今は彼が大好きです。ハッピーエンドなのでめでたしめでたし。
お読みくださりありがとうございました。