先輩と後輩
年上女子と年下男子のお話。
職場の飲み会の帰り、二人で駅までの道を歩く。
皆と別れてから続く沈黙が気まずい。いつもだったら仕事の悩みや最近の出来事を話したりするのに、今はそんな雰囲気ではない。
…最も、その気まずさは私が作り出しているんだけど。
あなたが悪いわけではなく、私の気持ちの問題だから、あなたはきっとこの状況に困惑しているだろう。現に、あなたは困り果てた顔でこちらを伺っている。
「もう、こうやって二人きりになるのは最後にしようか」
そんな沈黙を破るのは大変に勇気が要った。できるだけ明るく言ったはずなのに、声が震えてしまったのが分かる。
緊張が伝わってなければ良いと、様子を伺うために立ち止まって隣を見上げれば、あなたは目を見開き、そしてその表情を強張らせていた。
「どうして、ですか」
吐息のような声が吐き出され、街灯の明かりを反射した瞳がゆらりと揺れる。そこに責める色を見つけて、私は内心狼狽えながら問いに応える。
「私、転勤するし…あなたも結婚するのでしょう?」
この前、お見合いするって言ってたじゃないの。
そう告げれば、みるみるうちにあなたの目が潤み出す。
「まだお見合いはしてませんし、結婚するとは決まってません。それよりほのかさん、転勤て」
「まだ皆には内緒よ。同じ県内だけど、別の支社に転勤が決まったんだ。一応、階級は上がるから出世なの」
先週、上司から打診があったばかりの話。今度新しく支社を立ち上げるにあたり、各支社から数名引き抜きがあったのだ。幸か不幸か私もその名簿に名を連ねることとなった。
「今までありがとう。あなたといるの、楽しかった」
にっと笑って見せれば、あなたはくしゃりと顔を歪める。
「ほのかさんは、どうしてそんな風に僕を切り捨てるんですか。僕は、あなたが好きだって言ったじゃないですか」
今から半年ほど前、酔っ払ったあなたから告げられた愛。あれは酔いが言わせた戯れ言だと思っていたのに。
頬が熱をもつのを感じて、私は強く首を振った。
「そんなの、一時の気の迷いよ。可愛いげのない年上の女のことなんか、すぐに忘れるわ」
本当は忘れてほしくない、って気持ちが心を過っていく。
「僕は、忘れません。少しずつ積み上げてきた想いは嘘じゃない。本気です」
強い眼差しに思わずたじろいた私を、あなたが抱き寄せる。後頭部を押されて、頬があなたの胸に触れた。
「逃げないでください」
力強い鼓動に耳を澄ませて、その音に縋りつくように体を寄せると、抱き締めたあなたの腕に力が込められた。
年下のくせに、生意気。
そんな言葉は口の中で霧散して、溢れたのは涙。堪えてきたはずの想いが一つ二つと洩れ出していく。
認めたくなかった。こんなにも3歳も年下の男の子を好きになっているなんて。
最初は、先輩として純粋に後輩を指導し、あれこれと面倒を見ているだけだった。
それが変わるなんて、思ってなかった。
きっと、酔いに任せたあなたの告白を受けたあの日から、私はあなたを異性として意識するようになったのだ。
長くてスラリとした手足を目で追ったり、照れて耳を赤くする少年のような横顔に仕事の手が止まったり。他者が絡むと一気に優柔不断になってしまう所も、時に大胆な行動力を見せて驚くほどの成果を挙げてしまう所も、そのくせ謙虚な所も、気付けば微笑ましく好意的に見ていた。
そう、既にあなたに落ちてた。
そのことを無視したのは、腹の足しにもならないプライドと、同じフロアで働いているという現実から。もし付き合って別れたら…なんて。つまり、私は始まってもいない恋の終わりに怯えていた。
ずっと、先輩後輩でいればいいと思った。
でも、その考えが甘かったことを思い知らされた。
あなたに見合い話が舞い込んだ。相手は、あなたの両親の古い友人の娘さん。あなたと同い年の、可愛らしいお嬢さんだ。渋るあなたを半ば脅すように見た見合い写真の女性はたおやかに笑ってた。
あなたに、お似合いの子。
そう感じた瞬間、足元からすべてが崩れ落ちるような気がした。
あなたが、他の人のものになって、一生手の届かない人になる。
それは、嫌だ。
あなたは私の隣にいてくれなきゃ、嫌だ。
だって私、あなたが………。
「ほのかさんが、意地っ張りなのは知ってます」
あなたがふっと息を吐く。
「淋しがり屋なくせに、独りで生きていけますみたいな顔することも、分かってます。でも、そんなほのかさんが、好きなんです。誰よりも愛しいんです」
じんわりと言葉が身体中に浸透していく。それは頑なな私の心を融かしていくようだ。
つむじに触れた柔らかい感触。
次いで、肩にあなたのおでこが乗せられた。
「だから、教えてください。ほのかさんの気持ち」
もう、待ってる時間が無いですから。
最後の呟きは切なく、悲しげに響いた。
私はぎゅっと目を閉じて深呼吸する。
もうとっくに答えは出ていた。それが二人をどんな未来に導くのか想像もつかない。
それでも、自分の心を誤魔化すことはできなかった。
だって。
きっと私、今嘘吐いたら…一生後悔する。
「…私、年上だよ。それに美人でも可愛くもない。男っぽい性格だし、手先は不器用なの」
「客観的に見て、ほのかさんは美人ですけど」
空気が震えて、あなたが苦笑したのが分かった。
「でも、好き。あなたが好き。礼人君が、欲しいの」
声が、指が震えてしまう。それでも言い切ると、あなたが硬直した。密着している体を離して見上げれば、目を丸くしたあなたが私を凝視していた。
「…大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。…本気ですか」
「はい?」
「ほのか先輩、僕のことが好きって」
動揺のあまり、呼び方が昔に戻っているあなたに、思わず笑みが溢れる。幼い表情のまま、私を見る視線がくすぐったい。
「好きだよ。信用してよ」
「いや、はい。でもそんな都合のいい…。僕、てっきりフラれると思ってて」
「え、それなのに抱き締めたの、あなた」
「あ、そう、その…気づいたら抱き締めてて、後に引けなくて」
しどろもどろの情けない言葉に、拍子抜けしてしまう。優柔不断のくせに、本当に変な所だけ行動力があるんだから。
顔を真っ赤にしながら、目を泳がせるあなたに、不覚にもキュンとしたのは内緒だ。
「ま、何でもいいよ。とりあえずお見合いは断ってね。彼女がいるのに、お見合いなんかしたらダメなんだから」
勝手に彼女面してみて、両想いなら別に良いでしょと独りごちてみる。
あなたは赤べこみたいに何度も頷いて、そして泣きそうな笑顔を見せた。
「ほのかさん、大好きです。愛してます。僕だけのほのかさんになってください」
「喜んで」
告げれば、感極まったあなたが私の頬を両手で挟み、唇を重ねてきた。宝物に触れるように優しく何度も啄んでは離れ、啄んでは離れ。じゃれているようなキスなのに、心が満たされる。
大好き。
キスの合間に紡げば、首まで赤くなったあなたが幸せそうに目を細めたのだった。
連載物を進められず、つい浮気をしてしまいました。ですが、ふわふわあまあまな恋の一場面を書きたくて仕方なかったもので。
お読みくたさりありがとうございました。