7 卒業舞踏会 後
「こちらには人質がいることをお忘れなく」
一歩を踏み出そうとするヒューに、小柄な男が声を掛ける。
もう一人の男の手が、私を捕まえようとする。
さっきまではたった一人で弱っていた。でも今は違う。
ここは月夜の下、馬車の暗闇はもう私を閉じ込めたりしない。
何よりヒューがいるから。
持ち上げるように私を立たせた男の顔に、勢いを付けて振り上げた、手錠の地金部分を打ち付ける。
両腕合せての遠心力は、結構な破壊力だ。
例え身体を筋肉で覆っても、顔の急所は覆えない。
振り上げたところで手に届いた頭の髪飾りを引き抜く。
切っ先は鋭くなくても、粘膜に刺されば重傷だ。
確かな肉への食い込みの感触。男の喉を詰まらせるような声。
最も大事なのは、覚悟。
力を手にするならば徹底的に。途中で投げ出すくらいなら、一生触れずに過ごしなさい。
男装して剣を習いたいと言った私に、バルタザールが最初に教えた事だ。
油断して、同情して、剣先を緩めるのは愚かな行為。
中途半端に手を出して、中途半端に引っ込めるのが一番悪い。
私はヒステリア・ジークハイド。
ジークハイド侯爵家の、たった二人だけしかいない子供の一人。
同情なんかでどうにかなる程、私の覚悟は軽くない。
捕まえられた腕から逃れて、振り向きながら敵を確認する。
足元が軽い。
膝上丈のドレスに、人生で初めて感謝した。
ドレスの脇を探ると、魔改造のせいで隠しポケットは無くなっていたけれど、靴下留めに固定した愛用のナイフに直接手が届いた。
取り出したところで、後ろからヒューに抱きとめられる。
「お嬢様、怪我はございませんか」
「ないよ」
一瞬前に回されたヒューの手に力がこもり、それからすぐに解放された。
あっけなく、二つの枷はゴトリと落ちる。
目の前の男二人を見据えながら、抜剣したヒューは口元だけで笑っていた。
従者の仕事に従事している時の、アルカイックスマイル。
愚かにも兄を、そして私を、彼の前で悪し様に言う貴族たちが向けられる顔。
最も危険な姿だ。
更に今は、瞳が爛々と赤く輝くまま。
「それでは後ろへ下がっていてくださいね。この二人とは、私が話を致しますので」
「その目、魔族か! 魔族に呪いのドレスなんて、こんなの話が違っ……」
小柄な男が忌々しげに声を上げる。
けれどそう長くは続かなかった。私が刺した大柄な男に手刀を落とされ、意識を失ったからだ。
「はあーあ。もうちょっと先に舞台装置を用意してあったんだがな。そこまですら辿り着けやしなかった。いやー早かったな、お見事!」
私の与えた傷などものともせず、というか既に回復して、男はにかっと笑って見せた。
潰したはずの片目も勿論元通り。
「何なの」
私の疑問に、ヒューが一歩前に出る。
この男に対して警戒レベルを上げたみたいだ。
「魔国の手の者なら名乗りなさい。お嬢様を巻き込んだ罪は重いぞ」
「おっとこりゃ失礼。俺はユージール・バルトロイ。転がってる小男は、えー……何て名前だったかな。まあとにかく人間の小悪党だな」
大柄な男、バルトロイの話によるとこうだ。
魔国に住まうバルトロイは、新たな魔王候補者の誰に付こうか決めかねていた。一番ウマが合いそうな人物にしようと、自らの目で確かめるべく候補者の所を巡ることにした。
最後に訪れた魔法学園でヒューの所に辿り着く前に、小男達の集団を見つける。彼らは第一王女の誘拐を企て、馬車や仕掛けまで用意していた。
悪戯心を刺激されたバルトロイは、まんまと彼らの中に紛れ込み、王女を誘拐する振りをして私を誘拐し、ヒューを試した、と。
「廊下から馬車に案内したお仕着せがあなただったの」
身長体重、厚みまで、全く違いますけれども。
お仕着せの男は、平均的で特徴の無い人物に見えた。目の前にいる、何もかも大柄で、個性を主張する男とは、似ても似つかない。
「おーよ。そうやって紛れ込むのが得意なんだ。違和感あるように思わせない。そういう能力ってこった」
がははと笑う姿からは想像できないけれど、かなりやっかいな能力と、頭の切れる男らしい。
「それで。用件はそれだけですか」
さっきからヒューの声は切りつけるように冷たい。
向けられていないこちらが震えそうなのに、バルトロイはまったく意に介してないらしい。
もしかして感情の機微には超鈍感で気付いてないとか。あり得る。
「まあな。手合わせくらいお願いしたいところだが、それは魔国でも出来るしな。でもそんなことより、俺は掘り出し物を見つけちまった! 人間のお嬢様ってのはぴいぴい泣くもんだって聞いてたんだが、なかなかどうして。腰の入った攻撃だったぞ」
あっけらかんと頷きながら、こちらにウィンクしてきた。
「ええと。……ありがとうございます?」
よくわからないけれど、誉められてるらしいので一応お礼を言っておく。
ついさっき思いきり攻撃してしまったので、普通に会話しているのが不思議だ。
バルトロイには緊張感というものが足りない。そういえば、誘拐中も緊迫感に欠ける人だったなあ。
「お嬢様、こんな男に律義に返す必要なんてありません。無視です。視界から排除です」
ヒューがバルトロイとの延長線上に入り込んできた。
「あ、はい」
目が笑ってない。怖いので素直に頷く。
「なあなあ呪いのお嬢ちゃん、俺の嫁に来ないか? そいつみたいに他の男と口をきいたくらいで嫉妬したりしないぞー。短いドレスしか穿いてなくたって、許容できる! 寧ろそのふくらはぎと太腿はずっと出しておいても……」
くっそう、膝上丈一瞬忘れてたのに!
ついさっきまで私は結構な危機に晒されてたよね? しかも分かってて嵌めた張本人ですよね。この軽さはなんだ!
「魔国でじっくり手合わせしましょう」
肝を冷やす様なヒューの声が、バルトロイの言葉を遮る。
バルトロイの周りに黒い円球の磁場が現れ、飲み込むように包んでいく。
中央にいるバルトロイは、焦る様子もなく磁場に身を任せている。
「わはははっ。冗談だ、冗談。またなー次期魔王様」
やけに呑気なバルトロイの声が、暫く空間に余韻として残っていた。
最後までおちょくられていたらしいです。
伸びた小悪党も消え失せた。馬車の破片も跡形もない。
昔は壁を黒く焦げさせる程度だったのに……。
「過去に遡ってお嬢様のおみあしの記憶ごと奴を消したい」と呟くヒューは、りっぱな暗黒系に成長しました。
「話の途中みたいだったけれど、良いの」
「勿論ですとも。さあ、片付きましたし戻りましょうか」
振り向いたヒューは、いっそ清々しいほどの笑顔だ。
寮に帰ろうってなって、移動手段が無いことに気付く。
随分魔法学園から離れてしまったみたいだ。
屋根を吹っ飛ばされた馬車は、さっきのゴタゴタで御者を乗せたまま暴走した馬と共にどこかに走り去っていた。
それでなくとも、今後も当分馬車は御免被りたい。
馬車へのトラウマが、克服どころか悪化してます。
「飛竜はお好きでしたよね」
にっこり笑って、彼は夜空を指差した。
ヒューの用意した移動手段は、空飛ぶドラゴンだった。
髪とドレスが乱れることを覚悟したけれど、思いのほか飛竜の背は快適だ。魔法で張られた防御壁の中は、常に一定に保たれていて、圧迫感も無い。
飛竜の背、馬に二人乗りするように跨る。
今の体勢は、邸に居た頃の膝抱っこみたいで恥ずかしい。
もうパンチラ……というか、ドレスの中を全見せ状態の件は深く考えないことにする。座ってしまえば見えないしね!
寮に帰る道中、少しだけ夜空の散歩を楽しむ。
目の前に広がる月と星の輝く空は、二人だけの舞踏場のよう。
飛竜はワルツのようにゆったりと飛び、ヒューの声は音楽のように心地いい。
ヒューは、今までの事を話してくれた。
自らが魔族王家の傍流の出身であること。魔王家の争いに巻き込まれて、両親が謀殺されてしまったこと。
魔王候補に選ばれたこと。
この件を私の父や兄、バルタザールは既に知っていること。
そして今回現れたバルトロイが、魔国七大貴族という、魔王選定に関わる大物であること。
あれ、大物貴族異次元に吹き飛ばしてたっぽいけどいいのかな? うーん、殺しても死ななそうだったし、いいか。
私の呪いを解く方法は見つけられなかったけれど、魔王になればもっと情報を集められるから、協力してくれること。
「ところで、貸し飛竜屋なんて聞いたことないんだけど」
「ちょっとひと狩りしてきました」
忙しい学生生活の合間、魔国に直接足を運んで捕まえたらしい。。
やっぱりこのゲームの主人公最強だな! ……て、そうじゃないか。
これはみんなヒューの頑張りなんだよね。
剣術だって、最初は何度もバルタザールに打ち負かされてた。
学園でも兄との鍛錬を欠かしていない。
人より器用で才能はあるかもしれないけれど、努力だっていつも人一倍。
そんなところを好きになった。
私も一緒に頑張りたいって思ったんだ。
……なあんだ。
その時微かに、学園の鐘が聞こえた。
十二回の鐘。
卒業舞踏会の終わりの合図。
遠くで美しく華やかに上がる花火。遅れて届く花火の音は、少しだけ寂しさを誘う。
ヒューも私達の真上に花火を打ち上げた。
金と紫の大輪の花火。今日の私の髪とドレスの色。
「終わっちゃったねー」
「残念です。せっかくお嬢様と踊る機会でしたのに」
「これからいくらでも踊ればいいでしょ」
ゲーム終了の合図を聞いても、私の気持ちは変わらない。
相変わらず我儘に、独善的に、ヒューを独り占めしたいと思ってる。
「踊って、くださるのですか」
「ヒューがちゃあんと申し込んでくれたらね」
「! 勿論です! …………舞踏会のホールで言質と証人確保なんて思っていましたが、月の下で二人だけも悪くないですよね」
「んーなにがー?」
さっきから耳元や首に触れるヒューの髪と吐息が、むずむずしてくすぐったくて、あんまり会話に集中できない。
よいしょと身体の向きを変えると、ヒューが真面目な顔をして見下ろしていた。
ドレスと同じ紫色に戻っていたはずの瞳は、また赤味を帯びている。
先程の血の赤というよりも、熟れた果物のような瑞々しい赤。
まるで心を映すかのように移り変わる万華鏡のような瞳。
思わず手を伸ばして、瞳の端と頬に触れる。
私の右手に自らの左手を重ねて、ヒューが薄く微笑んだ。
「これから先ずっとずっと、お嬢様を起こす役目を、私だけにさせてくださいませんか」
「今だってヒューが毎朝起こしてるじゃない」
「そうなのですが、そういう意味ではなくてですね」
眉がへにょりと下がってしまっている。
「名前」
「は?」
「毎朝起こしにきてもいいよ。ただし、ちゃんと名前を呼んで起こしてくれるなら」
ヒューは絶対に、私の名前を呼ばなかった。
頑ななまでに、お嬢様としか呼んでくれなかった。
それは、彼にとって主従のけじめだったのかもしれない。
「――どうか、お嬢様の名前を呼ぶことをお許しください。必ず貴女に釣り合う魔王になってみせますから」
「魔王になんてならなくていいけど、毎朝名前を呼んで、起こしてね。だって好きな人には、名前を呼んで欲しいもの」
彼は存外泣き虫だ。
赤い目から落ちる涙は、透明な宝石のよう。
はらはらと落ちる雫を受けながら、ヒューの頭をぎゅっと抱きしめる。
掠れて聞こえた私の名前は、シャンパンの泡のように心地よくはじけ、空の花火に溶けていった。