5
ぷわぷわと中空に浮いた白い輪が、顔に当たって霧散する。
ひどい臭いだ。だが顔の筋一つ決して動かさない。
目の前の男は、ただ道具としてある自分を評価しているのだ。
嫌われようが構わないが、食いぶちに困ると碌なことにならない。それを知っているからこそ、ある程度の我慢も必要なのだ。
その様子を満足げに眺めた男は、煙管をもう一度ふかすと勿体ぶって話し出した。
「御苦労、では仔細報告したまえ」
目の前の人物はこの屋敷の総取締役だ。
姫に不自由がないよう。屋敷に不埒な輩を入れぬよう。そして姫が逃げぬよう監視するのが役目だ。
元は優秀な商人であったらしいが、その手腕で領主すら無視できぬ資産を築き、その財で権力を得、ここまで上り詰めたらしい。
「……死傷者は三、内二が死亡、もう一人は重傷。いずれも、うちの兵ではない。
魔物は自分が……」
「ふむ……なるほどなるほど、さすがは鬼か」
顎をに手を当て考えるそぶりを見せるが、おそらく俺の監視役に全て聞いているんだろう。
あいつは、こいつのことをどう思っているのだろうか。
この男は屋敷に女を連れ込んでは、手籠めにしている。自室も寝殿に造らせ、その中で毎日酒池肉林という話だ。現に今も紫煙の臭いに混じって、雄と雌の香りが漂っている。
自身の屋敷でここまでされるのは、不快ではないのか。
「どうした?報告はもういいぞ。下がれ」
考えに浸っていると、声をかけられた。
ちょうどいい。この臭いが服に移るのは我慢ならない。
「ところで……ずいぶん姫と仲がよろしいそうじゃないか」
襖を開けようとした瞬間、そんな声を投げかけられた。
振り向くと、濁った眼をした醜い人モドキがいた。
こいつも人ではなかったらしい。
「……特には」
どうせ俺の見聞きしたことは全部こいつの耳に入る。
慎重……というには聞こえがいいが、臆病なのだ。
常に二名程、俺には人が付いている。
いわずとも知れることを話すほど、おしゃべりではない。
「……ふんっ、まぁよい。どうせあの姫は……」
最後まで聞かずに、部屋を出た。
俺には関係のない、どうでもいい話だ。
それよりも、早く刀を手入れせねばならない。
刀身の血糊を大雑把に拭っただけだ。
外では、まるでこちらを非難するかのように、肌を突き刺す様な冷気が身に吹き付けた。
まったく……どうしろと言うのか。
自身の部屋の襖をくぐると、部屋の中央部に鎮座する異物が目に入った。
威風堂々とした動作で、急須からお茶を湯呑に注いでいる。もちろん俺の私物だ。
「ちょっと……寒いんだけど」
襖をあけた状態で突っ立っていたので、外の風が入るという文句だろう。
確かに部屋が冷えるのは、自分にとってもよろしくはない。
襖を閉じ視線を戻すと、静かにお茶を啜っている姿がそこにはある。
「何をしている」
理解できなかった。一人でこんな男のいる部屋に入るその無謀さが。
噂を知らない訳ではないだろうに、それなのに接してくるその心が。
「私にだって一人になりたい時はあるの。でも一人ぼっちが続いたら寂しいじゃない」
落ち着き払ったその姿は、こちらまでその雰囲気に呑まれそうになるほどで……
「こっちは、今から仕事だ。出て行ってもらわねば困る」
思わず自制してしまうほどに、引き込まれる。
「えー、それって私がいたら出来ないこと?」
出来なくはない……いやそれはこの女から言葉を取り上げることになるので、やっぱりそれはできないことなんだろう。
「……出来ない」
「嘘ね。今間があった。それに目が泳いだ。
今までのあなたの視線は、射抜くようにじっ、と相手の目を見るものだったのに。
人はね思考する時には、目が上に泳ぐのよ」
反論は……ないというより、出来なかった。
仕方なしに押入れを開け拭い紙を取り出すと、それを湯呑を包むように持ち暖をとっている女の口に突っ込む。
「むぐっ?!……なに!」
奇声を発すると、すぐさまその紙をとり、抗議してくる。
しかし、その抗議から察するに、彼女はまずその動作の意図が知りたいらしかった。
好奇心が旺盛なのだろう。
「一言もしゃべるな……それが条件だ」
その一言で彼女は押し黙った。
やっと取り掛かれる、そう思った瞬間、外から騒がしい足音が聞こえた。
ぱんっ、と勢いよく襖が開かれる。
「姫様を知ら「寒い!!」」
その姫の一喝で事態が収束した。
そろそろと襖を閉め近づいてくる、その兵士二人の口に、俺から奪った紙を突っ込み一言もしゃべるなと命ずる。二人の兵士はその剣幕に押され、コクコクと首を上下に振るばかりだ。
そしてこちらにきらきらした目を向ける。どうやら仕事の内容が気になるらしい。
本当に好奇心旺盛なことだ。
刀を腰から外し置く。
そして自身もまた、紙を口に軽く咥える。
唾が飛んで、その水分で刀が錆びないようにする措置だ。
しゃべらなければ……等と思うが、息を突いたりするだけでも、唾は飛んでしまう。
刀身を鞘から抜く。兵二人を見るが見慣れた風景なのか、警戒はしていないようだった。
一応その場で拭ったが、血糊が残っているとすぐ刀身が脂で白くなる。
今回は、血をそれなりにかぶったので、柄から手入れしなければならない。
拭い紙とともに押入れから取り出した。目釘抜きを使い、目釘を抜く。
刀の柄はこれだけで支えられているため、存外脆い。
振動を少しずつ与え、柄が緩んでくると鍔を押し、茎といわれる刀の下部を引き抜く。
切羽、鍔、ハバキと外し、拭い紙で刀を拭う。これによって、古い油や血糊を落とす。
脂の曇りをとるため、打ち粉を丁寧につけ拭う。
あとは、錆防止の油を均等にのばし、組み直せば出来上がりだ。
柄が緩んでいないか、刃がくすんでいないか、研ぎに出さずに平気か、等々、確認し終えた後、ゆっくりと納刀する。
口から紙をとり周りを見ると、目を見開いて呆然としている姿が目にとまった。
後ろの護衛も何やら驚いているようだ。
特別なことは何もしていないのだが……。
彼女が紙をとる仕草をする。取っていいのかと聞いているようだ。
頷くとすぐ詰め寄られた。
「その刀って有名なものなのかしら!」
「いや無銘だ」
「手際がすごかったわ、いつもこれをしているの?」
「今回は使った後だったから柄までやったが、本来は刃の部分だけだ。手際に関しては知らん」
「使ったって……あなた今日何してたの?」
「魔物の討伐を」
「ふぅぅん、すごいのね」
あまり理解していない風だった。
当然だろうこの箱入りの姫様は魔物を見る機会さえ、あるのだろうか。
後ろの二人に視線をやると、一人は驚いたような顔で、しきりに頭を撫で回している。
もう一人は未だ、口から紙さえ取っていない。
……もういいだろう。そう思い声をかける。
「ところで、お前らは何しに来たんだ?」
その言葉にはっ、とする二人。
「姫様、御傍付きの者が探しておいででした。それと、お出かけの際は、私どもに……」
「分かった分かったって……。またね」
長くなりそうな気配を察したのか、護衛二人をグイグイ外に押しやると、自身も出て行った。
その様子を見ながら、急須に手を伸ばす。
お茶はすっかり冷めてしまっていた。