八年待った幼馴染の蜂蜜王子が、今更『離さない』と言ってきた話
「この香り……懐かしい」
思わず足が止まった。
金曜日の夜、新宿駅の人混みに揉まれながら、私——柚木詩織は呆然と立ち尽くしていた。
都会の排気ガスと香水と疲労が混じり合う空気の中に、ありえない匂いが紛れ込んでいる。干し草の青い香りと、太陽に温められた蜂蜜の甘さ。
八年前、祖母の養蜂場で過ごした最後の夏の記憶。
(馬鹿みたい。疲れすぎて幻覚でも見てるんだ)
今日も残業で終電ギリギリ。黒田部長の怒号がまだ耳の奥でこだましている。「使えない」「給料泥棒」「お前の代わりなんていくらでもいる」。
……分かってる。分かってるよ、そんなこと。
くたびれたスーツの襟元を直して、また歩き出そうとした。
その時。
「やっと見つけた」
低くて、優しくて、どこか懐かしい声。
振り返った瞬間、息が止まった。
人波の中に、一人だけ違う時間を生きているような男が立っていた。日焼けした小麦色の肌。太陽で色素が抜けた茶髪。都会には絶望的に似合わない麦わら帽子を片手に、垂れ目がちの瞳が私をまっすぐ見つめている。
嘘でしょ。
だってこの人は——
「ずっと待ってたんだ、詩織」
蜂蜜王子。
八年前、私がそう呼んでいた幼馴染。日向蓮その人だった。
◇ ◇ ◇
「れ、蓮……?」
声が震えた。懐かしさと困惑と、それから——怒りが、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「なんで。なんで今更……」
八年間、一度も連絡をくれなかったくせに。私がどれだけ手紙を書いたか知らないくせに。返事が来なくて、諦めて、忘れようとして——忘れられなくて。
「今更、なんで会いに来るの」
蓮は困ったように眉を下げて、それでも穏やかに笑った。あの頃と同じ、陽だまりみたいな笑顔で。
「ごめん。説明させてほしい。全部話すから」
彼の指先が私の手に触れた。蜂に刺された小さな傷跡だらけの、ごつごつした手。でも触れ方だけは昔と変わらず優しくて。
干し草と蜂蜜の香りが、また鼻をくすぐった。
「……おばあちゃんの、養蜂場の匂いがする」
「うん。継いだんだ、俺。ばあちゃんの蜂蜜」
継いだ。あの養蜂場を。おばあちゃんが遺した、私たちの夢が始まった場所を。
泣きそうになった。泣いてたまるかと思った。
「……話、聞くだけ」
「うん」
「聞いたら帰るから」
「分かった。待つのは得意だから」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
八年。
本当に、待っていたとでもいうの。
私を——探していたとでも。
◇ ◇ ◇
結局、話を聞いただけでは帰れなかった。
駅前の小さなカフェで向かい合って座り、蓮の話を聞いているうちに、終電はとっくに過ぎていた。
「東京にアンテナショップを開くんだ。ばあちゃんの蜂蜜を、もっとたくさんの人に届けたくて」
蓮はホットコーヒーを両手で包みながら、真剣な目で語った。田舎のおっとりした青年かと思いきや、ビジネスの話になると妙に目が鋭くなる。
「SNSで少しずつ知名度は上がってきた。でも、蜂蜜だけじゃ弱いんだ。だから——」
一拍、間を置いて。
「詩織の作るお菓子と、うちの蜂蜜で店をやりたい」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。
「なに言ってるの。私、お菓子なんて——」
「覚えてるよ。詩織が作ってくれた蜂蜜マドレーヌ、ばあちゃんが『プロになれる』って言ってた。俺も毎日食べたかったもん」
「それ八年前の話でしょ! 今の私はただのOLで、お菓子作りなんて趣味で——」
「趣味でも続けてるんだ?」
「っ……」
図星だった。眠れない夜、こっそり祖母のレシピノートを開いて試作するのが、唯一の癒しだった。誰にも見せたことのない、私だけの時間。
蓮が嬉しそうに笑う。
「やっぱり。詩織は変わってない」
「変わったよ。もう夢見る歳じゃない」
「二十五で何言ってんの」
「現実見てるだけ」
苦い言葉が口をついて出る。夢を見る余裕なんてない。毎日パワハラに耐えて、残業して、ボロボロになって。それが今の私の現実だ。
蓮が急に立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
カウンターに行って何か注文し、すぐに戻ってきた。手には湯気の立つマグカップ。
「はい、蜂蜜レモン。疲れてる時はこれがいいって、ばあちゃん言ってた」
「……え」
受け取ったマグから、懐かしい香りが立ち上る。輪切りのレモンと、とろりと溶けた黄金色の蜂蜜。
一口飲んだ瞬間、涙腺が緩んだ。
(あったかい)
何年ぶりだろう、こんなふうに誰かに何かをしてもらうの。会社では「使えない」と言われ、家では一人で冷凍食品を食べて、誰にも必要とされていないような日々を送ってきた。
「詩織」
蓮の声が、やけに近く聞こえた。
「無理にとは言わない。でも、考えてほしい。俺はずっと待ってるから」
その言葉と一緒に、彼が羽織っていたカーディガンが肩にかけられた。干し草の匂いが染みついた、少し大きすぎる一枚。
「寒そうだったから」
「……ありがと」
ぶっきらぼうに答えながら、カーディガンの襟元を握りしめた。
温かい。柔らかい。懐かしい。
八年間、凍りついていた心の端っこが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
でも——まだ、怖い。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「なんで八年間、連絡くれなかったの」
蓮の表情が、一瞬だけ曇った。
「……それは」
「言えないなら、いい。もう帰る」
立ち上がろうとした私の手を、蓮がそっと掴んだ。
「違う。ちゃんと話す。でも——今日じゃなくていいか? 詩織、すごく疲れてる」
図星すぎて、反論できなかった。
「明日、アンテナショップの準備してる場所に来て。住所送るから。……連絡先、変わってないよな?」
「……変えてない」
八年間、ずっと。もしかしたら連絡が来るかもしれないって、馬鹿みたいに待ち続けて。
蓮がふわりと笑った。
「良かった。じゃあ、また明日」
その笑顔が眩しすぎて、私は逃げるようにカフェを出た。
帰り道、蓮のカーディガンを返し忘れたことに気づいた。
干し草と蜂蜜の香りを纏ったまま、夜道を歩く。
——明日、行ってしまうんだろうな。
自分でも分かっていた。
◇ ◇ ◇
翌日は土曜日だったけれど、私は午前中いっぱい布団の中で悩んでいた。
蓮から送られてきた住所を何度も見返す。都内の小さな商店街の一角。添えられたメッセージは『待ってる』の三文字だけ。
(行ってどうするの。何が変わるの)
枕元に置いた祖母のレシピノートが目に入る。使い込まれて角が丸くなった、宝物のノート。
ページをめくると、おばあちゃんの丸い字で書かれた一文があった。
『詩織ちゃんには才能がある。いつか蓮とお店を開きなさい』
八年前の夏、二人で約束したのだ。「大人になったら、一緒にお店やろう」って。私がお菓子を作って、蓮が蜂蜜を用意して。子供の夢だと思っていた。
結局、私は布団から出た。
◇ ◇ ◇
商店街の一角にあったのは、まだ改装中の小さな店舗だった。
ガラス越しに中を覗くと、蓮が脚立に乗って棚を取り付けている。Tシャツから覗く腕は逞しく、農作業で鍛えられた体だと一目で分かった。
「詩織!」
私に気づいた蓮が、顔を輝かせて降りてくる。子犬みたいな反応に、ちょっとだけ笑ってしまった。
「来てくれたんだ」
「カーディガン返しに来ただけ」
「うん、ありがと。……中、見てく?」
断る理由もなくて、私は店内に足を踏み入れた。
木の香りがする、温かみのある空間。壁には蜂蜜の瓶を並べる棚が設置され、奥には小さなキッチンスペースがあった。
「ここでお菓子も出せるようにしたいんだ。詩織が——」
「私の話は一旦置いて」
遮ると、蓮が黙った。
「昨日の続き。八年間連絡くれなかった理由、聞かせて」
蓮は一瞬躊躇してから、作業机の引き出しを開けた。中から取り出したのは——束になった封筒だった。
「え……?」
「俺が送った手紙。全部戻ってきた」
封筒の束を受け取る。どれも『宛先不明』のスタンプが押されていた。数えきれないほどの——何十通もの手紙。
「詩織が引っ越した後、何度も送った。でも全部返ってきて、住所変えたのかと思った。それでも諦められなくて、ずっと探してた」
「嘘……だってお母さんに聞いたら、『蓮くんから何も来てない』って……」
言いかけて、背筋が凍った。
まさか。
「詩織のお母さんに会ったことがある」
蓮の声が、少しだけ硬くなった。
「三年前、偶然見つけて。でも、『娘に近づくな、過去は忘れさせたい』って言われた」
頭が真っ白になった。
お母さんが。お母さんが、全部——。
「詩織のお母さんを責める気はない。きっと事情があったんだろうし。でも、俺は諦めなかった。詩織を見つけるまで、絶対に」
手紙の束を握りしめたまま、私は震えていた。
八年間、返事が来ないと思っていた。忘れられたと思っていた。捨てられたんだって、自分に言い聞かせて——。
「詩織」
蓮の大きな手が、私の手を包み込んだ。
「泣いてもいいよ」
「泣いてない」
「うん。泣いてない」
嘘つき。ぼろぼろ涙が出てるのに、優しい声でそう言う。
「俺はずっと、詩織だけを探してた。これからもそう。だから——」
言葉を続けようとした蓮を、ドアの開く音が遮った。
「蓮ー、差し入れ持ってきた——って、うわ、これは邪魔した?」
派手なショートカットの女性が、目を丸くして立っていた。
「美月さん」
「っていうか詩織じゃん! え、なんでいるの!?」
「み、美月……?」
元同僚の橘美月。フードライターになった彼女が、なぜここに?
「ちょっと待って情報量多すぎ。蓮が探してた『詩織ちゃん』って、あんたのこと!?」
「探してた……?」
美月が呆れたように笑った。
「この男、私にも協力頼んできたんだよ。『柚木詩織っていうOL知らない?』って。そういうことか〜……で、その蜂蜜王子はいつ告るの?」
「美月さん」
「はいはい、空気読んで帰りまーす。でも詩織、あんたもう会社辞めなよ。あんな所にいたら潰れる」
ドアが閉まり、再び二人きりになる。
気まずい沈黙の中、蓮がぽつりと言った。
「……告白は、もうちょっと後にしようと思ってたんだけど」
「は?」
「詩織が俺のこと信用してくれてからって決めてたのに、美月さんのせいで台無し——」
「ちょっと待って今なんて」
「だから」
蓮の垂れ目が、ふいに真剣な色を帯びた。
「八年間、ずっと好きだった。これからもずっと好きでいる。俺は詩織じゃなきゃ駄目なんだ」
甘い台詞なのに、声は静かで、だからこそ怖いくらい本気だと分かった。
「……返事は、急がない。待つのは得意だから」
その言葉に、また泣きそうになった。
◇ ◇ ◇
月曜日、会社に戻った途端、現実が牙を剥いた。
「柚木ァ! 金曜に頼んだ資料、どこだ!」
始業早々、黒田部長の怒号が響く。脂ぎった顔を紅潮させ、こちらを睨みつけてくる。
「あの、金曜日の時点でメールでお送りしましたが……」
「は? 俺は紙で出せって言ったよな?」
言ってない。絶対に言ってない。でも反論したところで無駄だと知っている。
「すみません、すぐに印刷します」
「ったく、使えねぇな。お前の代わりなんていくらでもいんだよ」
周囲の同僚は見て見ぬふり。誰も助けてくれない。慣れてる。慣れてる、はずなのに——。
『詩織のお菓子が食べたい』
蓮の声がふいに蘇った。
『俺は詩織じゃなきゃ駄目なんだ』
……なんで、今そんなこと思い出すの。
「おい、聞いてんのか!」
「はい、すみません!」
慌てて頭を下げながら、心のどこかで初めて思った。
——ここに、いる意味あるのかな。
◇ ◇ ◇
昼休み、スマホが震えた。
『今日も遅くなる? 無理しないで』
蓮からのメッセージに、不覚にも頬が緩む。
土曜日から毎日、こうして連絡をくれる。特別なことは書いてない。『おはよう』『ご飯食べた?』『今日は暖かいね』。そんなささやかな言葉が、どれだけ救いになっているか。
『たぶん遅くなる。ごめん』
すぐに返信が来た。
『謝らなくていいよ。帰り、店の前通るなら顔出して。蜂蜜レモン用意しとく』
目頭が熱くなった。馬鹿みたい、こんなことで。
「詩織先輩、大丈夫ですか?」
後輩の女の子が心配そうに覗き込んでくる。
「うん、平気。ありがとう」
「黒田部長、最近ひどすぎますよ……。先輩がいなかったら、あの人の仕事回らないのに」
そう言ってくれる子もいる。分かってくれる人はいる。
でも、私はまだ動けない。
——逃げたら負けだと思っていた。ここで踏ん張らなきゃって、ずっと。
でも本当にそうなのかな。
誰に勝ちたいんだろう。何を証明したいんだろう。
スマホを握りしめたまま、私は午後の業務に戻った。
◇ ◇ ◇
結局、その日も終電だった。
ふらふらの足で商店街に寄ると、アンテナショップの明かりがまだ点いていた。
「詩織、お疲れ様」
蓮が笑顔で迎えてくれる。作業着姿のまま、温かい蜂蜜レモンを差し出してくれた。
「……ありがと」
「座んな。顔色ひどいよ」
言われるがまま椅子に座る。蓮が隣に腰掛け、私の顔を覗き込んだ。
「詩織、会社で何かあった?」
「……別に。いつも通り」
「いつも通りがこれなら、いつもがおかしい」
「……」
言い返せなかった。
蓮の手が、そっと私の髪を撫でた。不器用だけど優しい手つき。
「無理しなくていいって、何回も言う。詩織がぼろぼろになるまで働く理由、ある?」
「……逃げたくないの」
「逃げることと、自分を守ることは違うよ」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
「詩織の才能、ここで腐らせてほしくない。俺はずっと待ってる。でも、詩織が壊れるのは待てない」
蓮の目が、真剣だった。いつもの穏やかさの奥に、必死な光がある。
「決めるのは詩織だ。でも、逃げ場所はここにある。それだけは覚えといて」
蜂蜜レモンを一口飲んだ。甘くて、温かくて、涙が出そうになった。
「……考える。ちゃんと、考えるから」
「うん」
蓮が笑った。太陽みたいな、安心する笑顔。
帰り道、空を見上げた。星は見えないけれど、なんだか少しだけ、息がしやすくなった気がした。
◇ ◇ ◇
決意が固まったのは、母に会いに行った日だった。
蓮から聞いた話を確かめたかった。八年間、どうして手紙を隠していたのか。どうして蓮を遠ざけたのか。
母は都内の古いアパートで一人暮らしをしている。インターホンを押すと、疲れた声が返ってきた。
「……詩織? 珍しいわね」
部屋に通されても、母は目を合わせようとしなかった。いつものことだ。
「お母さん、聞きたいことがあるの」
単刀直入に切り出した。もう回りくどいやり取りをする気力がなかった。
「蓮からの手紙、全部隠してたでしょ」
母の肩が、びくりと震えた。
「……あの子に、会ったの」
「うん。全部聞いた」
長い沈黙。それから、母は崩れるようにソファに座り込んだ。
「……ごめんなさい」
初めて聞いた。母の、謝罪の言葉。
「お父さんの借金のせいで夜逃げして、あなたには幸せな思い出を忘れてほしかった。現実を見てほしかった。あの子と一緒にいたら、あなたは夢ばかり見て……」
「それは、お母さんが決めることじゃないでしょ」
声が震えた。怒っているのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。
「私は八年間、蓮に捨てられたと思って生きてきた。返事が来ないのは、私なんかどうでもよくなったからだって。お母さんのせいで、私——」
言葉が詰まる。涙がぼろぼろ溢れた。
母も泣いていた。しわの刻まれた顔を歪めて、嗚咽を漏らしていた。
「分かってる……私が間違ってた。でも、あの時はそれしか考えられなかったの。あなたを守りたかった。傷つけたくなかった。それなのに……」
「守るって、こういうこと? 私の選択肢を奪うことが?」
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
母が繰り返す謝罪を聞きながら、私は自分の中で何かが変わるのを感じていた。
許せない。簡単には許せない。
でも——
「お母さん」
涙を拭いて、私は言った。
「私、会社辞める。蓮と一緒にお店をやる」
母が顔を上げた。驚きと、それから——何か別の感情。
「それが、あなたのやりたいこと?」
「うん。ずっと夢だったの。お母さんが嫌がってた、現実見てない夢。でも、私はそれでいい」
母の目から、また涙が溢れた。
「……そう。そう……。分かった」
立ち上がり、部屋の奥へ消えた母が戻ってきた時、手には古びた封筒の束があった。
「これ、全部あの子から来た手紙。捨てられなくて……」
受け取った手紙は、ずしりと重かった。八年分の、蓮の想い。
「お母さんを許すかどうかは、まだ分からない」
正直に言った。
「でも、前に進む。私は私の人生を生きる」
母がうなずいた。泣きながら、でもどこか安心したような顔で。
「……頑張りなさい。あなたのお菓子、昔から美味しかったから」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
◇ ◇ ◇
家を出て、すぐに蓮に電話した。
『詩織? どうした?』
「私、やる。お店、一緒にやる」
電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。
『……本当?』
「うん。会社、辞める。蓮の蜂蜜で、私、お菓子作る」
沈黙。それから、震える声が返ってきた。
『ありがとう。ずっと、待ってた』
泣いてるのかもしれない。蓮も、私も。
「……明日、会える?」
『当たり前だろ。どこにでも行くよ。詩織のためなら』
電話を切ってから、空を見上げた。
八年ぶりに、前を向いて歩けるような気がした。
◇ ◇ ◇
退職届を出す日が来た。
月曜日の朝、いつもより少しだけ背筋を伸ばして会社に向かった。鞄の中には退職届と、これまでのパワハラを記録したメモ。美月から紹介された弁護士にも相談済み。準備は整っている。
「黒田部長、お時間よろしいですか」
声をかけると、黒田は露骨に嫌な顔をした。
「なんだ、忙しいんだが」
「退職届です。それと——」
深呼吸。足が震えそうになるのを堪える。
「これまでのパワハラ行為について、記録があります。人事部に提出させていただきます」
黒田の顔が、みるみる紅潮した。
「は? パワハラ? 何言ってんだお前」
「日時と内容、すべて記録してあります。録音もあります」
「っ……! ふざけんな! お前みたいな無能がいなくなって清々するわ!」
怒鳴り声が響く。周囲の視線が集まる。でも、もう怖くなかった。
「お世話になりました」
頭を下げて、人事部へ向かう。背中に黒田の罵声が飛んできたけれど、振り返らなかった。
——終わった。
人事部での手続きを終えて会社を出ると、空が青かった。
涙が出た。悔しさじゃない。解放された安堵で。
スマホを取り出し、蓮に連絡する。
『終わった。辞めてきた』
すぐに返信が来た。
『お疲れ様。よく頑張った。店で待ってる』
添えられたスタンプは、蜂のキャラクターがハートを飛ばしているもの。
笑ってしまった。この人、本当にかわいいところがある。
◇ ◇ ◇
アンテナショップに着くと、蓮と一緒に美月がいた。
「詩織! やったじゃん!」
美月が駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「あんたが辞めたって噂、もう会社中に広まってるよ。黒田の奴、人事に呼び出されたって」
「え、もう?」
「あいつ、詩織だけじゃなくて他の子にもやらかしてたみたい。詩織の告発が引き金になって、次々証言出てきてるらしい」
胸がすっとした。自分だけのためじゃなく、他の誰かの助けにもなれたなら。
「美月、ありがとう。弁護士さん紹介してくれて」
「いいってことよ。それより——」
美月が蓮の方を見てにやりと笑った。
「この人、詩織が辞めるって決めてから、ずーっとそわそわしてたよ。『詩織大丈夫かな』『怖い思いしてないかな』って」
「美月さん」
蓮が照れたように目を逸らす。耳が赤い。
「詩織ちゃんの前で見せる顔と、いない時の顔、全然違うからねこの男。詩織いない時、めちゃくちゃ心配性で過保護で」
「そ、そうなんだ……」
「待ってる間もずっとスマホ握りしめてたし。好きすぎでしょ」
「美月さん、もうその辺で」
蓮が本気で困った顔をしている。でも、否定はしない。
——好き、か。
私も、なのかな。この温かい気持ちは。
「詩織」
蓮が私の前に立った。大きな体が日差しを遮って、影になる。
「今日からここが、詩織の場所だ。好きなだけお菓子作っていい。俺が全力でサポートする」
「……うん」
「あと、これ」
差し出されたのは、新品のエプロン。蜂蜜色の、可愛いやつ。
「お揃いにした。俺のはこっち」
蓮が着ているのは同じデザインの、少し大きいサイズ。
「……ばかみたい」
「嫌だった?」
「ううん。……嬉しい」
素直に言えた。蓮の前だと、不思議と素直になれる。
美月が後ろで「青春かよ」と呟いているのが聞こえたけど、気にしないことにした。
新しい生活が、始まる。
◇ ◇ ◇
アンテナショップのオープンまで、あと一週間。
私は毎日キッチンに立ち、試作を繰り返していた。蜂蜜マドレーヌ、蜂蜜のパウンドケーキ、蜂蜜レモンのタルト。祖母のレシピノートを片手に、蓮の蜂蜜の風味を最大限に活かすレシピを探る。
「詩織、これ試食」
蓮が差し出したマドレーヌを一口かじる。
「……ちょっと甘すぎるかも。蜂蜜の量、5グラム減らしてみる」
「分かった。俺も手伝う」
「蓮は発送作業あるでしょ。ネット注文、溜まってるって言ってたじゃん」
「詩織の手伝いの方が大事」
「駄目。ちゃんとお店のこと優先して」
「……はい」
素直に引き下がる蓮がちょっと面白くて、笑ってしまった。この人、私に対してだけ妙に従順だ。
そんな穏やかな日々に、影が差したのはオープン三日前のことだった。
◇ ◇ ◇
「蓮くん、これ見て」
店の手伝いに来ていた翔太が、スマホを差し出した。神崎翔太——蓮の幼馴染で、近くで花屋を営んでいる軽薄そうだけど頼れる男。
「なんだこれ……」
蓮の声が低くなった。
画面を覗き込むと、SNSに悪意のある書き込みが並んでいた。
『【拡散希望】インチキ蜂蜜店に注意』
『産地偽装の疑い』
『オープン前から胡散臭い』
すべて匿名アカウント。でも、書き込みの内容は明らかに店の内情を知っている人間のものだった。
「誰が……」
私は心当たりがあった。
黒田。
退職後も何度か嫌がらせの電話があった。「お前のせいで会社にいられなくなった」「覚えてろよ」。気にしないふりをしていたけれど——まさか、ここまで。
「詩織、心当たりある?」
蓮の声は穏やかだったけれど、目が笑っていなかった。
「……たぶん、前の会社の上司。私が告発したせいで、降格になったって聞いた」
「そいつの名前は」
「蓮、まさか直接——」
「教えて」
初めて聞く、蓮の冷たい声。普段の陽だまりみたいな温かさが嘘みたいに消えている。
「待って、蓮。下手に動いたら相手の思うつぼだよ」
翔太が止めに入った。
「翔太の言う通りだ。俺たちは正攻法で行く」
蓮が深呼吸をして、冷静さを取り戻す。
「詩織、オープン日にメディアの取材が入ってるんだろ?」
「うん、美月が手配してくれて……」
「なら、それまで淡々と準備を進める。SNSの誹謗中傷は記録して、必要なら法的手段を取る。詩織を傷つけた奴は、絶対に許さないけど——今は詩織との約束を果たすのが先だ」
蓮の手が、私の手を握った。温かい。
「大丈夫。俺がいる」
「……うん」
怖くないと言ったら嘘になる。でも、一人じゃないと思えた。
オープン日が近づいていた。
◇ ◇ ◇
オープン当日の朝は、気持ちいいほどの快晴だった。
店内には蜂蜜の瓶が整然と並び、私が焼いたお菓子がショーケースに収まっている。カウンターには季節の花——翔太の花屋から仕入れたものだ。
「緊張してる?」
蓮が隣に立った。
「……ちょっとだけ」
「俺もだよ。でも、詩織のお菓子を食べた人は絶対笑顔になる。自信持って」
「……ありがと」
開店と同時に、お客さんが入ってきた。SNSで話題になっていた効果か、予想以上の人数だ。美月が呼んだテレビの取材クルーも到着している。
「これが噂の蜂蜜マドレーヌですか! いただきまーす……美味しい!」
リポーターの女性が顔を輝かせる。カメラが回る中、私は黙々とお菓子を包んでいた。
その時——
「おい、ここか!」
怒鳴り声と共に、ドアが乱暴に開いた。
黒田だった。
スーツはよれよれ、目は血走っている。明らかに正気じゃない様子で、店内に踏み込んできた。
「柚木! お前のせいで俺の人生メチャクチャになったんだ! こんな店、潰してやる!」
店内が凍りついた。お客さんたちが悲鳴を上げ、後ずさる。
——最悪のタイミング。取材のカメラも、まだ回っている。
「詩織」
蓮が私の前に立った。壁になるように、黒田との間に入る。
「あなたが詩織を苦しめてた人ですか」
声は穏やかだった。でも、背中から感じる空気が違う。静かな怒りが、肌を刺すように伝わってくる。
「あぁ? お前誰だよ」
「詩織の——いや、まだ言う資格ないか。とにかく、詩織を傷つけることは許さない」
「はぁ? 許さないって何様だよ! こいつが俺の告発したせいで——」
「告発されるようなことをしたのは、あなたでしょう」
蓮の声が、すっと冷たくなった。
「詩織は間違ったことをしていない。あなたが自分の行動の結果を受け入れられないだけだ」
「黙れ!」
黒田が掴みかかろうとした瞬間、翔太が素早く間に入った。
「はいはい、そこまで。暴力沙汰になったら警察呼びますよー」
「うるさい! どけ!」
「いやー、カメラ回ってますけど大丈夫ですか? 全国放送っすよこれ」
翔太が軽い口調で指差す。黒田がようやく、周囲の状況に気づいた。スマホを構えた客。テレビカメラ。SNSのライブ配信をしているらしいインフルエンサー。
すべてが、黒田の醜態を記録していた。
「っ……!」
黒田の顔が、青ざめた。
「あの、これ生配信中なんですけど」
美月がスマホを掲げた。既に数千人が視聴している。
「『パワハラ上司が被害者の新店舗に乗り込んで暴れる』って、なかなかのネタですよね。拡散されますね確実に」
「ま、待て、それは——」
「遅いっすよ。もうバズってますよ」
翔太がにやりと笑う。
黒田が愕然と立ち尽くす中、蓮が静かに言った。
「もう関係ない人間に構う時間はない。俺は詩織との約束を果たすので忙しいから」
完全に見下した言い方。でも、声は淡々としている。怒りすら見せない。それが逆に、致命的だった。
『相手にする価値もない』——そう言われているのと同じだった。
黒田は何か言いかけて、でも何も言えず、逃げるように店を出て行った。
数秒の沈黙。
そして——
「……っ」
私は泣いていた。安堵と、解放感で。
「詩織」
蓮が振り返り、私を抱きしめた。店内で、カメラの前で、堂々と。
「もう大丈夫。終わったよ」
「うん……うん……」
嗚咽が止まらない。でも、温かかった。安心だった。
美月が「いいシーン撮れた」とこっそりガッツポーズしているのが見えたけど、今は気にしないことにした。
◇ ◇ ◇
騒動の後、取材は続行された。むしろ「リアルなドラマ」として、より注目を集めることになった。
黒田の醜態はネットで拡散され、彼の過去のパワハラ行為も次々と暴露された。完全な社会的失墜。因果応報というやつだ。
私は——ようやく、前を向けた気がした。
◇ ◇ ◇
その日の夜、店を閉めた後。
私と蓮は、店内の片隅で蜂蜜レモンを飲んでいた。
「今日、ありがとう。守ってくれて」
「当たり前のことしただけだよ」
「当たり前じゃないよ。私、ずっと……一人で戦わなきゃいけないと思ってた」
蓮が私の顔を見た。垂れ目の優しい瞳が、月明かりで光っている。
「詩織はもう一人じゃない。俺がいる。これからも、ずっと」
「……蓮」
告白の返事をまだしていないことに、ふと気づいた。蓮は待ってくれている。私が答えを出すまで、ずっと。
「あのね、蓮」
「うん」
「私も、蓮のことが好き」
言った瞬間、心臓がばくばくした。顔が熱い。こんなの、八年前に戻ったみたいだ。
蓮は一瞬、固まった。
そして——泣き出した。
「え、蓮?」
「ごめん、嬉しすぎて」
大きな体が震えている。涙を拭おうともせず、ただぼろぼろ泣いている。
「八年、待った甲斐があった。ずっと、ずっと好きだった。詩織だけだった」
「……私も。返事が来なくて諦めようとしたけど、忘れられなかった」
「もう離さない。絶対に」
蓮の腕が回された。強く、でも優しく。
干し草と蜂蜜の香りに包まれながら、私は目を閉じた。
——ああ、これがずっと欲しかったものだ。
帰る場所。私を待っていてくれる人。
あの夏の続きが、今始まる。
◇ ◇ ◇
——一年後。
私たちは祖母の養蜂場の隣に、小さなカフェを開いた。
名前は『Honey Hana』。おばあちゃんの名前をもらった。
店内には干し草と蜂蜜の香りが満ちている。窓からは蜂が飛び交う養蜂場が見えて、季節の花が風に揺れている。
看板メニューは蜂蜜を使ったスイーツ。マドレーヌ、パウンドケーキ、タルト。すべて祖母のレシピをベースに、私がアレンジしたもの。
「詩織ちゃん、これ今日のおすすめ? めちゃくちゃ美味しい!」
美月が試食しながら叫ぶ。フードライターとして取材に来てくれたのだ。
「蜂蜜のブリュレ。蓮が今年採れた蜂蜜、特に出来がいいから」
「はー、のろけかよ」
「のろけじゃないって」
「この一年ずっと見せつけられてるこっちの身にもなってよ」
翔太が呆れ顔で笑う。花屋の仕事帰りに、よく店に寄ってくれるようになった。
「そういう翔太は彼女できたの?」
「……それは、まあ、今いい感じの人が」
「え、誰々!?」
美月が食いつく。翔太が慌てて話を逸らす。
そんないつもの光景を眺めながら、私は幸せを噛みしめていた。
◇ ◇ ◇
閉店後。
蓮が「ちょっと外出よう」と言った。養蜂場の方へ。
夕暮れ時、黄金色の光が畑を染めている。蜂たちはもう巣に帰り、静かな時間が流れていた。
「ここ、覚えてる?」
蓮が指差した場所。養蜂場の端にある、古い桜の木。
「……うん。おばあちゃんと三人で、よくお茶した場所」
「あの夏、ここで約束したんだ。大人になったら一緒にお店やろうって」
「覚えてる」
蓮が私の手を取った。まっすぐに目を見つめて。
「あの時、もう一つ約束しただろ。『ずっと一緒にいる』って」
「……うん」
「今度は俺が、ちゃんと約束を守りたい」
ポケットから取り出されたのは、小さな箱。
開くと、そこには——蜂蜜色に輝く、シトリンの指輪があった。
「詩織。俺と結婚してください」
呼吸が止まる。涙が溢れる。
「……うん。するに決まってる」
「ほんとに?」
「八年も待たせといて、今更逃がさないよ」
蓮が笑った。泣きながら。
「ずっと一緒にいるって、あの夏約束しただろ。今度は俺が、君を絶対離さない」
指輪がはめられる。蜂蜜みたいな温かい色が、私の指で光った。
蓮の腕の中で、私は泣いた。嬉しくて、幸せで、愛されている実感で。
干し草と蜂蜜の香りが、二人を包んでいた。
——あの夏から、九年。
私たちはようやく、帰る場所を見つけた。
ここが、私たちの始まりで、これからで、永遠に帰る場所。
蜂蜜色の、約束の場所。
【完】




