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午前三時の病院で、永遠に

作者: しおり 雫

その異変に気づいたのは、夜勤明けの廊下でだった。


私は聖陵病院の看護師として五年目になる。

四階の内科病棟を担当していて、夜勤は月に八回ほど。

慣れた仕事だった。少なくとも、あの日までは。


「また、あの夢を見たんです」


最初に訴えてきたのは四〇二号室の老婦人、斎藤さんだった。

糖尿病で入院して三週間。穏やかな性格で、看護師たちとも仲が良かった。


「どんな夢ですか?」


私は彼女のベッドサイドに座り、バイタルチェックの手を止めて耳を傾けた。


「古い町なんです。誰もいない、静かな町。建物はあるのに、人がいない。

ただ、子供の声だけが聞こえるんです。『起きて』って。『忘れないで』って」


その日、同じようなことを四〇五号室の山田さんも、四一〇号室の橋本さんも訴えた。


全員が、同じ町の夢を見ていた。

誰もいない古い町。静止した風景。そして、子供の声。


私は記録ノートにそれを書き留めたが、特に深刻には受け止めなかった。

病院という閉鎖空間では、患者同士が無意識に影響し合うことはよくある。

集団心理かもしれない。


だが翌日、さらに三人が同じ夢を報告した。


そしてそれから三日後。

私自身が、その夢を見た。




夢の中の町は、驚くほど静かだった。


古い商店街のような場所だった。

看板の文字はかすれ、窓ガラスには薄く埃が積もっている。

アスファルトには草が生え、電柱が規則正しく並んでいた。


空は灰色で、風はなかった。


私は町を歩いた。足音だけが響く。誰もいない。

鳥も、虫も、車も。ただ建物だけが、まるで舞台装置のように立ち並んでいる。


そのとき、声が聞こえた。


「ねえ、起きて」

子供の声だった。


振り返ったが、誰もいない。


「忘れないで」

今度は別の方向から。やはり、姿は見えない。


私は歩き続けた。町は同じ風景の繰り返しだった。

角を曲がるたび、同じ商店街に戻る。時計塔があった。

針は午前三時を指して止まっていた。


「ねえ、眠らないで」

複数の声が重なった。


私は目を覚ました。


病院の仮眠室だった。時計を見る。午前三時ちょうど。

汗が額に張り付いていた。




翌朝、私は主任の田中さんに報告した。


「実は今日、患者さんたちが見ている夢と、同じものを見ました」

田中さんは眉をひそめた。


「あなたもですか。実は、私も昨夜……」


私たちは顔を見合わせた。


その日の午後、病棟の時計がすべて午前三時で止まっていることに気づいた。


壁掛け時計も、患者のベッドサイドの時計も、ナースステーションのデジタル時計も。すべて。


「電池を替えましょう」


田中さんはそう言ったが、電池を替えても時計は動かなかった。

新しい時計に替えても、しばらくすると午前三時で止まる。


誰もそれ以上、時計について話さなくなった。


その夜、私は廊下を歩いていて、ふと足を止めた。

廊下の突き当たり、非常灯の薄明かりの中に、小さな影が映っていた。


子供の影だった。


近づいてよく見ると、そこには誰もいなかった。


私は近づいた。影は消えなかった。光源のない影。

床に張り付いているように、ただそこにあった。


翌日、その影は三つに増えていた。

そして四つ。五つ。


廊下を歩くたび、子供の影が増えていく。


誰も、それについて口にしなかった。見えているのに、見ていないふりをしていた。



一週間後、私は自分の影が二つあることに気づいた。


それは昼休み、中庭のベンチに座っていたときだった。

足元を見ると、私の影が二つ、微妙にずれて重なっていた。


片方は私の動きに合わせて動く。


もう片方は、少し遅れて動いた。


私は立ち上がった。影も二つ、立ち上がった。


片方は普通の陰。

もう片方は、まるで別の意志を持っているかのように、わずかに動きが異なる。


私は走った。影も走った。

だが、片方の影は私より少し遅く、まるで私を追いかけているように見えた。


病棟に戻り、洗面所の鏡を見た。

鏡には当たり前に私が一人だけ映っていた。


しかし足元には、二つの影があった。




その夜、私はまた夢を見た。


同じ町だった。


だが今回は、町が少し変化していた。


建物の配置が、聖陵病院の廊下に似ていた。

商店街のはずなのに、どこか病院の構造と重なる。

角を曲がると、なぜかナースステーションのような場所があった。


時計の針は、やはり午前三時を指していた。


「ねえ」


声が近くで聞こえた。


振り向くと、子供がいた。


七、八歳くらいの女の子。古い白いワンピースを着ていた。

顔は見えない。光が当たらないように、輪郭だけがぼやけている。


「忘れないで」

子供は言った。


「何を?」


私は尋ねた。


「この町を。私たちを」


「あなたたちは誰?」


「覚えていてくれる人」


子供はゆっくりと私に近づいた。


「でも、みんな忘れていく。眠ったら、忘れる。だから、起きていて」


「なぜ?」


「忘れられたら、消えるから」


子供の影が伸びた。いや、影が増えた。

一つの体から、複数の影が放射状に広がっていく。


「町も、私たちも、消える。誰も覚えていなかったら」


私は後ずさった。


「だから、あなたが覚えていて」


子供が手を伸ばした瞬間、私は目を覚ました。




翌朝、病院が変わっていた。


いや、変わったわけではない。しかし、どこか違う。


廊下が以前より長く感じる。曲がり角の位置が微妙にずれている。

四〇二号室に行こうとすると、いつもより多く角を曲がらなければならなかった。


「おかしいですね」

田中さんが呟いた。


「何がですか?」


「この廊下、こんなに長かったかしら」


私たちは顔を見合わせた。

その日の午後、知らない院内放送が流れた。


『ねえ、起きて』


子供の声だった。


『忘れないで。ねえ、起きて』


放送は繰り返された。

ナースステーションの電話が鳴り、私は受話器を取った。


『眠らないで』


子供の声が聞こえた。


私は受話器を置いた。

周りを見回すと、他の看護師たちも同じように受話器を置いたところだった。


誰も何も言わなかった。




廊下の影が増え続けていた。


子供の影だけではない。大人の影も、車椅子の影も、ベッドの影も。

本来そこにないはずのものの影が、床や壁に貼り付いている。


そして私の影は、完全に二つになっていた。


片方は私に従う。


もう片方は、私から少しずつ離れ始めていた。


ある晩、私はもう一つの影が、廊下の先で立ち止まっているのを見た。

私は歩いているのに、影は動かない。


私が近づくと、影は逃げるように曲がり角を曲がった。


私は追いかけた。


廊下は延々と続いていた。同じ風景が繰り返される。

四〇二号室、四〇五号室、四一〇号室。

また四〇二号室、四〇五号室、四一〇号室。


無限ループしている。


時計はすべて、午前三時を指していた。


「そこにいるのは誰?」


私は呼びかけた。


影が立ち止まった。

ゆっくりと振り返る。


それは私だった。


いや、私の形をした何かだった。

輪郭だけが私で、中身は空洞のように見えた。


「あなたは誰?」

私は尋ねた。


もう一人の私は答えなかった。ただ、ゆっくりと口を開いた。


『覚えていて』


子供の声だった。

私の口から、子供の声が出ていた。


『私たちを忘れないで』




翌日、患者が一人減っていた。


斎藤さんがいなくなっていた。


カルテを確認しても、記録がない。

四〇二号室は空室になっていた。まるで最初から誰もいなかったかのように。


「斎藤さんは?」

私は田中さんに尋ねた。


田中さんは不思議そうな顔をした。


「斎藤さん? 誰ですか、それ」


「四〇二号室の患者さんです」


「四〇二号室は、ずっと空いてますよ」


私は記録を探したが、斎藤さんの名前はどこにもなかった。


その日の夕方、山田さんも消えた。


翌日、橋本さんも。


患者が一人ずつ、記憶ごと消えていく。

そして廊下の影が、その分だけ増えていく。



私は理解し始めていた。


この病院は、夢に侵食されている。

夢の町と、現実の病院が、融合しつつある。


そして私たちは、町の記憶として取り込まれようとしている。


忘れられた町。


誰も覚えていない場所。


その町が、覚えていてくれる人を求めている。


眠らない子供たちは、町の記憶そのものだ。彼らは実在しない。


存在したかもしれないし、存在しなかったかもしれない。


ただ、覚えていてほしいという願いだけが残っている。


そして今、私たちがその代わりになろうとしている。



その夜、私は病院を出ようとした。


玄関に向かって歩いたが、いつまで経っても玄関にたどり着かない。

廊下が無限に続いている。


諦めて振り返ると、そこは四階の病棟だった。

私は閉じ込められている。


ナースステーションに戻ると、田中さんがいた。


いや、田中さんの形をした何かがいた。


彼女の影は三つあった。


「もう、出られないんですね」


私は言った。


田中さんは答えなかった。ただ、微笑んだ。

その笑顔は穏やかで、どこか諦めたような静けさがあった。


その夜、私は最後の夢を見た。


町は完全に聖陵病院と同じ構造になっていた。

廊下を歩くと、たくさんの子供たちがいた。


みんな、影だけの存在だった。


「ありがとう」

子供たちが言った。


「覚えていてくれて」


私は立ち止まった。


「私は、何を覚えているの?」


「この場所を。私たちを」


「でも、あなたたちは誰?」


「忘れられた人たち」


子供の一人が私の手を取った。

影の手は冷たく、同時に温かかった。


「あなたも、これから忘れられる」


「そして、覚える側になる」


私は理解した。

私は患者として入院していた。


いつからか分からない。


しかし私は、ずっとここにいた。


看護師だと思っていたのは、夢だったのかもしれない。

あるいは、その境界がもう曖昧になっているのかもしれない。


時計は午前三時を指している。


永遠に。




目を覚ますと、私は廊下に立っていた。


聖陵病院の四階。


いや、それは病院なのか、町なのか。

もう区別がつかない。


私の影は四つになっていた。

それぞれが少しずつ違う方向を向いている。


院内放送が流れた。


『ねえ、起きて。忘れないで。ねえ、起きて』


それは私の声だった。

私は廊下を歩き始めた。


四〇二号室、四〇五号室、四一〇号室。


また四〇二号室、四〇五号室、四一〇号室。


永遠に続く廊下。


そして、新しい患者がやってくる。


彼らはやがて、同じ夢を見るだろう。


古い町の夢を。

誰もいない、静かな町の夢を。


そして私たちは囁き続ける。


忘れないで。


眠らないで。


ねえ、起きて。


廊下の影は、今日も増え続けている。

時計の針は、午前三時を指したまま。


私は、ここにいる。


いや、私がいたのか、いなかったのか。

それすら、もう分からない。


ただ、覚えていてほしい。


この場所を。

この静けさを。

この、終わらない廊下を。

影が二つある病院を。


そして私は今日も、新しい患者を待っている。


白衣を着て、微笑んで。


「また、あの夢を見たんです」


そう言われたら、私は答えるだろう。


「どんな夢ですか?」


そして、すべてが繰り返される。


午前三時の病院で。


永遠に。

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