赤き静寂(レッドゾーン)
灰の平原を進んでから、数時間経っていた。
未来組26人は、崩れた遺跡をシェルターにし、わずかな水と食料を分け合いながら、慎重に前進を続けていた。
斎藤優里が先頭で地図のような石板を握り、
「この先、赤く塗られた領域があるみたい。『近づくな』って警告だけど……帰還のヒントがあるかも!」
とみんなを鼓舞する。
藤原剣が剣道で鍛えた体を活かして周囲を警戒し、
「俺が先に行く。みんな、固まってろ。」
白峰聖先生は生徒たちの顔を一人一人見て、
「無理はしないで。みんなの安全が第一よ。」
と穏やかに諭す。
しかし、進むにつれ、世界は変わっていった。
風が止んだ。
音が、消えた。
足音すら、灰の地面に吸い込まれるように聞こえなくなる。
静けさが、異様なほどに強調された。
息をする音だけが、耳に響く。
誰も言葉を発さない。
ただ、腐った金木犀の香りが、ますます濃くなった。
「……なんか、変じゃない?」
高橋澪が小さく呟いた。声が、妙に大きく響く。
突然──
地面が震えた。
灰の中から、影が湧き上がった。
狼のような体躯に、猿のような敏捷さ。
手は刃物の形状──鋭く曲がった氷の爪。
赤い瞳が輝き、無数に、群れで襲いかかってきた。
「化け物!?」
剣が叫び、すぐに構える。
生徒たちの悲鳴が上がる。
「きゃあ!」「逃げて!」「助けて……!」
怯える生徒たちが後ずさり、転ぶ者もいる。
山田詩織は震えながら「やっぱり来るべきじゃなかった……!」と泣き出す。
小林颯は「落ち着けよ!」と言いながらも、顔が青ざめている。
白峰先生は生徒たちを背に庇い、
「みんな、私の後ろに! 落ち着いて!」
と必死に声を張る。
藤原剣と伊藤蒼が前に出て、棍棒代わりの石や枝で応戦。
斎藤優里は「みんな下がって! 剣くん、蒼くん、任せた!」と指示を飛ばす。
佐藤蓮と松本翔が怯える生徒をまとめ、必死に化け物を遠ざけようとする。
化け物の刃物のような手が、空を切り裂く。
一人が傷を負い、血が灰に染まる。
「くそっ……どうすれば……!」
剣が歯を食いしばる。
その時──
どこからか、馬の足音が無数に聞こえてきた。
ドドドドド……!!
地平線から、鎧を着た兵士たちの群れが現れた。
灰のマントを翻し、剣を構えた騎兵隊。
先頭の兵士が馬を駆り、化け物の頭を一閃で弾き飛ばす。
剣閃が灰を切り裂き、化け物たちが次々と倒れていく。
兵士たちは無言で、機械のように正確に化け物を制圧した。
数分で、群れは全滅。
灰の中に、化け物の残骸だけが残った。
兵士の一人が馬を止め、未来組に向き直る。
兜の下から、冷たい声が響いた。
「……異邦人か。
レッドゾーンに、何の用だ。」
優里が息を整え、前に出る。
「私たち……突然ここに飛ばされて……助けてください!」
兵士は兜を外さず、静かに言った。
「助ける……か。
お前たちは、召喚された者だな。」
風が吹き、灰の花が舞った。
静けさが、再び戻ってきた。
だが、それはもう、以前のような静けさではなかった。
第2章 赤き静寂(後半)
「隊長!
方角、距離ともに——女王陛下が言及していた“者たち”の可能性があります!」
騎兵の一人が声を上げた。
先頭にいた兜の兵士が、低く、冷えた息を吐く。
その動作だけで、空気が一段階張り詰めた。
「……そうか」
感情のない声だった。
兵士は馬を降り、ゆっくりとこちらを振り返る。
兜の奥から覗く視線は、まるで人数を数える道具のように無機質だ。
「我が名は――ファルラス・ゲルツ」
その名を告げるだけで、周囲の兵士たちが微かに背筋を正した。
「カルミア・シャロム王国騎士団所属。
時間が惜しい」
短く、断定的な口調。
「死にたくなければ、ついて来い」
それ以上の説明はなかった。
拒否権など、最初から存在しない。
未来組26人は、互いに顔を見合わせる暇すらなく、
ただ黙ってその背中を追うしかなかった。
⸻
数十人の騎士に囲まれ、ゆっくりと森へと足を踏み入れる。
灰の平原は次第に後ろへ遠ざかり、
視界は少しずつ、色を取り戻していった。
枯れ果てた大地は終わり、
木々には葉があり、土には湿り気がある。
風が、冷たさではなく、
生命の匂いを運んでくる。
気づけば、あれほど鼻を刺していた
腐った金木犀の甘ったるい香りは、どこにもなかった。
代わりにあるのは、
土、草、木、そして水の——
自然が生きている証の香り。
だが、それでも。
誰も安堵はしなかった。
足取りは重く、
肩は落ち、
呼吸は浅い。
恐怖と緊張が、体力を容赦なく削っていた。
やがて、森を抜けた先に――
それは、突然現れた。
石造りの街並み。
どこか旧ヨーロッパを思わせる重厚な建築に、
しかし所々に、明らかに近未来的な技術が混在している。
街の中央には、
巨大な葵色の水晶が浮遊していた。
否、浮いているというより——
拘束されている。
水晶を固定するかのように、
無数の鎖のような紐が、四方から伸びている。
遠目でさえ、圧倒的な存在感。
近づけば、その大きさは想像を超えるだろう。
「……でか……」
誰かが、思わず呟いた。
その声は、すぐに街のざわめきに吸い込まれた。
人がいる。
確かに、文明がある。
それでも、
未来組の誰一人として、笑顔にはならなかった。
助かった、とは思えなかった。
⸻
私たちは皆、
それなりに——いや、確実に、疲弊していた。
体力だけじゃない。
精神が、削られていた。
この世界は、
優しく迎え入れてくれる場所ではない。
それだけは、もう分かっていた。
そして。
誰もまだ気づいていなかった。
この街こそが、
**“帰還への希望”と同時に、
“未来組が本当に壊れ始める場所”**だということを。
街並みが見えてからも、
騎士たちは意外なほど乱暴には扱わなかった。
無理に急かすこともなく、
道中では数度、短い休憩さえ挟んでくれた。
水を与えられ、
足を止める時間をもらい、
怪我人がいれば簡単な処置も施される。
その事実が、かえって未来組の胸に
言いようのない不安を残していた。
「……本当に、敵じゃないのかな」
誰かが小さく呟く。
答えは、誰も持っていなかった。
⸻
やがて、一行は街の門の前へと辿り着く。
高い石壁。
重厚な門扉。
その上には、王国の紋章が刻まれていた。
先頭の騎士――ファルラス・ゲルツが馬を止め、振り返る。
「ここで待機しろ」
それだけを告げると、彼は一人、門へと向かった。
門番との短い会話。
低い声。
表情は兜に隠れて見えない。
未来組は、ただ立ち尽くす。
不安は消えない。
緊張も、ほどけない。
誰もが、
「この門をくぐったら、何かが決定的に変わる」
そんな予感を抱いていた。
⸻
程なくして、ゲルツが戻ってくる。
「……許可が降りた」
それだけ言うと、振り返りもせず歩き出した。
「行くぞ」
短い言葉だった。
未来組は、黙ってその後に続く。
⸻
門をくぐった瞬間、
世界の空気が一変した。
街の中は、活気に満ちていた。
人々の声。
笑い声。
金属が触れ合う音。
布が風に揺れる音。
同じ人種だろうか。
それとも、違うのか。
出店が並び、
見たこともない道具や食べ物が並んでいる。
小説やアニメでしか見たことのないような服装。
剣を下げた者、杖を持つ者。
いわゆる「冒険者」と呼ばれる存在だろうか。
その賑わいは、
張り詰めていた未来組の心を、
ほんの少しだけ、和らげてくれた。
「……街、普通だね」
誰かがそう言って、
安堵したように息を吐いた。
⸻
その時。
担任の白峰聖が、
小さく、しかしはっきりと口を開いた。
「……私たち、どうなるんですか」
騎士の一人が、肩をすくめて答える。
「兵士が乱暴なんてことはしない。
そこは安心してくれ」
少し、軽い調子だった。
「まあ、どうなるかって言うと――」
だが、その言葉は途中で遮られた。
「どうなるかは」
ファルラス・ゲルツが、低く言い切る。
「女王陛下の意思次第だ」
それ以上、何も付け加えない。
兵士たちは、どこか呆れたような顔で、
未来組をちらりと見た。
それは同情でも、敵意でもない。
――結果を知っている者の目だった。
未来組の胸に、
小さな冷たいものが落ちる。
この街は、
守ってくれる場所ではない。
判断される場所だ。
そう、誰もが言葉にせず理解していた。
水晶が、微かに――
ほんの一瞬だけ、輝いたように見えた。
誰も気づかないほどの、僅かな揺らぎ。
光の反射とも、錯覚とも言える程度の変化。
だが――
藤原剣だけが、その瞬間を見ていた。
空中に浮かぶ巨大な葵色の水晶。
それが、脈打つように淡く光った気がした。
剣は立ち止まり、無意識にそれを見上げる。
(……気のせい、か)
街の光が反射しただけ。
疲労で目がおかしくなっただけ。
そう自分に言い聞かせ、
彼はすぐに視線を逸らした。
それ以上、何も考えなかった。
――それが、
この時点でできる唯一の「正しい判断」だった。
⸻
一行は街の賑わいを抜け、
中央へ向かって進んでいく。
露店の声が遠ざかり、
人通りは徐々に減っていった。
住宅街だろうか。
石造りの家々が整然と並び、
窓の奥からは、生活の気配がわずかに漏れている。
不思議なことに、
ここでは誰も未来組に声をかけなかった。
視線だけが、静かに向けられる。
好奇心でも、敵意でもない。
――観察するような目。
「……静かだね」
誰かが小さく呟いた。
返事はなかった。
⸻
やがて、視界の先に
白いものが見えてきた。
最初は、ただの光の塊のように見えたそれは、
近づくにつれて、巨大な建造物だと分かる。
白亜の城。
空に向かって聳え立つ、
圧倒的な存在感。
城の前には、
街の門とは比べものにならないほど巨大な門が構えていた。
「……また待機、かな」
誰かがそう呟いた、その時。
門の前に立っていた兵士たちが、
一斉に姿勢を正した。
ファルラス・ゲルツに向かって、
迷いのない、完璧な敬礼。
ゲルツは馬を止め、短く顎を引く。
それだけで、十分だった。
重厚な門が、
低い軋み音を立てながら――
ゆっくりと、開き始めた。
未来組の胸に、
言葉にならない圧がのしかかる。
門を潜る、その瞬間だった。
――キィン。
影山零の耳に、鋭い耳鳴りが走った。
心臓が一拍、遅れる。
(……なに?)
音は外からではない。
頭の奥、思考の裏側を直接撫でるような、不快な振動。
だが不思議と、恐怖はなかった。
代わりに胸の奥に湧き上がったのは、
誰かに“見つけられた”という感覚。
呼ばれている。
名前も、声もない。
ただ――
「ここに来い」と、
存在そのものを指名されているような感触。
足が、わずかに震えた。
その拍子に、
封じ込めていた記憶が、微かに浮かび上がる。
――雨の日の交差点。
――鳴り響くクラクション。
――血の匂い。
「逃げなさい!!」
母の声。
父の声。
「零……生きなさい!!」
目の前で、二人が押し出した背中。
次の瞬間、視界が白く染まり、世界が砕けた。
――なぜ、自分だけが生き残ったのか。
理由なんて、どこにもなかった。
影山は歯を食いしばる。
奥歯が、ぎり、と音を立てた。
(……関係ない)
そう、関係ない。
今はただ、歩くだけだ。
門を完全に潜り抜けた瞬間、
耳鳴りは、嘘のように消えた。
まるで、
“接続が完了した”とでも言うように。
影山は立ち止まらなかった。
振り返りもしなかった。
誰にも言わなかった。
言う理由が、なかったから。
⸻
しばらく進んだところで、
ファルラス・ゲルツが足を止めた。
「ここから先が、女王陛下の謁見の間だ」
低く、よく通る声。
「無礼は許されん。
一挙手一投足、気をつけろ」
一行の前方、
奥まった回廊の先に、巨大な扉が見える。
白く磨き上げられた扉。
その前で――
音もなく、扉が開いた。
左右に並んだ二列。
統一されたメイド服に身を包んだ女性たちが、
完璧な角度で頭を下げている。
視線は伏せられ、
感情は読み取れない。
ただ、整然とした沈黙だけがあった。
影山零は、
その光景を見つめながら、ふと思った。
(……ここだ)
理由は分からない。
一行は、足を動かした。
行くしかない。
戻るという選択肢は、最初から存在していなかった。
「……行きましょう」
藤原剣が、短くそう言った。
誰も反論しない。
静かに、全員が頷いた。
何が待っているのか。
どう扱われるのか。
生きて帰れるのか。
すべてが、博打だった。
奥へ、奥へ。
白い石で造られた回廊の突き当たりに、
長い階段が姿を現す。
一段、一段、踏みしめるたびに、
空気が重くなっていく。
そして――
「女王陛下の、謁見である!」
張り上げられた声が、空間に反響した。
「扉を、開けよ!」
重厚な音を立て、
巨大な扉がゆっくりと開いていく。
軋む音。
空気が動く。
その先にあったのは――
玉座の間。
広大な空間の中央、
高く設えられた玉座に、女王陛下が鎮座していた。




