1)しれっと脱走
「また婚約の話? ……もう、いい加減にしてほしいわ。」
応接室で延々と続く親たちの会話に、レナは心の中で大きなあくびをした。
父は立派な家柄の青年の名を挙げ、母は「まあ素敵ね」と微笑み、おじさままで「お前にはちょうどいい相手だ」と言う。
肝心の本人――つまりレナには、意見を差し挟む余地もない。
「ふん、私の人生、勝手に決めないでよね。」
そう小さくつぶやくと、レナはそっと席を立った。
廊下を抜け、自室に戻るふりをして、カーテンの奥に隠された小さな扉を開ける。
そこは、昔からこっそり使ってきた秘密の抜け道だった。
胸の奥が少しずつ弾む。
「よし、今日も脱走開始っと!」
薄暗い通路を抜け、裏階段を下りていくと、たまたま掃除をしていたメイドのソフィアと鉢合わせた。
「あっ、お嬢様……?」と目を丸くされる。
レナはにっこり笑ってごまかした。
「おはよう、ちょっと手伝いに来ただけ。ねえ、洗濯場って今忙しい?」
ソフィアが戸惑う間に、レナはひょいとメイド宿舎へ入り込む。
掛けてあった制服を一着拝借し、ぱぱっと羽織って髪を結う。多少大きめだけれど、遠目にはそれらしく見える。
「ふふん、これで一丁あがり。」
堂々と洗濯場に顔を出すと、中は湯気と布の匂いでいっぱいだった。
メイドたちが手際よく洗濯物を仕分けている中、レナは軽やかに声を張る。
「お手伝いしまーす! 何かやることありますか?」
最初は「誰?」と怪訝そうな視線が集まったが、レナは笑顔で桶を運び、布を絞り、さも当たり前のように働き始めた。
「うん、これくらいなら楽勝ね。」
窓の外には、城の外の街並みがちらりと見える。
人々が行き交い、商人の声が響き、子どもたちの笑い声が混じる――そんな日常が、レナを呼んでいた。
「さあ、次はあっちに行ってみようかな。」
令嬢という立場でありながら、自由を追い求め日々脱走を繰り返す。
これが彼女がお転婆令嬢と呼ばれる所以であった。
「お転婆令嬢か……どんな子なんだろうな。」
窓辺に座り、青年は小さく笑った。
屋敷の家族や周囲の推薦人たちは、レナのことをあれこれ言う。
─おしとやかで上品、完璧な令嬢像を押し付けるように。でも、彼の胸には少し違う期待があった。
「完璧すぎるより、少し手強い方が面白い。」
彼は城の庭を歩きながら、誰も知らない情報に耳を傾ける。
『ちょっと前にも、また脱走したって話だ』
『メイドに紛れたり、街に出たりしているらしい』
『見た目は美しいのに中身があれじゃ…』
そんな話に眉をひそめるでもなく、むしろ目を輝かせて青年は思った。
「なるほど……やりたい放題の子か。面白そうだな」
頭の中で、彼は軽く作戦を練る。
この令嬢にどう接すればいいか――いや、どう接されるか、想像するだけでわくわくする。
「どんな子なのか、早く会ってみたいな」
その日、街ではまだ誰も知らない、自由奔放なお転婆令嬢と、ちょっと変わった婚約者候補の、ちょっとした駆け引きの始まりが近づいていた。