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綱ヶ背橋  作者: 伊東歩
4/8

天使 (2)

「祐君は天使って信じる?」

「天使?何?急に」

 突然のことに戸惑う祐樹に、優衣はふくれっ面を見せた。

「忘れた?幼稚園くらいのとき教えてあげたじゃない」

「そうだっけ?」

 祐樹は、天井に目をやり思い出そうとする仕草を見せた。

「ぱっと思い出せないなんて、なんてヒドイ人間だぁ」

 優衣は手を伸ばし、机に伏した。

「静かにしないと追い出されるよ」

 祐樹は手元のノートに目を戻し、再びシャープペンを握った。<KRB>ここは唐橋市の市立図書館だ。<KRB>二人は高校受験のための勉強をするため、3週間ほど前からよくここを訪れるようになっていた。

「受験までまだ1年もあるよ。早過ぎない?」

 そう祐樹が驚きの声を上げたのがちょうど一ヶ月前の今日だった。

「何言ってんのよ。昔から言うでしょ、夏を制するものは受験を制する」

 優衣は胸の高さに上げた拳を力強く握り締めた。<KRB>目線はどこか空の向こうだ。<KRB>まるで選挙のポスターみたいだ、祐樹は笑いを堪えつつそう思った。

「でも、夏までだって3ヶ月くらいあるよ」

「夏から始めたって夏を制するなんて無理に決まってるでしょ」

「それはそうだろうけど」

 そのやりとりの数日後から、二人は毎日のように図書館に通い受験勉強に勤しんでいる。

 祐樹の成績は、学年で中の中。<KRB>いたって平均だ。しかしそれはあくまで学校内だけでの成績。<KRB>市内で、県内で、と見るとその成績は随分と後ろへ後退してしまう。<KRB>二人が目指す桂北高校は、進学校とまではいかないまでも、県内で見ればそこそこ無名ではないレベルではある。<KRB>簡単に言えば、祐樹の学力では早め早めの勉強が必要なわけだ。<KRB>それに対し、祐樹よりも若干成績の良い優衣には多少なりとも余裕がある。<KRB>その余裕が今の態度に表れているわけだ。

 優衣はのそのそと上体を起こし、ふと呟いた。

「そろそろ満月だね」

「そう。よく知ってるね」

「そっけないなあ。橋のことも忘れちゃったの?」

 祐樹はシャープペンをそっとノートの上に置いた。体ごと優衣の方を向く。

「何?」

 優衣が首を傾げる。眉の辺りで綺麗に切りそろえられた前髪が少し揺れた。<KRB>祐樹がゆっくりと口を開く。

「そろそろ閉館だよ。帰ろうか」

 夕暮れの道を、二人は歩いて帰った。<KRB>二人が通う中学校は、家から学校までの距離が長い生徒のみ自転車通学を許可されている。<KRB>祐樹は自転車を押して、優衣の隣を歩いている。<KRB>突然、祐樹の目の前に優衣の顔が迫ってきた。<KRB>シャンプーだろうか、いい香りがした。

「たまには二人乗りして帰ってみる?」

「学校の先生にでも見つかったら怒られちゃうよ」

 優衣が悪戯っぽく微笑んで前へ向き直る。

「祐君はホント小心者だなぁ。そんなんじゃやっていけないよ、キミ」

「何をだよ?っていうか、小心者じゃなく慎重派って言ってほしいな」

「一緒でしょ。ところでさっきの話、ホントに覚えてないの?」

「さっきの話?」

 優衣がふくれっ面を見せた。<KRB>そういえば、昔からこの顔が好きだった。<KRB>祐樹はふとそんなことを考えた。

「私って結構モテるのよ」

「だと思う。いいことだ」

 横から、ふっとため息が聞こえた。

「そうよくもないけど・・とにかく、しっかり捕まえてないといけないのよ」

「分かってるつもりだよ」

「・・綱ヶ背橋の話」

 不機嫌そうな声。<KRB>もちろん、本気で怒っているわけではない。<KRB>祐樹は照れながら答えた。

「わざわざ言わなくたって分かってるでしょ。忘れるわけないよ。ちゃんと覚えてる」


 確かあれは6月の事だった。<KRB>つまり、3年前のちょうど今頃だ。<KRB>祐樹と優衣は、満月の夜に手を繋いで渡った二人は永遠に結ばれるという伝説がある綱ヶ背橋を一緒に渡る約束をした。<KRB>それから約一週間後、その日は来た。次の授業の準備をしているときだった。

「祐君、今日満月だよ」

 優衣が嬉しそうに駆け寄ってきた。<KRB>机をはさみ祐樹の正面に立つ。

「ほんと。どうりで最近夜明るいと思った」

 優衣は、少しだけむっとした顔を見せた。

「そうじゃないでしょ」

 綱ヶ背橋のことを言っているのは分かっていた。<KRB>だが、恥ずかしくてわざと気付かない振りをしたのだ。

「何時に待ち合わせしよっか?」

 祐樹は後ろを振り返って、壁に掛かった時計に目をやった。そして優衣に目線を戻す。

「おじさんたちは大丈夫なの?日が落ちてから出かけて」

「明日は休みでしょ。だから、お父さんたちには響子ちゃんの家に泊まるって言ってある。<KRB>響子ちゃん家にはそれから行くって言ってる」

 それはつまり、響子は二人が今夜綱ヶ背橋を渡ることを知っているということか。<KRB>私たちは付き合います、と宣言しているようなものだ。<KRB>恥ずかしくなって俯いてしまった。

「それで、どうしようか?」

「とりあえず、日が落ちる前のほうがいいよね」

「じゃあ、6時前くらい?満月がはっきり見えるようになるのは7時くらいだと思うけど」

 優衣が時計を見ながら言った。<KRB>優衣は立っているので、席に着いている祐樹からは見上げるような視点になる。<KRB>祐樹はじっと優衣の顔を見上げていた。

「何?」

 目線に気付き少しだけ戸惑う優衣。<KRB>顔がちょっとだけ赤らんだ。

「いや、なかなかこの位置から優衣ちゃんの顔見たことないし」

 小学校3年生の秋、祐樹はついに優衣の身長を抜いた。<KRB>それ以来、このような場面でしか優衣を下から見上げることはなくなった。

「止めてよ、下から見られるのってなんか嫌だ」

 優衣はその場にしゃがみ、顔だけ机の上に出した。<KRB>祐樹は、巣穴から顔だけ覗かせている小動物を連想した。

「分かった。じゃあ6時前だね。迎えに行くよ」

「というか通り道なんだけどね」

「何の話?」

 突然背後から声を掛けられてびっくりした。<KRB>振り返ると、祐樹のすぐ後ろに義信が立っていた。

「あ、義信君。珍しいね、うちの教室に入ってくるなんて」

「いや、なんとなくね。教室の前を通りかかったとき楽しそうに喋ってるのが見えたから何話してるのかと思って」

 一瞬言葉に詰まった。<KRB>一週間前、義信は祐樹に、自分は優衣のことが好きだと話した。<KRB>その人間に「僕たちは今日綱ヶ背橋を渡るんだよ」などとは言えるはずがない。

「実は今日満月なのよ」

 優衣が嬉しそうな声を上げる。<KRB>思わずぎょっとした。<KRB>まさか話すのだろうか、祐樹はとまどった。

「満月?」

「そう。満月って私好きなのよね。まん丸で、夜なのにとっても明るいでしょ。」

「迎えに行くとか何とか言ってなかった?」

 義信は綱ヶ背橋の伝説を知っているのだろうか?<KRB>だとしたら、今祐樹たちが話していたことはある程度予想がつくだろう。<KRB>だから、不安になって話しかけてきたのではないだろうか。

「祐君のお父さん、今夜出張から帰ってくるんだって。それで駅まで迎えに行くって話してたのよ。だから私が、夜に外出るんだったら満月を楽しむといいよって教えてあげてたわけ」

「そうなんだ・・。」

 義信は、腑に落ちない表情をしていたもののそれ以上は何も言わず、授業開始のチャイムを機に教室を出て行った。


「また飛んでるでしょ」

 優衣の一言でふと我に返った。<KRB>二人は赤信号で止まっていた。<KRB>そのことすら今になって気付いた。<KRB>祐樹一人だったら信号無視をしていたところだ。

「いや、まあちょっと」

 祐樹はばつ悪そうに愛想笑いを浮かべた。

「まったく。高校行ったらそんなにぼーっと出来なくなるよ。桂北高は授業の進みが早いんだって」

「らしいね。一昨日の三者面談の時言われたよ」

「そっか、祐君のクラスはもう終わったんだよね。どうだった?」

「緊張したよ。何でだろうね?先生と話しても親と話しても緊張しないのに、先生と親と一緒に話すと何か緊張しちゃう」

「うちのクラス明日なんだよね。嫌だなあ」

 あまりに辛そうな表情をするので、祐樹は思わず吹き出してしまった。<KRB>信号が青に変わり、二人は再び歩き出す。

「優衣ちゃんは別に問題ないでしょ」

「そんなことないよ。今年は倍率高いって聞くし」

「だったら僕は今以上に勉強しなきゃいけないってわけ?」

 今度は祐樹が辛そうな表情をする番だった。

「祐君」

 優衣が、笑顔で祐樹の顔を覗き込む。

「何?」

「面白い顔するね」

「優衣ちゃんの真似だよ」

「そこまで面白い顔しないよ」


「え~、するでしょ」

「しないよぉ。ふぐみたいじゃん」

 智弘、隼人、そして響子の3人がお腹を抱えて笑っている。<KRB>義信が去ってから45分が経った。<KRB>次の授業までのしばしの休み時間。<KRB>どんな経緯だったか、祐樹は優衣の顔真似をしていた。

「本当に、優衣ちゃんは不機嫌になったときこんな顔するんだよ」

「でも私は一回も見たことないよ」

 響子の言葉に智弘も隼人も頷いた。

「でしょ。4対1でそんな顔はしないって事に決定。祐君は大袈裟なのよ」

「本当にするのになあ」

 他愛もないお喋り。<KRB>いつもと変わらないはずなのに、祐樹にとって今日はいつも以上に楽しく感じた。<KRB>恐らく、今日の約束を意識しているせいだろう。<KRB>今夜、優衣と二人で綱ヶ背橋を渡る。<KRB>永遠に結ばれる、その言葉の意味も重さも、祐樹には実感はない。<KRB>でも素敵な事なのだろうという程度には分かっているつもりだ。<KRB>では、優衣はどれくらいに考えているのだろう?好きな人とロマンチックな伝説がある橋を渡ってみたい、きっとその程度の軽い考えではないと思う。<KRB>自分以上に理解力があり、感情が豊かだ。<KRB>伝説の意味も重みも、祐樹よりも遥かに理解しているはずだ。<KRB>そこまで考えて、また自分一人の世界に入ってしまっていることに気付いた。

「あ、ごめん」

 祐樹の突然の謝罪の言葉に4人はきょとんとした。

「え、いきなり何?」

「あ、また妄想の世界に入ってたんでしょ」

「ああ、俺気付かなかった」

「僕も。というか皆でしょ」

 チャイムが鳴り響く。授業開始だ。<KRB>優衣たちはそれぞれ自分の教室や席に戻っていった。<KRB>授業中、祐樹は先生の隙を見て何度も後ろを振り返り時計を見た。<KRB>確実に、刻一刻と時間は過ぎていく。<KRB>でももどかしかった。<KRB>もしここにタイムマシンがあれば、すぐさま飛び乗って夕方の6時前にタイムスリップするのに。<KRB>祐樹はノートの端に、ドラえもんに登場するタイムマシンを描いた。<KRB>祐樹は絵を描くのが得意だった。<KRB>唯一優衣よりも出来ると自負できるものだ。<KRB>タイムマシンを描きながら、綱ヶ背橋を渡る二人を想像した。<KRB>すっと、いつもより控えめに優衣が手を出す。<KRB>そっか、手を繋ぐんだっけ。<KRB>何年ぶりかの優衣の右手の感触。<KRB>それは、昔となんら変わらず柔らかく、暖かい。<KRB>目が合い、はにかむ二人。<KRB>ゆっくりと一歩踏み出した。<KRB>祐樹の右足と優衣の左足が同時に地に着き、こつっと音を立てる。<KRB>そして、世界は劇的な変化を見せるのだ。<KRB>奥の祠から暖かく眩い光が射し、二人の全身を包む。<KRB>もう一度目を合わせ、二人は進みだした。

 一歩、また一歩。

 進むにつれ、二人の手はよりしっかりと繋がれていく。<KRB>優衣が何か言葉を発した。<KRB>よく聞こえなかったが何故だか嬉しかった。<KRB>そして、橋を渡りきるころ、チャイムが鳴った。


「明日でちょうど3年だね」

 祐樹は横目で優衣の顔を見た。悪くない反応だ。

「どうせそのうち数えなくなるでしょ」

 悪戯っぽく笑う優衣。<KRB>祐樹も、わざとらしい微笑みを見せた。<KRB>そして、前へ向き直る。

「永遠って僕の記憶より長いのかな?」

 一瞬の間。優衣がくすっと笑うのが聞こえた。

「永遠なんだから、ずっと長いに決まってるでしょ」

「でも、」

「でも、何?」

「でも・・あ、もうすぐ優衣ちゃんの家に着いちゃうよ」

 優衣がコントのようにずっこける真似をした。

「フツー、自分から話ふっといて途中で止める?」

「でも僕らしい、でしょ」

「まあ・・うん、祐君らしい」

 優衣の笑顔からそっと目を逸らした。<KRB>これから先どのくらいこの笑顔を見ることが出来るだろう。永遠?だといいな。一生?うん、悪くない。

「小学校のとき、裁縫で縫いぐるみ作ったの覚えてる?」

 そう言う優衣の声はどことなく楽しそうだ。<KRB>何かを隠しているが隠し切れない、そんな感じ。

「縫いぐるみ?ああ、あったね。男子はクッションだったっけ」

 確か小学4年生のときだった。<KRB>そのとき祐樹が作ったクッションは、いまや祐樹の家にはない。<KRB>あっという間にどこもかしこもほつれ、ぼろぼろになってしまいすぐに捨ててしまったのだ。

「あれから結構ハマってね、時々作るの」

「縫いぐるみを?」

「そう、私そういうの得意なの。実は手先が器用なんだよね」

 わざと何かを遠まわしにしているような・・何が言いたいのだろう?

「何か隠してる?」

「別に~」

 そう言ってにやける優衣。<KRB>祐樹はちょっとだけ笑って、それ以上は聞かないことにした。<KRB>優衣の家の前で立ち止まる。

「じゃあ、また明日・・って何?その手は」

 祐樹の言葉を遮るように優衣が片手を祐樹の顔の前に伸ばしている。

「ちょっと待ってて」

 そう言うとさっと玄関の向こうへと消えていく。

 少しして出てきた優衣の手には20センチ足らずの、初めて見る、しかし見覚えのある縫いぐるが抱えられていた。

「じゃーん!」

 効果音と共にそれを両手で差し出す優衣。

「これって・・」

「覚えてる?」

 言葉もなく頷いた。<KRB>それはまさしく祐樹が初めて見た天使、つまり、幼稚園の時に優衣が書いたあのつたない天使だった。

「すごい、完全にあのまんまだよ」

「やっぱ覚えててくれたね。信じてたよあたしゃ」

 おどけた調子で言う優衣。<KRB>その顔は満面の笑みだ。

「最近部屋の掃除をしてたら幼稚園時代のお絵かき帳が出てきてね。懐かしくて見てたの。そしたらこの天使があって。明日で丸3年でしょ、その記念ってことで」

 祐樹は優衣の手からその天使を受け取った。

「どう?なかなか器用でしょ」

「ほんとすごいよ、優衣ちゃんって絵を描くのはちょっとあれなのに」

「ちょっとあれって何よ。私だってやれば出来るの」

 その言葉を聞いて祐樹がふふふと笑った。<KRB>ふくれっ面をしていた優衣もやがて、祐樹につられてふふふと笑った。

 祐樹は、天使を小脇に抱えて一人家路に着いた。<KRB>途中何度も天使の顔を覗き込んだ。<KRB>全くあの時のままだ。<KRB>恥ずかしくて言えなかったが、祐樹は優衣の描いた天使を鮮明に覚えていた。<KRB>初めて見た感動だろうか、天使と聞いたらいつも優衣の天使が最初に頭に浮かぶほどだ。<KRB>それが今自分の手の中にある。<KRB>更にそれが優衣が作ってくれたものとなると特別も特別、そう考えるだけで笑みを抑えることができなかった。

 家に着き、さっさと自分の部屋へと入る。<KRB>祐樹の机は本棚とスタンドライトを置くために一段高い棚が備え付けられているタイプだ。<KRB>そこにそっと天使を座らせた。<KRB>モデルがあの優衣の絵ということもあってバランスが悪そうだったが、意外にもちゃんと座ってくれた。<KRB>天使は微笑みを絶やさぬ顔でこちらを見つめている。<KRB>祐樹も笑顔で見つめ返す。<KRB>まるで優衣と見つめ合っているような気恥ずかしさを感じつつ、それでも本人とはこれほど長い間見つめあうなど恥ずかしくて到底出来ないだろうと少しだけ自分の意気地のなさを残念がりつつ、少しの間そうしていた。<KRB>気付けば窓から射す光が、先ほどより若干赤く染まっていた。


 祐樹の家は寝静まるのが比較的早い。<KRB>10時過ぎには皆床に着く。<KRB>そのため、9時ごろから就寝の準備を始める。<KRB>そのとき祐樹はちょうど歯磨きを終えたところだった。<KRB>電話が鳴る。<KRB>この時間帯に尾藤家に電話が掛かってくるのはちょっと珍しい。<KRB>母親が受話器を取った。

「はい、尾藤ですが。あらこんばんは、ちょっと待ってね」

 同級生の高橋君から、そう言って受話器を祐樹に差し出した。<KRB>智弘からだ。こんな時間に何の用だろうか。

「もしもし」

「祐樹、落ち着いて聞けよ」

 智弘の、まるで芝居がかった台詞に少し吹き出した。

「何?もったいぶって」

「クラスの連絡網だ。これ聞いたら次の人に回してくれ」

 夜の9時に回す連絡とはどのようなものだろう、祐樹は若干の緊張を感じた。<KRB>そして得体の知らぬ胸騒ぎも。

「優衣ちゃんが、事故に遭った」

 ん?

 智弘の言葉の意味が掴めなかった。

「ごめん、もう一回」

「何度も言わせるなよ、こんなこと」

 さっきよりも短い間の後、智弘は若干大き目の声で言った。

「だから、優衣ちゃんが事故に遭ったんだ」

 まるで夢の中にいるようだ。<KRB>智弘の声も、見慣れたはずの自分の家の景色も何か曖昧に感じる。

「聞いてるか?」

 返事をすることが出来なかった。「んん」と曇った唸り声のようなものが精一杯だった。

 再び沈黙。祐樹は思った。<KRB>何か足りなくないか?

「そうだ、どこの病院?」

「え?」

「優衣ちゃんが運ばれた病院」

 ごくりと生唾を飲む。

「こんな時間に連絡網使うってことは、かすり傷だけでもう帰りましたってことはないんでしょ」

 こんな時間に、連絡網を、まだ、足りない。

「あ、ごめん。それは聞いてない」

 五感が悟る。智弘の様子のおかしさ、連絡の不自然さ、まだ、足りない。

「終わり?」

「次の人に連絡を・・」

「本当にそれだけ?」

 三度の沈黙。ほぼ確信。

「どうせ明日になれば先生が話してくれるさ。お前がわざわざ次の人間に言う必要はない」

「分かってる。前置きがあるってことはまだ何かあるんでしょ」

 もう慣れた4度目の間。

「死んだって」

 ポツリと呟いたその言葉は、全ての時間を止めるに足る力を持っていた。<KRB>遠くに聞こえていたテレビの音が完全に消えた。<KRB>自分の呼吸の音も聞こえない。<KRB>心臓が動いているのすら感じない。<KRB>蛍光灯の光が激しく瞬いている。<KRB>君は何を急き立てているの?

 眼がくらむ。立っていられない。宙に放り投げだされたみたいだ。

 優衣が微笑む。壁に手をついた。名前を呼ばれた。祐君。優衣ちゃん、そんな遠くから呼んだって聞こえないよ。吐き気を感じる。

「ありがとう、次に回すよ」

 受話器を置き、倒れこむようにその場にしゃがみこんだ。

「どうしたの?祐樹、顔色が悪いわよ」

 母の優しい声も、父の心配そうな顔も、夢の中のぼやけた幻のようだった。


 葬儀は二日後に執り行われた。<KRB>優衣の家ではなく学校から3キロほど離れた葬儀場だった。

「焼香はクラスから代表者一名ずつだ。仲良かった者、そうだな、川島やってくれるか?」

 昨日のホームルームで今日の葬儀の日程が知らされた。

「え?」

 響子の気のない返事。<KRB>無理もない、祐樹だって今声を掛けられたらそんな情けない声を出すはずだ。

「先生」

 聞きなれた声。<KRB>もちろん同級生の声はみな聞きなれてはいるが、その中でも特に馴染みのある声。<KRB>うつむき、机を見つめてるままでも分かる。<KRB>祐樹に優衣の死を知らせてくれた人間。

「どうした?高橋」

「祐樹、尾藤君にやらせてもらえませんか?」

「ああ、確かに仲良かったしな。尾藤、いいか?」

 自分の名が呼ばれても、体はピクリとも反応しなかった。

「尾藤」

「え?」

 ああ、やっぱり響子と同じような返事だ。<KRB>そんなことが、不思議と可笑しかった。

「明日の焼香、頼んでいいか?」

「・・はい」

 何とでもしてくれ、そんな自暴自棄にも似た気分だった。<KRB>僕が焼香をしようが何しようがもう優衣ちゃんとは笑い合えないんだ。

 その日は、学校には行かず朝から直接葬儀場で集合とのことだった。<KRB>場所もはっきり分からないし歩いては遠いということで母に車で送ってもらった。

「大丈夫?」

 ミラー越しに、母と目が合った。

「何が?」

 母はそれ以上何も言わなかった。<KRB>ありがたかった。<KRB>知らせを受けてからの2日、まともに人と話していない。

 葬儀は9時過ぎにに始まった。<KRB>広く無機質な大広間に、ひときわ華やかに飾られている優衣の笑顔の写真、そしてその下の木造りの箱。<KRB>祐樹の場所からは遠く、その中をうかがい知る事は出来ない。<KRB>そのままの方が良かったかもしれない。<KRB>あの箱には何が入っているのか分からない、そのまま終わった方か楽だったかもしれない。<KRB>それからずっと、優衣の笑顔に見惚れていた。<KRB>満面の笑み。<KRB>まるで天使のように可愛いな、この場合は優衣ちゃんが描いたのじゃない方ね、思って、心の中でふふふと笑う。

 そこではっと我に返った。<KRB>祐樹の前の席に座っていた担任の先生が突然立ち上がったのだ。<KRB>状況が読めなかった。<KRB>先生はまっすぐ進んでいった。<KRB>そこでようやく理解した。焼香だ。<KRB>昨日説明されたことを思い浮かべた。<KRB>焼香は、担任教師、学年主任、その後各クラスの代表生徒の順のはずだ。<KRB>じきに祐樹の番が回ってきた。<KRB>緊張した面持ちで優衣の前へと進む。<KRB>近づくにつれ、お香の懐かしい匂いがした。<KRB>約10年前に嗅いだ匂い。<KRB>祖父の顔を思い出した。<KRB>そういえばその頃、死んだ人間は天使になるとか宇宙人になるとか話してたっけ。

 仏前に辿り着いた。祐樹はなるべく下を向いていた。<KRB>余計なものは見るな。お香を一つまみ、眉間のあたりまで持ってくる。<KRB>きっとここで念を込めるんだ。<KRB>何か、伝える言葉を。<KRB>しかし、気持ちが落ち着いてないせいか、伝えたいことが多すぎるのか、結局何も言葉が出てこなかった。

 もう一度同じ動作を繰り返し、あとは振り返って自分の席まで戻るだけだ。<KRB>しかしそこで、自制が利かなかった。<KRB>止めろ、理性が叫ぶのが分かる。<KRB>しかし目線はゆっくりと上がり、棺桶の中へ。軽いめまい。<KRB>何て綺麗な顔をしてるんだ。<KRB>寝てるだけじゃないのか?天使のような寝顔。もちろん優衣ちゃんが描いたのじゃ・・って、もういいか。さあ、そろそろ眼を覚ます時間だよ、優衣ちゃん。皆が待ってるよ・・

 不意に背中に視線を感じた。<KRB>そうだ、今は葬儀の途中だった。<KRB>優衣ちゃんの、葬儀の。一気に現実に叩き戻される。<KRB>祐樹は、ややおぼつかない足取りで席に帰った。<KRB>やはり見るべきでなかった。<KRB>受け入れがたい現実が、余計にまとわりつくような感覚がした。<KRB>棺桶の中を見ず、ずっと曖昧なままでいればよかったものを。<KRB>いつの間にか、葬儀は終わりを迎えていた。

 式場から棺が運ばれていく。<KRB>霊柩車に乗り、遺族と共にその場を去っていった。<KRB>周りで女子生徒たちがすすり泣いている。響子もその中に混ざっている。

「そういえば、安藤が来てないな」

 智弘が近づいてきた。隼人も一緒だ。

「そう、気付かなかったよ」

「何年か前、優衣ちゃんが好きだって言ってたろ。なのに、な」

 どうでもいいことだ。誰が参列しようがしまいが、優衣ちゃんはもうここを発った。

「やっぱ天使だよね」

「え?」

「覚えてない?昔、死んだら天使になるとか宇宙人になるとか言ってたでしょ」

「あったっけ?」

「ああ、僕も何となくは覚えてる」

「やっぱ優衣ちゃんは天使になったと思うよ」

 笑うつもりだった。<KRB>ちょっと微笑むだけでもいい、今の気持ちを少しでも変えたかった。<KRB>でも、優衣の口はちっとも笑う仕草をしてくれなかった。<KRB>すすり泣く声は依然続いていた。<KRB>そして気付く。<KRB>自分は優衣の死で一滴たりとも涙を流していない、と。<KRB>泣けないほど悲しいことがあるとは思わなかった。

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