第九話
―――遡ること数分前。
俺は時計の間で壁にもたれかかりながら、束の間の休息を味わっていた。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
壁一面に飾られた時計たちが刻む、狂ったような針音。
その騒音に紛れて、俺は微かな違和感を感じ取っていた。
壁の向こうから感じる、馴染みのある気配。
血の気配――
いや、正確には俺の血液の魔力反応。
「……?」
俺は壁に手を当てて、その感覚を確かめようとした。
確かに感じる。
壁一枚向こうに、俺の血液が存在している。
扉に塗りつけた血液の反応――
「……これは?確か」
記憶を辿ると、心当たりがあった。
この血液は――ラトとの最初の交戦で、俺が放った技の名残りであった。
弓浜絣。
血を圧縮して放った深紅の槍が、ラトの頬を掠めて石壁に突き刺さった瞬間が、まざまざと脳裏に蘇る。あの折、血の槍は古雅な石壁に深々と食い込み、そして四散したのだ。
その時の血液が、今なお壁の向こうに微細な痕跡を留めている。
その破片の一部―――
それが今、感じている俺の血液だった。
俺がリリィから受け継いだ固有魔術。
朱脈操術は血液を魔力と同等に扱うことが出来る。
そのため魔力を扱う者が、自信の魔力を感じ取れるように……
俺もまた自身の血液を、感じ取ることが出来る。
「なんで……」
俺の脳裏に、ラトが誇らしげに見せてくれた地図の記憶が鮮やかに甦った。
居間を中心として描かれた構造図。
血の槍が突き刺さった壁の彼方にあるのは――
地図が麗々しく飾られていた、あの部屋に他ならない。
あの部屋の血液を、壁越しに感じ取ることが出来る。
時計の間である、今いる俺が場所で――。
「ってことは……」
即ち、この時計の間は地図の部屋と隣り合っているのだ。
俺は時計の針音に耳を傾けながら、頭の中で今までの道順を整理した。
最初に転移した時計と銃の部屋。
そこから居間へ移動し、居間の奥で地図を確認した。
その後、居間から右側の扉を通って武器庫へ。
武器庫から書庫へ。
そして書庫から、この時計の間へと逃げ込んできた。
血液の気配を感じる壁の向こうは、居間の奥にあった地図の部屋。
ということは―――
これらの部屋を俯瞰的に捉えてみると、グルっと回ってきた?
もしそうであるならば――
この階層は地図の部屋を中心として、回廊のように繋がった構造となっているのである。
「そういうことか……なるほど」
俺は書庫側の扉より身を離した。
扉の前で血液の気配を凝らして探ってみたが、もはやラトの存在は感じられない。
彼女の衣装に付着した数滴の血も、その感知の範囲より外れているようであった。
本来、魔力を扱う者であれば気配を感じ取ることは造作もない。
しかし俺のような魔力の乏しき人間には、そうした感知の能は殆ど備わっていないのだ。
加えて、ラトあれほどの実力者――気配を消すことは長けているに違いない。
通常の手段では、彼女の接近を察知することなど到底叶わぬ相談であった。
だが戦闘の過程において、彼女の純白の衣装に俺の血液が付着していた。
わずか数滴程度のものであったが、血の魔術を扱う俺にとっては格好の道標となる。
そしてその血液の気配が、書庫側の扉付近より完全に消失していたのである。
ということは――
「回り込んで来る気だな」
静寂に包まれた時計の間で、俺の推測が冷徹な確信へと変わっていく。
もしこの階層が回廊状の構造であるならば、ラトは書庫の扉を突破することを諦め、反対側より迂回して来るに違いない。
奥なる扉――
俺がまだ足を踏み入れたことのない扉より侵入して来るであろう。
俺はすぐに行動を開始した。
時計の針音に紛れて足音を殺しながら、部屋の奥側の扉へと向かう。
そして……奥側扉の傍に立つ。
同時に書庫側の扉に使用していた血液を、魔力で操って移動させる。
深紅の液体が扉の表面を蛇のように這いながら、石床を伝って俺の足元まで流れてきた。
鉄錆の匂いが鼻腔を満たし、生々しい血の温もりが冷たい石床を染めていく。
そして、その血液を――傍にある未知なる扉へと運んでいく。
扉が開けばこの位置は死角になる。
勢いよく扉を開いた場合でも、俺にぶつからないよう扉を制御できるように、運んできた血液をその扉全体に塗りつけていく。
深紅の膜が古雅な木材を覆い、魔力が静かに浸透していった。
これで安全を確保できるだけでなく、攻撃にも流用できる。
まさに一石二鳥の策。
さらに俺は革袋より、半分ほど血液が残った中瓶を取り出した。
これは先ほど弓浜絣で使用した際の残りである。
コルクを引き抜くと、琥珀色の蝋燭の明かりに照らされた血液が、まるで液体の紅玉のような輝きを放った。
俺はその血液を懐に忍ばせた剣に纏わせていく。
刀身全体に深紅の膜が形成され、薄暗い時計の間で妖しい光沢を放った。
血液が鋼の表面を這い回り、まるで血管のような筋を描いて剣全体を覆っていく。
こうすることで剣の威力や強度が飛躍的に向上するだけでなく、操作性も格段に高まるのだ。
この三年間の修行で編み出した、血液魔術と剣術を融合させた俺独自の戦闘技術。
魔力の乏しい俺が、強敵と渡り合うための切り札であった。
リリィから受け継いだ力と、己の血と汗で培った技術の結晶。
血に染まった剣を握りしめながら、俺は奥側の扉に向き直った。
扉の蝶番側――開いた時に死角となる位置に身を潜める。
冷たい石の壁が背中に当たり、ひんやりとした感触が緊張を研ぎ澄ましていく。
周囲では無数の時計が、それぞれ異なる韻律で永遠の時を刻み続けていた。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
シャラ、シャラ、シャラ……
狂ったような針音の交響楽が、俺の緊張を煽り立てていく。
振り子時計の重厚な響き、掛け時計の軽やかな音色、砂時計の細やかな囁き――
それらが幾重にも重なり合い、異様な調べを奏でていた。
血液の準備は完了した。
剣の準備も整った。
後は――ラトが現れるのを待つだけである。
心臓が太鼓のように激しく打ち鳴らされ、汗が額に滲んでいく。
呼吸を整えながら、俺は血に染まった剣を構えた。
この三年間で培った全ての技術を、今こそ発揮する時が来たのだ。
その時――
―――!
扉が勢いよく開け放たれた瞬間、ラトの愛らしい姿が時計の間に現れた。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が素早く室内を見回している。
紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、軽やかに石床を踏みしめた。
「居ない……?」
彼女は愛用のリボルバーを構えながらも、困惑している様子だった。
どうやら彼女は僕の位置に気付いていないらしい。
まさか生来の魔力量の低さが、ココで役立つとは思わなかった。
魔力とは生命のエネルギー。
魔力が少なかればその雰囲気も、存在感も、気配さえ希薄となる。
困惑の表情を浮かべる彼女の背後で、俺は静かに行動を開始していた。
扉に塗りつけておいた血液に魔力を流し込む。
深紅の膜が蠢き、まるで生きているかのようにうねる扉の血液。
そして――
「!?」
ラトが振り返った瞬間、血に覆われた扉を彼女に向け放つ。
重い木材が風を切り、回転しながら迫って行った。
「うわ!扉の裏側かぁ」
ラトの琥珀色の瞳が見開かれる。
予想外の攻撃に驚きながらも、彼女は反射的に愛用のリボルバーを扉に向けた。
白い手袋に包まれた指が、躊躇なく引き金を引く。
――!
轟音が時計の間に響いた。
硝煙が立ち上がり、火薬の刺激的な匂いが鼻腔を満たす。
放たれた弾丸が、回転しながら迫ってくる扉の中央部を直撃した。
しかし予想通り、扉は砕け散らない。
その事実は、何度も発砲しようと変わらなかった。
弾丸が木材に食い込んだ瞬間、微かに赤い飛沫が宙に舞い散るのみ。
深紅の液体が火花のように散らばり、石床に小さな染みを作った。
「もう!まいっちゃうな~。なら、蹴り飛ばーす!」
時計の針音に混じって、彼女の荒い息遣いが聞こえてくる。
紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、風を切って弧を描く。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳に闘志の炎が宿った。
「ミニレッキス!」
兎人族の脚力に魔術による強化が加わり、破壊力が倍増していく。
紅白の縞模様の靴下に包まれた右足が、まるで鋼鉄の槌のように硬質な輝きを帯びた。
壊すことは不可能でも、蹴り飛ばすことはできる。
銃で破壊できないと悟れば、次は必ず蹴りで来る。
そう彼女は考える。
それも――読めてる。
彼女は接近戦となれば、その恵まれた脚力を存分に発揮するスタイル。
兎人族の本能ともいえる、最も得意とする攻撃手段だから。
俺をドロップキックしたのが、その最たる例だ。
なら――それを利用するほかない。
「あ、あれ!?」
蹴りが扉に直撃する――その寸前。
扉を纏う血液の動きを止める。
すると回転しながら迫ってきた重い木材が、まるで時が止まったかのように空中で停止する。ラトの渾身の蹴りは虚しく空を切り、予想していた衝撃がないまま体勢が崩れた。
――かかった!
右足を振り抜いた反動で、ラトの身体が大きくよろめく。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳に困惑の色が浮かんだ。
バランスを失った身体が左に傾き、片足立ちのまま体勢を立て直そうと必死にもがく。
その瞬間――俺は再び血液を躍動させる。
崩した隙を逃さず、扉を再度発射。
今度はラトのバランスが崩れている状態での攻撃。
あの反射神経なら反応してもおかしくない。
しかしこの扉を利用して自身の体を陰にすれば、俺の行動は見え辛くなるはずだ。
血に覆われた扉が再び宙を舞い、よろめくラトに向かって突進していく。
俺はその扉の陰に身を隠しながら、距離を一気に詰める態勢を整えた。
剣を握る手に力が込もり、血液が刃の表面で脈動している。
「ファジーロップ!」
案の定……
ラトは崩れた体勢から立ち直ると、今度は左足で回し蹴りを放った。
反転の勢いを利用した渾身の一撃が、血に覆われた扉の側面を狙って弧を描く。
言霊と呼応し強化された魔力を纏う脚が風を切り、紅白の縞模様の靴下に包まれた足が扉に向かって突進した。
―――!
凄まじい衝撃音が時計の間に響いた。
魔力で強化された蹴りが扉を直撃し、血の魔術で制御されていた木材が勢いよく横に吹き飛ばされる。扉は回転しながら壁に激突し、石材にめり込んだ。古い木材の破片が宙に舞い散り、埃っぽい匂いが立ち込める。
その瞬間――
扉の陰に隠れていた俺の全身が露わになった。
扉を蹴り飛ばしたのは流石だ。
俺の血の制御なんかより、彼女の蹴りの威力が大幅に上回った。
彼女の強さなら、そんなことが起こったっておかしくない。
だからこそ、俺は先を読んだ。
退けられることを前提に、その扉を俺への死角として利用。
その隙に俺は既に剣を抜き放ち、彼女との距離を一気に詰めるべく駆け出していた。
血に染まった剣身が薄暗い明かりを反射し、鈍い光を放っている。
三年間の修行で培った技術と、リリィから受け継いだ血の魔術。
その全てを込めた一撃で、この戦いに決着をつける。
そのとき――
ラトは着地と同時に、片手に握った愛銃を再び俺に向けた。
琥珀色の瞳が楽しそうに輝き、薔薇色の唇に獰猛な笑みが浮かぶ。
その笑みを見た瞬間、俺の全身に悪寒が走った。
「感心しちゃうよ~!でもでも!」
ラトは回し蹴りの勢いで傾いた体勢のまま、上半身を大きく逸らした。
まるで舞踏家のような、しなやかで美しい動作。
兎耳がふわりと揺れ、蜂蜜色の髪が宙に舞う。
そして傾いた体勢から、愛用のリボルバーを俺に向けて構えた。
――え?
その体制で、銃を構えるのか?
剣を中段に構えて突進してくる俺。
その鋼の刃が殺意を纏って迫ってくる。
距離はもう三メートルを切っていた。
この距離であの銃弾を受けたら、ひとたまりもない。
や、やばい――
――!
轟音が時計の間を震わせた。
ラトの愛銃から放たれた弾丸が、火薬の爆発と共に俺に向かって飛んでいく。
硝煙が立ち上がり、刺激的な匂いが鼻腔を満たした。
その威力は凄まじく、これまで数多の敵を葬ってきた必殺の一撃。
俺の脳裏に死の予感が走る。
しかし――
――!
澄んだ金属音が響いた。
俺の剣が弾丸と激突し、火花を散らしながらその軌道を逸らしたのだ。
弾かれた弾丸は壁の時計に命中し、古い振り子時計を粉々に破壊した。
危なかった――
反射的に剣を動かしていた。
血液を魔力のように操作できるからこそ、意識せずとも血液を纏った剣が最適な軌道を描いたのだろう。それに……それだけじゃない。
全身に巡る血液を魔力のように利用することで感覚は研ぎ澄まされ、人間離れした動きまでも可能にしたのだ。
リリィから受け継いだ力が、咄嗟の瞬間に俺を救ってくれた。
冷や汗が背筋を伝って流れ落ち、心臓が激しく鼓動している。
もし反応できていなければ――
そんな思考を振り払いながら、俺はさらに距離を詰めた。
剣を振りかぶり、ラトに向かって斬りかかる。
血に染まった刃が弧を描き、彼女の華奢な身体を狙って振り下ろされる――
「うっ……」
小さな喚き声。
その瞬間――ラトはその瞬間、後方へと軽やかなステップを踏んだ。
兎人族の俊敏性が遺憾なく発揮され、俺の剣の軌道から外れる。
――!?
とんでもない身体能力、いや戦闘のセンスと言うべきか。
体のバランスは完全に崩れているのに、それでも剣の軌道から外れるために後方にステップする。片足は宙に浮き、銃の反動で体幹は崩れる。
そんな状況で、後ろにステップできる奴がこの世界のどこにいるのだろうか。
剣の届く範囲、魔術の有効射程、そして自身の回避能力――
全てを計算した上での、完璧な後退。
賞賛を送りたいほど完璧な立ち回りだ。
だが……俺は元より――
馬鹿正直に剣を振り下ろすつもりなんて、無かったんだよ。
「あれ……?」
そうラトが声をこぼす。
驚くのも無理はない。
何故なら俺は、剣から手を放していたのだから。
彼女ほどの戦闘経験を持つ者であれば、間合いの把握は完璧なはず。
その間合いが崩れたとなれば、完全に彼女の意表を突いたことになるだろう。
そもそも剣はほとんど血液で操作しており、手で持っておく理由はあまりない。
だからこそ手放したってリスクなんかない。
故に間合いを詰めたら行おうと、最初っから思っていたのだ。
手から離れた剣は自然と、ラトに向かって放たれる。
彼女の後退軌道を読み、着地点を狙った精密な投擲。
血の魔術で制御された剣が、まるで意思を持ったかのように正確にラトを追尾する。
回転しながら飛んでいく刃が、彼女の着地点に向かって一直線に突進した。
空気を切り裂く音と共に、必殺の一撃が放たれる。
捉えた――!
着地の瞬間、ラトの琥珀色の瞳に驚愕の色が浮かんだ。
予想していなかった攻撃パターンに、さすがの彼女も隙を見せる。
しかし――
その瞬間、ラトの身体が本能のままに動いた。
上半身を大きく後方に反らし、まるで橋のように背中を弓なりに曲げる。
血に染まった剣が、ラトの鼻先を掠めて通り過ぎていく。
蜂蜜色の髪が宙に舞い、兎耳がふわりと揺れた。
間一髪――文字通り髪の毛一本の差で、致命的な一撃を回避したのだ。
――え?
意味が分からなかった。
ただ……ラトの華麗な回避を見つめていた。
後ろに下がりながら、さらに上半身を逸らすって……どういうことなんだ?
人の動きじゃない。普通の動きじゃない。
異次元の、夢でも見てるのかと思うほど常人離れした行動。
ここまで読んだのに、まだ避けるのか。
俺の憶測を、こうも簡単に超えるのか。
化け物……。
化け物だ。
理解の範疇を超えた化け物。
けど、ごめんなラト。
俺の方が一歩上みたいだな。
ラトは体を反らしたまま、手を地面に付こうとしていた。
逆立ちの状態から体勢を立て直し、反撃に転じるつもりだろう。
彼女の動きは予測できる。
だが、決して予想できまい。
―――壁の向こうからの攻撃は!
俺は壁の向こうに意識を集中させた。
地図の部屋に突き刺さったままの、弓浜絣の残滓。
あの血液に魔力を流し込み、操作する。
「絣!」
俺の言霊と共に、地図の部屋で眠っていた血液が蠢き始めた。
壁の向こうで深紅の液体が意思を持ったかのように立ち上がり、高密度に圧縮されていく。
そして―――
―――!
乾いた音が響いた。
血の弾丸が石壁を貫通し、ラトの左足を弾いたのだ。
「……は?」
突然の衝撃に、ラトの身体がバランスを失う。
踏ん張っていた足が滑り、体勢を維持することができなくなった。
琥珀色の瞳が混乱に揺れ、どこから攻撃が来たのか理解できずにいる。
当然だ。これは俺の保険だ。
発動するつもりもあまりなかった。
ただなにかアクシデントがあったとき、地図の間に残る残滓を利用しようと……
そう考えていただけ。
こんなにもうまくはまるとは思っていなかった。
「うわぁー!」
ラトの身体が重力に逆らえず、石床に向かって倒れていく。
兎耳がぴょこんと揺れ、蜂蜜色の髪が宙に広がった。
ドサッ。
鈍い音と共に、ラトは時計の間の床に倒れ込んだ。
周囲で時計たちが狂ったように針音を刻み続ける中、少女の小さな身体が石床に横たわっていた。
荒い息を吐きながら、ラトは天井を見上げる。
琥珀色の瞳に悔しさと困惑が入り混じり、薔薇色の唇が小刻みに震えていた。
俺は素早くラトの元へ駆け寄った。
彼女が体勢を立て直す前に、確実に制圧しなければならない。
石床に響く足音が時計の針音に混じり合い、緊迫した空気を演出している。
倒れたラトの上に馬乗りになり、その動きを封じる。
小さな身体が俺の体重で床に押し付けられ、白い服が石の冷たさに触れて皺になった。
琥珀色の瞳が俺を見上げ、兎耳がぴょこんと震えている。
「動くな」
俺の低い声が、ラトの耳朶を打った。
彼女の細い手首を押さえ込み、完全に身動きを封じる。
薔薇色の唇が何かを言おうとして開かれたが、言葉にはならなかった。
そのまま俺は血液を操作し、壁に突き刺さった剣を引き寄せる。
剣は未だに血を纏っており、操作は容易だった。
金属が石から引き抜かれる音が響き、血に染まった刃がゆっくりと宙に浮かび上がった。
剣は意思を持ったかのように空中を滑り、俺の右手へと戻ってくる。
柄を握った瞬間、冷たい金属の感触と血液の生温かさが掌に伝わった。
時計の明かりが刃に反射し、鈍く紅の光を放っている。
「これで……終わりだ」
俺は剣をラトの首元に構えた。
一撃で確実に仕留める。
躊躇は許されない。
この少女は俺の敵―――
リリィを救うために倒さなければならない障害なのだ。
剣を振り上げる。
血に染まった刃が、薄暗い時計の間で凶々しい輝きを放った。
ラトの白い首筋が、まるで生贄のように無防備に晒されている。
そして――振り下ろそうとした、その瞬間。
そのときラトの唇から、か細い声が漏れた。
「お兄ちゃん……」
その一言が、俺の心に雷撃のような衝撃を与えた。
琥珀色の瞳に涙が浮かび、薔薇色の唇が小刻みに震えている。
その表情が――まるでリリィと重なって見えた。
石化する前の妹の面影。
「お兄ちゃん、助けて」と言った、あの夜の表情。
病床で震えながら俺を見つめていた、あの透明な瞳。
剣を握る手が、微かに震えた。
「くそっ……!」
俺は歯を食いしばった。
これは幻覚だ。戦闘の興奮が見せる、心の迷いに過ぎない。
目の前にいるのはラト――俺を殺そうとした敵なのだ。
リリィではない。妹ではない。
だが――
あの声が、あの表情が、どうしても脳裏から離れない。
思わず躊躇しそうになる。
剣を振り下ろす手が、一瞬だけ止まりそうになった。
ラトの琥珀色の瞳が、まるで懇願するように俺を見つめている。
しかし――
「すまない」
俺は目を固く閉じ、剣を振り下ろした。
リリィを救うために。
妹のために。
この感傷は、後で悔やめばいい。
もう命を殺めるのに躊躇はしない。
罰も受ける、罪も受け入れる。
地獄に行けと言われれば地獄に行く。
けどそれは――リリィを助けてからだ。
それまで俺は、負けるわけにはいかない。
剣が風を切る音が響き、血液が刃の表面で脈動している。
必殺の一撃――
確実にラトの首を断つ軌道で、刃を振り下ろした。
殺した――
殺した……はずだよな?
なんでだ……?
なんでなんだ!
なんで、殺したって感触がないんだ!
剣を振り下ろしたはずなのに、手応えがまったく感じられない。
肉を断つ感覚も、骨を砕く衝撃も、血が飛び散る音も――何もない。
「……!?」
俺は恐る恐る目を開けた。
剣先はラトの首元に突き刺さっている。
確かに突き刺さっているはずなのに――剣が肌を通らない。
ためらってるわけじゃない。
俺は全力で剣を振り下ろしたのだ。
血液を纏った俺の全力の一撃。
なのに……
まるで見えない障壁があるかのように、刃先が彼女の白い肌の手前で停止していた。
血に染まった剣身が微かに震え、琥珀色の光を反射している。
だが、それ以上は進まない。
どれほど力を込めても、剣は一寸たりとも前に進むことはなかった。
「なんだ……これは」
俺の声が震えている。
理解できない現象に、混乱が心を支配していく。
物理法則を無視したかのような、異常な光景。
その時――
「あははははは……」
ラトが笑い始めた。
最初は微かな笑い声だったが、次第に大きくなっていく。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
ラトの笑い声が時計の間に響き渡る。
狂ったような時計の針音と混じり合い、不協和音の交響楽を奏でていた。
琥珀色の瞳に涙を浮かべながら、まるで何かがおかしくて仕方がないといった様子で笑い続けている。薔薇色の唇が弧を描き、兎耳がぴょこんぴょこんと揺れた。
その笑い声には、歓喜と絶望と、そして何か別の感情が入り混じっている。
俺は剣を握りしめたまま……
恐怖に身体が震えるのを感じていた。