第八話
「いない……?」
兎耳がぴょこんと下がって、ラトは首を傾げた。
琥珀色の瞳が困惑に揺れ、薔薇色の唇が小さく開かれる。
愛用のリボルバーを構えたまま、室内を見回した。
予想していた場所には、確かに誰もいない。
書庫側の扉から最も遠い位置、壁際の影になった場所。
もし待ち伏せをするなら、絶対にそこにいるはずなのに……。
なのに……
ラトは素早く銃口を天井に向けた。
もしかしたら梁に隠れているのかも。
しかし天井には時計が規則正しく配置されているだけで、人が隠れられるような場所はない。
振り子時計の陰、掛け時計の後方――
あらゆる死角を確認したが、リオの姿はどこにもない。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
狂ったような時計の交響楽が、ラトの危機感を煽る。。
「どこ……」
いないとか、ありえない。
兎人族の鋭敏な感覚が、嘘をつくはずがない。
扉の向こうから、確かに人の存在を感じ取っていたのだ。
弱々しいながらも、生命の気配があった。
それなのに、部屋には誰もいない。
まるで幽霊でも相手にしているかのような、奇妙な感覚。
けれど……そんなはずはないんだよ!
「あれ……?」
そのとき気付いた。
書庫側の扉……
さっきまでラトちゃんが破ろうと、蹴ったり撃ったりしていた扉。
つまりラトちゃんが入ってくると予測されていたであろう扉には、血液が一切付着していなかった。
ラトちゃんが攻撃してたときは、あんなにべったり付いていたのに……。
その防御魔法が既に解かれているってことは……
既に回り込んでいることに気付いていた?
なんで……?
この階層の構造に、お兄さんは気付いてなかったはず。
なのになんでラトちゃんが扉の突破を諦めて、回り込んできていたことに気付いていたのかな~?
ラトちゃんは気配を消す技術は一流だと自負してる。
勘付いたとは思えない。
ラトちゃんが攻撃をやめたからって、開けるのを諦めるという確証はなかったはず。
攻撃を止めていないと見せかけた、ブラフだって十分にあり得る。
なのに……完全にラトちゃんが回り込んできているのを知ってた?
ん~意味分からない。
なんか血の魔術にカラクリがあるのかな?
けど今はそんなことに思考を割いている暇はない。
事実を納得せずとも飲み込み、思考をフル回転させる。
そもそもラトちゃんが回り込んでいるのを知っていたのなら……
お兄さんの位置は――
「もしかして……?」
嫌な予感が背筋を駆け上がった。
体を素早く反転させ、愛銃を両手で構え直した。
琥珀色の瞳が、自分が入ってきた扉の方向を捉えた。
書庫側とは反対の、運動場へと続く扉。
その瞬間――
「!?」
扉が――飛んできた。
自分が入ってきたはずの扉が、こちらに向かって飛んでくる。
蝶番から外れた重い木製の扉が、まるで巨大な盾のように宙を舞っていた。
風を切る音と共に、扉が回転しながら迫ってくる。
「うわ!扉の裏側かぁ」
瞳が見開かれる。
気配が感じ取れないから、全然分からなかった!
扉の陰に隠れるなんて、そんな単純な場所――
でも確かに、最も予想外の死角。
自分が扉を開ることで、扉の裏に隠れていたなんて。
兎人族の誇り高き戦士なのに、まさかこんな初歩的な罠に引っかかるなんて……。
迫りくる扉との距離は、もう三メートルを切っている。
重い木材が風を切る音が、時計の針音に混じって響いていた。
けど――ラトちゃんの反射神経なら問題ない!
「そんな手には引っかからないよ!」
ラトは反射的に愛用のリボルバーを扉に向けた。
白い手袋に包まれた指が、躊躇なく引き金を引く。
――!
轟音が時計の間に響いた。
硝煙が立ち上がり、火薬の刺激的な匂いが鼻腔を満たす。
放たれた弾丸が、回転しながら迫ってくる扉の中央部を直撃した。
だが――
「え!?」
扉は砕け散らなかった。
弾丸が木材に食い込んだ瞬間、微かに赤い飛沫が宙に舞い散る。
深紅の液体が火花のように散らばり、石床に小さな染みを作った。
「やっぱり血で強化してる!」
ラトの琥珀色の瞳が鋭く細められる。
扉の表面から滲み出る、生々しい血の匂い。
弾丸が命中した箇所の周囲に、薄っすらと赤い筋が浮かび上がっていた。
――!――!
――!――!――!
立て続けに発砲する。
二発、三発と弾丸を叩き込むが、扉は微動だにしない。
血の魔力が木材の強度を飛躍的に高め、まるで鋼鉄のような硬度を与えている。
弾丸は表面で弾かれ、変形した金属片となって床に転がった。
「もう!まいっちゃうな~」
距離はもう一メートルを切っている。
このままでは扉に押し潰されてしまう。
ラトは愛銃を下げ、体を構えた。
「なら、蹴り飛ばーす!」
壊することは不可能でも、蹴り飛ばすことはできるはず。
兎人族の誇る脚力なら、血で強化された扉といえども吹き飛ばせるに違いない。
ラトは右足を大きく振りかぶり、迫りくる扉に向かって渾身の蹴りを放った。
紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、風を切って弧を描く。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳に闘志の炎が宿った。
床を蹴る瞬間、石材が微かにひび割れるほどの威力。
「ミニレッキス!」
言霊と共に魔力が流動し、足に魔力が集まる。
兎人族の脚力に魔術による強化が加わり、破壊力が倍増していく。
紅白の縞模様の靴下に包まれた右足が、まるで鋼鉄の槌のように硬質な輝きを帯びた。
蹴りが扉に直撃する――
その寸前。
「あ、あれ!?」
扉が突然、その場で静止した。
回転しながら迫ってきた重い木材が、まるで時が止まったかのように空中で停止する。
ラトの渾身の蹴りは虚しく空を切り、予想していた衝撃がないまま体勢が崩れた。
右足を振り抜いた反動で、ラトの身体が大きくよろめく。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳に困惑の色が浮かんだ。
バランスを失った身体が左に傾き、片足立ちのまま体勢を立て直そうと必死にもがく。
―――なんでいきなり扉が?
思考が追いつかないが、確かに扉は不自然なまでに空中で静止していた。
重力を無視したかのように宙に浮かび、微動だにしない。
まるで見えざる手に支えられているかのような、異様な光景。
カチ、カチ、カチ……
壁の時計たちが刻む針音に混じって、微かに別の音が聞こえてきた。
血液が流れるような、ぺちゃぺちゃとした湿った音。
扉の表面で赤い筋が蠢き、まるで血管のように脈動している。
―――まさか……血で扉を操作してるの!?
「そ、そんなことできるの!?」
ラトの琥珀色の瞳が見開かれる。
血の魔術で強化するだけでなく、扉そのものを自在に操っているのか。
まるで扉が意思を持った生き物のように――
扉の表面を這う血の筋が、蛇のように蠢いている。
書庫の扉に塗りつけられていた血液が、まるで生きているかのように移動し、この扉全体を覆っているんだ!
血の膜が扉を包み込み、リオの意志によって自在に操られている。
物体を動かすというのは魔力があれど、困難な技術。
それでもとっても難しいってわけじゃない。
けどあの血は魔力を感じないからこそ、その本能的違和感。
魔力を纏ってないのに扉が自由自在に動くという違和感こそが、ラトの反応を鈍らせていた。
その時、扉の向こうから人影が現れた。
黒い髪を風に揺らす青年が、扉の陰からゆっくりと姿を現す。
リオ・ルース――
腰に携えた剣に手をかけ、静かに立っていた。
彼はラトちゃんが態勢を崩し転ぶと、確信したに違いない。
あれほどに強力な蹴り。
外れれば反動も大きい。
「けどけど~!」
ラトは愛銃を握りしめたまま、バランスを崩した右足を素早く床に着けた。
蹴りの勢いを殺さず、それを軸にして身体を反転させる。
兎人族の優れた身体能力が、不利な体勢からの逆転を可能にした。
「負けないよ~!ファジーロップ!」
反転の勢いを利用して、今度は左足で回し蹴りを放つ。
言霊と呼応し強化された魔力を纏う脚が風を切り、扉の側面を狙って弧を描いた。
紅白の縞模様の靴下に包まれた足が、血に覆われた扉に向かって突進する。
―――!
凄まじい衝撃音が時計の間に響いた。
魔力で強化された蹴りが扉を直撃し、血の魔術で制御されていた木材が勢いよく横に吹き飛ばされる。
扉は回転しながら壁に激突し、石材にめり込んだ。
その瞬間――
扉の陰に隠れていたリオお兄さんの全身が露わになった。
黒い髪の青年は既に剣を抜き放っており、ラトとの距離を一気に詰めるべく駆け出して来ていた。
「……!」
ラトは着地と同時に、片手に握った愛銃を再びリオに向けた。
琥珀色の瞳が楽しそうに輝き、薔薇色の唇に獰猛な笑みが浮かぶ。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、戦闘への興奮が全身を駆け巡った。
剣を中段に構えて突進してくるリオ。
その鋼の刃が殺意を纏って迫ってくる。
距離はもう三メートルを切っていた。
「感心しちゃうよ~!でもでも!」
ラトは回し蹴りの勢いで傾いた体勢のまま、上半身を大きく逸らした。
まるで舞踏家のような、しなやかで美しい動作。
兎耳がふわりと揺れ、蜂蜜色の髪が宙に舞う。
そして傾いた体勢から、愛用のリボルバーをリオに向けて構えた。
――!
轟音が時計の間を震わせた。
ラトの愛銃から放たれた弾丸が、火薬の爆発と共にリオに向かって飛んでいく。
硝煙が立ち上がり、刺激的な匂いが鼻腔を満たした。
その威力は凄まじく、これまで数多の敵を葬ってきた必殺の一撃。
生半可な防御では到底防ぎきれない、破壊力抜群の魔弾。
しかし――
キィン!
澄んだ金属音が響いた。
リオの剣が弾丸と激突し、火花を散らしながらその軌道を逸らしたのだ。
弾かれた弾丸は壁の時計に命中し、古い振り子時計を粉々に破壊した。
「ええええ……!?」
ラトの琥珀色の瞳が驚愕に見開かれる。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、信じられないといった表情を浮かべた。
ありえない――
こんな至近距離なのに、弾いたの!?
剣の達人でさえ反応できるかの一瞬だよ……?
体つきや雰囲気からして、お兄さんの剣を扱う技術はそれほど高そうには見えない。
そもそもこの弾の威力は強力で、生半可な剣では魔力を纏っても弾くことは不可能なはず。
建物だって破壊できるほどの威力。
あの血の盾くらい強力な魔術じゃないと、守れないはず!
なのに、どうして――
その時、ラトの視線がリオの持つ剣に注がれた。
鋼の刃が時計の明かりを反射する中、その表面に赤い筋が這っているのが見える。
血――
剣身全体に、深紅の液体が薄く塗られていた。
「うぇ、まさか剣にも血液を使ったの……!?」
ラトの琥珀色の瞳が鋭く細められる。
扉と同じように、剣にも血の魔術を施しているのか。
血液で強度を上げるだけでなく、剣の操作さえも血の魔力で制御している。
だからこそ、技術の未熟さを補って精密な弾き返しができたのだ。
リオの剣が血に染まって濡れ光りしているのが、はっきりと見える。
刃の表面を這う赤い筋が、まるで血管のように脈動していた。
血の魔術による強化と操作――
それが彼の武器を、本来の性能を遥かに超えた代物に変貌させている。
「だったら連射で……!」
ラトは愛銃の引き金を引こうとした。
一発防がれても、立て続けに撃てば――
カチン。
空虚な金属音が響いた。
引き金を引いても、何も起こらない。
弾丸が発射されない。
あ……。
慌てて愛銃を確認すると、回転式の弾倉は空っぽになっていた。
六つの薬室が、全て撃ち尽くされている。
弾切れ――
扉を破壊しようと五発、そして今発砲して六発目。
リボルバーの装弾数は六発。
全て使い果たしてしまったのだ。
本来なら装弾数は常に頭に入れてるのに……!
動揺の連続で、つい思考から外れていた。
「うわっ!やばいかも!」
リオとの距離は、もう数メートルを切っている。
血に染まった剣を振りかぶった青年が、確実に間合いを詰めてきていた。
装填している時間はない。
このままでは――
「うっ……」
ラトは何とか崩れた大勢を立て直そうとする。
しかし回し蹴りの反動で傾いた身体は、すぐには元に戻らない。
兎人族の身体能力をもってしても、この不利な状況からの脱出は困難だった。
それでも――諦めない!
リオが剣を振りかぶるのを見て――
剣の軌道、体の動き、付着する血液の流動……
全てを瞬時に判断、体重を後ろへと下げる。
ラトは態勢が崩れているにも関わらず、丁寧に合わせるように後方へとバックステップを踏んだ。
紅白の縞模様の靴下に包まれた足が、石床を軽やかに蹴る。
琥珀色の瞳が剣の軌跡を追い、回避のタイミングを計算していた。
剣が空を切る音が響く。
ラトの鼻先を掠めて、血染めの刃が虚しく宙を舞った。
――避けた!
安堵の表情がラトの顔に浮かぶ。
兎耳がぴょこんと揺れ、危機を脱したと思った瞬間――
「あれ……?」
避けたはずの剣が、首元まで迫っているのに気づいた。
血に濡れた刃先が、ラトの白い喉元に向かって飛んでくる。
まさか……寸でのところで剣を投げた!?
リオの手には、もう剣の柄は握られていない。
振り下ろしの動作から一瞬で投擲に切り替え、ラトの回避行動を読んで先回りしたのだ。
血の魔術で制御された剣が、まるで意思を持ったかのように正確にラトを狙っている。
――本気で、殺しに来てる!
ラトの琥珀色の瞳に、初めて真の恐怖が宿った。
これまでの戦いは、どこか遊戯的な要素があった。
しかし今のこの攻撃は違う。
確実に命を奪うための、冷徹な殺意に満ちていた。
何手先も読まれた。
ラトちゃんの行動の何手先までも読んで、本気で殺しに来てる。
驚いた。こんなに強いなんて。
あんなに弱そうなのに……
魔力なんて感じないぐらい貧弱なのに……
ラトちゃんに迫ってる。
本当にラトちゃんのこと、殺そうとしてるんだね。
初めて……君のこと、お兄さんのこと、リオのことが怖いと思ったよ。
けどね―――
駄目。
ラトの身体が本能のままに動き、超人的な身体能力が発動する。
上半身を大きく後方に反らし、まるで橋のように背中を弓なりに曲げた。
血に染まった剣が、ラトの鼻先を掠めて通り過ぎていく。
蜂蜜色の髪が宙に舞い、兎耳がふわりと揺れた。
間一髪――文字通り髪の毛一本の差で、致命的な一撃を回避したのだ。
「はぁ、はぁ……」
魔力を無理やり流し込み、無理矢理体を大きく反らしたためラトの呼吸が乱れる。
それでも紅白の縞模様の靴下に包まれた足が、石床を強く踏みしめた。
ここから手を地面に付き、体を回転させて体勢を立て直そう――。
そしたら逆立ちの状態から、蹴りを繰り出せる。
剣を失ったリオは丸腰同然。
扉にも剣にも、血液を余分に使った。
瓶を袋から取り出す隙も与えるつもりもない。
そしたら勝て―――
―――!
その時――
乾いた音が響いた。
ラトの左足を、何かが弾いたのだ。
「……は?」
突然の衝撃に、ラトの身体がバランスを失う。
踏ん張っていた足が滑り、体勢を維持することができなくなった。
どこから?
背後……?
壁の中?
ラトの琥珀色の瞳が混乱に揺れる。
足を弾いたのは、間違いなく血の魔弾だった。
深紅の液体が足首に付着し、そのまま霧散していく。
しかし攻撃の発射点が分からない。
「うわぁー!」
ラトの身体が重力に逆らえず、石床に向かって倒れていく。
兎耳がぴょこんと揺れ、蜂蜜色の髪が宙に広がった。
白いドレスの裾が風に煽られ、まるで翼のように広がる。
ドサッ。
鈍い音と共に、ラトは時計の間の床に倒れ込んだ。
周囲で時計たちが狂ったように針音を刻み続ける中、少女の小さな身体が石床に横たわっていた。
荒い息を吐きながら、ラトは天井を見上げる。
琥珀色の瞳に悔しさと困惑が入り混じり、薔薇色の唇が小刻みに震えていた。