第七話
ラトは扉に向かって何度目かの蹴りを叩き込む。
自分の細い脚が、兎の本能そのままに扉を打ち据えた。
轟然たる音が書庫の静寂を破り、古書の埃が微かに舞い上がる。
ドンッ!
重々しい響きが石壁に反響して消えゆくも、扉は微動だにしない。
まるで岩盤みたいにラトの攻撃を跳ね返してくる。
なのに、どうしてこんなに硬いんだろう?
「むむむ〜」
薔薇色の唇を尖らせ、ラトは扉を睨め上げた。
古書の黴臭い匂いと、ほのかに漂う鉄錆の香り。
暖炉から遠く離れたこの書庫は、ひんやりとした冷気に包まれている。
全然壊れない……自慢の蹴りでも破壊できないなんて……
なんかヤダ!
ヤダヤダヤダ!
兎人族の誇り高き戦士ラトちゃんから、打ち込まれた蹴りなんだよ!
なのに開かないなんて、おかしいもん!
それに……
対話できないのはもっとヤダ!
逃げないで戦おうよ!
じゃないと拳で、蹴りで、魔力で、語り合えないじゃん!
せっかくの来訪者なのに!
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
憤懣やるかたなく、続けざまに蹴りを見舞う。
石床が微かに震え、書棚の古書がかさかさと音を立てた。
されど扉は沈黙を守り、頑なにその身を閉ざしている。
ラトは頬を膨らませながら、扉を見上げた。
琥珀色の瞳が、ふと扉の隙間に注がれた。
蝶番の部分、取っ手の周り、床との境目――
そこかしこから深紅の液体が滲み出て、薄暗い書庫の中で不気味な光沢を放っている。
生々しい血の匂いが、古書の芳香に混じって鼻腔を刺激した。
ん~……。
ここまで扉が硬くなっているなんて信じられない。
生半可な防御魔法じゃ、こうはならないはず。
やっぱりあの血の魔術で、扉を強化してるんだ。
この硬度、この雰囲気、この威圧感……
間違いなく、血の魔術。
聞いたことも見たことも、本で読んだことのない……
未知の能力―――血を操作する魔術。
兎耳がぴょこんと下がって、困惑の表情を浮かべる。
けど……おかしい。おかしいよ!
あれが魔術なら、魔力の気配を感じるはず。
普通、魔術で何かを操作すれば、必ず魔力を必要とする。
その魔力を感覚で察知するのは、熟練の魔法を扱うものであれば当然可能になる。
兎人族の鋭敏な感覚をもってすれば、なおさらその感覚は鋭い。
それに……あんな強力な魔法なら、感じない方がおかしいくらい。
なのに……なのに!
ぜ~んぜん感じない!
残滓を感じるときはある。
あるけど……本当にちょっと!
こんな大量に血を操作できる魔力量とは、とてもじゃないけど思えないよ!
この血の防御魔法だって、おかしいくらい魔力を感じない。
まるで魔術じゃないみたい。
血そのものが意思を宿し、己が意志で動いているかのような……
ラトは首を傾げながら、愛用のリボルバーを取り出した。
黒光りする銃身を扉に向けて、引き金に指をかける。
――!
銃声が書庫に響く。
けれど弾丸は血の魔力に阻まれて、扉を貫通することはなかった。
木片すら飛び散らない。完璧な防御。
「けどけどけど……血だって量は限られるよね!いつまで持つかな~」
薔薇色の唇に、無邪気な笑みが浮かぶ。
琥珀の瞳が暗い輝きを宿し、獲物を前にした捕食者の如き色を帯びた。
――!――!――!
立て続けに引き金を引く。
轟音が書庫に響き渡り、硝煙の白い霧が立ち込める。
古書の背表紙が振動で微かに震え、埃が舞い上がった。
けれど扉は沈黙を守り続ける。
血の障壁が全ての攻撃を阻み、完璧なる守りを誇示していた。
ラトは愛銃の弾倉を開け、新たな魔石を装填する。
カチャリ、カチャリという金属音が、静寂の中に響く。
ずっと守り続けることなんて、できるはずがない。
血の量には限界がある。
よく分かんないけど、血液だけは必要だもん。
貯蔵もあんまり無さそうだったし、ずっと守るってのはできないよね。
いくら不思議な魔術でも、無から有を生み出すことはできないもん。
だったら、攻撃し続ければいいもんね。
いつかは血が尽きて、扉は元の脆弱さを取り戻すはず。
――!――!――!
再び銃声が轟く。
弾丸が扉に吸い込まれ、血の障壁に阻まれて落下する。
床に転がった変形した金属片が、薄暗い光を反射していた。
その時――
「あっ!」
ラトの動きが止まった。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、琥珀色の瞳が輝きを増す。
まるで天啓を受けたかのような、歓喜の表情が浮かんだ。
そうだ、そうだ!
なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
ラトは自分の額をぺちんと叩いた。
くるりと踵を返す。
紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、軽やかに書庫の床を滑っていく。
散乱した古書を避けながら、まるで舞踏のような足取りで武器庫へと向かった。
武器庫を通り抜け、居間へと戻る。
暖炉の温かな空気が、冷えた頬を優しく包み込んだ。
薪の爆ぜる音が心地よく響き、オレンジ色の光が部屋全体を照らしている。
ラトは立ち止まることなく、そのまま居間を横切った。
今度は左側の扉へと向かう。
右側から入った道とは、正反対の方向。
扉の取っ手に手をかけながら、ラトの顔に妖艶な笑みが浮かんだ。
暖炉の炎が琥珀色の瞳に映り込み、まるで内なる炎が燃え盛っているかのよう。
ふふふ……お兄さん。
この一階層の構造を知らないだろうな~。
きっと今頃、扉を封印して安心しきっているに違いないよ。
ラトは静かに扉を開けた。
蝶番が軋む音もなく、滑らかに開いていく。
―――そこは寝室だった。
天蓋付きの豪奢なベッドが部屋の中央に鎮座し、薄紫色のカーテンが優雅に垂れ下がっている。
枕元には小さな魔法の明かりが灯り、柔らかな光が部屋全体を包んでいた。
ラベンダーの香りがほのかに漂い、安らぎの空間を演出している。
しかしラトは再び、音もなく寝室を横切った。
ふかふかの絨毯が足音を吸収し、まるで雲の上を歩いているかのよう。
次の扉へと向かいながら、胸の内で愉悦が膨らんでいく。
まさか背後から忍び寄られるなんて、夢にも思っていないんだろうな~。
このダンジョン一階層の構造―――
この階層は円を描くように部屋が配置されている。
居間から右回りに進めば、銃の間、書庫、そして時計の間。
でも左回りに進めば、寝室から運動場の間を経て、時計の間の反対側へと辿り着く。
リオお兄さんは書庫から時計の間へと逃げ込み、扉を血で封印した。
きっと追手を警戒して、入ってきた方向ばかり気にしているはず……。
それにいつ私が入ってくるか分からないとなれば、扉の前から離れる訳にもいかない。
そして魔法を解くこともできない。
魔法において並列で異なる術式を成立させるのはちょ~難しい。
あれほどの封印魔法となれば、他にリソースは割けられないはず……。
血の量にも制限があるとなれば、余分には使いたくないでしょ?
なら増々、背後の扉に意識は行ってないはず!
寝室を抜け、次は運動場の間へ。
扉を開けると、広々とした空間が現れた。
石造りの床には幾何学的な模様が刻まれ、壁には様々な訓練用の道具が掛けられている。
木製の人形、重そうな鉄球、そして見慣れない形状の武器たち。
ここはラトが暇つぶし兼、運動不足解消兼、より強くなるための場所。
兎人族たるもの、日々の鍛錬は欠かさないのだ!
百年の時を過ごす中で、最も多くの時間を費やした空間。
懐かしい汗の匂いと、擦り切れた革の香りが鼻腔を満たす。
ラトは一瞬立ち止まり、壁に掛けられた愛用の訓練道具を見つめた。
―――そっか、また一人になるんだ。
琥珀色の瞳に、一瞬だけ寂寥の色が宿る。
この戦いが終われば、リオお兄さんは冷たい屍となり、ラトはまた独りぼっちの日々に戻る。
次の挑戦者が現れるまで、何年待てばいいのだろう。
十年?二十年?それとももっと?
運動場の冷たい空気が、ラトの頬を撫でていく。
ここで一人、延々と訓練を続ける日々。
誰とも話すことなく、ただ時計の針音だけを聞きながら過ごす時間。
でも、それが私――ラトの運命。
百年前にここを訪れ、夢破れたときに決断した私の定め。
この階層の主として、挑戦者を待ち続ける定め。
リエルちゃんとの約束だもの。
ラトは首を振って、感傷を追い払った。
今はまだ戦いの最中。楽しい時間はまだ終わっていない。
寂しいけれど、それはそれ。
今を楽しまなければ、百年の孤独に押し潰されてしまう。
ラトは深呼吸をして、気持ちを切り替えた。
そうだ、楽しもう。
この一瞬一瞬を、全身全霊で味わい尽くそう。
運動場を抜け、ついに時計の間へと続く扉の前に立つ。
扉の向こうから、微かに時計の針音が聞こえてくる。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
リオお兄さんは、この向こうにいる。
きっと書庫側の扉に全神経を集中させて、警戒しているはず。
まさか背後から忍び寄る気配に、気づいてもいないんだろうな~。
ラトの顔に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。
これで終わり。
楽しい時間も、これでおしまい。
あ~この戦いが終わったら、また掃除しなきゃいけないんだよね。
書庫に散らばった古書の山。
床に転がった弾丸の残骸。
血で汚れた扉と壁。
それに武器庫の硝煙の匂いも、しばらくは消えないだろうし。
百年も生きていると、こういう現実的なことばかり考えちゃう。
ロマンチックじゃないよね、全然。
でも仕方ない。ここはラトの家みたいなものだから。
散らかったまま放置なんて、できるわけがない。
また一人きりの日々が始まったら、まず大掃除から始めなきゃ。
書庫の本を一冊一冊、元の場所に戻して。
床の血痕を丁寧に拭き取って。
武器庫の換気もしっかりやらないと。
はぁ、憂鬱。
掃除なんて大嫌い。
でも誰もやってくれる人なんていないし。
リエルちゃんに手伝って欲しいくらい。
もうほぼ百年会ってないけど。
って違う違う違う。
今はそんなこと考えてる場合じゃない!
ラトは頭を振った。
気合いを入れ直して、ラトは再び扉の取っ手を握った。
今を楽しもう。
この瞬間を、心の底から堪能しよう。
後のことなんて、後で考えればいい。
そう決意すると、ラトの全身から迷いが消えた。
琥珀色の瞳が鋭く輝き、獣のような俊敏さが蘇る。
寝室から運動場の間を駆け抜け、ついに時計の間へと続く扉の前に立つ。
扉の向こうから、微かに時計の針音が聞こえてくる。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
ラトは兎耳をぴくりと動かした。
音は聞こえる。でも――
やっぱりお兄さん、気配が薄いなぁ。
壁越しではあるけど、ほとんど感じられない。
扉一枚隔てるだけでも魔力の気配は顕著に感じ辛くなる。
けど私なら――特に兎人族の鋭敏な感覚なら、扉一枚隔てた程度でもある程度の気配は察知できる。魔力の流れは物質を透過して、生命の存在を知らせてくれるもの。
でも、リオお兄さんからはそれがほとんど感じられない。
ラトは白い手袋に包まれた手を、そっと扉に当てた。
木の冷たい感触を確かめながら、もう一度集中する。
うん、やっぱり薄い。
でも完全にいないわけじゃない。
ほんのわずかだけど人の気配がある。
まるで蝋燭の炎みたいに、今にも消えそうなくらい弱々しい。
そういえば、最初に会った時から違和感があった。
魔力量が一般人以下だから、そもそも発する気配自体が希薄なんだ。
弱いからこそ、気配が感じ辛い。
そして血の魔術も魔力を感じない。
―――本当に変わった人。
これじゃあ正確な位置なんて分からない。
部屋のどこにいるのか、何をしているのか。
霧の向こうを手探りで進むようなもの。
けどけど、大体予測がつくもんね。
そして―――
一気に扉を開け放った。
扉が壁に当たる音と共に、時計の騒音が耳に飛び込んでくる。
同時に身を低くして、部屋の中へと滑り込んだ。
琥珀色の瞳が素早く室内を見回す。
壁一面の時計、その狂ったような針音。
リオお兄さんが隠れているなら――
書庫側の扉、その延長上の場所。
もし待ち伏せするなら、きっとあの辺り。
「ここだ!」
ラトは銃口を向けた。
でも――
「あれ?」
そこには誰もいなかった。
振り子が規則正しく揺れているだけで、人の姿はどこにもない。
埃が舞い上がるだけの、がらんとした空間。
「いない……?」
ラトは驚いて、目を見開いていた。