第五話
「ここにいる……私だよ」
世界が静止したような感覚に陥った。
暖炉の炎がパチパチと薪を爆ぜさせる音だけが、重苦しい沈黙の中に響いている。焦がれた木屑の薫香と、古雅なる居間に澱む塵埃の匂いが、張り詰めた大気を一層濃密に変じていた。
ラトは相変わらず、純粋無垢な笑顔を湛えている。
兎耳がぴょこんと揺れ、俺を見つめる琥珀色の瞳。
その可愛らしい外見とは裏腹に、彼女から発せられる威圧感が、氷のような冷気となって俺の全身を包み込んだ。
背筋に走る戦慄が、肌を粟立たせる。
その瞬間、俺の身体が反射的に動いた。
僅かなを掠め、床板の軋む音が耳朶を打った。
「――っ!」
反射的な魔力の消費。
緊張と緊迫感。
それでも空中で身を捻りながら、俺は革袋に手を伸ばした。
指先が小さなガラス瓶の冷たい表面に触れる。
着地と同時に、俺はその小瓶を握りしめて顔を上げた。
暖炉の炎に照らされた居間で、オレンジ色の光が壁に踊る影を投げかける中……
ラトが相変わらず微笑んでいる。
「はぁ、はぁ……」
気付けば暖炉の炎に照らされた居間に戻っていた。
左右への扉がある居間。
その扉の先が、どこに続いているかは分からない。
煤けた石造りの壁が、揺らめく炎の光を受けて不規則に明滅している。
その距離は十分に取れたが、狭い居間では限界がある。
空気は重く、汗と緊張の匂いが鼻腔を刺激した。
このラトという名の少女。
魔力量やその能力は、明らかに俺より格上。
肌を刺すような威圧感が、それを物語っていた。
けど……
この階層のボスなら、殺るしかない。
「そんなに驚かないでよ〜。ショックだな~もう。」
ラトが首を傾げながら、人懐っこい笑顔を浮かべる。
兎耳がぴょこんと動いて、まるで本当に困惑しているかのような仕草。
その声は蜜のように甘く、部屋の冷たい空気に溶けていく。
「せっかくの久々の来訪者なのに、もう戦うの?もったいないよ~もっと話そうよ~。そしたらもっとラトちゃんたち、分かり合える気がする。友達にだってきっとなれるよ~。二人で遊んで暮らそうよ~」
だが、その琥珀色の瞳だけは違った。
暖炉の炎が瞳孔に映り込み、獲物を前にした捕食者の、冷たく計算的な光が宿っている。
美しい外見の奥に潜む、底知れぬ殺意が空気を震わせていた。
「でもでも〜、やっぱり気になるな。お兄さんの秘密。もう話さないといけないことは全部言ったし、案内役としての仕事は果たしたよね?久しぶりの仕事で緊張しちゃった、てへへ。けど……もう。いいよね?」
少女の声が、わずかに低くなった。
暖炉の炎が一瞬強く燃え上がり、部屋全体を赤く照らし出す。
ラトの周囲の空気が歪んだような気がした。
「その血の瓶で、あの地獄を突破したんでしょ?どんな魔術なの?どんなカラクリなの?教えて教えて〜」
「っ……!」
俺の全身に冷たい汗が噴き出す。
これは――明らかな戦闘態勢だ。
纏う魔力が増長し、瞳が俺を睨む。
愛らしい笑顔とは裏腹に、彼女から発せられる殺気が俺を包み込んでいく。
まるで巨大な肉食獣に睨まれているかのような、圧倒的な威圧感。
「ねえねえ、見せてよ〜。その面白そうな魔術」
もう――躊躇している時間はない。
俺は握りしめた小瓶の蓋を親指で弾き飛ばした。
パチンという小さな音と共に、中に蓄えられた血液が宙に舞い上がる。
深紅の液体が暖炉の炎に照らされて、ルビーのような輝きを放った。
「綴織!」
魔力を込めて血液を圧縮し、鋭い針のような形に成形する。
リリィから受け継いだ朱脈操術により血が俺の意志に呼応し、赤い織針が空中に生まれた。
血液が糸のように細く伸び、それが高密度に編み込まれて鋭利な一撃と化していく。
鉄の匂いが濃厚に漂い、空気が張り詰める。
そして――
――!
血の織針が風を切る音もなく、ラトに向かって放たれた。
矢よりも速く、暖炉の炎よりも赤く、確実に少女の額を狙って飛んでいく。
石造りの部屋に響く薪の爆ぜる音が、一瞬静寂に包まれた。
「へぇ~血を扱う魔術なんだ」
ラトが楽しそうに呟いた瞬間――
彼女の身体が残像を残して消えた。
兎の脚力を人間の身体に宿したかのような、異次元の瞬発力。
床を蹴る音すら聞こえない。
まるで重力を無視したかのように、ふわりと宙に舞い上がる。
俺の血の織針は虚しく空を切り、地図が飾られる石壁に突き刺さった。
深紅の血液が石に染み込み、すぐに蒸発して消える。
「おもしろ~い!もっと見せて!もっと見せて!華麗に殺し合おうよ!」
声が頭上から降ってきた。
視線を上に向ければ、ラトが奥の部屋の天井近くで華麗に宙返りを決めている。
紅白の縞模様の靴下が膝上まで覆った脚が、舞踏家のように優雅に空中を舞っていた。
そして着地した瞬間―――
シャキン。
金属の冷たい音が響いた。
ラトの白い手袋に包まれた手に、見慣れない黒い金属の塊が握られている。
「ラトのお気に入りで相手してあげる」
彼女が手にしているのは、あの時計の部屋で俺を襲った筒状の武器。
しかし今度のそれは一回り小さく、手で握れるサイズに作られていた。
黒光りする金属の円筒に回転する部分があり、長い銃身が暖炉の炎を鈍く反射している。握りの部分には細かな溝が刻まれ、引き金を守るように金属の輪が取り付けられていた。
全体的に重厚で、職人の技が光る精密な造形。
「エンフィールド・Mk2リボルバーって型。格好いいでしょ?」
ラトは楽しそうに武器を俺に見せびらかしながら、もう片方の手で何かを取り出した。
小さな球状の物体――それは魔石だった。
兎耳をぴょこんと動かしながら、ラトは器用に球を武器の回転する円筒部分に込め始めた。
その動作は人形のように滑らかで、まるで何百回も繰り返してきたかのような手慣れた様子。
カチャ、カチャ、と小さな金属音が響く。
カチャリ。
俺の背筋に、冷たい汗が流れた。
装填が完了する音。
多分そうだ。そんな感じがした。
ラトが黒い武器を俺に向けて構える。
その刹那、俺の本能が最大級の警鐘を鳴らした。
あの時計の部屋で体験した、あの恐怖が蘇る。
無数の銃口から放たれた弾丸の嵐。
血の壁越しに感じた、あの凄まじい衝撃。
そしてあの銃とは違う雰囲気である。
明らかに重厚で強力なものだ。
それに……あのときよりも至近距離からの一撃など―――
「くそ……」
俺は慌てて革袋に手を突っ込んだ。
指先が中くらいのガラス瓶に触れる。
小瓶よりも多くの血液を蓄えた、貴重な備蓄の一つ。
しかし躊躇している暇はない。
中瓶のコルクを引き抜きながら、俺は血液を宙に解き放った。
「藤布!」
血液が俺の前方で渦を巻き、円形の盾を形成した。
小瓶一つ分よりもはるかに厚く、密度の高い防護壁。
赤い盾が俺と少女の間に立ちはだかり、魔力を帯びて鈍く光っている。
その瞬間―――
「血ってそんな使い方もあるんだ~」
ラトが愛らしく首を傾げながら、引き金を引いた。
――!
轟音が居間を震わせた。
先ほどの時計の部屋で聞いた雷鳴のような爆音が、狭い室内で何倍にも増幅されて響く。
火の魔石が爆発し、魔力を込めた弾丸が血の盾に激突した。
血の盾に穿たれた穴から火花が散り、赤い飛沫が四方八方に飛び散る。
だが――盾は持ちこたえた。
弾丸は血液の密度に阻まれ、俺に届く前にその威力を失う。
「末恐ろしい武器だな。その銃、さっきの銃とは威力がまるで違うように見える」
俺は荒い息を吐きながら、血の盾越しにラトを睨んだ。
少女は相変わらず微笑んでいる。
「へへ~気付いたんだ。けど、すごい!すごいよ!その血の魔術!面白い魔術だよ!ラトのお気に入りの銃弾を、正面から守り抜くなんて!これ人なんて簡単に貫く威力なのに〜、建物だって倒壊させちゃうくらいなんだよ!」
兎耳をぴょこんと動かしながら、ラトが手を叩いて喜んでいた。
その表情には純粋な歓喜が浮かんでいる。
まるで新しい玩具を手に入れた子供のような、無邪気な喜び。
だが、その手にはまだあの黒い武器が握られていた。
「もっと見せて〜、もっと楽しませて〜!」
ラトがくるくると回転しながら、再び武器を俺に向けた。
回転する円筒部分から、次の魔石が装填される小さな金属音が響く。
「この調子だと、お兄さんとはたくさん遊べそう〜!こんな相手、久しぶりすぎるよ!楽しすぎるよ!ラト超嬉しいよ!だ、か、ら、簡単に死なないでね!」
少女の声は心から嬉しそうだった。
まるで友達と遊んでいるかのような、屈託のない喜び。
しかし、その手は確実に俺を殺そうとしている。
――!
再び雷鳴のような爆音が響いた。
二発目の弾丸が血の盾を叩き、新たな衝撃が俺を襲う。
血液が飛び散り、盾に別の穴が穿たれた。
――!――!
今度は立て続けに発砲してくる。
ラトの表情は終始にこやかで、まるで的当てゲームでも楽しんでいるかのようだった。
兎耳がぴょこんぴょこんと弾む度に、引き金が引かれる。
「あははははは〜!面白い面白い〜!」
血の盾が次第に薄くなっていく。
貫通されてしまうのも、時間の問題だ。
このままでは埒が明かない。
血の盾が薄くなる一方で、ラトの攻撃は止まない。
守り続けているだけでは、いずれ力尽きてしまう。
俺は盾を維持しながら、もう一度革袋に手を伸ばした。
指先が二つ目の中瓶に触れる。
残り少ない血液の備蓄―――
だが、この状況を打破するには必要な投資だ。
ラトの四発目の攻撃を血の盾で受け止めながら、俺はコルクを引き抜いた。
そして中瓶の半分ほどの血液を宙に解き放つ。
深紅の液体が暖炉の炎に照らされて舞い上がり、俺の意志に呼応して形を変えていく。
「狂乱兎は躊躇なく、倒すのみだ」
中瓶の半分の血流は、渦を巻きながら細長く伸び、鋭利な穂先を持つ槍の形に成形された。
血の槍が血の盾の陰で静止し、ラトを狙って構えている。
彼女の死角となる位置。
――!
再びラトの銃声が響き、血の盾に新たな穴が開いた。
少女は相変わらず楽しそうに攻撃を続けている。
俺の血の槍には、まだ気づいていないようだった。
今だ――
「―――弓浜絣!」
「えっ!?」
ラトの琥珀色の瞳が一瞬大きく見開かれる。
血の盾の向こう側から、突然現れた深紅の槍。
驚愕の声が漏れた瞬間、血の槍が少女の頬を掠めて通り過ぎた。
ラトの身体が反射的に後方へとのけ反る。
兎耳がぴょこんと揺れ、紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が床を滑る。
その動作は咄嗟のものだったが、やはり人間離れした敏捷性を見せていた。
「きゃっ……び、びっくりした~!」
愛らしい悲鳴を上げながら、ラトは数歩後退する。
予期しない攻撃だったようで、目を丸くして俺を見つめていた。
しかし、その表情にはまだ笑顔が残っている。
恐怖よりも、むしろ興奮のような光が琥珀色の瞳に宿っていた。
それでも……
体をのけ反り態勢を崩した隙は、見逃さない。
―――ここで決める!
続けざまに展開していた血の盾に残った魔力を全て注ぎ込んだ。
魔法陣が張り巡らされ、その魔力は一層の輝きを放つ。
防御に使っていた血液が一瞬で形を変え、新たな槍へと変化していった。
「もう一発だ!弓浜絣!」
血の盾が消失すると同時に、二本目の槍がラトに向かって放たれた。
今度は正面からの直撃コース。
少女が体勢を立て直す前に、確実に仕留める一撃。
「わわわ〜!」
ラトの琥珀色の瞳に、一瞬だけ焦りの色が浮かんだ。
だが――
その時、ラトの姿が消えた。
いや……違う。
彼女は視界から消えただけだ。
彼女は……体をのけ反ったまま姿勢を落としたのだ。
腰を深く落とし、上半身を後方に反らしながら、槍が頭上を通り過ぎるのを待つ。
その動作は舞踏のように美しく、重力を無視したかのような軽やかさ。
蜂蜜色の髪が宙に舞い、兎耳がぴょこんと揺れる。
血の槍が虚しく壁に突き刺さる音が響いた。
「やるね~お兄さん。でもさ~」
愛らしい笑顔の奥に、捕食者の本性が垣間見える。
琥珀色の瞳が鋭く細められ、まるで獲物を狙う肉食獣のような殺気。
彼女は体を逸らしながらその場で手を付き、体を反転。
逆立ちのような状態から体をグルっと丸めると、足を地面に付けた。
「それ、隙ありすぎだよ!」
兎の脚力が炸裂した。
床を蹴る瞬間、石の床材が僅かにひび割れる。
それほどの力で地面を蹴りつけながら、ラトの身体が弾丸のような速度で俺に向かって突進してくる。
紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、人間の限界を遥かに超えた速度で地面を蹴っていた。
白いドレスの裾が風に煽られ、まるで白い彗星のように宙を駆ける。
距離が一瞬で詰められる。
三メートル、二メートル、一メートル――
「――やばっ!」
俺は咄嗟に残り少ない魔力を両腕に集中させた。
筋肉が魔力で強化され、一時的に硬度を増す。
そして腕を交差させて防御姿勢を取ったが――
「ホーラン・ドロップ~♪」
愛らしい掛け声と共に、ラトの身体が宙に舞った。
両脚を前方に突き出し、全身を水平に保ちながら俺に向かって飛んでくる。
紅白の縞模様の靴下に包まれた両足が、まるで槍の穂先のように俺の胸部を狙っていた。
ドロップキック――
兎の跳躍力を活かした、空中からの必殺の一撃。
―――!!
凄まじい衝撃が俺の全身を貫いた。
魔力で強化したはずの両腕が、まるで鉄の棒で殴られたような激痛に痺れる。
骨が軋む音が聞こえ、筋肉が悲鳴を上げた。
少女の細い脚とは思えない、破壊的な威力。
両足の裏から伝わる衝撃が、俺の腕を通じて全身に響いていく。
そして俺の身体は、まるで羽根のように宙へと舞い上がった。
時が止まったような感覚の中、暖炉の炎がゆらめき、ラトの愛らしい笑顔が視界の端で揺れている。
背中から右側の扉に向かって、重力に身を委ねながら飛んでいく。
宙空に浮遊しながら、俺は奥歯を噛み締めた――