表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/20

第五話

「ここにいる……私だよ」


世界が静止したような感覚に陥った。

暖炉の炎がパチパチと薪を爆ぜさせる音だけが、重苦しい沈黙の中に響いている。焦がれた木屑の薫香と、古雅なる居間に澱む塵埃の匂いが、張り詰めた大気を一層濃密に変じていた。


ラトは相変わらず、純粋無垢な笑顔を湛えている。

兎耳がぴょこんと揺れ、俺を見つめる琥珀色の瞳。

その可愛らしい外見とは裏腹に、彼女から発せられる威圧感が、氷のような冷気となって俺の全身を包み込んだ。

背筋に走る戦慄が、肌を粟立たせる。


その瞬間、俺の身体が反射的に動いた。

僅かなを掠め、床板の軋む音が耳朶を打った。


「――っ!」


反射的な魔力の消費。

緊張と緊迫感。

それでも空中で身を捻りながら、俺は革袋に手を伸ばした。

指先が小さなガラス瓶の冷たい表面に触れる。


着地と同時に、俺はその小瓶を握りしめて顔を上げた。

暖炉の炎に照らされた居間で、オレンジ色の光が壁に踊る影を投げかける中……

ラトが相変わらず微笑んでいる。


「はぁ、はぁ……」


気付けば暖炉の炎に照らされた居間に戻っていた。

左右への扉がある居間。

その扉の先が、どこに続いているかは分からない。

煤けた石造りの壁が、揺らめく炎の光を受けて不規則に明滅している。

その距離は十分に取れたが、狭い居間では限界がある。

空気は重く、汗と緊張の匂いが鼻腔を刺激した。


このラトという名の少女。

魔力量やその能力は、明らかに俺より格上。

肌を刺すような威圧感が、それを物語っていた。

けど……


この階層のボスなら、殺るしかない。


「そんなに驚かないでよ〜。ショックだな~もう。」


ラトが首を傾げながら、人懐っこい笑顔を浮かべる。

兎耳がぴょこんと動いて、まるで本当に困惑しているかのような仕草。

その声は蜜のように甘く、部屋の冷たい空気に溶けていく。


「せっかくの久々の来訪者なのに、もう戦うの?もったいないよ~もっと話そうよ~。そしたらもっとラトちゃんたち、分かり合える気がする。友達にだってきっとなれるよ~。二人で遊んで暮らそうよ~」


だが、その琥珀色の瞳だけは違った。

暖炉の炎が瞳孔に映り込み、獲物を前にした捕食者の、冷たく計算的な光が宿っている。

美しい外見の奥に潜む、底知れぬ殺意が空気を震わせていた。


「でもでも〜、やっぱり気になるな。お兄さんの秘密。もう話さないといけないことは全部言ったし、案内役としての仕事は果たしたよね?久しぶりの仕事で緊張しちゃった、てへへ。けど……もう。いいよね?」


少女の声が、わずかに低くなった。

暖炉の炎が一瞬強く燃え上がり、部屋全体を赤く照らし出す。

ラトの周囲の空気が歪んだような気がした。


「その血の瓶で、あの地獄を突破したんでしょ?どんな魔術なの?どんなカラクリなの?教えて教えて〜」


「っ……!」


俺の全身に冷たい汗が噴き出す。

これは――明らかな戦闘態勢だ。

纏う魔力が増長し、瞳が俺を睨む。

愛らしい笑顔とは裏腹に、彼女から発せられる殺気が俺を包み込んでいく。

まるで巨大な肉食獣に睨まれているかのような、圧倒的な威圧感。


「ねえねえ、見せてよ〜。その面白そうな魔術」


もう――躊躇している時間はない。

俺は握りしめた小瓶の蓋を親指で弾き飛ばした。

パチンという小さな音と共に、中に蓄えられた血液が宙に舞い上がる。

深紅の液体が暖炉の炎に照らされて、ルビーのような輝きを放った。


綴織つづれおり!」


魔力を込めて血液を圧縮し、鋭い針のような形に成形する。

リリィから受け継いだ朱脈操術により血が俺の意志に呼応し、赤い織針が空中に生まれた。

血液が糸のように細く伸び、それが高密度に編み込まれて鋭利な一撃と化していく。

鉄の匂いが濃厚に漂い、空気が張り詰める。

そして――


――!


血の織針が風を切る音もなく、ラトに向かって放たれた。

矢よりも速く、暖炉の炎よりも赤く、確実に少女の額を狙って飛んでいく。

石造りの部屋に響く薪の爆ぜる音が、一瞬静寂に包まれた。


「へぇ~血を扱う魔術なんだ」


ラトが楽しそうに呟いた瞬間――

彼女の身体が残像を残して消えた。


兎の脚力を人間の身体に宿したかのような、異次元の瞬発力。

床を蹴る音すら聞こえない。

まるで重力を無視したかのように、ふわりと宙に舞い上がる。

俺の血の織針は虚しく空を切り、地図が飾られる石壁に突き刺さった。

深紅の血液が石に染み込み、すぐに蒸発して消える。


「おもしろ~い!もっと見せて!もっと見せて!華麗に殺し合おうよ!」


声が頭上から降ってきた。

視線を上に向ければ、ラトが奥の部屋の天井近くで華麗に宙返りを決めている。

紅白の縞模様の靴下が膝上まで覆った脚が、舞踏家のように優雅に空中を舞っていた。

そして着地した瞬間―――


シャキン。

金属の冷たい音が響いた。

ラトの白い手袋に包まれた手に、見慣れない黒い金属の塊が握られている。


「ラトのお気に入りで相手してあげる」


彼女が手にしているのは、あの時計の部屋で俺を襲った筒状の武器。

しかし今度のそれは一回り小さく、手で握れるサイズに作られていた。

黒光りする金属の円筒に回転する部分があり、長い銃身が暖炉の炎を鈍く反射している。握りの部分には細かな溝が刻まれ、引き金を守るように金属の輪が取り付けられていた。

全体的に重厚で、職人の技が光る精密な造形。


「エンフィールド・Mk2リボルバーって型。格好いいでしょ?」


ラトは楽しそうに武器を俺に見せびらかしながら、もう片方の手で何かを取り出した。

小さな球状の物体――それは魔石だった。

兎耳をぴょこんと動かしながら、ラトは器用に球を武器の回転する円筒部分に込め始めた。

その動作は人形のように滑らかで、まるで何百回も繰り返してきたかのような手慣れた様子。


カチャ、カチャ、と小さな金属音が響く。

カチャリ。

俺の背筋に、冷たい汗が流れた。


装填が完了する音。

多分そうだ。そんな感じがした。

ラトが黒い武器を俺に向けて構える。

その刹那、俺の本能が最大級の警鐘を鳴らした。


あの時計の部屋で体験した、あの恐怖が蘇る。

無数の銃口から放たれた弾丸の嵐。

血の壁越しに感じた、あの凄まじい衝撃。

そしてあの銃とは違う雰囲気である。

明らかに重厚で強力なものだ。

それに……あのときよりも至近距離からの一撃など―――


「くそ……」


俺は慌てて革袋に手を突っ込んだ。

指先が中くらいのガラス瓶に触れる。

小瓶よりも多くの血液を蓄えた、貴重な備蓄の一つ。

しかし躊躇している暇はない。

中瓶のコルクを引き抜きながら、俺は血液を宙に解き放った。


藤布ふじふ!」


血液が俺の前方で渦を巻き、円形の盾を形成した。

小瓶一つ分よりもはるかに厚く、密度の高い防護壁。

赤い盾が俺と少女の間に立ちはだかり、魔力を帯びて鈍く光っている。


その瞬間―――


「血ってそんな使い方もあるんだ~」


ラトが愛らしく首を傾げながら、引き金を引いた。


――!


轟音が居間を震わせた。

先ほどの時計の部屋で聞いた雷鳴のような爆音が、狭い室内で何倍にも増幅されて響く。

火の魔石が爆発し、魔力を込めた弾丸が血の盾に激突した。


血の盾に穿たれた穴から火花が散り、赤い飛沫が四方八方に飛び散る。

だが――盾は持ちこたえた。

弾丸は血液の密度に阻まれ、俺に届く前にその威力を失う。


「末恐ろしい武器だな。その銃、さっきの銃とは威力がまるで違うように見える」


俺は荒い息を吐きながら、血の盾越しにラトを睨んだ。

少女は相変わらず微笑んでいる。


「へへ~気付いたんだ。けど、すごい!すごいよ!その血の魔術!面白い魔術だよ!ラトのお気に入りの銃弾を、正面から守り抜くなんて!これ人なんて簡単に貫く威力なのに〜、建物だって倒壊させちゃうくらいなんだよ!」


兎耳をぴょこんと動かしながら、ラトが手を叩いて喜んでいた。

その表情には純粋な歓喜が浮かんでいる。

まるで新しい玩具を手に入れた子供のような、無邪気な喜び。

だが、その手にはまだあの黒い武器が握られていた。


「もっと見せて〜、もっと楽しませて〜!」


ラトがくるくると回転しながら、再び武器を俺に向けた。

回転する円筒部分から、次の魔石が装填される小さな金属音が響く。


「この調子だと、お兄さんとはたくさん遊べそう〜!こんな相手、久しぶりすぎるよ!楽しすぎるよ!ラト超嬉しいよ!だ、か、ら、簡単に死なないでね!」


少女の声は心から嬉しそうだった。

まるで友達と遊んでいるかのような、屈託のない喜び。

しかし、その手は確実に俺を殺そうとしている。


――!


再び雷鳴のような爆音が響いた。

二発目の弾丸が血の盾を叩き、新たな衝撃が俺を襲う。

血液が飛び散り、盾に別の穴が穿たれた。


――!――!


今度は立て続けに発砲してくる。

ラトの表情は終始にこやかで、まるで的当てゲームでも楽しんでいるかのようだった。

兎耳がぴょこんぴょこんと弾む度に、引き金が引かれる。


「あははははは〜!面白い面白い〜!」


血の盾が次第に薄くなっていく。

貫通されてしまうのも、時間の問題だ。

このままでは埒が明かない。

血の盾が薄くなる一方で、ラトの攻撃は止まない。

守り続けているだけでは、いずれ力尽きてしまう。


俺は盾を維持しながら、もう一度革袋に手を伸ばした。

指先が二つ目の中瓶に触れる。

残り少ない血液の備蓄―――

だが、この状況を打破するには必要な投資だ。


ラトの四発目の攻撃を血の盾で受け止めながら、俺はコルクを引き抜いた。

そして中瓶の半分ほどの血液を宙に解き放つ。

深紅の液体が暖炉の炎に照らされて舞い上がり、俺の意志に呼応して形を変えていく。


「狂乱兎は躊躇なく、倒すのみだ」


中瓶の半分の血流は、渦を巻きながら細長く伸び、鋭利な穂先を持つ槍の形に成形された。

血の槍が血の盾の陰で静止し、ラトを狙って構えている。

彼女の死角となる位置。


――!


再びラトの銃声が響き、血の盾に新たな穴が開いた。

少女は相変わらず楽しそうに攻撃を続けている。

俺の血の槍には、まだ気づいていないようだった。

今だ――


「―――弓浜絣ゆみはまがすり!」


「えっ!?」


ラトの琥珀色の瞳が一瞬大きく見開かれる。

血の盾の向こう側から、突然現れた深紅の槍。

驚愕の声が漏れた瞬間、血の槍が少女の頬を掠めて通り過ぎた。


ラトの身体が反射的に後方へとのけ反る。

兎耳がぴょこんと揺れ、紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が床を滑る。

その動作は咄嗟のものだったが、やはり人間離れした敏捷性を見せていた。


「きゃっ……び、びっくりした~!」


愛らしい悲鳴を上げながら、ラトは数歩後退する。

予期しない攻撃だったようで、目を丸くして俺を見つめていた。

しかし、その表情にはまだ笑顔が残っている。

恐怖よりも、むしろ興奮のような光が琥珀色の瞳に宿っていた。

それでも……

体をのけ反り態勢を崩した隙は、見逃さない。


―――ここで決める!

続けざまに展開していた血の盾に残った魔力を全て注ぎ込んだ。

魔法陣が張り巡らされ、その魔力は一層の輝きを放つ。

防御に使っていた血液が一瞬で形を変え、新たな槍へと変化していった。


「もう一発だ!弓浜絣ゆみはまがすり!」


血の盾が消失すると同時に、二本目の槍がラトに向かって放たれた。

今度は正面からの直撃コース。

少女が体勢を立て直す前に、確実に仕留める一撃。


「わわわ〜!」


ラトの琥珀色の瞳に、一瞬だけ焦りの色が浮かんだ。

だが――


その時、ラトの姿が消えた。


いや……違う。

彼女は視界から消えただけだ。

彼女は……体をのけ反ったまま姿勢を落としたのだ。


腰を深く落とし、上半身を後方に反らしながら、槍が頭上を通り過ぎるのを待つ。

その動作は舞踏のように美しく、重力を無視したかのような軽やかさ。

蜂蜜色の髪が宙に舞い、兎耳がぴょこんと揺れる。

血の槍が虚しく壁に突き刺さる音が響いた。


「やるね~お兄さん。でもさ~」


愛らしい笑顔の奥に、捕食者の本性が垣間見える。

琥珀色の瞳が鋭く細められ、まるで獲物を狙う肉食獣のような殺気。

彼女は体を逸らしながらその場で手を付き、体を反転。

逆立ちのような状態から体をグルっと丸めると、足を地面に付けた。


「それ、隙ありすぎだよ!」


兎の脚力が炸裂した。

床を蹴る瞬間、石の床材が僅かにひび割れる。

それほどの力で地面を蹴りつけながら、ラトの身体が弾丸のような速度で俺に向かって突進してくる。


紅白の縞模様の靴下に包まれた脚が、人間の限界を遥かに超えた速度で地面を蹴っていた。

白いドレスの裾が風に煽られ、まるで白い彗星のように宙を駆ける。

距離が一瞬で詰められる。


三メートル、二メートル、一メートル――


「――やばっ!」


俺は咄嗟に残り少ない魔力を両腕に集中させた。

筋肉が魔力で強化され、一時的に硬度を増す。

そして腕を交差させて防御姿勢を取ったが――


「ホーラン・ドロップ~♪」


愛らしい掛け声と共に、ラトの身体が宙に舞った。

両脚を前方に突き出し、全身を水平に保ちながら俺に向かって飛んでくる。

紅白の縞模様の靴下に包まれた両足が、まるで槍の穂先のように俺の胸部を狙っていた。


ドロップキック――

兎の跳躍力を活かした、空中からの必殺の一撃。


―――!!


凄まじい衝撃が俺の全身を貫いた。

魔力で強化したはずの両腕が、まるで鉄の棒で殴られたような激痛に痺れる。

骨が軋む音が聞こえ、筋肉が悲鳴を上げた。

少女の細い脚とは思えない、破壊的な威力。

両足の裏から伝わる衝撃が、俺の腕を通じて全身に響いていく。


そして俺の身体は、まるで羽根のように宙へと舞い上がった。


時が止まったような感覚の中、暖炉の炎がゆらめき、ラトの愛らしい笑顔が視界の端で揺れている。

背中から右側の扉に向かって、重力に身を委ねながら飛んでいく。

宙空に浮遊しながら、俺は奥歯を噛み締めた――



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ