第四話
雅やかで気品に満ちた空間。俺は呆然と立ち尽くしていた。
つい先ほどまで銃弾の雨に晒され、命からがら逃げ延びたというのに――
この現実離れした光景は一体何なのか。
まるで悪夢から美しい夢へと瞬時に移り変わったかのような、あまりの落差に思考が追いつかない。
仮にこの空間を居間と呼ぶことにしよう。
居間には左右と奥へと続いているのか、三つの扉。
暖炉、本棚、そしてベルベット椅子。
そこには兎耳の少女が、ニコニコと笑みを浮かべていた。
「えへへ、人に会うの久しぶだよ~!すごいね!ここまでたどり着く人、ぜんぜーんいないんだよ!ほとんどの人は、あの銃で蜂の巣になっちゃうからさ~。前にここまで来た人がいたのは2年前、いや4年前?10年前だったかも?とにかくとーっても久しぶり!」
金髪の少女は心底嬉しそうだ。
手をぱちぱちと叩いて喜ぶ仕草は無邪気そのもの。
しかしなんだろうか。この纏う雰囲気の奇妙さは?
ただの可愛らしい少女。妹と同じくらいの年齢の少女。
なのに気配が違う。纏う雰囲気が異質なのだ。
笑顔は確かに愛らしく、声も鈴を転がすように美しい。
けれど、その気配は底がしれない。
「お前は……何者だ?」
懐の血の瓶に手をかけながら、そう問う。
すると少女は一層嬉しそうに笑みを浮かべた。
暖炉の炎が彼女の白い肌を照らし、影が壁に踊っている。
「え、誰かって?いきなりそんな堅いこと言わないでよ~!お名前も聞かずに『何者だ』なんて……物騒だよ~。けどけど、教えてあげる~。私はね~ラト。ラトって言うんだ〜。この兎耳がチャームポイントの可愛らしい女の子だよ!」
兎耳をぴょこんと動かしながら、愛らしく自己紹介する。
可愛いとか、自分で言うのか。
「ねえねえお兄さんは、だあれ?」
彼女は椅子に座ったまま、身を乗り出して俺の顔を覗いてくる。
可愛らしいのに、どこか機械的な響きを感じる。
まるで見ただけで俺の全てを見透かしているかのようだ。
気味が悪い。
「リオ……リオだ。リオ・ルース。それより……俺が聞きたかったのは、お前の名前じゃない。お前が何者かということを、聞きたいんだ。お前は何
「……え~なにその言い方!ひど~い。私の名前だって十分大事だよ!とっても、とっても~大事!んまぁ~けどお、お前は何なんだ……か。うーん、いっか!自己紹介しちゃうとね!ラトちゃんはこのダンジョンの案内役なのです!」
「案内役……?ダンジョンにわざわざ案内役がいるのか」
思わず眉をひそめた。
ダンジョン側から案内役が用意されているなど、聞いたことがない。
数多くのダンジョンの資料を読んできたが、そんな事例は一度もないぞ。
「えへへ〜驚いた〜?そうだよ~。案内役がいるの〜!リエルちゃんは親切だよね!挑戦者ちゃんが迷子にならないように、ちゃんとお手伝いしてくれるの。けどけど……このダンジョンは普通のダンジョンとは全然違うから、その役目があるのもしょうがないかなって……それで受け入れたんだ!だから~教えてあげる~」
彼女――ラトは椅子の上から飛び出した。
白い手袋に包まれた手が、俺を手招きしている。
「こっち来て~」
「……」
この少女を信用していいものか。
聞いたことがない案内役という話。
そして明らかに異質な雰囲気。
異質で異常。
こんなにフレンドリーな話し方をしながらも、俺の事を何とも思っていないような……
まるで人形と話してるみたいな……
言葉で言うとそういう雰囲気なのだ。
案内役だか何だか知らないが、とてもじゃないけど味方とは思えない。
だが……
他に選択肢もないか。
「……分かった」
ラトが居間の奥にある扉に向かって歩き始める。
紅白の縞模様の靴下が膝上まで覆った足が、絨毯の上を無音で進んでいく。
その歩き方は空気のように滑らかで、まるで重力を感じさせない。
足音一つ立てずに歩く様は、確かに人間離れしていた。
不思議に思いながら、彼女の背中を追う。
そんな俺を見て嬉しそうにしながら、奥の扉に手をかけた。
そして扉を開けると――
そこは円形の小さな部屋だった。
石造りの壁面には、巨大な羊皮紙の地図が掛けられている。
暖炉の炎に照らされたその地図は、古雅な文字と精密な線画で描かれており荘厳さを湛えていた。
「じゃーん!こちらがこのダンジョンの全体図でーす♪」
ラトが地図を指差した。
これは五階建ての塔……だろうか?
「このダンジョンはね、五階建ての塔になってるの!一階ずつにその守護神となる階層主がいてね~、その階層主を倒すことが出来たら次の層への階段が現れる仕組み。全部の層が攻略出来たら、初めて魔女リエルに会えて……そしたらリエルちゃんが願いを叶えてくれるってわけ!だからすっご~い難しいの!階層の主は、全員強いからね~」
階層主……
この塔の各階にはボスがいるということか。
つまりその各層のボス、5体を倒せばいいってことか。
意外と単純な作りじゃないか。
そこまで説明すると、彼女はくるっと俺へと向き直る。
「この一階層をクリアできる人間も、この千年で百人くらいだって言ってたよ!だから〜リオお兄さんも、クリアするの難しいかも。申し訳ないけどこれは、ルールだからさ……しょうがないよね」
千年で百人くらい……。
つまり十年に一人程度しか、最初の階層すらクリアできないということか。
そもそも千年前に現れたダンジョンが、まだ攻略されていないのだから……
その危険性を考慮すれば、その数字も納得出来る。
と言うか、百人くらいって……。
どんだけ難しいんだこの1階層
よほどここのボスは、強敵なのだろう
ただ……『くらい』って言葉が気になるな。
「案内役なのに1階層を突破した人数も、正確に覚えていないのか?」
「え~だって私が案内役になったの百年前とかだよ?だからそれまでの年数しか分からないんだ!そもそも私が案内役になってから、まだ1階層の突破者はいないからさ〜。全部リエルちゃんからの又聞きなんだよね〜。あっもしかして百歳のババアだとか思った?もう失礼しちゃうな〜」
「そんなことは思ってない。百年前から……本当か?そうは見えないな」
百歳以上には、とてもじゃないが見えない。
どう見てもその容姿は、妹くらいの年齢の少女。
10代の思春期真っ只中の少女、そのままだ。
「見えない?本当!?良かった~!実はこのダンジョンの時間って歪んでるんだよね!だからラトもそこまで年は取ってないんだよ!あんまりよく分からないんだけどね」
「案内役なのに、よく知らないんだな」
「うっ……痛いとこつくね」
彼女はオーバーにのけ反ってみせた。
その瞬間、暖炉の炎が揺らめいて、彼女の顔に不気味な影を落とす。
「けどねけどね、その通りなんだ!ラトも全然、知らないんだよね!案内役なのに、一階層しか知らないんだ!だから二階層より上がどうなってるのか、ま~たく分かんない。案内役に任命するなら、ちょっとくらい教えて欲しいよね!これじゃあ案内役じゃなくて、ルールを教えるチュートリアルお姉さんみたいなものだよ!」
少女は可愛らしく微笑む。
幼げで可愛らしい笑みだ。
時間が歪んでいる――
という話はダンジョンにおいては珍しい話ではない。
ダンジョンは未だにその原理は明かされておらず、摩訶不思議な空間。
時間がずれたり、ワープしたり。
意味が分からないことが、当たり前に起こる。
それがダンジョンというものらしい。
けれど……
さすがにあの時計と銃の空間は異常だった。
「さっきあったのは……銃だよな?なんだったんだあの空間は?」
「え!?知ってるの!?銃!?」
ラトの目が一瞬きらりと光った。
「ああ、サトウの手記で読んだ。あれは銃と言う武器なんだろ?火の魔石を爆発させ、装填した土の魔石を発射する装置」
「そうそう!その通り!そっかーサトウの手記読んだんだ!あの銃もね、教えられてね!作ってみた武器なんだ。どう?すごかったでしょ!パンパーンって!さいっこうの武器だよね。私大好きだからさ、このダンジョンの入口に設置してるんだ!」
「あの空間を作ったのも、お前なのか?」
「そうだよ~!あそこで皆、殺されるんだ!そうして時計の秒針と共に心音がかき消えて、銃声との奇妙なレクイエムを演出するっていうエモーショナルでユニバーサルな空間なの!お兄さんも楽しんでくれた?」
笑顔とは裏腹の残酷な話。
心から楽しんでいる声色。
妖艶な笑み。
やはり――そうだ。
この違和感。この寒気。この恐怖。
全部、この笑顔で分かった。
この少女は俺を、人だと思っていないんだ。
ただの空気、ただそこにいるだけの存在。
殺すという行為に、何の躊躇もない。
俺を人間とは、生命とは見てない。
俺も命を殺めるのを躊躇しない身であるが、彼女とは根本的に違う。
人だと思って殺すのと、人だと思わないで殺すのとでは話が違うのだ。
彼女は俺を……
人とは見てなどいないんだ。
「その表情、楽しんでくれたみたいだね!良かった~。けっこうな自信作だからね!あの狂騒の中を、潜り抜け!突破してきたのは、ホントすごい。こうして感想を語り合えるなんて夢のようだよ!」
その時、ラトの目つきが変わった。
琥珀色の瞳に、鋭い光が宿る。
まるで獲物を値踏みする捕食者のような、冷たく計算的な視線。
先ほどまでの天真爛漫な表情が嘘のように消え失せ、そこには別人のような少女が立っていた。
「お前……狂ってるぞ?」
「え!?狂ってなんかないよ!ラトはラトだよ!こんな感じのただウサギ耳があるだけの、そこら辺に居る普通の少女。お兄さんともな~んも変わらないよ。ん……いや、違う。お兄さんの方が狂ってる、そう。そんな感じがする。違う?」
「なんでだ?」
「だって……あの場所を突破したにしては、弱すぎるもん」
「……!?」
彼女の顔が俺の目の前まで迫ってきた。
体が密着するかと思うほどの距離。
甘い香りが鼻腔を満たし、琥珀色の瞳が俺を見つめている。
「そんな弱そうなのに!魔力もほとんどなくて!体格も普通。気配も普通。技術もなさそう。なのにあの私の自信作を突破してきた……。不思議!不思議だよ?どんなカラクリが?どんな魔術が?お兄さんを守り、あの地獄を突破したの!?気になる!気になるよ!」
ラトの指先が俺の頬に触れそうになる。
白い手袋に包まれた細い指が、まるで刃物のように鋭く感じられた。
俺は反射的に一歩後ずさった。
自身の弱さを見抜かれた動揺と、少女の美しさに対する照れが入り混じって、頬が熱くなる。
「あれ?照れちゃった?お兄さん、可愛いんだね!」
ラトが嬉しそうに手を叩く。
その瞬間、また天真爛漫な表情に戻っていた。
まるで仮面を付け替えるように、表情がころころと変わる少女。
「魔力がないのに、魔法が使えるの?あの銃弾の嵐を、針音の鳴る狂騒の空間を、突破したのにはきっと何かある。何かあるに決まってる。だって挑戦者のほとんどはあそこで骸になるんだから!……やっぱりその血の入った瓶に、何かあるんでしょ?」
兎耳がぴょこぴょこと動いて、好奇心に満ちた瞳が俺を見つめていた。
こいつ――
俺の血の魔術にもう気付いたのか?
「……それは」
俺は言葉を濁した。
リリィから受け継いだ力のことを、この得体の知れない少女に話すわけにはいかない。
これほどに異常で、狂気的で、溌溂とした彼女。
彼女を信用するなど、無理な話だ。
「……それより、この階層のボスはどこにいるんだ?さっき左右への続く扉が見えた。そこから奥へ行くのか?」
俺は話題を変えようとした。
ラトの興味深そうな視線から逃れるように、後方の居間へと目を向ける。
「……ボス?」
ラトが首を傾げる。
兎耳がぴょこんと動いて、不思議そうな表情を浮かべた。
「ああ、一階層の階層主のことね。どこにいるかって?」
少女がにっこりと微笑む。
「ここにいる……私だよ」
その瞬間、世界が静止したような感覚に陥った。
暖炉の炎がパチパチと薪を爆ぜさせる音だけが重苦しい沈黙の中に響いている。
俺の脳裏に、これまでの違和感が一気に繋がった。
案内役でありながら一階層しか知らないこと。
百年前からここにいるという話。
人の死を当然のように語る冷たい笑顔。
そして何より――あの異質な気配。
「……!?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
ラトは相変わらず天使のような笑顔。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が俺を見つめている。
その可愛らしい外見とは裏腹に、彼女から発せられる威圧感が俺の全身を包み込んだ。