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第三話

世界が純白の光輝に包まれ、あらゆる感覚が虚無の彼方へと消え失せる。

重力の束縛から解き放たれ、永劫の時が凍りついたかのような深遠なる浮遊感に身を委ねる。

やがて神々しき光芒が薄れゆき、足裏に冷厳なる石の感触が静かに甦ってきた。


転移完了――


俺はそっと瞼を押し開けた。


「これは……」


眼前に展開する幻想的な情景に、俺は言葉を失った。

そこは、人智では測り知れぬ神秘なる空間であった。


天井は雲霞の如き高みまで聳え立ち、乳白色の靄が幽玄に漂い揺らめいている。

壁も床も、歳月を経た石造りでありながら、どこか幾何学的な荘厳さを湛え、古雅な美しさを放っていた。

空気は冷ややかで、かすかに鉄錆と古書の匂いが鼻腔をくすぐる。


だが、最も異様だったのは――

足元に散らばる無数の時計だった。


大小様々な時計が、まるで秋の落ち葉の如く床一面を埋め尽くしている。

懐中時計、置き時計、砂時計。

中には見たこともない奇妙な形状の時計もあった。

それらは皆、異なる時刻を指し示し、異なる韻律で永遠の時を刻み続けている。


カチ、カチ、カチ……


チク、タク、チク、タク……


シャラ、シャラ、シャラ……


無数の時計の響きが幾重にも重なり合い、狂気じみた交響楽を奏でていた。

時の流れそのものが歪曲し、捻じ曲げられているかのような、身の毛もよだつ異界の空間。


「なんだ……これ?」


俺は慎重に足を進めた。

時計を踏まないよう注意しながら、周囲を見回す。

この異様極まりない光景が、千年前の魔女の所業なのであろうか。


その時――


カチャリ。


微かな金属音が響いた。

俺は全身を緊張させ身構える。

だが、何も見えない。


カチャリ、カチャリ。


音が次第に数を増していく。

四方八方から聞こえくる、金属の擦れ合う不吉な調べ。


そして――


「……!?」


俺を取り囲むように、空中に無数の魔法陣が浮かび上がった。

青白い燐光を放つ円形の紋様が、重力を無視して宙に静止している。

その数は数十、いや百を軽く超えているであろうか。

そして、それぞれの魔法陣の中央から――奇妙な筒状の物体が突き出していた。


黒い金属製で、長さは腕ほど。

先端は小さな穴が虚ろに口を開け、後部は不自然に太くなっている。

見たこともない異形の造形であったが、本能が警鐘を鳴らしていた。


これは―――武器だ。


俺を狙い定める、無数の武器。

魔法陣によって制御され、完璧に俺を包囲している。

一体何のための道具なのかは皆目見当もつかないが、殺意だけは鮮烈に感じ取れた。


そして……

その筒状の武器を見た瞬間、俺の脳裏に朧げな記憶が蘇る。


王都の図書館で古文書を漁っていた時、薄暗い書架の奥で偶然手にした一冊の手記。

羊皮紙の黄ばんだページに、震える文字で記された冒険譚。


『伝説の勇者サトウの冒険譚』


多くの学者が偽書と断じる、眉唾物の書物。

だが、リリィを救うための情報を求めて必死に資料を渉猟しょうりょうしていた俺は、どんな些細な手がかりも見逃すまいと、その怪しげな手記にも目を通していた。

その中に記されていた、奇怪な武器の記述が頭に浮かんだ。


『鉄の筒より炎と雷鳴を放ち、遠き敵を討つ兵器。銃。けどまあ魔法が日常のこの世界では、殺傷性は乏しいけどね』


銃――

まさか、それが実在したというのか。


サトウの手記は戯言だと思っていたが、目の前の光景がその記述と完全に一致している。

黒い金属の筒、先端の小さな穴、後部こうぶの太い構造。

全てがあの古い手記に描かれた「銃」の特徴と合致していた。


サトウは価値のない武器だとか言っていたけれど……

これは明らかに危険!

纏う雰囲気が、殺意が、凡人の俺にさえヒシヒシと伝わってきた。


「不味い……」


俺は革袋に手を伸ばした。

指先が大きなガラス瓶の、冷たい表面に触れる。


この三年間、少しずつ採血して溜めた俺自身の血液。

小瓶二つ、中瓶二つ、そして大瓶二つ。

その中でも最も多くの血液を蓄えた、貴重な大瓶の一つ。

くそっ……躊躇している時間はない。


俺は大きなガラス瓶を革袋から引き抜くと……

一切の迷いを捨てて足元の石床に向かって力任せに叩きつけた。


――!


鋭いガラスの破砕音が、時計たちの狂ったシンフォニーに混じって響いた。

瓶は無数の破片となって飛び散り、中に蓄えられていた大量の血液が石床に広がっていく。

深紅の液体が時計の隙間を縫って流れ、床一面に赤い水溜まりを作り出した。

懐中時計や置き時計の金属部分に血が付着し、文字盤を赤く染めていく。

鉄錆の匂いに血の生臭さが混じり合う、異様な芳香。


三年分の採血の成果―――

大瓶一つ分の血液が、俺の足元で静かに波打っていた。

もう猶予はない。


「俺を守れ!」


俺の命令と共に、石床に広がった血液が意思を持ったかのように蠢き始めた。

リリィから受け継いだ朱脈操術が、俺の意志に呼応して発動する。

深紅の液体が時計の間を縫うように流れ、まるで生きた蛇のように立ち上がっていく。

血は重力に逆らって宙に舞い上がり、俺の周囲を螺旋状に回転しながら上昇した。

赤い帯が幾重にも重なり合い、次第に厚みを増していく。


裂織さきおり!」


俺の命令と共に、血液に魔力が循環する。

魔法陣が複雑に絡み合い、俺を中心とした円形の壁を形成した。

まるで赤い繭。


それと同時に―――


ついに攻撃が始まった。


――!


突如として轟いた雷鳴の如き爆音。

硝煙の刺激的な匂いが大気を満たし、直後に血の壁に何ものかが激突する鈍重な響きが木霊する。

まるで巨大な鉄槌で打ち据えられたような衝撃が、血の防護壁を通じて俺の身体に響いた。


――!――!――!


次々と雷鳴が轟き、無数の弾丸が血の壁を襲った。

紅い液体が飛沫となって宙に舞い散り、壁に穴が穿たれる。


――!――!――!――!


絶え間ない銃声。

百を超える銃口から放たれる弾丸の嵐。

それらが一斉に血の壁を叩き、赤い飛沫を四方八方に散らしていく。

空気を裂く音、金属の衝突音、そして硝煙の刺激臭。


俺を取り囲む血の防護壁が激しく波打ち、まるで嵐の海のように荒れ狂っていた。

弾丸が血液に埋もれ、その運動エネルギーを吸収されながら力を失っていく。

だが、衝撃は確実に俺を襲っていた。

まるで殴られ続けているような振動が、血の壁を通じて全身を揺さぶる。


「ちっ!」


血の繭を纏いながら、長く続く廊下を走り出す。

足元で時計が砕け散る音が響く。

懐中時計の金属ケースが潰れ、置き時計のガラス面が粉々になり、砂時計から細かな砂粒が飛び散った。

ガラスと金属の欠片が宙に舞い、俺の頬を鋭く切りつけていく。


カチカチカチカチ……


――!――!――!


チクタクチクタク……


壁に飾られた無数の時計たちも、俺の激しい動きに呼応するかのように音を立てた。

振り子時計が激しく揺れ、掛け時計が壁から落下して床に叩きつけられる。

狂ったシンフォニーがさらに混沌を極めていった。


血の壁越しに感じる銃弾の衝撃が、走る度に全身を揺さぶり続ける。

それでも壁際の時計を蹴散らし、足元の時計を踏み潰しながら、暗闇の奥へと向かって走り抜けていく。


鳴りやまぬ銃声。時計の針音。

頭がおかしくなりそうな音の豪雨が耳の中でなり続ける。

それでも無我夢中で走り続けると……


やがて―――


背後で響く銃声が、次第に遠ざかっていく。

――!、――……

と断続的に響いていた雷鳴のような音が、やがて完全に鳴り止んだ。

狂乱の時を刻んでいたシンフォニーも徐々に弱まり、重く澱んだ静寂が辺りを包み始める。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


俺の荒い息遣いだけが、静寂に包まれた空間に響いていた。

全身に脂汗が滲み出て、心臓が激しく打ち鳴らされている。

湿った冷気が肌を刺し、鼻腔には硝煙と鉄錆の匂いが濃厚に漂っていた。


本当に安全になったのか?まだ追撃があるか?


恐る恐る周囲を見回し、もう銃声が聞こえないことを確認してから、俺は血の壁を解除した。

深紅の液体がゆっくりと重力に従って地面に落ち、石床に赤い水溜まりを作る。

三年間かけて蓄えた貴重な血液が、無残にも床に広がっていく様を見て、胸が締め付けられた。

しかしあそこで決断しなければ、今頃は蜂の巣と化していたであろう。

なんて試練だ……。

ダンジョンに入ってすぐ、これほどの佳境に立たされるとは。


そして気づけば―――


「……へ?」


俺はまったく違う空間に立っていた。

先ほどまでの石造りの廊下とは打って変わって、そこは温かみのある居間だった。


足元には柔らかな絨毯が敷き詰められ、暖炉では薪が勢いよく燃え盛り、琥珀色の炎が部屋全体を慈愛深く照らし出している。

パチパチと薪の爆ぜる音が心地よく響き、ほのかに木の香りが漂っていた。

壁面には雅やかな絵画が飾られ、本棚には革装丁の書物が整然と並び、古き良き知の香りを静かに放っている。


「なんだ……ここ?」


まるで貴族の邸宅の奥座敷のような、雅やかで気品に満ちた空間。

先ほどまでの殺伐とした修羅の如き雰囲気とは正反対の、心安らぐ聖域。

その部屋の中央、高級そうな赤いベルベットの椅子に―――

一人の少女が座っていた。


パチパチパチ……


彼女は俺を見つめながら、ゆるやかに拍手を送っている。

暖炉の炎に照らされた彼女の白い手袋が、リズミカルに響く音を奏でていた。


その少女は、目を疑うほどに美しかった。

蜂蜜色の髪が絹糸のように肩まで流れ落ち、頭には大きな兎に似た耳。

大きな瞳は琥珀色の宝石のように輝き、薔薇色の唇が微かに綻んでいた。

兎耳の人……?兎人……?そんな種族いるのか。

整った面差しは少女のような無垢さと、どこか妖艶な魅力を秘めている。


身に纏うのは純白と深紅が混ぜ合った豪奢な衣装。

胸元には鮮やかな赤いリボンが蝶のように結ばれ、袖口や裾には金糸の刺繍が繊細に施されている。

白い長手袋が肘まで優雅に伸び、足元には紅白の縞模様が愛らしい靴下が膝上まで覆っていた。

衣装全体が彼女の体躯に密着し、まだ蕾のような肢体の線を艶やかに浮き彫りにしている。


「ようこそ、魔女リエルのダンジョンへ」


鈴を転がすような声が、静謐な居間に響いた。

少女は椅子に優雅に腰を据えたまま、春風のような穏やかな微笑みを湛えて俺を見つめていた。


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