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第二話

魔女リエルのダンジョン―――

それは竜車に揺られて王都から北へと辿る三日の道程、深緑に息づく太古の森の奥深くにひっそりと眠る古の遺跡である。

千年の昔、不死の魔女リエルが築いたとされるその迷宮は、幾星霜を経て数多の冒険者たちの墓標となってきた。

踏み入る者は夜空の星の数ほどもあれど、されど生還の栄光を手にした者は一人として存在しない。

木々の間を渡る風は、名もなき勇者たちの嘆息を運び、苔むした石畳には彼らの無念が染み付いている。


その危険性ゆえ、冒険者ギルドは鉄壁の如き厳格な許可制を敷いている。

上級冒険者としての血と汗に塗れた実績、魔物の牙をも砕く十分な装備、そして何より死神の鎌を躱し得る生還の可能性を証明せねば、立ち入り許可は下りない。


当然、土の匂いと汗にまみれた農夫上がりの俺に許可が下りるはずもなかった。

ギルドの受付嬢は同情的な眼差しを向けながらも、首を横に振るのみである。


けれど、もちろん諦めなどしない。

許可など、最初から期待していなかった。

無許可での侵入――それは重罪だが、もはやそんなことはどうでもよい。

リリィを救えるなら、俺は喜んで罪人になろう。


調べによればこのダンジョンは、誰もが脳裏に描くような洞窟めいたダンジョンとは趣を大きく異にする。

ダンジョンと言われれば、苔むした岩壁に口を開けた洞窟のような入口があり、そこから暗闇の奥へと足を踏み入れていくような、そんな古典的な迷宮を想像するかもしれない。

けれどこの魔女リエルのダンジョンは主に異なる。


入口に当たる場所には、古代文字で刻まれた魔法陣がひっそりと地面に刻まれているだけなのだ。

その魔法陣が転移魔法陣となっており、青白い光を放つその円環に足を踏み入れることでダンジョンにいざなわれる仕組みとなる。


そのため、そこには出口の気配はひとかけらもなく、運命という名の一方通行の片道切符。

そこから先に何が待ち受けているか、誰にも分からない。

星の光すら届かぬ暗闇か、炎に舞う地獄の業火か。

もしかしたら転移先が鋭利な針の山だったり……煮えたぎるマグマの海だったり……

血も凍るような死の罠が、冷たい微笑みを浮かべて待っているのかもしれない。

まさに未知の最難関ダンジョン―――

それが魔女リエルのダンジョンなのだ。


その転移魔法陣は夜明けとともに朝の六時にリセットされ、一日に一度だけ転移を許可する仕組みだという。

時々数日間、原因不明でその魔法陣が使えなくなることがあるのだが……

それは例外中の例外。

記録こそあるが、ここ十年はそのような事象は起きていない。

つまり、その運命の瞬間を狙えば―――


俺は夜明け前、竜車の重い蹄音に揺られて近くまで進んだのち、露に濡れた森へと身を躍らせていた。

足音を殺し、小枝の折れる音さえも押し殺しながら、枝葉を掻き分けてダンジョンへと向かう。

湿った土の匂いが鼻腔を満たし、夜露が頬を冷たく撫でていく。三年間で鍛えた体は豹の如く軽やかに森の中を進み、潜む魔物たちの殺気を肌で感じ取った。


時折、遠い闇の彼方から野獣の遠吠えが木霊となって響くが、恐れはない。

心臓の鼓動だけが、静寂を破る唯一の音。

今の俺が恐れるべきは、牙を剥く魔物ではなく、刻一刻と過ぎ去る時間だけだ。


やがて深緑の帳が薄れ、森が開けると、悠久の時を湛えた古い石造りの遺跡が荘厳な姿を現した。


「ここ……か」


朝靄が絹の帳の如く立ち込める中、その建造物は神々しいまでの威厳に満ちた姿で佇んでいる。

千年の風雪に晒されながらも崩れることなく、古代の石工技術の粋を集めた円形の神殿のような構造。

風化した石の表面からは、遥かな昔の職人たちの魂が息づいているかのようだった。

壁面には蜘蛛の巣のように複雑な魔術文字が刻まれ、まるで生きているかの如く薄暗い光を放っている。


中央には巨大な魔法陣が幾何学的な美しさで描かれており、そこだけが夜明けの星のように仄かに青白く輝いていた。


石畳に足音が響く。

一歩踏みしめるたびに、千年の眠りから覚めた古代の魔力が靴底を通じて血管へと這い上がってくるようだった。

この聖域に漂う異質な空気は、まるで時の流れすらも歪め、過去と現在の境界を曖昧にしているかのよう。

ひんやりとした朝の大気に混じって、何とも言えぬ魔力の残り香が鼻腔を満たしていく。


そして―――


「止まれ」


低い声が響いた。

魔法陣の両脇に、二人の男が立っている。

守衛――ダンジョンを守護する番人たちだ。

彼らは古式ゆかしい鎧に身を包み、刃文も美しい長剣を腰に下げている。

顔は漆黒の兜で覆われているが、その隙間から覗く瞳には確かに人間の意志が宿っていた。

朝霧に霞む中でも、その眼光だけは鋭く俺を射抜いている。


「誰だ貴様?許可証を見せろ」


右の守衛が機械的な声で告げる。年の頃は三十前後だろうか。

がっしりとした体格で、言葉にならない風格がある。

三年前の俺であれば、ビビりすぎておしっこを漏らしていたに違いない。

昔の俺、ひ弱すぎ……。

妹があれだけ心配するのも当然だ。


「許可なき者の侵入は、これを許さず」


左の守衛も同様に告げ、皮の手袋に包まれた手を剣の柄に置く。

金属と革の擦れる微かな音が、静寂を破って響いた。

その動作には一片の迷いもない。職務に忠実な、実直な男なのだろう。

朝露に濡れた鎧が、彼らの揺るぎない意志を物語っている。


彼らはただ自分たちの仕事をしているだけだ。

俺を阻むのも、上からの命令に従っているだけに過ぎない。

だが――それでも俺は進まなければならない。

リリィの面影が胸の奥で微笑みかけ、俺の決意を石のように固くしていく。


俺は静かに腰の革袋に手を伸ばした。


「……時間だ」


空の色が薄墨から淡い金色へと移ろい始めた。

六時の鐘が遠くから響いてくる。

鐘の余韻が森の木々に吸い込まれ、神秘的な調べとなって消えていく。


魔法陣の光が一段と強くなり、まるで星座が天から舞い降りたかのように転移の準備が整ったことを示していた。

青白い光が生き物のように脈動し、読み取れない魔法陣の文字が次々と真珠のような輝きを増していく。

魔力の波動が空気を震わせ、肌に電気のような痺れをもたらした。


今しかない。

この瞬間を逃せば、また一日待たなければならない。

三年も準備したのだ。

これ以上妹を待たせるわけにはいかない。


守衛たちが剣を抜く。

磨き抜かれた鋼の刃が朝日を鏡のように反射し、殺気が朝の清澄な空気を震わせた。

金属の摩擦音が石畳に響き、彼らの覚悟が音となって伝わってくる。

彼らは最後まで職務を全うしようとしている。

立派な男たちだ。家族への愛も、正義への信念も、俺には痛いほど理解できる。


それでも――俺は躊躇わない。

リリィのためなら、俺は喜んで悪魔にでもなろう。



血が宙に舞う瞬間、俺の脳裏に三年前の記憶が蘇った。

あの夜―――

リリィの石化が胸元まで無情に進み、もう時間がないことを悟った運命の夜。

月光が百合の花のように窓から差し込み、妹の半ば石と化した身体を青白く照らしていた。

大理石のような冷たい光が、彼女の苦痛を神々しくも残酷に浮かび上がらせている。


「条件……?」


「うん、私の――私の魔術回路を、お兄ちゃんに渡したい」


……え?

俺は息を呑んだ。


「何を言ってるんだ?」


「私の固有魔術があれば、お兄ちゃんなら攻略できるかもしれないもん。あ、けど、使いこなせるようになるまでは、ダンジョン行くの禁止だから。私が石化しても、それは守ってね」


「いや、待て待て……何を言って?」


リリィが手首の静脈に指を当てる。

まだ石化していない、桜の花びらのように柔らかな肌。

脈打つ血管が青く透けて見えている。


「前に言ったことなかったっけ?私は魔法の才能もあるんだけど、固有魔術って特別な才能があるからスカウトされたんだよ。血を操る固有魔術……朱脈操術しゅみゃくそうじゅつ――。それでね……この能力は面白いことが分かってね、血液を通じて回路を移すことができる」


リリィが俺を見つめる。

涙でぐしゃぐしゃの顔だったが、その瞳には強い意志があった。


「この私の魔法の全部……お兄ちゃんにあげる」


「いや――」


「魔術回路の完全譲渡。お兄ちゃんなら、きっと私の血液魔術を使いこなせる。だってお兄ちゃんだから。家族だから。血液型だって一緒だし、きっと……」


「だめだ。そんなことしたら、お前は魔法が使えなくなる!魔術回路はその人の魔術の根底にある導きだ!だから――」 


「どうせ私にはもう……関係ないよ。それに、これなら少しでもお兄ちゃんの助けになる。冷静になってよ、今のお兄ちゃんじゃ、何年修業してもすぐ死ぬよ?即死ぬよ?マッハで死ぬよ?お兄ちゃんダンジョン行ったことないから分かんないだろうけど、お兄ちゃんみたいなのが生きられる環境じゃないんだよ。けど……この朱脈操術なら、この力を使いこなせるなら……お兄ちゃんならきっと――」


「リリィ...」


「これが条件!約束して」


妹が俺の手を両手で握った。

石化した下半身とは対照的に、その手は春の陽だまりのように温かかった。

生命の温もりが俺の掌に伝わってくる。


「私の魔法を持ってるお兄ちゃんが死んだら、私も一緒に死ぬことになるから。だからこの魔術がついてるなら、私はお兄ちゃんと生き続けるの」


そのリリィの顔を見て……

俺は断れなかった。

その夜……

リリィは震える手で魔術回路の譲渡を行った。


俺の体に、今まで感じたことのない力が清冽な泉のように流れ込んで来た。

血液の流れが手に取るようにわかる。

脈打つ血管の一本一本、その中を駆け巡る赤い生命の河が、まるで地図を見るように鮮明に浮かび上がってくる。

これが、妹の天賦の才能だった。

神に愛された、稀有なる血の魔術師の力。


術を終えたリリィは、糸の切れた人形のようにぐったりとベッドに倒れ込んだ。

月光が彼女の青白い頬を撫で、まるで天使の安らぎを与えているかのようだった。


「お兄ちゃん...私の分まで、生きて」


魔術回路を失ったリリィの石化は、急激に進行した。

魔術回路の譲渡が彼女の残りわずかな生命力を根こそぎ奪ったのか、それとも単に病魔の無慈悲な進行だったのか。

夜風が窓を叩く音だけが、答えのない問いに応えている。

今となっては、もう分からない。


ただ一つ確かなのは―――

リリィが最後の力を振り絞って、俺に託してくれたということ。

この血を操る力を。

彼女の魂の一部を。



記憶が現実に戻る。

守衛たちの剣が迫っている。

朝日を受けた刃が虹色に輝き、死の宣告を告げていた。

だが俺には、もう迷いはなかった。


リリィが命をかけて俺に託した力。

この血の魔術で、俺は必ず妹を救ってみせる。


袋の中には計六つの瓶が入っている。

小さい瓶が二つ、中くらいの瓶が二つ、大きな瓶が二つ。

この三年間――

少しずつ採血して溜めた俺自身の血液だ。

鉄の匂いと生命の重みを帯びた、紛れもない俺の一部。


「血よ――」


俺は腰の革袋から小さなガラス瓶を一つ取り出した。

小瓶の中身はそれほど多くない。

だが、二人の相手なら十分だった。


俺は親指で蓋を弾き、血液を宙に解き放つ。

赤い液体が朝日に照らされて紅玉のような輝きを放ち、意思を持ったかのように空中で二つに分かれた。

その血を圧縮し、魔力を流し込む。

するとそこには、二つの弾丸が静寂の中に生まれる。

完璧な球体となった血の結晶が、殺意を纏って宙に浮かんでいた。


「な、なんだこの魔術は!?」


「っ……!?危険だ!殺れ!」


もう……遅い。


「――藍染」


――!


二つの血の魔弾が風を裂く音もなく守衛たちの額を貫いた。

彼らが反応する間もない。一瞬の、刹那の、弾丸。

血の弾丸は朝の大気を切り裂き、稲妻よりも速く標的を貫いた。

鉄の兜すらも紙のように貫通し、二人の守衛は石のように崩れ落ちる。


血が噴き出し、彼らはその場に崩れ落ちた。

石畳に響く鈍い音が、朝の静寂を破って木霊する。

そうして剣を構えたまま、石のように動かなくなる。


二人の守衛は、何が起こったのかも理解できないまま……


絶命した。


「ちっ、もったいないことをした」


放った血は霧散し、霧のように消える。

赤い霧が風に舞い、やがて跡形もなく消え去った。

まだダンジョンに入ってもいないのに……

小さい瓶とは言え、その瓶を一つを消費してしまったことになる。

苦々しいイラつきを感じながら、俺は空になった小瓶を革袋にしまった。


俺は無力だ。

血さえなければ、そこらの一般人にも勝てない弱者。

農作業で鍛えた腕力や三年間修業した剣技など、真の戦士の前では赤子も同然だ。

魔力の才がない、惨めな人間の定めである。


守衛たちの亡骸を見下ろす。

彼らの瞳は見開かれたまま、雲ひとつない朝空を見つめている。

まるで最期の瞬間に見た光景を永遠に焼き付けようとしているかのように。

額の小さな穴から、赤い筋が涙のように頬を伝って流れていた。

石畳に滴り落ちる血が、朝露と混じり合って小さな紅い花を咲かせている。


「……」


今更、後悔などしている場合ではない。

人を殺すなどあってはならないのかもしれないが、そんなことを考えるのは止めた。

善悪の彼岸を越えた場所で、俺はもう引き返せない道を歩んでいる。


……!


魔法陣の光がさらに強くなった。

転移の時間が刻一刻と迫っている。


俺は守衛たちの亡骸を遺跡の陰に引きずって隠し、一人魔法陣の中央に立った。

足元で文字が星座のように次々と輝き、転移の魔術が神秘的な光を放って発動していく。

青白い光が俺を包み込み、世界が万華鏡のように歪み始めた。

現実と幻想の境界が曖昧になり、時間の流れすらも歪んでいく。


「ふぅ……」


ここまで来たのだ。やっと、ここまで。

三年間の血と汗に塗れた準備、妹から受け継いだ魂の力……

そして今しがた流した贖罪の血。

全てがこの瞬間のためだった。


転移の光が俺の視界を白く染め上げ、足元の石畳が溶けるように消えていく。

心臓が太鼓のように激しく打ち鳴らし、冷や汗が背筋を伝って流れ落ちた。

喉の奥が渇き、呼吸が浅くなる。


死が待っているかもしれない。

二度と戻れぬ闇が待っているかもしれない。

それでも――俺は震える拳を握りしめた。


リリィの面影が胸の奥で微笑みかけ、俺の決意を鋼のように固めていく。


ここからが――本番だ。


光が完全に俺を飲み込み、世界が消失した瞬間、俺は歯を食いしばって未知なる深淵へと身を委ねた。


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