第十八話
「拒否権なんて、あるわけないじゃん」
その瞬間――俺は確信した。
目の前にいるのは、間違いなくラトなのだと。
これまでの彼女は余りにも可愛らしく、年相応の恋する乙女そのものだった。
治療を心配し、料理を作り、昔話を聞かせてくれる純真な少女。
兎人族の伝統を大切にする、健気で愛らしい娘――
それらが演技だったとは思わないが、彼女の本質を覆い隠していたのは確かだった。
しかし今、この表情を見て分かる。
瞳に宿る冷たい光、歪んだ笑みの奥に潜む狂気、そして圧倒的な威圧感――
戦闘中に見せていた、あの邪悪で残酷な本性を。
人の死を愉悦として味わう、底知れない狂気を。
これこそが、真のラトなのだ。
「兎人族の伝統では、靴下を脱がした相手が運命の人。そして、その人とは必ず結ばれることになってる。これは古くから続く、絶対的なルールなの。だから、ダーリンに拒否権なんて……最初からないんだよ」
ラトが俺の頬を優しく撫でた。
その手つきは確かに愛情深いものだったが、同時に所有欲に満ちた不気味さも感じられる。
まるで大切なコレクションを愛でるかのような、歪んだ愛情。
「ま、待ってくれ――」
俺が慌てて制止の言葉を発しようとした瞬間――
ラトの身体が俺に向かって前傾した。
白いドレスの襟元が俺の視界に迫り、蜂蜜色の髪が頬に触れそうなほど接近する。
彼女の顔が俺から数センチという至近距離まで迫り、温かな吐息が肌を撫でていく。
琥珀色の瞳が俺の瞳を見詰め、まるでキスでもしそうな距離だった。
「逃すわけないじゃん」
ラトが囁くような声で呟いた。
そして――
「だってね、ダーリン。ラトちゃんは百年間――百年間だよ?――ずっとずっと待ってたんだ~、この瞬間を。運命の人が現れる、その日を。毎日毎日、今日こそは、今日こそはって願い続けて。でも来なくて、来なくて、来なくて。一年経っても、十年経っても、五十年経っても、誰も来ない。ラトちゃんはずっと一人ぼっちで、現れる人はラトちゃんには興味なんて無くて、ただの駒としか考えていない連中ばかり。孤独だよ、その辛さ、苦しさ、生きづらさ、ダーリンには分かる?ただただ時計の針の音だけを聞きながら、孤独に耐え続ける日々。そんなラトちゃんの前に、ついに――ついに現れてくれたのがダーリンなの。ダーリンは、ラトちゃんの靴下を脱がしてくれたの。兎人族の伝統に則って、完璧に、完璧に儀式を執り行ってくれたの。知らなかった?無知だった?理解していなかった?そんなのどうでも良いんだよ。関係ないんだよ。結果が全て。ダーリンがラトちゃんの靴下を脱がした、その結果と顛末さえあれば十分だよ。それだけあれば、それさえあれば、ダーリンはラトちゃんの運命の人なの。神様が連れてきてくれた、ラトちゃんの王子様なの。だからね、だから逃がすわけないよ~。そんなの当たり前だよ~?百年待った恋人を、手放すわけないじゃん。ダーリンがどんなに嫌がっても、どんなに拒否しても、ラトちゃんは絶対に諦めない。絶対に、絶対に諦めないよ。だってラトちゃんはもう、ダーリン以外の人を愛することなんてできないもん。ダーリンがいない世界なんて、ラトちゃんには意味がないもん。だからダーリンは、ラトちゃんと一緒にいるしかないの。ラトちゃんの傍にいて、ラトちゃんを愛して、ラトちゃんと幸せな家庭を築くの。それ以外の選択肢なんて、最初からないの。あ、でも安心して。ラトちゃんは無敵だから、ダーリンをちゃんと守ってあげるよ。誰もダーリンに指一本触れさせない。ダーリンを傷つけようとする奴は、ラトちゃんが皆殺しにしてあげる。だからダーリンは何も心配しなくていいの。ただラトちゃんを愛してくれればいいの。ね?」
ラトの言葉が途切れることなく続いた。
琥珀色の瞳が異常な光を宿し、薔薇色の唇から紡がれる狂気的な愛の告白。
その一言一言が俺の心に重くのしかかり、逃げ場のない恐怖が全身を包み込んでいく。
寝室の温かな空気が、急に息苦しく感じられた。
ラトの狂気的な愛の告白が俺の心に重くのしかかり、逃げ場のない恐怖が全身を支配している。
しかし――俺は首を振った。
「すまない。やはり……無理だ」
俺の言葉が、静寂に包まれた寝室に重く響いた。
ラベンダーの香りが漂う室内で、ラトの琥珀色の瞳が一瞬だけ困惑に揺れる。
「無理って……どういうこと?」
「ラト、俺は――」
俺が説明しようとした瞬間、ラトの身体がさらに前傾した。
彼女の鼻が俺の鼻に触れ、吐息が直接口に流れ込んでくる。
ラトは俺の瞳を見つめ続けた。
数秒間の沈黙が流れ、彼女の琥珀色の瞳に何かの理解が宿る。
そして――彼女は俺の意志の固さを悟ったのだろう。
「なんで?」
ラトの声が、か細く震えながら響いた。
「なんでダメなの?ラトちゃんの何がいけないの?ラトちゃん、ダーリンのために一生懸命にやったよ?治療もしたし、お料理も作ったし、昔話もしたし……確かに殺し合ったかもしれない。暴力を振るったかもしれない。それでも、靴下を脱がしてくれたあの瞬間から、ダーリンが嫌がることは何もしてないよ?それなのに、なんでダメなの?」
ラトの声が次第に甲高くなっていく。
「ダーリンだって言ったじゃん!彼女とかいないって!恋人だっていないって!好きな人だっていないって言ったじゃん!だったら、だったらラトちゃんじゃダメな理由なんてないでしょ!?」
耳が痛いほどに響く声。
ラトは狂気と怒りを纏いながら、俺に迫ってくる。
「ねえ、ダーリン!答えてよ!ラトちゃんの何がダメなの!?どこがいけないの!?」
ラトの必死な問いかけが続く。
しかし俺は――静かに首を振った。
「そういうことじゃない」
何とか、絞り出した言葉。
けどそれは、俺の本音だ。
ラト言いたいこと、それは分かっている。理解もしている。
けど違う。論点が違うのだ。
好きか嫌いかじゃない。
俺の心はまだ、その段階には達していない。
「俺の話を聞いて欲しい」
その言葉に、ラトの動きが止まった。
「ダーリン……?」
ラトの声が不安に震えている。
どうやら彼女も勘付いたらしい。
おれが生半可な覚悟で、言っている訳じゃないことを。
だからか、やっとラトは俺から距離を置いてくれた。
そうしてベッドの上にちょこんと座り、真正面から見つめてくる。
「……分かった。聞かせて」
珍しく真剣な表情を浮かべるラト。
その表情を見て、俺も覚悟を決める。
深く息を吸い込む。
緊張してきた。
それでも――
俺は語らなければならない。
「俺には――妹がいる」
そして俺は、話始めた。
俺の経験してきた過去を――。
★
初めて自身の過去を赤裸々に、他人に話すことになった。
自分の出生、妹の存在、そして――妹の現状。
俺の感じて来た思い感情、心情、経験。
全て吐き出したのはきっとこれが初めてなのだろう。
こう話してみると、どこか心が空く思いがした。
そして思考がまとまった気がした。
やはり俺はリリィを助けるまで、何もするべきではない。
俺の告白が終わったころには、重い沈黙が寝室を支配していた。
隣の部屋の暖炉の余韻だけが、パチパチと静かに響いている。
ラトには伝わっただろうか?
俺の妹への思いが――俺の人生を賭して果たす使命が――
そしてその強さと重さが。
もしかしたらただのシスコンだと思われたかもしれない。
気持ち悪いと、意味分からないと、罵られるかもしれない。
別にそれでもいいのだ。
そんなことこれまで何度も経験してきた。
だから――
ラトの表情を見ようと、俺は恐る恐る視線を向けた。
すると――
「うっ……うぅ……」
ラトが号泣していた。
「……え?」
なんで?なんで泣いているんだ、この少女は?
意味が分からない。理解が追いつかない。
てっきりそんなのどうでも良いと、殴りかかられると思っていた。
なのになぜ彼女は、こんなにも涙を流しているのだろうか?
「ひっく……ダーリン……大変だったんだね……」
瞳から大粒の涙がとめどなく流れ落ち、薔薇色の頬を濡らしている。
兎耳がぺたりと垂れ下がり、白いドレスの袖で目元を押さえながら、小さく肩を震わせていた。
「妹さん……そんな病気になっちゃって……ダーリンも……ダーリンもすごく辛かったよね……一人で……一人で妹さんを支えて……きっと心細くて……不安で……でも諦めないで……諦めないで頑張って……」
想像以上の純粋な共感。
他人の痛みを自分のことのように感じ、涙を流してくれる。
この豹変ぶりに、俺は内心驚きを隠せずにいた。
さっきまでの狂気的な表情とはなんだったのだろう……。
「え、えと……」
「うん……うん……」
俺は何も言ってないのだが、ラトが涙を拭きながら何度も頷いていた。
まるで俺が何も言わなくても分かっていると、主張するように。
どういうことなんだ……?
意外とラトは共感性が高いのかもしれない。
普段は他人を人とすら思ってないのに、ひとたび人だと認識したら、感情豊かな純粋無垢の少女になると……そう言うことなのか?
それにしても先ほどまで、狂気。
それと比べたらあまりにも感情の起伏が激しすぎる。
鬱病かな……?
けれど――どうであれ俺は彼女に向き合わなければならなかった。
涙を流すラトの姿を見て、俺は意を決して口を開く。
「ラト……今の俺は、妹の命を救うことで精一杯なんだ。そのことで頭がいっぱいで、他のことが考えられなくなるくらいで……だから恋愛に現を抜かしている余裕はない。だから……お前と恋愛することはできないんだ」
俺の言葉に、ラトの涙が一瞬止まった。
琥珀色の瞳が俺を見つめ、兎耳がゆっくりと揺れる。
そして――
「うん……しょうがないよね……」
あっさりと頷いた。
――え?
「……え?」
「え?」
「いや、え?いいのか?」
「もちろん!それならしょうがないもん!」
えっ……。
えぇ……?
俺は拍子抜けしてしまった。
あまりにもすんなりと受け入れてくれたその態度に、困惑を隠せない。
さっきまでの狂気的な迫り方は何だったのだろうか。
「しょうがないよ。ダーリンの優先順位があるなら、それを優先するよ!ラトちゃんはできる女だからね!」
ラトが涙を拭きながら、静かに呟いた。
その表情は諦めにも似た受容で満ちており、先ほどまでの激情的な様子とは正反対だった。
本当にこいつはラトなのか……?二重人格者なのか?
また疑問に思えて来た。
そんな動揺を隠しきれない俺に、ラトは静かに口を開く。
「それにさ……つまり、妹さんを助けたら、結婚してくれるってことでしょ?」
「……は?」
「だってそうでしょ?今は妹さんのことで頭がいっぱいだから恋愛できないって言ったってことは、妹さんの病気が治ったら恋愛できるようになるってことだよね?だったら、妹さんを助けた後でラトちゃんと結婚してくれるってことだよね?」
あ……やっぱりコイツはラトだ。
また騙されるところだった。
それだけ人間的な表情を浮かべようと、感情を表に出そうと、根本的な思考回路は変わっていない。
目の前にいるのは紛れもなく、あの狂気的な笑みを浮かべていた少女と同一人物。
感情の振れ幅が激しすぎるだけで、そこは何も変わらない。
「ねえ、そう言うことだよね?妹さんが元気になったら、ラトちゃんと結婚できるんでしょ?そういうことでしょ!」
ラトが再び俺に向かって身を乗り出してきた。
またも顔が接近し、目の前にまで迫ってくる。
「え……いや……その……」
妹が治ったら――
その時のことを、俺は考えたことがなかった。
これまでの俺は、ただひたすらリリィを救うことだけを考えてきた。
妹を救うために全力を賭し、自分の全てを注ぎ込んできた。
妹を救った後の未来なんて、全然考えていなかった。
むしろ妹が救えれば、自分がどうなってもいいとさえ思っていた。
でも――もしリリィが元気になったら……?
俺の脳裏に、ふとした光景が浮かんだ。
緑豊かな田舎の小さな村で、元気になったリリィと三人で暮らしている光景。
朝早く起きて畑仕事をして、昼にはラトの手作りの昼食を食べる。
夕方には家族三人で食卓を囲み、リリィの魔術の練習を見守る。
そして夜には――ラトと二人で、静かに語り合う時間。
そんな穏やかな日常が――
いや……そんな嫌なものなのか?
なんだか、悪くないように思えてきた。
妹を救うことができて、その上で誰かと幸せな家庭を築く。
ラトは確かに美しく、料理も上手で、何より俺の苦労を理解してくれている。
彼女となら――もしかしたら本当に幸せになれるかもしれない。
「その……」
俺は意を決して、口を開いた。
「妹を救えたら――その時改めて考えさせてほしい」
俺の言葉に、ラトの表情が一瞬で歓喜に変わった。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、薔薇色の頬が嬉しさに染まっている。
「本当!?本当にそう言ってくれるの!?」
「ああ……今は妹のことで頭がいっぱいだけど、もし彼女が元気になったら――その時は、お前との関係についてちゃんと考えてみる」
「やった~!」
ラトが両手をぱちぱちと叩きながら、無邪気に喜んだ。
こういう子供のような無垢さは、本当に可愛らしい。
「大丈夫だよ、ダーリン!ラトちゃん、絶対にダーリンを惚れさせる自信があるからね!優しくて、可愛くて、料理上手で、そしてとっても強いラトちゃんに、きっとメロメロになっちゃうよ~!」
ラトの自信満々な宣言に、俺は思わず苦笑してしまった。
彼女の能天気さと自信が、妙に安心感を与えてくれる。
「だから――絶対に妹さんの病気を治そうね!」
ラトの声が励ますように、俺を捉える。
「ラトちゃん、全力で協力するからね!このダンジョンのこともちょっとは知ってるし、戦闘だって得意だし、きっとダーリンの役に立てるよ!妹さんを救うためなら、ラトちゃんは何でもするから!」
「そ、そうか……」
「その重荷を、少しでもラトちゃんに背負わせて!一人で抱え込まないでね!絶対!約束だよ!なんかダーリンそういう危うさあるから。よく分かんないけどそんな感じするもん!」
ラトが俺の手を握りながら、真剣な表情で迫ってくる。
その温かな手の感触と、彼女の真摯な眼差しに――
「ありがとう……」
その瞬間――
あれ?
頬に温かなものが流れるのを感じた。
俺は驚いて頬に手を当てる。
濡れている――
涙だった。
あれ、なんでだ?
いつの間にか、俺の瞳から涙が流れていたらしい。
なんで――なんで俺は泣いているんだ?
困惑しながらも、涙は止まらない。
妹が病に倒れてから、初めて流す涙だった。
そして――俺は気づいた。
初めて――初めて誰かが、俺の妹を救おうとする思いを肯定してくれたのだと。
これまでの俺は、ずっと一人だった。
村の人々からは「諦めろ」と言われ続けた。
医者たちも、魔術師たちも、出会った全ての人が俺の努力を否定した。
王都の名医は冷たく言い放った。
「君の妹はもう助からない。いい加減現実を見なさい」
魔術学院の教授は呆れたように首を振った。
「そんな伝説の宝珠など存在しない。君は幻想を追いかけているだけだ」
宿屋の主人は同情するような目で俺を見て言った。
「坊や、死を受け入れることも愛情の一つなんだよ」
誰も――誰一人として、俺の思いを理解してくれなかった。
俺の努力を、妹への愛を、認めてくれる人はいなかった。
だからこそ――
ラトの言葉が、こんなにも胸に響いたのだ。
「絶対に妹さんの病気を治そうね」
「ラトちゃん、全力で協力するから」
「妹さんを救うためなら、ラトちゃんは何でもするから」
初めて――初めて誰かが、俺と同じ方向を向いてくれた。
初めて誰かが、俺の戦いを支えてくれると言ってくれた。
だから――だから涙が止まらないのだ。
「うぅ……」
とめどなく流れる涙に、俺は声を詰まらせた。
まさかこんな狂った奴に、泣かされるなんて……。
こんな頭おかしな奴なのに、同情だけはいっちょ前にしやがって……。
こんな感情を、思いを、理解されたことが無かった。肯定してくれる人なんていなかった。
ラトが初めて――俺の思いに共感してくれた。
これまで押し殺してきた感情が、一気に溢れ出してくる。
孤独だった日々、絶望的な戦い、誰にも理解されない苦しみ――
全てが涙と共に流れ出していく。
その時――温かな手が俺の頭に触れた。
ラトが優しく俺の髪を撫でていた。
琥珀色の瞳に深い慈愛が宿り、薔薇色の唇が慈母のような微笑みを浮かべている。
兎耳がゆっくりと揺れ、彼女の手が規則正しく俺の頭を撫で続けていた。
「大丈夫……大丈夫だよ、ダーリン……」
ラトの優しい声が、涙に濡れた俺の心を慰めてくれる。
彼女は何も言わず、ただ静かに俺を慰め続けていた。
これにて第一層のストーリー終了となります。
ここから一層と二層の間章が始まりますので、引き続き読んで頂ければ幸いです。
また評価、ブックマーク、リアクション等していただけますと、読んでくださる方がいたのかと知ることができ、モチベーションに繋がりますのでお手隙であればお願いします。
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