第十七話
小さな小屋のような一軒家。
木造の壁に囲まれた質素な部屋で、一筋の陽光が窓から差し込んでいた。
部屋の片隅に置かれたベッドの上で、一人の女性が静かに編み物をしている。
幼い私――ラトちゃんはそんな、彼女の姿をずっと見ていた。
兎人族の女性――ラトちゃんの母親。
蜂蜜色の髪はラトちゃんと同じ色合いで、大きな兎の耳がゆっくりと揺れている。
しかし母親の体は痩せ細っており、頬は不健康なまでに白く、唇には血色がなかった。
その頃にはもう、母親の身体は病に蝕まれていたのだ。
それでもラトちゃんと同じ母親の琥珀色の瞳には、温かな光が見えた。
細い指先が器用に毛糸を操り、小さな靴下を編み上げていく。
紅白の縞模様――ラトちゃんのために作っている、特別な靴下だった。
一針一針に愛情を込めながら、母親は黙々と手を動かし続けている。
「ママ、見て見て!こんなに高く飛べるよ!」
ベッドの傍らで、幼いラトちゃんは元気よく跳び回っていた。
小さな身体が宙に舞い上がり、兎耳がぴょこんぴょこんと愛らしく揺れていた。純白のワンピースの裾が風に煽られ、この頃のラトちゃんは幸福に包まれた幸せな表情をしていた。
「あら、すごいのねラト。ママよりも上手に跳べるじゃない」
母親が編み物の手を止めて、私の姿を微笑ましく見つめる。
とっても優しくて、とっても温かい声。
瞳が細められ、薔薇色の唇に穏やかな笑みが浮かんでいた。
「えへへ~、ラトちゃん、いっぱいジャンプして!いっぱい強くなるの!そして立派な戦士になってね。ママを守るの!」
幼いラトちゃんは胸を張って宣言する。
小さな手を腰に当て、得意げな表情。
「ふふ、嬉しいわ。けどねラト。戦士になってママを守るだけじゃ、終わりじゃないのよ。戦士になってから、何を目指すのか。そこが大事なの。ラトは将来、何になりたいの?」
母親の問いかけに、幼いラトちゃんは下を向く。
戦士への憧憬が消え去り、代わりに笑みがこぼれた。
両手の人差し指をツンツンと合わせながら、頬を桃色に染めていく。
「えっと……えっとね……」
幼いラトちゃんが俯きがちになりながら、小さな声で呟いた。
兎耳がぺたりと垂れ下がり、そして――
「ラトちゃんは……立派なお嫁さんになりたいの」
「あら……」
母親の琥珀色の瞳が愛情深く輝き、編み物を膝の上に置いて視線を向ける。
「運命の相手を見つけて、その人とね、すっごく幸せな家庭を築きたいの!ママみたいに、優しくて温かくて、愛情いっぱいの家庭を作りたいんだ!」
幼いラトちゃんの声が弾んでいた。
そうだ……これがラトちゃんの夢。
小さいときからの夢だ。
「そして、その人のために美味しいご飯を作って、洗濯をして、お掃除をして……その人が疲れて帰ってきたら、『お疲れ様』って言って迎えてあげるの!病気の時は看病して、悲しい時は慰めて、嬉しい時は一緒に喜んで……ずっとずっと、傍にいてあげたいの!」
根源から芽生えるラトちゃんの夢。
それは今も変わらない夢で、ラトちゃんの人生の指針。
何年経とうが薄れることのない、果てしない憧れだ。
ママみたいなお嫁さんになること……。
そんなラトちゃんの夢を聞いて、母親の表情が、にこやかな笑みに包まれた。
「ラト……それはとても素敵な夢ね。きっと、ラトなら最高のお嫁さんになれるわ」
母親の声が優しく響いた。
編み物の手を止めたまま、愛娘を見つめ続けている。
深い愛情が言葉となって紡がれていく。
「ラトは優しくて、可愛らしくて、料理も上手になるし、きっと素晴らしいお嫁さんになれるわ。ママなんかよりもずっと……。その運命の相手も、ラトちゃんと出会えて幸せになるでしょうね」
「本当?本当かな?」
幼いラトちゃんが目を輝かせて母親に駆け寄った。
ベッドの端に小さな手をかけ、顔を近づける。
「ええ、本当よ。ママが保証するわ」
「やった~!えへへ~」
幼いラトちゃんが飛び跳ねて喜んだ。
今でも明確に覚えている。
ママが保証してくれたのだ。
ラトちゃんが立派なお嫁さんになれると……。
けど――
「でも……でもね、ママ」
幼いラトちゃんの表情が急に曇る。
「運命の相手って、どうやって見つけるの?ラトちゃん、分からないの……。世界には、いっぱい人がいるでしょ?その中から、好きな人を見つけるなんて……とっても難しそう」
幼いラトちゃんの素朴な疑問。
我ながら芯を食った、鋭い質問だと思う。
ほんと、その通りだよね。運命の相手なんて全然見つからないんだもん。
この頃から勘付いていたなんて、なんてラトちゃんは賢いんだと感心する。
けれどそんなラトちゃんの質問すら、母親は見通していた。
母親はラトちゃんを見つめると、表情を柔らかくほころばせる。
編み物を膝に置いたまま、ラトちゃんの頭を優しく撫でようと手を伸ばす。
温かな掌が蜂蜜色の髪に触れ、愛情深い仕草で髪を撫でていく。
「そうね……それは確かに難しいことかもしれないわね。でもラト、『運命の赤い糸』って話、知っている?」
「運命の赤い糸?それは……どういうお話なの?」
幼いラトちゃんが首を傾げた。
母親は微笑みながら、編み物の赤い毛糸を手に取った。
細い糸を指先で摘み上げ、陽光に透かして見せる。
深紅の糸が光を受けて美しく輝き、まるで生きているかのように揺れていた。
「昔から言い伝えられているお話よ。人は生まれた時から、運命の相手と見えない赤い糸で結ばれているの。その糸は決して切れることがなくて、どんなに遠く離れていても、どんなに時間が経っても、いつか必ず二人を結び合わせてくれるのよ」
母親の声が、まるで子守歌のように優しく響いた。
赤い毛糸を指先で弄びながら、愛娘に語りかけていく。
琥珀色の瞳が温かな愛情に満ち、力強い声が紡がれる。
「でも、その糸は目には見えないの。心で感じるものなのよ。だから、ラトが運命の人と出会った時、きっと心の奥で『この人だ』って分かるはず。胸がドキドキして、世界が急に明るく見えて、その人と一緒にいるだけで幸せな気持ちになれる……そんな特別な感覚があるのよ」
幼いラトちゃんの琥珀色の瞳が煌めいた。
小さな手を胸に当て、母親の言葉を一言一句大切に心に刻み込んでいく。
兎耳がゆっくりと揺れ、純真な憧憬が全身から溢れ出していた。
「きっとラトにも、その赤い糸が結ばれているの。だからきっと生きていればいつか、会える日が来るわ」
「すごい……運命の赤い糸……」
「そして、ラト……」
母親が編み物の紅白の靴下を手に取った。
愛情を込めて編み上げた小さな靴下が、陽光を受けて温かく輝いている。
赤と白の縞模様が美しく、まるで芸術品のような仕上がり。
「兎人族には、特別な習慣があるの。運命の相手が見つかった時の、とても大切なしきたりよ」
「特別な習慣?」
「そうよ、ラト。兎人族には古くから伝わる、とても大切な習慣」
そこで幼いラトちゃんと、母親の目があった。
その時の母親はいつにも増して、真面目な顔をしていた。
「この靴下はね、ただの靴下じゃないのよ。ママがね、厳選した糸に、ママの毛とパパの毛と、そして魔力と愛情を練り込んで作った、特別な靴下なの」
「ママとパパの!?」
幼いラトちゃんが目を丸くして見つめた。
母親が大切そうに両手で包み込む靴下を――。
「そうよ。兎人族の母親は、娘が十歳になる時、自分と運命の相手の毛を少しずつ集めて糸に練り込むの。そして魔力を注ぎ込みながら、一針一針丁寧に編み上げていくのよ。だからこの靴下には、ママとパパのラトへの思いがぜ~んぶ込められてるの」
母親が靴下の縞模様を指で撫でながら、優しく説明していく。
赤と白の美しい模様が、まるで生きているかのように温かみを帯びていた。
「だからね。この靴下はね、ラトの足を守ってくれる特別な力があるのよ。兎人族は跳躍力が強いから、どうしても足を怪我しやすいでしょう?でもこの靴下を履いていれば、どんなに高いところから落ちても、どんなに鋭い石を踏んでも、ラトの足は傷つかないわ」
「すごい!」
「それだけじゃないのよ、ラト。この靴下に練り込まれた魔力は、水も弾いてくれるの。汚れも付かないし、嫌な臭いもしないの。いつでも清潔で、いつでも美しく、ラトの足を完璧に守ってくれるわ。だから、ラトはこの靴下をいかなる時も肌身離さず履いている必要があるのよ」
「いかなる時も――?」
「そうよ。お風呂に入る時も、寝る時も、ずっとずっと履き続けるの。この靴下は、ママとパパからラトへの愛の証。そして、ラトを守るための特別なお守りなのよ」
「えへへ、そうなんだ~」
幼いラトちゃんにとってその貴重さは、全然実感の湧かないものだった。
ただただ靴下を見つめながら、深く頷くのみ。
今となっては感謝してもしきれない、大事なもの。
この靴下を履いている限り、母親と父親の愛を忘れずにいられる。
「でもね、ラト」
その時、母親の声が再度、優しさを帯びる。
編み物を膝に置き、娘の両手を優しく握り締める。
琥珀色の瞳が深い愛情に満ち、まるで秘密を打ち明けるかのような厳かな表情。
「この靴下には、もう一つ特別な意味があるの。それは――運命の相手との大切な約束なのよ」
「運命の相手との約束?」
「そうよ。ラトが大人になって、運命の相手と出会った時――その人に、この靴下を脱がしてもらうのよ。靴下を脱がしてもらうことで、ラトはママやパパからの庇護を離れて独り立ちするの。そして、一人の女性として、お嫁さんとして運命の相手に迎えられるのよ。それが、兎人族に古くから伝わる、とても大切な通過儀礼なの」
大切な……通過儀礼……。
まだ幼いながらも当時のラトちゃんは、その儀式の神聖さと重要性を直感的に感じ取っていた。
兎耳がゆっくりと揺れ、母親の話に心を奪われている。
「だから、ラト。運命の相手が見つかれば、きっとその人がラトの靴下を脱がしてくれるわ。その時が来れば、ラトは分かるの。『この人がラトちゃんの運命の人だ』って」
母親がラトちゃんの頬を優しく撫でた。
温かな掌が小さな頬に触れ、愛情深い微笑みが浮かんでいる。
「その瞬間、ラトは本当の意味で大人になるの。そして、幸せな家庭を築いていくのよ」
「ママも……そうだったの?」
幼いラトちゃんが母親を見上げながら、小さな声で尋ねた。
すると母親の頬が薔薇色に染まり、まるで恋する少女のような初々しい笑顔が浮かんでいたのを覚えている。琥珀色の瞳が遠い過去を見つめ、懐かしい思い出に浸っていく。
「ええ、そうよ。ママもパパに靴下を脱がしてもらったの」
母親の声が、幸福な記憶に満ちて震えていた。
病弱な身体を忘れたかのように、生き生きとした表情を浮かべている。
「パパはとても優しい人で、ママが恥ずかしがっていると、『大丈夫だよ』って言って、とても丁寧に靴下を脱がしてくれたの。その時のママは、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、顔が真っ赤になっちゃって……でも、とても幸せだったのよ」
母親の声が次第に熱を帯びていく。
「それからパパは『君の足は世界で一番美しい』って言ってくれたの。そして、『これからはずっと僕が君を守るから』って約束してくれたのよ。ああ、その時の気持ちといったら……胸がドキドキして、世界中がキラキラして見えて……本当に夢のようだったわ。ああ、なんて素敵な人だったんでしょう」
幼いラトちゃんは目を輝かせながら、母親の話に聞き入っていた。
「ママ、素敵……。ラトちゃんも、そんな運命の人と出会いたい!」
幼いラトちゃんが胸の前で手を組み合わせ、心の底から願いを込めて叫んだ。
その母親の幸せな話に心を奪われ、自分の未来への憧れが膨らんでいく。
「ラトの靴下を優しく脱がしてくれて、『君を守る』って約束してくれる人と出会いたいの!そしてパパとママみたいに、とっても幸せな家庭を築きたい!」
母親はラトちゃんの純粋な願いに深く感動していた。
琥珀色の瞳に涙が浮かび、愛娘への愛情が胸の奥で溢れ出している。
編み上げた靴下を大切そうに抱きしめながら、祈るような気持ちでラトちゃんを見つめた。
「きっと見つかるわ、ラト。ラトは優しくて可愛らしい子だもの。きっと素敵な運命の人が現れて、ラトの靴下を脱がしてくれるわよ」
母親の言葉が預言のように響いた。
小さな部屋に満ちる愛情と希望が、幼いラトちゃんの心に深く刻み込まれていく。
やがて来るであろう運命の日への憧れが、琥珀色の瞳の奥で静かに燃え上がっていた。
★
「――そして、ダーリンがラトちゃんの靴下を脱がしてくれたの」
ラトの声が現実に戻り、寝室の静寂を破った。
琥珀色の瞳に涙が浮かび、懐かしい記憶と現在の幸福が重なり合っている。
兎耳がゆっくりと揺れ、薔薇色の頬が感動に染まっていた。
「だから……だからダーリンは、ラトちゃんの運命の人なの。えへへ……ママの話の通りになったんだね……運命の赤い糸で結ばれた人が、本当にラトちゃんの靴下を脱がしてくれたの……」
ラトが顔を真っ赤に染めながら、恥ずかしそうに俯いた。
「ダーリンの手がラトちゃんの靴下に触れた時、心臓がすっごくドキドキして……世界がキラキラして見えて……ああ、この人がラトちゃんの運命の人なんだって、すぐに分かったの……。けどけど照れすぎちゃって、あはは。ついつい降参しちゃったんだけどね。運命の人に会えたのならいいのかなって……」
「……」
え?
俺は――愕然としていた。
ハッキリ言おう。
――重い。
重すぎる。重すぎるだろ!
スープを持つ手が微かに震え、視線が定まらない。
ラトの話を聞けば聞くほど、俺の心は重い現実に押し潰されそうになっていく。
気付けば冷や汗が額に滲んでいた。
そんな……そんな重大な意味があったなんて……
靴下を脱がすという、あの行為に……
俺の脳裏に、あの時の光景が鮮明に蘇った。
ラトを拘束し、紅白の縞模様の靴下に手をかけた瞬間。
彼女の絶望的な表情、真っ赤に染まった頬、そして諦めにも似た降参の言葉――
あれは単なる恥ずかしさじゃなかったのか。
兎人族にとって伝統。伝承。仕来り。
俺は――
なんてことを、俺はしてしまったんだ。
知ってるわけないじゃん。知ってるわけないだろ!普通!
人間である俺が、兎人族の伝統なんて知るはずがない。
俺はただ、妹を助けるために――リリィを救うために、ダンジョンを攻略する必要があった。そのためにラトを降参させる必要があり、靴下を脱がすのは単なる手段に過ぎなかった。
ただそれだけだったんだ。
本当にそれだけ……それだけで……。
婚約だの運命の相手だの、そんなつもりは微塵もなかった。
俺に悪意はなかった。知識もなかった。ただの偶然だったんだ――
けど――そうだとしても――
俺は――取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
兎人族にとっての伝統を、無知ゆえに踏みにじってしまった。
彼女の人生における最も重要な瞬間を、戦術の一環として利用してしまった。
そして――その結果として、ラトは俺を運命の相手だと信じ込んでしまった。
だからこそ、ラトは俺をダーリンと呼んでいたのか。
だからこそ、意識を失った俺を殺すことなく、治療してくれたのか。
だからこそ、こうして愛情を込めてスープを作ってくれたのか。
全ての謎が解けた瞬間、頭が重くなる。
彼女の純粋な愛情と献身が、俺の罪悪感を一層深くしていく。
スープの温もりが、まるで責め苦のように感じられた。
ヤバい。とんでもなくヤバい状況。
俺は震える手でスープを置き、深刻な表情でラトを見つめた。
とりあえず深呼吸だ。そして冷静に――
現状を受け入れよう――
そして、この状況にどう対処すべきか考えなければならない。
憾みがあるであろう俺をラトは、運命の相手だと思い込んだことで助けたんだ。
あの瞬間から、彼女にとって俺は敵ではなく運命の伴侶になっていた。
殺すどころか、大切に守らなければならない存在として認識されている。
なら――もしこの婚約を断ったらどうなるのだろうか。
俺の背筋に冷たいものが走った。
兎人族の最も神聖な儀式を踏みにじった挙句、その責任も取らないというのは――
場合によっては、直ぐに殺されるのでは?
戦闘時のラトの狂気じみた笑顔が脳裏に蘇る。
あの残酷で冷徹な本性を持つ彼女が、もし俺に裏切られたと感じたら――
その時の怒りと絶望は、想像を絶するものになるだろう。
じゃあもうダーリンになるしかないのか?
ダーリンになれば殺されない?
いや、いやいやいや……。
確かにラトは可愛いと思う。容姿だけ見れば美しい少女だと思う。
けど、違う。違うだろ!
まだ会って一日以下だぞ。
俺はラトのことを何も知らない。
それに俺は彼女の狂気も知ってる。
あるのは恋愛感情じゃない。
恐怖だ。逃避だ。
殺されたくないから、結婚する。
こんな形のダーリンが、ラトの言うダーリンな訳がない。
そんな相手と結婚するのは、多分違うだろ……。
それは俺の保身以上に、ラトに失礼だ。
もちろん無知だったとはいえ、俺が確実に彼女の人生に大きな影響を与えてしまったのは事実。その責任から逃れることは、一人の男として許されることではないだろう。
それでも――
「ラト……」
告白するしかないのだろう。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、薔薇色の唇に期待の笑みが浮かんでいる。
しかし、俺が紡ぐのは彼女が期待するような甘い言葉ではない。
重い現実と、避けられない謝罪の言葉だった。
「俺は……その兎人族の伝統について、何も知らなかった。お前の靴下を脱がしたのは――お前を降参させるためだった。戦術の一環として、羞恥心を利用しただけだったんだ。運命の相手だとか、婚約だとか、そんなつもりは全くなかった」
俺の言葉に、ラトの表情が一瞬で困惑に変わった。
期待していた言葉とは明らかに違う方向性に、戸惑いを隠せずにいた。
「俺は普通の人間だ。兎人族の習慣や伝統について、何一つ知識がなかった。だから――お前にとって最も大切な儀式を、無知ゆえに踏みにじってしまった。だから……すまん。本当に申し訳なかった。お前にとって一生に一度の大切な瞬間を、俺は台無しにしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。けど本当に……本当に知らなかったんだ」
俺の告白が、静寂に包まれた寝室に重く響いた。
ラベンダーの香りが漂う室内で、二人の間に気まずい沈黙が流れる。
そして――俺は――
頭を深く下げた。
「だから――俺はお前のダーリンになれない。すまん。俺に婚約者としての資格はないんだ。お前の運命の相手でもない」
「……!?」
俺の謝罪に、ラトは言葉を失っていた。
ラトの全身から力が抜け、兎耳がぺたりと垂れ下がる。
そんな彼女を見ていると、シーツを握りしめる手に力が込もり、罪悪感が胸の奥で渦巻いていた。
それでも俺は頭を下げ続けた。
「本当に申し訳ない。どうすればこの罪を償えるのか、俺には分からない。でも――お前を騙し続けることだけは、絶対にできない」
俺の謝罪が寝室に響き渡った。
妹を救うため、もしかしたら演技するべきだったのかもしれない。
運命の相手だと、自分を騙し突き通すべきなのかもしれない。
けど……不思議なことにそれをできる自信はなかった。
そして何らかの形でボロが出たのなら、それは大きな支障になる。
なら……言うしかないのだ。
「うっ……うぅ……」
静寂が続く中、ラトの小さな嗚咽が聞こえてきた。
両手で顔を覆い隠したまま、小さく肩を震わせていた。
しかし――
「……ふふっ」
微かな笑い声が聞こえた。
何でコイツ……笑ってるんだ?
ラトの表情を確認しようと、恐る恐る視線を向けた瞬間――
「あははははははっ」
ラトが顔を上げていた。
そして――にっこりとした笑顔を浮かべている。
しかし、その笑みは先ほどまでの愛らしい笑顔とは明らかに違っていた。
琥珀色の瞳に宿る光が冷たく、薔薇色の唇が歪んだ弧を描いている。
涙の跡が頬に残っているにもかかわらず、まるで何事もなかったかのような不気味な笑み。
見覚えのある恐怖の笑み。
「大丈夫だよ、ダーリン」
ラトが俺の顎に手を添え、強制的に顔を上げさせた。
その手は柔らかく温かいはずなのに、なぜか氷のように冷たく感じられる。
琥珀色の瞳が俺を見つめ、笑顔のまま優しい声で囁いた。
「顔を上げて。そんなに謝らなくても大丈夫だよ」
これは……ヤバい。
「ダーリンが知らなかったのは、しょうがないよね。人間だもん。兎人族の習慣なんて知るわけないよね。ラトちゃんも分かってるよ」
ラトが首を小さく傾げながら、理解を示すように頷いた。
けど違う。絶対違う。
この顔は、この瞳は――
「けど……」
ラトの声音が、突然変化した。
「拒否権なんてないよ」
「……っ」
「拒否権なんて、あるわけないじゃん」
俺の背筋に冷たいものが走った。
その瞬間――俺は確信した。
この少女は、幼気で純情な存在などではない。
間違いなくラトなのだと。