第十六話
ふと——意識が戻った。
頭の奥で鈍い痛みが脈打っているが、それでも確実に覚醒していく感覚がある。
まぶたが重く、なかなか開かない。体全体がだるく、まるで長い眠りから醒めたばかりのような倦怠感が全身を支配していた。
しかし——生きている。
確実に生きている。
心臓の鼓動が規則正しく響き、肺に空気が出入りしているのを感じる。
微かに感じる体温の温もり、血管を流れる生命の営み——
それらが俺の意識を現実へと引き戻していく。
俺は慎重に、ゆっくりと瞼を開けた。
最初に飛び込んできたのは——薄紫色の天蓋だった。
絹のカーテンが優雅に垂れ下がり、柔らかな魔法の明かりが天蓋の布地を透して降り注いでいる。
見覚えのある光景——ここは寝室のベッドの上だった。
ラベンダーの芳香がほのかに鼻腔を満たし、身体の下には羽毛のように柔らかなマットレスの感触がある。
高級そうな絹のシーツが肌に触れ、その滑らかな質感が心地よい。
室内は暖炉の余韻か、ほんのりと温かく、空気は静謐に澄んでいた。
どうして——俺はここにいるのだろう?
記憶の断片が脳裏に蘇る。
ラトとの死闘、血液の拘束、そして彼女の降参。
その後、階段が現れて——俺は意識を失った。
血液を使いすぎた反動で、立っていることすらできなくなったのだ。
それなのに——なぜ俺は生きているのか?
ゆっくりと首を左に傾けた。
ベッドの端を確認しようと、慎重に視線を移していく。
枕元の魔法の明かりが、薄暗い寝室を柔らかく照らし出していた。
——ん?
間近に——ラトの顔があった。
「……っ!?」
言葉が出なかった。
彼女の顔は俺から数センチという至近距離にあるのだ。
蜂蜜色の髪が絹糸のように肩に流れ落ち、大きな兎の耳がぴょこんと立っている。
薔薇色の唇が微かに開かれ、規則正しい呼吸が俺の頬に温かくかかっていた。美しく完璧に整った寝顔——
いや、寝顔ではない。
彼女は起きているのである。
瞳がはっきりと俺を捉え、意識的に見つめ続けていたのだ。
至近距離から感じる彼女の体温、微かに香る少女特有の甘い匂い、そして規則正しく響く呼吸音——
それらが俺の感覚を圧倒し、思考を停止させていく。
頬に熱が上る感覚を自覚しながらも、俺はただ硬直することしかできなかった。
なぜ彼女は俺のそばにいるのか?
なぜ俺を殺さなかったのか?
そして——なぜそんなに近くで俺を見つめていたのか?
その時——
「あ!起きた!起きた!良かった~」
ラトの薔薇色の唇に純粋な笑顔が浮かび、声が弾んでいた。
「ラトちゃん心配したんだよ~。あんなことしておいていきなり倒れちゃったんだもん。一人残されたラトちゃんの気持ちも考えて欲しいよ~。このまま起きなかったらどうしようって、悲しくなってたんだから~。本当に良かった~」
彼女の声に安堵が滲んでいた。
誰だ——こいつは?
本当にラトなのだろうか?
先ほどまでの戦闘時の狂気や残酷さは微塵もなく、ただ純粋に俺の回復を喜んでいる。あの殺意はなんだったのか……無垢の可愛らしいラトがそこにはいるのだ。
というか——顔近っ!
頬に感じる彼女の体温——
絹のように柔らかな髪が俺の肩に触れる感触——
——!
あまりの距離の近さに、俺は思わず身を引こうとした瞬間——
「うっ——」
左腕に鋭い痛みが雷撃のように走った。
まるで焼けた鉄を押し当てられたような激痛。
動かそうとした腕に予想外の重い負荷がかかり、筋肉が悲鳴を上げているのを感じた。
「あ、だめだめ!まだ動いちゃだめだよ!傷がまだ完全に治ってないから、無理に動かすと悪化しちゃうかもしれないの!傷が広がっちゃったら、どうするのさ~」
ラトが慌てたように声を上げる。
彼女の手が俺の肩に軽く触れ、その温もりが痛みを和らげるかのように感じられる。そんな彼女をよそに、俺は痛みの走る左腕に視線を向ける。
「これは……」
そこには——
見たこともないほど不器用な包帯が巻かれていた。
白い布が腕に何重にもぐるぐると巻きつけられている。
包帯の端がほどけかかっていたり、一部が異様に厚く盛り上がっていたり、逆に薄くなりすぎて肌が透けて見える箇所もある。なんだこれ……。
それでも——確実に手当てはされていた。
傷口は清潔に保たれており、薬草の清涼な香りが微かに漂っている。
技術は拙いが、丁寧に、そして心を込めて治療された形跡が至る所に見て取れた。
「この包帯は……」
「ぅえ!?」
ラトの顔が夕焼け空のように、真っ赤に染まった。
「あ、あの……えっと……その……うぅ。ラトちゃん、怪我の治療とかあんまり分かんなくて……けど結構、頑張ったんだよ?その……見た目は不格好かもしれないけど。一応ね……ラトちゃん、昔冒険者をやってたから治療方法は一応知ってるの……でも、でも!ラトちゃんって無敵だから、怪我することがほとんどなくて……」
ラトが慌てたように弁明を始める。
その声は震え声で、薔薇色の唇が小刻みに震えていた。
「だからあんまり経験なくて……。知識はあるけど経験が足りないって感じだと言うか……理論は分かってても、実際にやるのは難しいっていうか……そういうことなの……。回復魔法も治療法も、色々昔を思い出しながら頑張ったんだよ!けどラトちゃんにとっては、それが限界だった……かも」
説明しながら、ラトは両手の人差し指をツンツンと合わせ始めた。琥珀色の瞳は俯きがちで、時折上目遣いに俺を見ては慌てて視線を逸らしていた。
「だから結果的にこんな不格好になっちゃったの……お兄さんにこんな下手な治療しちゃって、本当にごめんなさい……もっと上手にできれば良かったんだけど……」
本当に——こいつはラトなのか?
ラトってこんなにも可愛らしい少女だったのか?
何をこの少女は謝っているか、意味が分からない。
さっきまであんなにも俺を殺しに来ていたのに……。
それなのに治療がうまくいかなくて謝罪?
包帯の巧拙など、些末な問題に過ぎない。
俺が理解できないのは、もっと根本的なことだった。
なぜ——彼女は俺を治療したのか?
先ほどまで殺し合いをしていた相手を、なぜ介抱する必要があったのか。
意識を失った俺を殺すことなど、彼女にとっては容易だったはずだ。
それなのに——なぜ。
俺の困惑は深まるばかりだった。
シーツの感触、室内に漂う薬草の香り、そして目の前で恥じらう少女の存在——
全てが現実離れして感じられる。
「ラト……なぜ俺を治療したんだ?俺たちは敵同士だったはずだよな?増してや俺はお前の愛用のリボルバーを壊し、剰えあんな人道的にひどいことをして無理やり屈服させたんだぞ。そんな相手を、何で殺さず治療したんだ?」
俺の質問に、ラトは首を傾ける。まるで当然のことを聞かれて戸惑っているかのような、純真な表情。
「え?なんで……?なんでって……えっと、そんなことどうして、聞くの?そんなの聞かなくても、当たり前だよ。逆に分からないなんて、おかしいくらいだよ?もしかしてまだ疲れてる?もっと寝ていいよ~。ダーリンが怪我をしていたら、ハニーが助けるのは当然なんだから」
ダーリン?ハニー?
一体何を言っているのだ、この女は。
理解の範疇を超えた彼女の言葉に、思考が追いつかない。
まるで夢の中の出来事のように感じられる。
むしろ夢の方が納得できるくらいだが……。
殺し合っていたはずの関係が、いきなり助け合う関係になるなんて……
意味が分からない。
「ラト……お前は俺を恨んでいないのか?あれほど恥辱的なことしたのに。俺はお前を拘束して、靴下を脱がして、服まで脱がそうとした——」
「うわあああああああ」
俺の質問に、ラトが発狂した。
……びっくりした。いきなり大声出すなよ。
ラトは何故か顔を赤くしたまま、手で覆っている。
「そ、そのことは……えっと……その……確かにとっても恥ずかしかったけど……でも恨んでないよ……恨んでなんていないからね……」
声が上ずりながらも、ラトは必死に答えようとする。
「だって……だってラトちゃん、無敵だもん。最初から負けるわけがないって思ってた……でもまさかあんな方法で負けることになるなんて、夢にも思わなかった……」
ラトが俯きながら、複雑な表情を浮かべる。
声には諦めにも似た受容が滲んでいた。
「もちろん思うところはあるよ……あんなに恥ずかしい思いをさせられて、心臓がバクバクして、顔が真っ赤になって……でも冷静になって考えてみると、ラトちゃんを倒すにはあれしかなかったんだなって納得してるの……。ラトちゃんの無敵能力を正面から破ることはできないから、精神的に追い詰めて降参させるなんて……そんな発想、普通の人には思いつかないよ……。だから、いいんだよ」
だからいい……
だからいいってなんだ?
これもあれか?
戦士の矜恃と言うやつなのだろうか?
負けたら大人しく勝者の実力を認め、賞賛を送る。
確かに人として立派かもしれない。けどそれはあくまで対等の規律に従った末の戦いにのみ発生するのではなかろうか。
俺が取った手は邪道も邪道。
実力は明らかに彼女の方が上。
そんな彼女を脱がすと脅し、実際に靴下を脱がす。そして服にまで手を出した。そうすることで彼女とプライドと羞恥心を仰ぎ、降参の2文字を導かせた。
もはやなんかの犯罪になりそうな勝ち方だ。
いや多分、犯罪になる。ラトが訴えれば、騎士団の詰所行きだろう。
もちろん俺はそのくらいの覚悟でこの行為を行った。
そうしなければ勝てないと思ったし、彼女はそれくらいの強者だった。この一回層が百年破られなかったことも納得出来る。
それほどの強者に勝った自分は誇らしいが、それが真っ当な勝ち方だとはとてもでは無いが思っていない。
それなのに戦士の矜恃とやらで、俺のことを賞賛する必要はないように思える。
「それに……それにダーリンはダーリンだから許すの……ダーリンがラトちゃんに何をしても、ラトちゃんはダーリンを許しちゃうの……だってそれがハニーの役目だもん……」
ラトが恥ずかしそうに呟く。
……前言撤回。
戦士の矜恃とかじゃないぞこれ。
顔を赤くしてコイツはさっきから何を言ってるんだ?
「ラト、そのダーリ……」
そう口を開きかけた瞬間——
グルルルル……
俺の腹から、盛大な音が響いた。
思えば朝から何も食べていない。さらに長時間戦い疲労、そして何時間眠ったのかも分からない程寝ていたのだ。
気付いてなかったが、俺の身体は完全に空腹状態だったらしい。
「……」
気まずい沈黙が室内を支配する。
……恥ずかしい。
聞かれるほど大きなおなかの音を出したのは初めてだ。
それにその音をラトに聞かれたということも、何だか余計に恥ずかしい。
「あ!お兄さん、お腹すいてるんだ!そっか!そうだよね!ごめんね気付かなくて!」
「い、いや」
「待ってて!今すぐご飯を用意してくるから!お兄さんはまだ傷が治ってないから、そこでじっとしてるんだよ!待っててね~」
ラトがベッドから飛び起きると、寝室の扉へと駆けていく。
白い裾が風に舞い、蜂蜜色の髪が絹糸のように揺れた。
「ちょっと待て、ラト——」
呼び止めようとした時には、既に扉が勢いよく開かれていた。ラトの小さな影が廊下に消えていき、足音が次第に遠ざかっていく。
後に残されたのは、ラトの残り香だけ。
「……聞きそびれた」
俺は天蓋を見上げながら、深いため息をついた。
ダーリンだのハニーだのという謎の呼び方について、結局何も聞けずじまいだった。
あの少女の思考回路は、俺には理解不能すぎる。
別にご飯くらい自分で持ってきていると、そう追いかけて言いたかったのだが——
身体がそれを拒否していた。
左腕の鈍い痛み、全身を支配する倦怠感、そして血液を使いすぎた反動。
立ち上がることすら困難な状態で、彼女を追うのは不可能だった。
「はぁ……」
仕方なく、寝室を見渡してみることにする。
薄紫色の天蓋付きベッド、壁に飾られた優雅な絵画、そして化粧台に並ぶ銀の手鏡——
基本的な調度品は戦闘前と変わらない。
しかし、よく観察してみると
——明らかに掃除された痕跡があった。
床の絨毯には、何かを拭き取ったような跡が残っている。
おそらく俺の血液を丁寧に清拭したのだろう。
壁の一部には薄い染みが残っており、魔力の衝突によって生じた焦げ跡を消そうとした形跡が見て取れた。
そして最も驚いたのは——寝室の扉だった。
戦闘中にラトが蹴り破った扉が、不安定ながらも元に戻っている。
しかし明らかに突貫工事で修理された代物で、蝶番の部分がガタガタになっていたり、木材の継ぎ目が不揃いだったりしている。
これらの修繕や清掃は、ダンジョン自体の何らかの自浄作用のようなものかと思ったが、違うらしい。
絨毯の拭き取り跡、壁の染み除去の痕跡、そして不器用な扉の修理——
どれもが明らかに人の手によるものだった。
機械的な完璧さではなく、不慣れながらも丁寧さが滲み出る、手作業の温もりがある。
明らかにこれはラトがやったのだろう。
戦闘で荒れ果てた部屋を、一人で黙々と片付けたのだ。
意外と綺麗好きなのか?それとも——
俺を介抱するために、清潔な環境を整えようとしたのだろうか。
そんな思考を巡らせていると、居間の方から軽やかな足音が聞こえてきた。
「お待たせ~!お兄さん、お腹にイイものを作ってきたよ~!」
ラトが両手に器を持って寝室に戻ってきた。
兎耳がぴょこんぴょこんと弾んでいる。
「ニンジンスープだよ~!空腹でいきなり油の多いものとか食べたらお腹がビックリちゃうと思って、お腹に優しいもの持ってきたんだ!加えて栄養満点で、滋養強壮、健康増進効果あり!ママに教えてもらった、兎人族秘伝のスープなの!えへへ~、それにそれに!ラトちゃんが心を込めて作ったから、きっと美味しいよ~!」
彼女が差し出した器からは、湯気が立ち上っている。
オレンジ色のスープが器の中で穏やかに揺れ、細かく刻まれたニンジンの欠片が浮かんでいた。
野菜の甘い香りと、ほのかなハーブの香りが混じり合い、食欲をそそる匂いが立ち上っている。
う、美味そう。
「あ、ちょっと熱いかもだから、ゆっくり食べてね!火傷しちゃったら……もぉ~大変だよ~。治療するとこもっと増えちゃうもん!」
ラトが器を俺の手に渡しながら、心配そうに声をかける。
器を受け取った瞬間、温かな陶器の感触が掌に伝わってくる。
スープの表面から立ち上る湯気が頬を撫で、野菜の優しい甘みが鼻腔を満たしていく。
口に運びたくなるほどに美味しそう。
美味しそうなのだが——
本当にこのスープを食べていいものなのだろうか。
俺は器を手にしたまま、ためらいを感じていた。
確かに香りは食欲をそそるものだった。野菜の甘い匂い、ハーブの清涼感——どれも自然で美味しそうに感じられる。
だがラトは間違いなく、信用に足る人物ではない。
あれだけ激しい戦闘を繰り広げ、あれほど卑怯な勝ち方をして——
俺のことを敵だと思っていないわけがない。
治療したのも、ご飯を用意したのも、こうして愛らしい様子を振りまくのも、全て本心を隠すための演技かもしれない。
このスープだって、毒が入ってるんじゃないか?
警戒心を解いて油断させ、毒を盛る。
即死するような劇薬かもしれないし、ゆっくりと身体を蝕む類の毒かもしれない。
そうして俺が苦悶する様を楽しみたいのかもしれない。
戦闘時の彼女の表情を思い出してみる。
俺を殺すことに何の躊躇もなく、むしろ愉悦を感じていたあの狂気じみた笑顔。
人の死を当然のように語る、冷たく残酷な瞳。
そんな少女が、俺のためにご飯を作る?
片腹痛い冗談だ。
「あ、あの……どうしたの?なんでスープを飲まないの?あっ、もしかして人参嫌いだった?」
ラトの心配そうな声が響いた。
「それとも熱すぎる?火傷しちゃったら大変だから、もう少し冷ました方がいいかな?でも冷めすぎちゃうと美味しくなくなっちゃうし……」
「い、いや……」
「あ!そうだ!もしかしてお兄さん、まだ体調が悪くて自分で飲むのが辛いのかな?だったらラトちゃんがふ~ふ~して冷ましてから、お口に運んであげるよ!あ~んってしてくれれば、ラトちゃんが食べさせてあげるから!」
「え!?」
ラトが突然立ち上がり———
俺の隣に座り直した。
その距離の近さに、俺の心臓が跳ね上がる。
彼女の甘い体香がより強く感じられ、温かな体温が伝わってきた。
突然の接近。そして突然の密着。
ラトは何の疑問も持たず、俺のスプーンを取り上げようとしてくる。
そのとき手が触れ、顔が傍まで迫る。
肩が触れ、体が触れ、胸が触れ、吐息が触れ———
「い、いや!大丈夫だ!食べれる!」
思わず上ずった声が出る。
そして俺は慌てて——器を口元に運んだ。
どうあがこうが俺は男だ。
そしてラトは性格はどうであれ、美少女であることは変わらない。
妹のために奮闘し続けていた俺にとってはもちろん女性経験もまともになく——
ここまで接近されてしまうと、動揺せずにはいられなかった。
おかしいな……。
戦闘していた時は何も思わなかったのに——
こんなにも可愛らしい仕草を見せられては、例え演技だったとしても、言葉にならない感情が芽生えてしまう。
慌てた俺はそのまま、スープを一口——
「……!う、うま!?」
美味しい……。
ニンジンの自然な甘みが舌の上で優しく広がり、野菜の旨味が口の中を満たしていく。
ハーブの清涼感が後味を爽やかにし、全体的にまろやかで上品な味わい。
塩加減も絶妙で、素材の味を活かしながらも物足りなさを感じさせない。
温かなスープが喉を通る時、身体の奥から温もりが広がっていく——
——これほど心のこもった料理、食べたのは久しぶりだった。
幼いころに母親に作ってもらった時のような、温かい味。
シンプルながらも丁寧に調理されており、食材一つ一つに愛情が込められているのが分かる。
「どう?どうかな?美味しい?お口に合ったかな?」
「……美味い」
そう言葉をこぼした。
「本当!?本当に美味しい!?」
琥珀色の瞳が星のように輝き、顔全体が歓喜に満ちた笑顔で包まれる。
「やった~!えへへ、久ぶりにこんなちゃんと料理したんだよ?だからちょっと心配しちゃった!けどけど~、良かった~、いっぱい愛を込めたからね!ラトちゃん嬉しいよ~」
ラトが両手をぱちぱちと叩きながら、無邪気に喜んでいる。
その仕草は純真で愛らしく、どうしても演技には見えなかった。
ラトは本来、こんなにも可愛らしい少女——
まてまて騙されるな。
戦闘のときのラトを思い出せ。
あの狂気と言うべき歪んで笑みを——。
これではまるで別人。そしてあの姿こそ、彼女の本性である。
こんな簡単に騙されてしまっては、それこそ彼女の手のひらの上だ。
そう思いながらも——スープを口に運ぶ手が止まらなかった。
だって美味いんだもん……。
空腹だった身体が、この温かなスープを求めてしまう。
ニンジンの優しい甘みが口の中に広がる度に、心の奥底から安らぎが湧き上がってくる。
まるで幼い頃に戻ったかのような、懐かしい感覚。もう一口、また一口と、俺は器を傾け続けた。もしこれが毒だったとしたら——もう俺は負けたってことだ。
けどそれでいいや。
このスープが美味しすぎるのが悪い。
「そんなに美味しそうに食べてくれて、ラトちゃん本当に嬉しいよ~!」
ラトが俺の隣で手をぱちぱちと叩いている。
「ダーリンが喜んでくれるのが、ラトちゃんの一番の幸せなの!えへへ~、今度はもっと美味しいお料理作ってあげるね!ダーリンの好物とか聞いて、いっぱい勉強するから!」
———ん?
そこで積み重なった疑問が俺を貫いた。
「さっきから気になっていたんだが——なぜ俺をダーリンと呼ぶんだ?」
「……え?」
——流石に聞かなくてはならない。
ここまで言われて、疑問に思わない訳がない。
聞き逃した問いを投げかけない訳にはいかなかった。
スープがどれだけ美味しくても、それだけはつい気になってしまった。
「なんで……って、そんなの当たり前だよ?ダーリンはダーリンなんだもん。ハニーがダーリンをダーリンって呼ぶのは、普通のことでしょ?」
何言ってんだコイツ……?
「ちょっと……待て。俺がいつお前のダーリンになったんだ?俺はお前のダーリンでもなければ、お前はハニーでもない。俺たちはただの敵同士。階層主と挑戦者、それだけの関係だっただろ?なんで俺がお前のダーリンになってるんだ?」
その瞬間——
「えええええええ!?なに言ってるの!?ダーリンったら、ラトちゃんの靴下を脱がせたじゃん!」
ラトが両手をぶんぶんと振りながら叫んだ。
「靴下を脱がせたら、それはもう婚約と一緒なんだよ!?ダーリンがラトちゃんの靴下を脱がせた時点で、もうダーリンとハニーの関係になったの!当たり前だよね!?」
「……は?」
俺の思考が完全に停止した。
靴下を脱がせたら婚約?
んな訳ないだろ。ただ靴下を脱がしただけだぞ。
それも全部身ぐるみ剥がすぞって、脅しのためだけに……。
それで婚約成立ってそんな馬鹿な話があるわけない——
「え……えっと……ま、まさか……ダーリンって、兎人族のしきたりについて知らないの……?」
ない……よね?
「兎人族の……しきたり?」
え?なに?兎人族のしきたりって?
いやそんな当たり前でしょ!みたいな顔されても困る。
兎人族なんてそもそも、俺は今日初めて会ったんだぞ。
元々田舎に住んでたってのもあるが、兎人族なんて獣人の中でもメジャーなんかじゃない。
そもそも種族自体が少ないのに、そんな仕来りなど知る由もない。
「あ、あの……もしかして……本当に知らないの?」
「ああ、知らない」
「うわあああああ!」
再度、ラトは大声を上げ始めた。
「どうしよう……こんなこと想定してなかった……うぅぅ……」
そのまま小さく呻き声を上げながら、ベッドの上で縮こまっていく。
あれ……?
もしかして俺は何かすごいとてつもないやらかしを、してしまったのかもしれない。
そう気づいた瞬間、冷や汗が体の中から出てきて止まらなくなってきた。
そうして沈黙の後——
「はぁ……しょうがないな~」
ラトが深いため息をついて、諦めたような表情を浮かべた。
「じゃあ今から、昔話をするからね!」
そう言うとラトは膝の上で手を組み直し、背筋を伸ばした。
そして真っ俺の正面に座り、見つめてくる。
蜂蜜色の髪が肩に流れ落ち、白いドレスの襟元が整えられる。
急に真面目な表情になった彼女の様子に——
俺も自然と身を乗り出していた。