第十五話
暖炉の炎がパチパチと薪を爆ぜさせる音だけが、静寂に包まれた居間に響いていた。琥珀色の光が壁面の絵画を照らし出し、赤いベルベットの椅子が静謐に佇んでいる。先ほどまでの激戦が嘘のように、平穏な空気が部屋を満たしていた。
だが床を見れば――
そこには戦いの痕跡が生々しく刻まれている。
空気中に残る硝煙の匂いと血の鉄錆びた香り。
砕け散った剣の破片が絨毯に突き刺さり、魔力の衝突で生じた焦げ跡が壁を汚していた。
その中央で――
俺はラトの上に馬乗りになったまま、彼女を見下ろしていた。
血液の拘束が彼女の手首と足首、そして関節という関節を完璧に封じている。
深紅の液体が糸のように細く分かれ、まるで赤い蜘蛛の巣のように彼女の身体を縛り上げていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い息を吐きながら、俺はラトの表情を見つめた。
琥珀色の瞳に映るのは――困惑と屈辱、そして僅かな恐怖。
兎耳がぺたりと寝そべり、薔薇色の唇が小刻みに震えている。
しかし――
「あは……ははっ……あはははははははは!あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
ラトが声を上げて笑い始めた。
最初は微かな笑い声だったが、次第に大きくなっていく。
拘束されたまま、彼女は狂ったように笑い続けた。
「すっご~い!すっごいよお兄さん!まさかあそこまで読んでたなんて!血液を床に落として、それを使ってラトちゃんの手を滑らせるだなんて!何手先まで読んでたの?五手?十手?もしかして最初から?あははははは!」
心底楽しそうに歯茎を見せるラト。
「すごいよ!本当にすごいよ!ラトちゃんをここまで追い詰めるなんて、何年ぶりくらいかな?いや、もしかしたら初めてかも?お兄さんって、思ってた以上に頭がいいんだね!感動しちゃった!」
ラトの賞賛が止まらない。
血液に拘束されているにもかかわらず、その表情には恐怖も屈辱もない。ただ純粋な興奮だけが満ちていた。
「でもでもでも――」
突然その笑い声が、突然別の響きを帯びる。
琥珀色の瞳に宿る光が変化し、狂気から冷たい嘲笑へと変わっていく。
薔薇色の唇が歪んだ弧を描いた。
「全部無駄だよ~。ラトちゃん、無敵なんだよ?こんなことして何の意味があるの?あははははは!」
確かに――ラトは拘束されているが、傷ついてはいない。
彼女の固有魔術『止針ノ兎刻』は、依然として発動し続けているのだ。
無敵の能力を持つ彼女を、物理的に拘束したところで――
「ねえねえお兄さん、今どんな気持ち?せっかく頑張ってラトちゃんを捕まえたのに、結局何もできないんだよ?この行動に、この努力に何の意味があるの?教えて教えて!ラトちゃん、わからないからさ~あははははははは」
ラトから溢れ出る圧倒的優越感。
「あ~そっか、分かった!お兄さんはきっと思ってるんでしょ?『これで勝った』って。『ついにラトを捕まえた』って。『もう反撃される心配はない』って。でもね、現実は残酷なの。ラトちゃんは無敵なの。お兄さんが何をしようと、ラトちゃんを殺すことはできないの。だから結局、お兄さんの負けなの。悔しいでしょ?悔しいよね?その悔しさ、もっと味わわせてよ!」
俺は静かにラトを見つめ続けた。
「ねえねえ、もしかしてお兄さん、本気でラトちゃんを殺せるとでも思ってたの?馬鹿じゃない?愚かすぎるよ!無敵って意味、分かる?『何をしても傷つかない』って意味なんだよ?それなのに必死に戦って、必死に策を練って、必死にラトちゃんを捕まえて――結果がこれ?何も変わらないじゃん!お兄さんの努力、全部無駄だったね!可哀そう!本当に可哀そう!そんな無駄な努力をしてる自分を恥ずかしいと思わないの?」
ラトの嘲笑が容赦なく俺を打ち据える。
ほんと好きなだけ言ってくれる。
それでも俺は――じっとラトを見つめ続けていた。
「……あれ?」
ラトの嘲笑が、一瞬だけ止まった。
兎耳がぴくりと動く。俺の反応が、彼女の期待と異なっていたのだろう。
「なんで?なんで動じないの?普通ならもっと絶望するでしょ?もっと悔しがるでしょ?なんでそんなに冷静なの?」
しかし、その困惑もすぐ嘲笑へと戻る。
「あ~そっか!分かった分かった!お兄さん、もう絶望しすぎて何も感じなくなっちゃったんだ!可哀そうに!可哀そうに!心が完全に壊れちゃったんだね!そうだよね、無敵のラトちゃんに勝てないって分かったら、もう何も考えられなくなっちゃうよね!お兄さんじゃ、この現実を受け入れることができないんだ!だから思考停止しちゃったんだ!哀れすぎて涙が出てきちゃうよ~!」
ラトの声が次第に低くなる。
「でもねでもね、お兄さん?いつまでもそうやって現実逃避してても意味ないよ~?ラトちゃんは無敵なんだもん。お兄さんがどんなに頑張っても、ラトちゃんを殺すことはできないんだもん。だからさ、もういい加減諦めたら~?この拘束だって何の意味もないんだからさ~、どうせお兄さんには何もできないんでしょ~?この程度の拘束で満足したの~?これで勝った気になれたの~?それならもう十分だよね~?」
彼女は絶え間なく話し続ける。
「あ~あ、お兄さんって本当に可哀そう~。まだ現実を受け入れられないのかな~?そうだよね~可哀そうに~!きっとお兄さんは今、ママに慰めて欲しいんだよね~?よしよしって頭を撫でて欲しいんだよね~?『大丈夫よ、お兄さんは頑張ったのよ』って言って欲しいんだよね~?言ってあげようか、ラトちゃんが?ラトちゃんがママになって、お兄さんのこと慰めてあげようか~ぷぷぷ~!」
それでも俺は――動かなかった。
俺は微動だにせず、馬乗りしている。
ラトを見下ろし続けていた。
「……ちょっと」
ラトの声に、初めて苛立ちが滲んだ。
兎耳がぴくぴくと震え、俺を睨む。
「ねえねえ、いい加減にしてよ~。もう十分でしょ~?ラトちゃんを拘束して満足したんでしょ~?だったらもう解いてよ~。どうせ意味ないんだからさ~、いつまでもこんなことしてても時間の無駄だよ~?お兄さんだって疲れたでしょ~?もういい加減諦めなよ~」
ラトの声が次第に甲高くなっていく。
拘束されたまま身をよじろうとするが、血液の拘束は完璧で身動きが取れない。
そうして――
「ラト」
俺は初めて口を開いた。
静かだが、はっきりとした声が居間に響く。
ラトの琥珀色の瞳が驚きに見開かれ、兎耳がぴょこんと立ち上がった。
「お前は『階層主を倒すことが出来たら次の層への階段が現れる仕組み』――そう言ってたよな?」
俺の質問に、ラトの表情が困惑に歪んだ。
琥珀色の瞳が揺れ、首を小さく傾げる。
「え……?なに?なんで今更そんなこと聞くの?」
ラトの声に当惑が滲んでいた。
この状況で、なぜそんな質問をするのか理解できずにいる。
「意味分かんな~い。お兄さん、本当に頭おかしくなっちゃったの~?今そんなこと聞いてどうするつもりなの?」
しかしラトは、確信持って告げる。
「ラトちゃんは一階層の階層主だからね~。ラトちゃんを倒せば次の階層に進めるよ~。けど無理だよ~?だってラトちゃん、無敵なんだもん~。お兄さんには絶対に倒せないよ~?そんなこと分かってるよね?」
ラトの琥珀色の瞳が俺を見据え、薔薇色の唇に勝利の笑みが浮かんでいる。
しかし、その表情に微かな困惑も混じっていた。
「もしかして……もしかしてお兄さん、こうしてラトちゃんを拘束したから『倒した』とでも思ってるの~?あはははは!まさかそんな馬鹿なこと考えてないよね~?確かにラトちゃんは今、動けない状態だけど、それが『倒した』って意味になるわけないじゃん」
ラトは変わらず、俺を馬鹿にする。
「それとも、もしかして文字通り『倒した』から勝ちとでも思ったの~?確かにお兄さんはラトちゃんを『倒し』はしたよ~?床に倒して拘束したからね~。でもでも、ここで言う『倒す』っていう意味は、そういう意味じゃないのは分かるよね~?まさかお兄さん、そんな言葉遊びみたいなことで勝利宣言するつもりじゃないよね~?流石にそこまで頭悪くないよね~?」
「……」
「『倒す』っていうのはね~、ラトちゃんを殺したり、降参させたり、戦闘不能にしたり、そういう意味なんだよ~?単純に床に倒すっていう意味じゃないの~。でもラトちゃんは無敵だから殺されないし、こんな程度じゃ降参もしないし、戦闘不能にもならないよ~?だから結局、お兄さんはラトちゃんを『倒す』ことはできてないの~。分かった~?」
ラトの残酷な言葉が居間に響き渡る。
暖炉の炎に照らされた彼女の表情は、まるで俺を哀れむかのような慈悲深さすら湛えていた。
「分かってる」
俺が静かに答えた。
一言だけの、簡潔な返事。
「つまり――お前を降参させればよいんだな。そう自分で言ったよな」
俺の声が居間に響く。
暖炉の炎がパチパチと薪を爆ぜさせる音が、静寂を破って木霊していた。
「え……?」
ラトの表情に困惑が浮かぶ。
しかし、すぐにいつもの嘲笑が戻ってきた。
「あはははは!そうだよ~、降参させればいいよ~。でもね、ラトちゃんはこんなので降参なんてしないよ~?ただ拘束されただけで降参するほど弱くないもん~。お兄さんがどんなに頑張っても、ラトちゃんは絶対に降参しないからね~?無敵のラトちゃんが、お兄さんなんかに屈服するわけないじゃん~」
ラトの声に絶対的な自信が満ちていた。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、薔薇色の唇が勝利の笑みを浮かべている。
「いや――」
俺は首を振った。
「むしろ降参した方がいい」
「は?意味分からな――」
ラトが反論しようとした瞬間、俺は彼女の体を血液で引き寄せた。
深紅の液体が彼女の身体を包み込み、俺の方へと引っ張り上げる。
ラトの小さな身体が俺に近づき、二人の顔が至近距離まで接近した。
「だって降参しないなら――俺はお前に何をしてもいいってことだろ?」
俺の声が、ラトの耳元で静かに響いた。
すると――
「――!!」
ラトの顔が青ざめた。
兎耳がぴょこんと震え、薔薇色の唇が小刻みに震え始める。
これまで見せていた余裕と自信が一瞬で消え去り、初めて真の恐怖が彼女の表情に浮かんだ。
琥珀色の瞳が恐怖に見開かれ、俺の言葉の意味を理解した彼女の顔に戦慄が走る。
無敵の能力を持つ彼女でも――
その意味だけは、痛いほどよく分かったのだった。
俺が何をしようとしているのか――
その恐ろしい可能性が、彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がったのだ。
「わ……ラトちゃんの体に……どうするつもり!?」
ラトの声が震えていた。
これまでの愛らしい口調は完全に消え去り、代わりに恐怖に満ちた声が漏れる。
琥珀色の瞳に涙が浮かび、兎耳が激しく震えていた。
「まさか……まさかお兄さん、そんなことするつもりじゃないよね!?ラトちゃんは無敵だけど、でもでも、そういうことされたら……されたら……!お兄さんはそんな人じゃないよね!?そんな酷いことしないよね!?まさかラトちゃんの体を使って、そんな……そんな恥ずかしいこと、するつもりじゃないよね!?」
ラトの声が次第に甲高くなっていく。
拘束されたまま必死に身をよじろうとするが、血液の拘束は完璧で逃れることができない。
「そ、そそそそそんなことしちゃ駄目だよ!倫理的に駄目なんだよ!ラトちゃんは女の子なんだよ!?そんなことしたら、お兄さんだって人として終わりだよ!?そんなことして勝っても意味ないじゃん!正々堂々と戦って勝つのが正しいんじゃないの!?そんな卑怯な手を使うなんて、お兄さんの騎士道精神はどこに行っちゃったの!?」
ラトの必死の懇願が居間に響く。
しかし、俺の表情に変化はなかった。
「倫理?」
俺の声が冷たく響いた。
暖炉の炎に照らされた俺の顔に、一片の迷いもない。
「倫理なんて捨てたよ。俺は騎士でもない。妹を救うためなら――俺は何でもする」
俺の言葉が、ラトの最後の希望を打ち砕いた。
琥珀色の瞳に絶望の色が浮かび、兎耳が力なく垂れ下がる。
薔薇色の唇が震え、彼女の全身から血の気が引いていくのが見て取れた。
そして――ラトは理解した。
この男は本当に何でもやるつもりなのだと。
妹のためなら、どんな手段も選ばないのだと。
「ダメ!ダメだよ!そんなことしちゃダメ!」
ラトの声が絶叫に変わった。
拘束されたまま必死に身をよじり、血液の拘束から逃れようと藻掻いている。
「お兄さんにだって家族がいるでしょ!?そうだお兄さんは、妹がいるんだよね!さっきお兄ちゃんって言われて動揺してたもん!その妹さんがいるでしょ!?こんな酷いことしたら、その妹さんに絶望されちゃうよ!?お兄さんを見る目が変わっちゃうよ!?それに恋人だっているでしょ!?好きな人だっているでしょ!?そんな人たちがお兄さんのこんな姿を見たら、きっと幻滅しちゃうよ!?離れていっちゃうよ!?それでもいいの!?」
「そんな存在はもういない」
俺の答えが、短く冷たく響いた。
暖炉の炎に照らされた俺の表情に、一切の感情が見えない。
「じゃ、じゃあ……」
ラトの声が震えながらも、必死に別の理由を探そうとする。
「えと、えとえとえとえと……ラトちゃんにそんなことをしても意味ないよ!ラトちゃんなんて可愛くないもん!スタイルだって良くないし、子供みたいだし、これ以上成長する兆しもないもん!だからラトちゃんにそんなことをしても、お兄さんだって楽しくないよ!意味ないよ!もっと他に綺麗な人を探した方がいいよ!ラトちゃんなんかじゃ駄目だよ!」
ラトが自分を卑下しながら、必死に俺を説得しようとした。
琥珀色の瞳に縋るような光が宿り、薔薇色の唇が震え続けている。
しかし――
「いや」
俺は首を振った。
「むしろ、俺は好きだ」
「は?はああああああああああ!?」
ラトの顔が真っ赤に染まった。
恐怖とは別の感情が彼女を混乱させ、琥珀色の瞳が動揺に揺れている。
兎耳がぴょこんぴょこんと激しく動き、薔薇色の唇が小刻みに震えていた。
「やだ!やだやだやだ!そんな目で見ないで!気持ち悪い!」
ラトが必死に叫んだ。
顔を赤らめながらも、恐怖と嫌悪が入り混じった表情を浮かべている。
拘束されたまま身体を捻り、俺から少しでも距離を取ろうとしていた。
「お兄さん!お願いだからやめて!こんなことしちゃ駄目なんだよ!ラトちゃんはまだ子供なの!その……確かに百年以上生きてるけど……!そういう経験とかしたことないから!大人っぽく見えるかもしれないけど、心は子供なの!だからこんなことされても困っちゃうの!お兄さんだって分かってるでしょ!?こんなことは間違ってるって!だからお願いだから、やめて!」
「百年以上生きてたら、そんな冗談も言えるようになるんだな」
「じょ、冗談じゃなああい!だめだめ!こんなことだめなの分かるでしょ!ねえ、お兄さん!聞いてる!?ラトちゃんの話、聞いてるよね!?こんなことしたって、お兄さんの心は満たされないよ!一時的には満足するかもしれないけど、きっと後悔するよ!罪悪感で苦しむよ!そんなの嫌でしょ!?だからやめようよ!お互いのために、やめようよ!」
ラトの声が次第に涙声になっていく。
薔薇色の唇が震え、頬を涙が伝って流れ落ちていた。
「ラトちゃんは悪い子じゃないよ!確かにお兄さんを殺そうとしたけど、それは立場上しょうがないの!個人的な恨みとかじゃないの!だからお兄さんも、ラトちゃんに個人的な感情を持たないで!こんな酷いことしないで!ラトちゃんはお兄さんを憎んでないよ!むしろ尊敬してるよ!だからお願い、こんなことはやめて!」
しかし――俺には響かなかった。
冷たい沈黙が居間を支配し、暖炉の炎だけがパチパチと音を立て続けていた。
「やめるわけない」
俺の冷たい声が響いた。
そして俺は、ラトの足元に向けて手を伸ばす。
紅白の縞模様の靴下――その柔らかな布地を、俺の指先が掴んだ。
驚くほどの肌触りだった。
もこもことした質感でありながら、絹のように滑らかで温かい。
まるで雲を触っているかのような、この世のものとは思えない柔らかさが指先に伝わってくる。
「やっ――!」
ラトの悲鳴が居間に響く。
琥珀色の瞳が恐怖に見開かれ、兎耳が激しく震えていた。
「ラト、お前の能力は――お前自身を傷つけないというものだろう」
俺は冷静に分析を始めた。
靴下の感触を確かめながら、淡々と説明していく。
「そのためお前を傷つけるあらゆるものは、お前の体に到達せず弾かれる。俺の剣も、血の魔弾も、全て無効化された。しかし――これはお前自身にのみ発動する能力だ。服には発動しない」
俺の指先が、確実に靴下の布地を捉えている。
ラトの能力によって弾かれることなく、物理的に触れることができていた。
「俺の血がお前の服についていたこと。魔弾の攻撃がお前の手に当たった際、手袋に赤いシミができたこと。それらが証拠だ。つまり――服には傷をつけたり、触れたりすることが可能なんだ」
俺の分析が正確であることを、ラト自身も理解していた。
彼女の顔が青ざめ、そして真っ赤に染まっていく。
俺の意図が確信に変わったことを理解したラトは、必死に倫理的な訴えを始めた。
「お兄さん!これは間違ってるよ!こんなことしたら、お兄さんだって人として堕ちてしまうよ!妹さんを救うためって言うけど、こんな手段で救われた妹さんが喜ぶと思う!?きっと悲しむよ!お兄さんがこんな酷いことをしたって知ったら、きっと泣いちゃうよ!」
ラトの声が震えていた。
琥珀色の瞳に涙が溢れ、兎耳が恐怖に震えている。
「ラトちゃんにだって……ラトちゃんにだって感情があるんだよ!心があるんだよ!痛みを感じるし、恥ずかしさも感じるし、怖いって気持ちもあるの!お兄さんだって同じでしょ!?同じ人間なら、ラトちゃんの気持ちを分かってよ!こんなことされたら、ラトちゃんがどんなに傷つくか分かるでしょ!?」
感情的な訴えが続く。
薔薇色の唇が小刻みに震え、頬を涙が伝って流れ落ちていた。
「お兄さんは優しい人だったじゃない!ラトちゃんが『お兄ちゃん』って呼んだとき、ちゃんと躊躇してくれたじゃない!人を殺すのに躊躇するような優しい人が、こんな酷いことするはずないよ!お兄さんの心の奥には、まだ優しさが残ってるはずだよ!その優しさを思い出してよ!」
人間としての俺に訴えかけるラトの声が、居間に響き渡る。
しかし――
「まずは靴下からだな」
俺は彼女の訴えを無視し、冷静に靴下を脱がし始めた。
「うわあああああああ、やめてえええええええ」
もこもことした紅白の縞模様の布地が、ゆっくりと彼女の足から滑り落ちていく。
そして現れたのは――
白く小さな、可愛らしい足だった。
まるで陶器のように美しく、指先まで完璧に整った足。
暖炉の炎に照らされて、ほんのりと桃色に染まっている。
「あ……あぁ……」
ラトの顔が信じられないほど真っ赤に染まった。
これまで見たことのないほどの赤面ぶりで、琥珀色の瞳が恥ずかしさに潤んでいる。
兎耳がぺたりと垂れ下がり、薔薇色の唇が震え続けていた。
まるで初めて恋を知った少女のような、純粋な羞恥に満ちた表情だった。
「……?」
俺は首を傾げた。
靴下を脱がしただけなのに、なぜこれほどまでに動揺しているのか理解できない。
確かに恥ずかしいことかもしれないが、この反応は異常すぎる。
――なんでそんなに動揺してるんだ?
しかしラトはただ真っ赤な顔を俯かせ、小刻みに震え続けているだけ。
俺はもう片方の靴下にも手をかけた。
同様にもこもことした布地を掴み、ゆっくりと脱がしていく。
二つ目の靴下が床に落ちると、ラトの両足が完全に露わになった。
「ぁぁ……」
ラトの呻き声が漏れる。
彼女の羞恥は頂点に達し、もはや正常な思考ができなくなっているようだった。
見たことがないほど顔を真っ赤に染めた彼女は、既に抵抗する意志も失っているように見えた。
さっきまで必死に拘束から抜け出そうと身をよじっていたのに、今は力なく横たわっているだけ。
琥珀色の瞳は虚ろに宙を見つめ、兎耳はぺたりと垂れ下がったまま微動だにしない。
まるで魂が抜けてしまったかのような、空虚な表情を浮かべていた。
「……?」
そのあまりの変化に、俺も困惑せざるを得なかった。
靴下を脱がせただけで、なぜここまでの変化が起こるのか。
しかし、俺の目的は変わらない。
「次はこっちだな」
俺は手を伸ばし、ラトの胸元――白いドレスの裾に触れた。
深紅のリボンが蝶のように結ばれた、その繊細な布地に指先がかかる。
その瞬間――
「こ、降参します……」
ラトの声が、か細く響いた。
これまでの絶叫とは打って変わって、静かで諦めに満ちた声。
琥珀色の瞳から涙がとめどなく流れ落ち、薔薇色の唇が小さく震えていた。
「ラトちゃんの……負けです……」
その瞬間――
―!―!―!―!―!
部屋が大きく振動した。
暖炉の炎が激しく揺らめき、壁に飾られた絵画がかたかたと音を立てる。
俺は驚いて振り返ると、後方の地図の間の天井が割れるように開いているのが見えた。
石材が滑るような音を立てながら、天井に隠されていた階段がゆっくりと下りてくる。
古い石で作られた階段が、まるで生きているかのように静かに降下していく。
暖炉の明かりが階段を照らし出し、上層階への道筋を明確に示していた。
「ふぅ……やったか」
俺の唇から、安堵の呟きが漏れた。
どうやら無事、一階層を突破したらしい。
ラトを降参させることで、階層主を倒したと認定されたのだろう。
その瞬間――
俺の視界が急激に暗くなった。
体の自由が効かなくなり、全身から力が抜けていく。
ラトを拘束していた血液の拘束も、するすると解けて床に落下していく。
「うっ……」
どうやら体内の血液を使いすぎたらしい。
ラトを拘束している間も、常に魔力でその拘束を保持し続けていた。
そしてその魔力とは、つまり俺の血液である。
こうなることは――分かっていた。
「まずい……」
本当はこうなる前に、全てが解決するつもりだったのだ。
ラトが降参した後、すぐに移動し安全を確保するはずだった。
このままではラトに殺されてもおかしくない。
これほどの恨みを買ったのだから。
俺は必死に意識を保とうとしたが――
「お、お兄……さん……?」
ラトの困惑した声が遠くに聞こえる。
しかし、もはや俺には応える力も残されていなかった。
意識が薄れていく中、俺の身体は力なく床に崩れ落ちていく。
暖炉の炎が次第に遠ざかり、世界が闇に包まれていった。
俺は――気を失った。